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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
74/97

『顔の無い花嫁』43

「プシュケーディア姫のお衣装合わせをしなくてはなりませんわね。スフォールの頃より少し痩せられたようですから。……どうしましょう? 貴女が部屋をはずすと王女が不安でしょうから……私と……エリルージュとで取りに行こうと思うのだけど……」

「あ……ではお願いしますスティルハートさん。婚礼用の金紗と緞子どんす……それから練り絹に金糸レースを貼った物は、身幅が不安なのでこちらに。あ……だけどそれならついでに靴や扇子も改めて合わせた方がいいかも。それに帽子も。でもそれじゃあ二人で持ってくるのは無理ですね」

「大丈夫。何度か往復して取ってきますわ。足りないものがあったら私達に仰って。……針と糸と火熨斗ひのしの仕度を残った三人にお願いします。お直しが終わった後で宝飾品も合わせますわよね? そちらはカチュカさんもご一緒いただけるとありがたいのだけれど」

「勿論です。……すみませんがではお願いします」


 カチュカとスティルハートのそんな会話が耳に入ってきたのは、王女がドルスデル卿夫人から明日の結婚の儀式についての最終確認を受けている時だったと思う。


 この国の最高権力者と言う意味では『王』に当たる大公の結婚の儀式について、私には興味があった。

 だけど花嫁は私ではなくプシュケーディア姫。

 明日の儀式中に王女がとるべき所作を私が知ることに、好奇心を満たす以上の意味は無い。


 真剣な表情での説明と質問のやり取りをする二人を離れたところから眺める私は、とても手持ち無沙汰だった。

 必死に聞き耳を立てているのも我ながら下品と思うし、侍女らとお喋りなどしては二人の邪魔になってしまう。無関心に読書でもして暇つぶしを……と言っても、手元に都合よく本など出てきやしない。

かと言って自分の役目上王女と離れるわけにも行かない……のではないかと思う。


 出来ればグラントとも連絡を取りたいし、用がないのであれば少しだけでいいから部屋からお暇させていただきたいのだけれど……。


 優秀な侍女らしく二人の気を散らす気配や音を立てずにお茶を入れてくれたカチュカは、私が外に出たいとの希望を示すと申し訳なさそうに首を振り、身を竦めて頭を下げてきた。

 ……プシュケーディア姫との付き合いの長い彼女のこの様子……。

 さっきから一言も口もきかず目も見合わせないけれど、王女は私にここから離れないでいて貰いたいのだろうか。

 彼女の気持ちはちょっと複雑すぎて理解しがたいが、今回の主役はプシュケーディア姫。

 ここはもう少し我慢しておくしかなかろう……。

 出歩く事も出来ずプシュケーディア姫の気持ちを刺激するわけにも行かぬ以上、存在感を消して静かにしている他にない。

 心の裡に嘆息しつつ、私は賓客用の部屋の片隅の椅子に腰を下ろし、黙って周囲の様子を見渡していた。


 王女の為に用意されたのはとても明るい広いお部屋だ。

 幾つもの大窓から初冬の白い日差しが差し込んで、満ち溢れる陽光が冬の陰鬱な空気を駆逐している。

 硝子越しの外気は冷たいのだろうけれど、大きな暖炉に灯る薔薇色の炎が日差しと相まって春のような暖かな空気を部屋中に行き渡らせていた。


 壁は滑らかな白漆喰。床との境と天井との境に広げた手のひら程の幅で緑の大理石と細い金の縁取りが貼られ、それが明るめの色調の部屋を引き締める効果を発揮している。

 淡い色の薔薇が咲き誇るようなとき色の大理石の床の上には、緻密な西洋唐草の絨毯。スツールやオットマン、ソファやカーテンなどに使用されるファブリック類はずっしり豪奢な雰囲気だけれど、殆どの家具類の足元は華奢な曲線の猫脚になっている為、軽やかな印象を見る者に与える。

 さすがに大公城の賓客のための部屋だけあって非常に洗練されている。


 部屋の隅、赤とピンクの薔薇満載の花籠を乗せた引き出し付きコンソールには、硝子とミクロパールで縁取られた貝殻の形の取っ手がついていた。

 小さな貝殻の中に描かれたエナメルの細密画は海馬の模様。海馬はプシュケーディア姫の故国モスフォリア王家の象徴だ。

 ぐるり見渡した室内には他に海馬を意匠したものは見当たらず、これはもしかしたら王女の為に部屋にわざわざ運び込まれた家具ではないだろうか?

 愛の証である薔薇の花にモスフォリアの紋章……。

 まあ……プシュケーディア姫がこれに気づかぬ可能性も無いではないけれど、なかなか心憎い演出をするものだと思わず感心してしまう。

 カチュカとスティルハートの会話を耳にしたのは、私がそんな事を考えながら思わず口元をほころばせていた時だ。


「ミナリさん。お裁縫道具はまだ荷解きしていないけれど、奥の上の箱の中にあるからお願いします。火熨斗と炭は……お借りした方が早いと思うので、セリアーテさんとグリーナさんで。……炭火に気をつけてくださいね」


 ミナリもセリアーテもグリーナも出された指示には素直に従いつつも、カチュカに頷きもしないし返答も返さないのは……もしかして彼女が平民出身の侍女だからだろうか。


 プシュケーディア姫の事を気遣い私のところへ謝罪に来たことにしろ、侍女達の間での力関係にしろ……もしかしたら王女以上に大変な思いをしているのはカチュカなのかもしれない。

 最年長、しかもこれまで何度か『侍女』経験があるスティルハートはカチュカの事を立てているようだからまだましだけれど、ある程度以上の家出身であろうスティルハートはカチュカの事を内心どう思っているのかしら……?

 なんとなくそんな事を思いつつ、私は部屋を出ようとしている侍女達を眺めやる。


 ミナリは艶やかな巻き毛を揺らして奥の部屋へ。スティルハートとエリルージュは王女の婚礼装束などを取りに衛士が扉を護る貴重品の部屋へ。リアーテとグリーナは火熨斗と炭火の手配をしに廊下へと。


 後から思い返せばだけど、スティルハートの後へ続くエリルージュの横顔はやけに白くて血の気の無い物だったような気がする。

 私はそれを、心に想う殿方がありながらとうとう大公の城まで来てしまった彼女の心の動揺をからのものだと理解していたのだけれど……。


 侍女らが去り、しばらくすると結婚の儀についてのお浚いを終えたドルスデル卿夫人が、部屋を退出されて行った。セ・セペンテスにはドルスデル卿も伺候用の屋敷をお持ちだから、そちらにお帰りになるそうだ。

 夏以降久々のご帰宅だもの……さぞかしホッと肩の荷を降ろされている事だろう……。


 私は明日の婚儀までこの城に留め置かれる事になるけれど、恐らく夕刻からの披露宴の前には一端セ・セペンテス別邸に帰宅出来る筈。

 それまでずっと王女と一緒と思うと正直げんなりしてしまうのだが、ドルスデル卿夫人に比べれば私の苦労など程が知れているのだもの……そのくらいで愚痴を零しては罰が当たってしまう。


 室外に出て行った侍女達だが、隣室に裁縫道具を取りに行ったミナリが一番早く部屋に戻り、カチュカの指示で針に糸を通した物をエッグスタンド型の可愛らしいピンクッションに刺す作業をしている。


 次に戻ったのはスティルハートとエリルージュ。

 たっぷりと豪華な布や宝石を使ったローブを床に引きずらぬよう二人がかりで室内に運び入れ、再び別のローブを取りに出て行ってしまった。


 ……一瞬二人の姿を見ながら不安が胸をよぎる。

 もしもバズラール卿の協力者がモスフォリア側の衛士の中にいたのなら、新造船の地図も共に保管されている部屋へ出入りするのは危険ではないだろうか。

 さすがに大公の城の中で侍女を害しては騒ぎになってしまうもの、そんな野蛮なことはしないだろうけど……。


 やがてセリアーテとグリーナの二人も部屋に戻ってきた。

 随分時間がかかったのは火熨斗に使う炭火の準備に時間が掛かったのか、それとも少し息抜きでもしていたのか。


 再びエリルージュが部屋に戻る。

 今度は両手に二・三個の箱……たぶん靴の箱を抱えているのだが、少し顔色が悪く具合が悪いのかうろうろと妙な感じに目が彷徨っているような……。

 続いてスティルハートが披露宴の為の衣装を慎重に運び込む。


「カチュカさん。金地に真珠を縫い付けた方も持ってきた方が良さそうじゃありません? 後で広間の照明の具合を確かめてから、顔映りの良い方を今夜お召しになるという形で……」

「そうですね。私はすぐ衣装の直しに入りますので申し訳ないですがお願いします。あの……靴の方も、真珠のと銀のリボンの物を……」

「ええ分かりましたわ。今取って来た以外の靴の箱が調度類の奥に置かれてしまったので、少し時間がかかるかも。……戻ってきたら直ぐに私もそちらお手伝いいたします……」


 そんな会話の後、再びスティルハートとエリルージュは連れ立って部屋を出て行った。


 カチュカがてきぱきと奥の部屋から衝立ついたてを運び出す。

 それは来訪者があっても着替え中の王女の姿を見られることのないようにする為なのだが……奥の寝室だってかなりの広さがあるのだからそちらでお直しをすれば良さそうなものだ。

 だけど奥への移動をカチュカに打診されたプシュケーディア姫は、一瞬私の方を泣きそうな目で伺い、どうやらそれを拒否したようだった。

 王女は不安なのかなんなのか……本当に私の傍を離れたくないらしい。

 だったらもう少ししおらしい態度でいればいいものを……本当に困った人だわ。

 私は胸の底に苦笑いと溜息をかみ殺す。


「あの……セリアーテさん、その裾のしわ……火熨斗ひのしは厚いあて布をして裏側からかけてください。……熱で金糸の光沢が曇ってしまいますから。プシュケーディア姫さま……婚礼衣装に袖を通してくださいませ。ミナリさんとグリーナさんで着替えの手伝いをお願いします」


 八面六臂はちめんろっぴの働きをするカチュカと彼女の指示でそれなりに一生懸命に働く侍女達。

 私は人が働く姿を見ているのが好きだ。特にカチュカのようにプロとしての意識が高い人は動作の一つ一つに無駄が無く、美しい。さすがに彼女はもと『お針子』をしていただけあり非常に手際が良いのだ。

 手の甲に引っ掛けるタイプのピンクッションから次々待ち針を手直し部分に打つ様は、まさしく『早業』。


「火熨斗で裾の皺が伸びたら、胸元のビジューの手直しを願えませんか? 石が浮いた部分があるので……この、蝶模様の目の辺りの宝石です。裏から糸を引けば直りますので後を玉止めしてください。……グリーナさんは刺繍が得意でしたよね? 着替えが終わったら、こっちの弛んだ糸を抜いて刺しなおしてください。ミナリさんはさっき裁縫道具が入っていた箱の隅に大きな刺繍糸の箱があるので、それをこちらにお願いします」


 返答をしない侍女らに対し、おどおどとではあるけれど、王女の衣装を調えるためにとカチュカは必死に頑張っているようだ。

 両手に重そうな金と真珠のローブを捧げ持つようにスティルハートが部屋へ這いこんだ。

 手が塞がっている状態で一人でドアを開けるのは大変そうだったけれど、エリルージュは靴の箱を取るのに手間取っているのか、姿が見えない。


「扇子類も何本か持って来ましょうか。真珠のローブなら錦繍きんしゅうより真珠貝マザーオブパールの扇子の方が良いかもしれませんわ……」

「あ、あの……だったら靴の箱をもう一つ。……銀リボンだけじゃなく白絹にビジューと羽のついたのも頼んで宜しいでしょうか?」

「ああ……確かにあれもいいかもしれませんわね。わかりました」


 頷きを返して三度部屋を出て行くスティルハート。

 さっきのように時間差でエリルージュが靴の箱を持って戻ってくると思ったのだが、靴の箱の上に扇子の箱を重ねて入室してきたのはスティルハート一人きり……。


「エリルージュはどうしたの?」


 自分の事で手一杯。周囲の状況など目に入らずとも仕方ないプシュケーディア姫がその疑問を口に出したのには、正直私も少し驚いた。

 だけど……そうだ。

 エリルージュはプシュケーディア姫の従兄弟の婚約者だった娘なのだもの、王女が彼女の事を気にかけていたとしてもおかしくない。 

 それにプシュケーディア姫は我が侭なところはあるけれど、基本的には不親切な人間ではないのだ。


「あの……今朝から体調を崩していたようで、靴箱を持って来た後で少し休ませて欲しいと部屋へ……」

「なによ、肝心な時に役に立たないわね。……スティルハート、貴女ずっとエリルージュと同室だったのにどうして気づかないのよ」

「申し訳ございません」

「しょうがないわね。貴女はこっちに座ってミナリのやってるその……緩んだビジューを付け直す作業でもしてて。ミナリ……それにセリアーテ。チョコレートをれてもらって頂戴。ここにいる皆の分よ。ついでにエリルージュの様子を見て来て。……風邪でも移されちゃ適わないから、大人しく休んでいるように伝えておいてよ」


 悪態混じりにもしっかり侍女らの事を気遣っているのがまあ……プシュケーディア姫らしいと言えばプシュケーディア姫らしいところか。


 白っぽい初冬の日差しにほんのりと蜂蜜のような色味が加わってきた午後の時刻だった。

 明日の披露宴や結婚の儀式の為に城内では大勢の人間が忙しく動き回っているのだろうが、賓客ひんきゃくが休む奥の棟にはそんな喧騒は伝わってこない。

 室内に聞こえるのははさみやピンクッションをテーブルの上に置く小さな音、衣擦れの音と王女の退屈そうな溜息。コルセットがきついとの悪態。それに、侍女らが部屋の中を移動するひそやかな足音……。

 大きなガラス窓の外、殆ど葉を落とした植栽の枝間を跳ねるアオガラが愛らしいその姿に似合わぬギーギー声で鳴く声や、イエスズメの声が微かに窓を震わす程度で本当に静かなものだった。

 無音ではないが、穏やかな静けさ……とでも言うのだろうか。

 恐らくそうなるようにと配慮された『穏やかさ』の演出の中に私達はいたのだと思う。


 プシュケーディア姫も自分の伴侶となる人間が不細工な中年男性……王女曰くの『オジサン』で無い事に安心した為か、カリカリした雰囲気と緊張が解けたように見える。

 彼女の穏やかな様子にはやはり、馬車から降りたプシュケーディア姫を殿下がわざわざ出迎えに来たことも影響している筈だ。

 若干年齢は離れているけれど、あの行動から見ても殿下は懐の大きな方のよう。

 以前は華やかな女性関係を楽しまれておいでだったようだけれど、近年はそういう方面でも落ち着かれていたらしいし、むしろ女性馴れした方だからこそ、子供な部分も多いプシュケーディア姫を余裕を持って可愛がられるのではないだろうか……。


 希望的観測ではあるけれど、そんな事を考えながらなんとなく唇をほころばせていた私の耳にパタパタと廊下を急ぐ足音が障った。

 王女がこの部屋にいる事は大公城の人間であれば分かっている筈。

 よほどの事がない限り、こんな無作法なことなどするわけがないのだが……。


 コンコン……っと鋭くノックされると同時に扉が開き、青ざめたミナリが部屋に戻ってきた。私を含めた皆の視線が、いっせいに尋常じゃない様子のミナリに注がれる。


「今……セリアーテがチョコレートの用意をする間に私、エリルージュの休んでいる部屋に行ったんです。ねえ……スティルハートさん? 貴女とエリルージュの部屋は、私の右隣だったわよね? 左がカチュカとグリーナさんで……? でも、いないんですよ。エリルージュが休んでいるって言ったのに、右の部屋にも左の部屋にも……私の部屋にもどこにも!」


 慌てているせいで多少要領を得ない部分もあるのだが、どうやら彼女が部屋へ様子を見に行くと、室内にエリルージュの姿が無かったらしいのだ。

 もしや部屋を間違えたのかと思ったミナリは、三つ並んだ侍女用の小部屋の全てを確認したのだが、やはりエリルージュの姿はどこにもない。

 それどころか……。


「おかしいの。部屋の荷物が酷く乱れていたの。右側の寝台ってスティルハートさんですよね? なんだか貴女の荷物が引っ張り出されて部屋の中に広がっているんだけど……まさか泥棒が入ったんじゃないかって……私……」


 ……この城内に泥棒?

 私はミナリの言い出したとんでもない言葉に唖然とする。

 ……そんな馬鹿なこと。


「え……私の荷物が? ……それで、エリルージュは本当にどこにも? 外の空気を吸いに行ったとかじゃなくて?」

「いないのよ。部屋の近くやその辺もくまなく探して見たんだけど、どこにも……どこにも……」

「ちょっとミナリ……あたし達の部屋は大丈夫だったの? 荷物に母様がくれた大事な宝石だって入っているのに、もし泥棒だったりしたら……」

「に、荷物が飛び出してたのはスティルハートさんのだけ。グリーナの部屋は大丈夫よ、きっと大丈夫。それに私達の部屋も全然平気だったわ」

「まさか……泥棒がエリルージュを浚って行ったんじゃ……!?」


 慌てるミナリの精神状態に感染するように、侍女達の間にもなにやら徐々にヒステリックな気配が漂い始めた。


「馬鹿なことを言うものじゃないわ!」


 王女が声を荒げて自分よりも年嵩としかさの侍女達を一喝する。


「泥棒がこんなトコロに入り込んでエリルージュを浚う? 冗談も休み休み言いなさいよ。だいたいエリルージュを連れ出してどうするの? 私が泥棒なら、仕事が済んだらさっさと逃げるわよ」

「で……ですが、もしかしたら顔を見られちゃマズい人間が顔を見た彼女を……」

「私の侍女を外に連れ出す? 刃物で脅したとしても、そんな事した方が必要以上に目立っちゃうじゃないの」


 プシュケーディア姫の主張はもっともだ。

 だって……王女の侍女のお仕着せを着た娘を脅しつけながら城から連れ出すなんてことをするくらいなら……いっそその場で口封じした方が遥かに楽に違いない。


 だけど……だったら一体エリルージュは何処にいると言うのだろう?

 泥棒ではなくグラントが危惧していたバズラール卿の内通者が本当にモスフォリア側に存在し、その人物に何かされたなんて事になっていなければいいのだけれど……。


「いいから……みんなでもう一度ちゃんと探してみなさいよ。侍女の部屋とその周り、お茶か薬を貰いに奥に行った可能性だってあるんだから、そっちもね。……それでも見つからなかったら、仕方ないから衛士にも声をかけて」

「あ……あの……王女……」


 呆れた様子で侍女らに指示を出す王女にスティルハートが声をかけた。

 いつもしゃっきりした彼女には珍しい歯切れの悪い様子だ。


「あの、もしかしてエリルージュ……自分でお城から出て行ったんじゃないかと……」

「は? どうしてエリルージュが……? ちょっと……スティルハート、あなた何か知っているの?」

「はい、その……。もう何日も前になりますけれど、彼女……どうやら恋人から手紙を受け取ったようでして」


 その言葉を受けて、瞬間的に私の脳裏にアングタール家でのエリルージュの姿が蘇る。


「何日か前って……アグナダ公国に入ってから!? なんで……だってゲオルギはスフォールにいる筈なのに」


 ゲオルギと言うのは話の流れから考えると、どうやらプシュケーディア姫の従兄弟でエリルージュの婚約者だった青年らしい。


「実は」


 ……と、スティルハートが言葉を継いだ。



 もともとエリルージュはミナリやグリーナ、それにドルスデル卿の愛人であるレイナリッタさんらのように、自分の美貌や魅力で自分の人生を切り開こうと野望を抱いて『侍女』となった娘ではない。

 つまびらかな事情までは承知していないが、彼女がそれを引き受けたのは、恐らくは『生家』の為。

 プシュケーディア姫の従兄弟でゲオルギとの婚約の時、青年側の家人にそれを反対され随分揉めたという話から察すれば、彼女の生家はあまり家格の高い家ではなさそうだ。

 ただ、くだんの婚約者ゲオルギとの間には、打算ではなく『愛情』が存在していたのだと思う。

 セ・セペンテス到着が近づくにつれ見る見る窶れやせ細ったエリルージュの姿から考えて、それを疑う余地は無い。


 王女がフェスタンディ殿下と正式に結婚した後はその限りではないのだが、大公城にいたるまでの花嫁道中の投宿先では、侍女らは二人一室の部屋割りが基本だったらしい。

 カチュカはグリーナと。

 ミナリはセリアーテと。

 そしてエリルージュはスティルハートと。


 気持ちが不安定なエリルージュと、『侍女』としての経験が豊富で一番年嵩であるスティルハートが同室となったのは、当然の配慮と思われる。

 事実、エリルージュはスティルハートに随分と色々な相談や苦しい真情の吐露を行っていたようだ。


「一端覚悟を決めて『侍女』となることを引き受けた彼女でしたが、こちらへの到着が近づくに連れて恐ろしくなったのでしょうね。エリルージュ……食事も全く喉を通らなくなってしまって……。でも、ある日を境に急に彼女の様子が変わったのでございます」

「ああ……それは私も気づいていたわ! それまで小鳥の餌みたいなぽっちりの量しか食事も食べられなかったのに、急に食べはじめたからどうしたのって聞いたら、元気になって体を動かせるようにならなくちゃいけないんだって……」

「……手紙を受け取ったのがビヒテールのお屋敷かアングタールのお屋敷かは定かじゃございませんけれど、エリルージュ……ある時から手紙を一通肌身離さず持ち歩くようになったのです。勿論私も最初はどうやってそれが彼女の手に渡ったのか気になっておりましたけど、そこから随分顔色も良くなりましたし。まあ……『侍女』に渡りを付けたがる人間と言うのは、これまでの経験でも幾たりかございました。誰かに手紙を言付けることも出来ない話じゃございませんのです。だからあまり深く考えるのはやめてしまって……。でも彼女、それ以来時々妙なことを言い出すように……」


 スティルハートの言葉によれば、それまでセ・セペンテスや大公城の話題など一切出すことのなかった彼女がやたらとセ・セペンテスの地理や周辺の街道、それに大公城への出入りについて話す事が多くなったのだとか。


「一番最初に私が侍女として外に出た時、一緒だった娘がエリルージュのようにスフォールに恋人を持った娘だったのでございますけど、彼女も時々『夢』のようなことを口にしておりました。恋人は自分を迎えに来るから向こうに着いたらすぐに屋敷を逃げ出すんだって。……妄想ですわ。

でもそれで当座自分の心を慰めていましたから、エリルージュも手紙を受け取ってからそういう……妄想の類に逃げ道を見つけたのだと……」

「大公城を逃げ出すって、エリルージュが言い出したのね?」

「はい。いいえ……あの……はっきりそうとは申しませんでしたが、どうすればすんなり外に出る事が出来るかと訊ねられたことが」


 もちろんスティルハートはそれを本気で言っているとは思わなかった。

 だから、以前自分が見た芝居の一場面、女主人公が逃げ出す際に取った行動をエリルージュに話してしまった。

 別に城に軟禁されているわけじゃないのだから、着飾ってふつうに歩いて行けば衛士だって不審な侵入者なら警戒しても、堂々と出て行く人間を止めたりはしないのだと……。



 スティルハートが自分の荷物を調べたところ、彼女の私物から無くなった物が二つ。

 レッドフォックスの毛皮の襟巻きと駝鳥の羽飾りのついた帽子。

 普段のエリルージュの好みからすれば両方とも派手めの品だけれど、身につければ違和感なさそうな品物だ。


 プシュケーディア姫の部屋の周囲を見張っていた衛士らの証言によると、しばらく前に彼女は侍女のお仕着せに身を包み、大きな箱をいくつか抱えて渡り廊下の方へ歩いて行ったらしい。

 もしエリルージュが貴重品の部屋を出て直ぐに外へ向かったのであれば、衛士らももう少し警戒しただろう。けれど、エリルージュが出てきたのはあくまでも侍女の小部屋。

 しかも彼女は行き会った衛士に挨拶をした上に一言二言の言葉まで交わしていったのだとか。


「自分の部屋に間違った荷があったので持ち主に返しに行く……と、そう申していたそうでございます」

「……なんて馬鹿なことを……エリルージュ。……それにゲオルギも」


 衛士らに事情を聞きに言ったスティルハートの言葉に、プシュケーディア姫が苛々と呟いた。


「如何いたしましょう。このまま捨て置くと言う訳にも行きませんし……」

「みっともなく大騒ぎなんて出来ないわよ。……衛士の隊長と、それからエムリア公爵の耳には入れておいた方がいいわ……」

「だけど……あの……彼女を探さなくても良いんですか?」

「……必要ない。……エリルージュとゲオルギの問題だもの。こんなことでモスフォリアから一緒に来た衛士や、アグナダの人間を煩わすわけにはいかないでしょ。エムリア公爵からスフォールの実家に連絡が行ったら叔父様も……エリルージュの親も酷く顔を潰されたことになるわ。……逃げて何処へ行くって言うのあの馬鹿……」


 怒りと言うよりは悲しみを色濃く宿した灰色の瞳が私を見た。

 たぶん王女は以前の私との会話を思い出しているに違いない。


 フェスタンディ殿下がプシュケーディア姫の『侍女』を自分の愛人として受け取るかどうかは別として、モスフォリア側としてはどうあっても失敗させられない結婚だからこそ、幾人もの『侍女』をつけて輿入れをさせたのだ。

 エリルージュとプシュケーディア姫の従兄弟の行いは、家族のみならず故国の利を害する物とみなされる筈。

 親としての真情はどうあれ、周囲からの目もある。もしも二人が将来的に帰郷を望んだとしても受け入れられるものではなかろう。


 だけどつむがずたがやかさず……幾人もの使用人達にかしずかれて生きてきた上流階級出身の人間が、はたして己の手で暮らしを立てて行くことが出来るのだろうか。

 生家から持ち出した資金だって限りがある。

 故国には戻れず、彼らを知る者の無い異郷でつても無く、仕事の経験も無い人間がどんな未来をつかめると言うのか。

 ……想像しただけで私まで暗澹あんたんたる気持ちになりそうだ。


「王女……その……エリルージュもあの部屋に出入りしておりました。一応モスフォリアから持ち込まれた嫁入り道具のご確認をなされた方が……」


 言い辛そうなスティルハートの進言に、プシュケーディア姫は一瞬キッと年嵩の侍女を睨みつけるも、理性の力で無理やり激高を押さえつけ、細く長い溜息一つで心を静める。

 ……恐らくはエリルージュがスティルハートの私物を勝手に持ち出している事を思い出したのだろう。

 いくらもともときちんとした娘であっても、追い詰められれば品性を捨てた行為に出る事もあるのだ。


「……分かった。……カチュカ、持って来た品物の目録はどこなの?」

「あ……宝飾の目録ならこちらにもありますけれど、全体の目録は衛士の隊長ボードナム様がお持ちでした」

「じゃあボードナムとカチュカで手分けして確認してらっしゃい。みっともないから大騒ぎしてアグナダの人達に心配をかけないように。それから……くれぐれも火事で駄目になった物までエリルージュのせいにしないように」

「分かりました。急いで戻って参ります。あの……スティルハートさん、王女の衣装のお直しの続きをお願いします」

「はい。わかりましたわ」


 カチュカは小さく一礼すると、装飾品の『目録』と思しき書類を手にそそくさと部屋の外へ出かけて行った。

 彼女の後姿を見送っていたプシュケーディア姫が、気づくとこちらへすがるような目を向けている事に気づく。

 アグナダ公国側の人間としての私には、王女の侍女の問題に口を挟む立場には無かった。公人としての立場を別としたってそれは同じ。


 だって……プシュケーディア姫は今、モスフォリアの王女としてやるべき事は充分に出来ているのだもの……。

 私はただ、何処と無く不安そうなその灰色の瞳に無言のままに一つ頷きを返した。


「……」


 プシュケーディア姫の強張っていた唇がホッとしたようにほころんだのは、私の想いが伝わったからだと思う。

 随分と彼女は変わった。

 ……もちろん良い方向に……だ。


 あの現実も己の立場も何も知らずにいたプシュケーディア姫が、よくもここまでと思わずにはいられない。

 なのに私の感心をよそに王女は突然唇をへの字に曲げ、灰色の瞳をあらぬ方向へと逸らしてしまうのだもの……。

 全く……本当に仕方の無い人だ……。

 けれど、王女は以前よりも随分と責任感のある女性になってくれた。私に対する意地も彼女の成長の一助になっているのなら、私はいくらでも憎まれ役であり続けて構わない。


 ……だが……それにしてもエリルージュのこの先の事を考えると胸がふさぐ。

 彼女の想い人、ゲオルギと言う青年がグラントのような腕っ節や現実的な金銭感覚、強いバイタリティーを持った人間であってくれればよいのだけれど……。


 そんな心配をしていただなんて、思えば私も暢気なものだった。

 バズラール卿に対するグラントの危惧を忘れたわけではなかったけれど、まさかそれとエリルージュを結びつけて考えねばならないなんて思いもしなかった。

 それは私だけではなく、プシュケーディア姫も同様。



 先刻のミナリよりも剣呑な足音を廊下に響かせ衛士の隊長ボードナムが王女の部屋を訪れ、『新造船設計図』が無くなっていると私達に告げたのは、このすぐ後のこと。



 




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