『顔の無い花嫁』40
ドルスデル卿夫人やアズロー公爵夫人ヘンリッタ様と相談した結果、私はこの夜の夕餐を『頭痛』を理由に欠席させていただく事とした。
あんなことがあった後、プシュケーディア姫も私と顔を合わせるに少し時間をおきたいだろう。
明日セ・セペンテスへ出発する馬車には介添え役である私が同乗しないわけには行かないのだ。せめてそれまでの間、彼女の神経を逆撫でしないでおこうとの配慮だ。
アズロー公爵夫人は王女のあまりの精神的未熟さに驚いて、私に随分と同情を寄せてくださったし、ドルスデル卿夫人も今後予想される私とプシュケーディア姫の確執について、出来うる限りのフォローを約束してくださった。
王女の私に対する対抗意識や反発心をわざと煽った言動については、お二方に叱責を受ける覚悟をしていたのだけれど、講義を通じて王女の常軌を逸した対抗心をご存知だったドルスデル卿夫人は、渋い表情ながら
「正しくは無いかもしれないけれどそれも一つのやり方だった」
……と、お認めくださったし、ヘンリッタ様にいたっては
「やっぱりサラフィナのお気に入りだけあるわね」
と、何故かやけに嬉しそう。
一体サラ夫人のお若い頃の『武勇伝』と言うのはどういうものなのかしら?
……と、それどころじゃ無いと分かっていながらどうにも気になってしまう。
今度、サラ夫人ご本人に直接お聞きしてみてもいいものだろうか?
さておき。
そう言うわけで私は一同が夕餐の食卓を囲む時間、ひとり部屋で過ごす事となった。
頼もしくもありがたいお二人のご婦人達と別れた後、しばらくの間一緒にいてくれたメイリー・ミーはヘンリッタ様の夕餐の身支度が始まる前に仕事に戻ってもらっている。
だって、彼女がこの屋敷に入ったのは行儀見習いのためなのだもの。
他国の王女が花嫁行列を率いて投宿するなんてそうは無い特別な機会。
こういうことを経験してこその行儀修行ではないか。
恐らく一同今頃は、心の裡はどうあれ和やかな表情で夕餉のテーブルについていることだろう。
私はあまり食欲が湧かない。
気力が出ないのだ。
チラリ視線をやった先、窓際に置かれたティーテーブルの上に私の『杖』があった。
落下した時の当たり所が悪かったのだろう。手に馴染む馬の頭部を象った象牙の握りは真っ二つ……。
レターウッドの柄の部分も、地面に当る部分に近いところが大きく欠けて無残な列断面を晒している。
柄は挿げ替えが可能で、これまでも挿げ替えを行ったこともあるのだが、肝心の握りがこの状態では修復はまず無理だろう。
この杖を作らせたのは私がまだエドーニアに館を構える以前のことだった。
『にぎり』部分のモデルになったのは、エドーニアで遠乗り中に父様と私を振り落としたあの葦毛の馬だ。
何を好き好んでそんな験の悪いモノを……と、この話しをした時にグラントに酷く驚かれたことを思い出す。
彼が驚くのも尤もだろう。あの事故で父様は命を失い、私は左脚の健康を失った。
普通はそんなものを身の回りの品に意匠などするまい。
事故以来、私は暫くの間『馬』と言う生き物に対して耐え難いほどの恐怖を抱いていた。
姿を見るのは愚か、その嘶きが耳に入るだけであの事故の瞬間が脳内に鮮明に蘇り、恐怖が私の体を石のようにがちがちに硬直させた。
まともに馬車に乗れるように気持ちを回復させるまで、一体どのくらいの時間を要しただろう?
最初は馬車に乗り込んだ後で馬をつけてもらったり、私を抱えたシェムスに暗幕を手にしたベリットが協力して視界に馬の姿が入らぬよう努めてもらったりしていた。
二人には随分と面倒をかけたと思う。
馬に対する恐怖心を完全に克服しようと決めたのは、屋敷を出る事を考え始めた頃のこと。
……なにしろ私のこの脚では馬や馬車の助けが無ければ生活して行けないのだもの。怯え、恐怖する対象ではなくこれからは自分の足として使役出来るようにならねば……と、その決意と共に、私は杖の握りを馬の頭部の形に刻ませたのだ。
……あれから随分と時が経ち、今では恐怖心は薄れ消え、あの象牙の杖の握りは存在意義を失ってはいるのだけれど、長年の使用で手に馴染んだ道具としての愛着は、絡みつく蔦のように杖の上に育っていたらしい。
私に色々な場所を歩かせてくれたあの木の杖がもう使えないなんて……と、私は杖を見ながらもうこれで何度目なのか分からない溜息をついた。
扉が控えめなノックの音を室内へと伝えてきたのはその時のこと。
テティは食欲の出ない私の為、部屋で摂る軽い食事の内容を相談しにたった今厨房さして出て行ったばかり。
メイリー・ミーは今頃ヘンリッタ様の使用人らと一緒に着替え終えた衣服の手入れなどをしている筈。
……一体誰かしら?
いぶかしむ私の前に現れた人物を見て、驚きを覚えたのには無理はないと思う。
来訪者は、プシュケーディア姫の侍女カチュカだったのだもの。
二人の決裂の後の事、しばらくの間は王女側の人間からの接触はないだろうと高を括っていたけれど、このタイミングでカチュカの来訪。
萎縮しきり口を開くことが出来ずにいる様子からも、彼女が何か言い難いことを言いに来たのは明白だった。
てっきり王女から苦言でも携えここに来たものと思ったのだが、どうやらそれは私の思い込みだったらしい。
「バ……バルドリー侯爵夫人にお願い申し上げます。どうかプシュケーディア姫をお見捨てにならないでくださいませ」
震えながらのさんざんの逡巡の末、カチュカの口から飛び出した言葉がこれ。
これには私もあっけにとられた。
「私のような身分の者がこのようなお願い事を申し上げる立場に無いのは承知でございます。どのようなお叱りでも罰でも受ける覚悟は出来ております。……ただ……どうかプシュケーディア姫さまをお許しいただきたく……」
お仕着せのエプロンを揉み絞りながら訴える彼女の目にも表情にも、偽らざる必死さが窺えた。
さっきの今で王女が自身の言動を反省し、カチュカに謝罪の気持ちを託したとはさすがに思われない。……と言う事は、この若い侍女は主人の為に身を伏して私にプシュケーディア姫を赦すよう請い求めに来たと言うのかしら……?
「……貴女は王女が私にどんな振る舞いをしたのか、分かっていてここに来ているの?」
あまりに意外なことの運びに面食らい、私はパチパチと瞬きを繰り返しながらそう問いかけていた。
「グリーナやエリルージュらから何があったのかは伺いました。本当に……なんとお詫び申し上げて良いかわかりません。プシュケーディア姫に成り代わり、どのようなお咎めでも私に……どうぞ……。ですが、何卒プシュケーディア姫をお許しいただきたいのでございます」
「……王女に成り代わり侍女が謝罪と言うのは……あまりにも不遜じゃなくて?」
少し意地悪な言い方なのはこの行動の意味を知りたくて、彼女に少し揺さぶりをかけたかったから。
私の言葉にカチュカがはっとして榛色の瞳を向ける。
「まあ……それはともかく、カチュカ。どうして貴女がここに来たのか教えてくださらないかしら? プシュケーディア姫に言われてきたわけでは無い事は分かっていてよ」
彼女の行動は王女付きの侍女としての職務を逸脱している。
そこまでしてプシュケーディア姫の振る舞いを水に流すよう懇願する理由が、私には見つけられない。
私はプシュケーディア姫の介添え役などという大役を任されはしたけれど、アグナダ公国社交界での立場はただの『新参者』に過ぎないのだ。
私の夫……グラントはこれから先大公やフェスタンディ殿下の政治ブレインとして嘱望されているけれど、私個人に権力があるわけではないのだもの。
私と王女が不仲になったところで彼女の社交生活に大きな差し障りは出ないだろう。
それなのになぜこの侍女は叱責覚悟で主の行動の許しを請いに来ているのか。
そこが分からずに問う私に、カチュカは床の上に両の膝を落としこちらを見上げ
「プシュケーディア姫は……王女は少し前からバルドリー侯爵夫人に見捨てられるのではないか……と、それをとても恐れておいででした」
などと言い出した。
「カチュカ……一体いつ私が……」
……見捨てる?
私が……?
少し前からって……???
「覚えておられぬかもしれませんが、数日前の馬車での発言以降でございます。プシュケーディア姫さまはバルドリー侯爵夫人に見捨てられたと、それは力を落としておいででございました」
首を傾げて考えた末、私はそれがどの場面をさしているのかに思い当たった。
「私……見捨てるなんてしていなくてよ。ただ、私よりも社交界の事ならドルスデル卿夫人に相談した方がプシュケーディア姫の為になると言っただけで……」
「はい。私も再三王女の思い違いだろうと……ですがプシュケーディア姫さまはバルドリー侯爵夫人が自分を疎ましく思っているんじゃないかと、酷く気にされておりました」
カチュカが言うには、プシュケーディア姫はそれ以来苛々したり落ち込んだりを繰り返していたのだとか。
「でも……王女の感情の起伏が激しくなったのは、セ・セペンテス到着を前にしていたせいではないの? 見たこともない結婚相手との出会いが待っているのだもの。若い娘なら苛々したり気鬱になったりもおかしな事ではなくてよ」
「いいえ」
一言のもとにカチュカは私の考えを否定する。
彼女が言うには私が自分を見限ったのではないか、と、プシュケーディア姫は疑心暗鬼になっていたのだそう。カチュカの言によればプシュケーディア姫は私に対して精神的に依存しきっていたと言うのだ。
そこへ来て今日、彼女は自分よりも可哀想な相手だと思っていた私の立場が実は自分の思い違いであるのを知った。
精神的に依存していた私に見捨てられ、さらには互いの不幸で共感できると思っていたのにそうではなかったとのその絶望感が王女の今日の凶行の理由であると言うのだ。
まあ……『可哀想なフローティア』にはある意味たしかに依存していたかもしれないけれど……。
私は大きく息をついて床の上のカチュカを見た。
「膝をお上げなさい。そのままでは話しがし難いわ。……ねえカチュカ? なぜ貴女はここまでプシュケーディア姫のために必死になるのか教えてくれない? もし私が腹を立ててプシュケーディア姫にねじ込めば、貴女は職を失ったかもしれないのよ。それが分かっていて、なぜ?」
「私は侍女の職を失ったとしても一人生きてゆくだけでしたらなんとでもなります。姫のお世話はスティルハートやエリルージュらがなんとか頑張ってくれると存じます。だけど……バルドリー侯爵夫人に見捨てられたとふさぎ込む王女をこのままには……。……私……こうして今はプシュケーディア姫の侍女になっておりますけれど、それ以前……王女がご幼少の頃には姫さまの遊び相手として勤めさせていただいておりましたのです」
「そんなに長くプシュケーディア姫についていたの?」
「はい。ですが、ずっとご一緒できたわけではございません」
カチュカの母がプシュケーディア姫の乳母として雇い入れられたのが、この侍女と王女の付き合いの始まりのようだ。
乳母の娘が奉公先の子供の遊び相手となるのは珍しい話ではない。
遊び相手と言っても当然対等な友人などではないのだが、カチュカは奉公人としての節度を守りつつも姉のような気持ちでプシュケーディア姫のお相手をしていたようだ。
しかし王女が王宮の外の学校に通い始めた頃の事、今以上にやんちゃで活発だったプシュケーディア姫は、王宮から外へ抜け出そうと窓辺に枝を伸ばす木へ取りすがりそこねて怪我をしてしまった。
乳母であったカチュカの母親とカチュカは、その怪我の責を問われる形で職を追われることになったのだそう。
「すでにプシュケーディア姫は女学校へと通われ始めておりました。乳母の必要な年齢ではございません。あのような事故をきっかけに職を辞することになりましたけれど、折をみて母は田舎に引きこもる予定ではおりました。……私も母と共に王宮を去ることを決めていたのですけれど……プシュケーディア姫が……私達母娘が王宮を追われたのは自分のせいだと、ひどくご自分を責められて……」
プシュケーディア姫はカチュカを自分の『侍女』として絶対雇い入れるから、それまで侍女として勤まるよう腕を磨いておけと言い付けたのだとか。
カチュカはこれを本気でとってはいなかったけれど、田舎へ戻ったところでなかなか思う仕事にはつけないだろうとスフォールに残り、服飾店で奉公すること数年。
果たしてどのように消息を探したのか、王宮からプシュケーディア姫の使いが彼女を迎えに来たのだそう。
「プシュケーディア姫は義理堅い方です。そして……非常にお淋しい方でもございます。バルドリー侯爵夫人はプシュケーディア姫を父王に甘やかされて我がままな育ちをしたと見ておられるのではないでしょうか? そう見えるだろうことは私も承知しております。けれど、プシュケーディア姫はけっして根っから我がままな姫ではありませんです。王宮で我がまま勝手な振る舞いをしていたのも……私はモスフォリア王が一番末の……『最後の娘』である姫にいつまでも子供らしい姫である事を望んだ結果だと考えております」
カチュカの主張は思いがけないものではあるが、なんとなしに私にも腑に落ちる部分が無いでもない。
例えばプシュケーディア姫のあの妙に地味で落ち着いた自室……。
私を自室でのお茶に招いた時にも突然自身が案内役として私のもとを訪れ驚かせ、それを私が喜ぶと思いこんでいた様子。
それに……彼女がただの我が侭者であれば、スフォールの王宮を案内してくれた時や私が脚を痛がって見せた時にあれほど気遣ってくれたりしただろうか……?
彼女は酷く周囲の期待に敏感な性質であるからこそ、いつまでも子供のように我が侭に振舞い、周囲を振り回すような言動をとっていた……そういうことなのだろうか……。
「……少しだけ思い当たる部分もあるから、王女が周囲の期待にこたえた振る舞いをしていたという部分は認めても構わないけれど。……でも、カチュカ。プシュケーディア姫は私にあまり好意を抱いているとは思えないのだけど……」
自らの精神的安定を図るため、不幸な女としての私への存在に依存していたのは確かだが……スフォール出立直前あたりからの彼女の私へのむき出しの競争心は、『好意』とかそういう言葉で表現するには難しいように思う。
……のだけれど、なぜか私の言葉にカチュカは恥ずかしそうに身を竦ませた。
「も……申し訳ございません……。いえ……そうじゃなく。プシュケーディア姫がバルドリー侯爵夫人の事を非常に意識している事は嘘ではございません。父王さまがあまりにも王女を溺愛してきたため、プシュケーディア姫さまは周囲の人々に『諌められる』と言うことが殆ど無かったのでございます。それで……当たり前の事をご存じなかったり……お分かりかとは存じますが、世間から少しずれたことになってしまっていたのです。けど、そんな中でバルドリー侯爵夫人だけが正面から真っ当な道をプシュケーディア姫さまに説いてくださいました。姫はけして愚鈍な人間ではございません。仰っていただいたことが道理に適っているのでしたら、受け入れる素直もお持ちの方。……なのでございます……けれど……」
音にならない溜息……とでも言うのだろうか?
カチュカの口から、そんな溜息が漏れ聞こえたような気がした。
確かにプシュケーディア姫は筋道を立てて説きさえすれば、それまで頑として受け入れようとしなかった事柄を受け入れる素直な気持ちを持っている人間だと私も思う。
だが、なぜそれに『けれど』の但し書きがつくのだろう……。
「けれど……その……ただ話しだけで正しい道を説かれていたバルドリー侯爵夫人の言葉よりも、プシュケーディア姫よりも『凄い』バルドリー侯爵夫人の言葉の方が……姫には届きやすかった……と申しますか……」
「……え……? 凄い……と言うのは、なに?」
「あの……その……なんと申しますか……その、バルドリー侯爵夫人がプシュケーディア姫よりも広く見識をもたれている事とか、数々の才をお持ちの事などを知ってから、プシュケーディア姫はそれまで以上にバルドリー侯爵夫人の言葉の重みを受け止めるようになられて……」
数秒間、私は考えた。
それはつまりどういうことかと言えば、王女は当初、私の言葉の正当性を認めながらも完全な意味で納得するまでにはいたっていなかった……と言うことだろうか。
なぜならそれは、私の事を取るに足らない人間だと思っていたから……。
カチュカの言葉を信じるならば、プシュケーディア姫は自分が認めた人間の言葉以外はそれが正しいと思いながらも心からは尊重せず、自分が認めた人間相手には、その言を認めながらも対抗意識を丸出しにする……そういう性格なのだということになってしまう。
なんだかくらくらと眩暈がした。
確かにカチュカの話しを聞けばプシュケーディア姫は悪い娘ではないのだと分かるのだけど……でも、それにしたって……。
「……カチュカ……そう言う執着は『好意』とは言わないのではなくて……?」
「いいえ、そんなことございません。……あの……あの……なんと申しますか、プシュケーディア姫は自分が認める……いいえ、憧れる……と言っても過言ではないバルドリー侯爵夫人に、その……自分も一角の人物であると認めてもらいたいのでございます。すみません。私が謝るのはおこがましいとは存じますけれど、プシュケーディア姫はちょっと空回りをしている節がございまして……」
必死に言い分けるカチュカの顔を私は静かに観察した。
嘘を言っている様子は無いし、これ以上ないくらいに彼女は真剣だ。
私はこの状況を笑っていいものか、それとも頭を抱えるべきなのか……。
今日の一日でついた溜息の中で最も深く大きな溜息が胸の奥底から零れ出た。
とりあえず私は最初から王女を『見捨てる』と言うつもりなど微塵もない。
むしろ、プシュケーディア姫の方が暫くの間は私の事を避けるのではないだろうか。
まあ……カチュカの言う事をまるきり信じるわけには行かないが、彼女の意見も心に留めてとりあえず明日のセ・セペンテス到着と明後日午前に執り行われるフェスタンディ殿下との結婚式を見守ることにしよう。
私はカチュカに自分には最初からプシュケーディア姫を見捨てるつもりなど無い事と、これから先もなるべく何事も無かったように振舞うようにするつもりだから、無茶なことなどせずに、これから先も王女の傍で彼女を支え続けてあげるように言ってカチュカを下がらせたのだった。
***
セ・セペンテス大公城大門の跳ね橋を渡り長い緋毛氈の上に降り立ったのは、輝かんばかりに美しく装った姿のプシュケーディア姫だった。
白貂のマントに煌びやかな錦繍のドレス。細い首を取り巻くのはアリアラ海南岸で獲れる小粒真珠を幾重にも連ね、中央に大粒真珠とダイアの花をあしらったチョーカー。
一筋の乱れ無く櫛けずられた白金の髪は冷えた初冬の白い日差しに照り輝き、ふんわりと持ち上げた前髪は小さなティアラでおさえられ、ハート型の額が露になっていた。
未だ日焼けは彼女の肌に残っているけれど、それは容色を損ねるのではなく華奢で肉付きの薄い彼女を健康そうに見せる効果を示した。
綺麗に持ち上げた前髪の下の額は形良く王女の面差しの幼さを払拭し、灰色の瞳の聡明さを引き立てている。
王女の馬車に同乗していた私とドルスデル卿夫人は既に下車しており、王女の歩む緋毛氈の端に控えていた。
降車にあたり大きく膨らんだドレスの裾周りをカチュカに世話されているプシュケーディア姫の表情は、さすがに不安を隠しきれない様子。
きっと今、王女は逃げ出したいくらいの緊張で押しつぶされそうになっているに違いない。
私はそっと手を伸ばし、プシュケーディア姫の手指をきゅっと握った。王女の手指は白絹の手袋の上から触れたにもかかわらず、血の気を失い氷のように冷たく感じられる。
泣きそうな灰色の瞳が数秒の間私を見つめた後、はっとした顔で王女は私の手を振り払いそっぽを向いた。
プシュケーディア姫の横でカチュカが申し訳なさそうに身を竦めていた。
ざわ、と周囲の気配が変わったのはその時だ。
フェスタンディ殿下とプシュケーディア姫の結婚の儀式は明日の朝。
今日、大公城に花嫁の到着を出迎えるために集まったのは大公の重臣と、衛士や軍関係者と大公に剣を捧げた騎士達。それから正面入り口前に並ぶ大公とフェスタンディ殿下らご家族。
ざわめきに顔を上げると赤い絨毯の向こう、城の入り口に立ち並んでいた大公一家の列の中からフェスタンディ殿下がこちらに向けて歩いてくるのが見えた。
皆が驚くのも無理はない。
だって殿下はその場でプシュケーディア姫を待つのが慣例的にも、また、国力の関係からしても当然なのだ。
向こうから王女を迎えに来るなんて異例なこと。
スラリと長身のフェスタンディ殿下は大股に……だけどあくまでも優雅な足取りでプシュケーディア姫に歩み寄り、立ちすくむ王女の手をとると体を曲げてその甲に唇を落とした。
「海を渡り遠路はるばるようこそセ・セペンテスへ。貴女のご無事での到着を一日千秋の思いで待ち設けておりました……我が花嫁プシュケーディア」
引き締まった顔立ち。
言葉よりも甘く雄弁に語りかけると女性達に評判の殿下の青い瞳が王女に向けられると、血の気無く強張っていた王女の頬が見る間に鴇色に染まるのが見えた。
殿下は歳若く、また、モスフォリア出立するにあたりあれやこれや問題が発生するほど気持ちが不安定だったプシュケーディア姫を気遣いこのような行動に出られたのだと思う。
後にこの時の事を知ったグラントは
「さすがに女性の扱いに長けた男のすることは違う。俺も見習うべきだな」
などと面白がっていたけれど、確かに父王に過剰に庇護されてきたせいで耳年増ながら実際は殿方に免疫の無かった彼女に殿下の『心遣い』と女性達に絶賛される『ハンサムな顔立ち』は、とても良く効いたようだった。
少なくとも王女にとって殿下とのこの初対面は悪い印象を与えなかった様子。
童話の世界であれば王女が王子と出会い、結婚をした時点でめでたしめでたしのエンドマークがつくことだろう。
二人が『いつまでも幸せに暮らしました』となるかどうか、それはお互いの相性や努力に負う部分だろうからそこまでは私のあずかり知らぬところ。
架空の物語の流儀に倣うのであれば、プシュケーディア姫の物語は明日の朝の『設計図』引き渡しが終了し、無事に結婚の儀が執り行われた時点をもって『めでたし』の運びとなる予定だった。
だけど現実はそう簡単ではないらしい。
少なくともプシュケーディア姫とフェスタンディ殿下の出会いから結婚の儀までの一日には、『王子と王女は出会い、結婚いたしました』と言う一行で済まされぬ出来事が起きてしまうことになる。
ただ……これには予兆が無いわけではなかった。
花嫁行列の総指揮官ジョルト卿がセ・セペンテス大公城の花嫁花婿の出会いの場面に居合わせているにも拘らず、その補佐役であるグラントの姿がここに見当たらないのがその一つ。
夕べ、アズロー公爵邸を出発したグラントはまだセ・セペンテスにはついていないようだ……。
プシュケーディア姫に続き、新造船の『設計図』とモスフォリア側の代表である公爵夫妻を乗せた馬車とプシュケーディア姫の侍女らを乗せた馬車も大公城へと到着した。
私は小さな異変も見逃すまいと注意深く周囲を見渡した。
侍女のスティルハートは馬車を降りるとすぐにカチュカを手伝いプシュケーディア姫の衣装の裳裾を直し始めている。
『設計図』の入った箱を手に公爵夫妻が畏まった表情で緋毛氈の上に立った。
カチュカとスティルハート、それにエリルージュ以外の三人の侍女は、初めて目にした大公の城に興味深気な視線を漂わせ、フェスタンディ殿下の美男子ぶりに興奮と華やぎをその横顔に隠せない。
想う人がいながら『侍女』となったエリルージュは顔色も悪く、落ち着きの無い様子。
何事も無く明日の結婚の儀を終えることが出来れば、私の役目は完全に終わる。
どうか無事に全てが終わりますように……。
そう祈るような気持ちでプシュケーディア姫とフェスタンディ殿下の後に続き、赤い絨毯の上を大公城正面入り口へ向かって歩き始めた私は前方からの強い視線に首を巡らせた。
左前方、そこは大公の妻でありフェスタンディ殿下には継母に当たるセルシールド夫人を始め大公家の血縁者が集まる場所。
引き寄せられるように目を向けた先には、黒い毛皮をまとい長いこげ茶の髪を金の縁取りの黒絹のリボンで纏めた一人の貴公子の姿があった。
不思議な光を浮かべる薄茶の瞳が、真っ直ぐに私を捉えている。
……グラヴィヴィスだ。
そう。
彼はフェスタンディ殿下にとっては『従兄弟』にあたるのだもの。結婚式に招かれていて当然なのに……。
この場所に彼がいる可能性について考えもしなかった自分に、私は酷く驚いていた。




