『木の杖と初夏の花嫁』5
エリンシュート伯爵夫妻とは彼らの到着時と式に列座中に顔を合わせただけだが、見た感じポメリア嬢はどうやら母親の血を濃く受け継いでいるようだ。
顔立ちや髪、瞳の色も良く似ている。
エリンシュート伯爵は鋭敏そうな目を持ちキビキビとした喋り方をする初老の紳士。
動作も口調と同じくしゃっきりとしているが、どうやら身体を動かすよりも頭を働かせるのが得意なタイプの人間らしく、日焼けしていない肌は抜けるように白く、指の長い手と筋肉の薄い骨っぽい体つきをされていた。
伯爵さまと言うよりも、学者や文官といった雰囲気か。
我が家の親族とエリンシュート伯爵夫妻らが集まったポメリア嬢とエクロウザ兄様との結婚式は、さしたる問題もなく無事に終了した。
それを『面白い』と言うと可哀想かもしれないが、ちょっとした出来事があったのは結婚式が終了した後だ。
式は昨日私やグラントが親族らと歓談した部屋で執り行われたのだが、ポメリア嬢とエクロウザ兄様を結婚させた司祭様が去り、エリンシュート夫妻や親族らが礼服から午後服に着替える為に退室。部屋には母様と兄様、ポメリア嬢と……退室する人々の邪魔にならぬようゆっくり席を立った私、それから、私をエスコートするグラントの五人が残されていた。
ポメリア嬢が客用応接室に隣接した寝室で着替えをするために部屋へ引き取ろうとしているところを、母様が呼び止める。
「ポメリアさん、ちょっといいかしら?」
にこやかな表情ながら常にない声色が気になり、そちらへ視線を送ると、母様が言葉を続けた。
「ポメリアさんもこれでこのジェンフェア・エドーニアの家の者になったわけですから、貴女にも貴女が連れていらした使用人達にもケジメをつけていただこうと思います」
微妙に目が笑っていない笑顔の母様がパンパン……と、鋭く二つ手を打ち鳴らす。
……と、それを合図にしてか、部屋の扉を開けて屋敷の古参の使用人が二人、手に何か衣服の様な物を持って素早く室内へと入って来た。
持っているのはどうやらこの屋敷の使用人達が着用している御仕着せのようだ。
私もグラントも別にバカみたいに立ちつくし、この一幕を見物していたわけではない。
……ないのだけれど、なにしろ行く手の扉から侍女らが入ってきてしまい退室する潮を失ってしまったのだから、仕方が無い。
何が起きているのか理解していないポメリア嬢が見守る中、彼女の婚礼衣装の裳裾を持ち上げていた二人の使用人───ポメリア嬢が実家から連れてきた侍女らは、屋敷の古参の使用人らに腕を掴まれあっという間に寝室の奥へと連れて行かれてしまった。
「いつまでもご実家の御仕着せを着せておくわけにも行かないでしょう? 彼女らにはこの屋敷で働いてもらうのだから、これからはこの屋敷の流儀に従ってもらう事になります。……それに、何人かの使用人らにはエリンシュート伯爵家に引き揚げていただきましょうね?」
母様の笑みがちょっと怖かった。
でも、どうやらポメリア嬢が幾人もの使用人らを引き連れてこの屋敷に入ってからこっち、母様は全ての使用人らをきちんと観察されていたようで、人が増えた事や違う環境に来た事にかまけて怠けている人間が誰なのかを厳しく精査選別していたようだ。
古参の使用人が室内に戻りポメリア嬢の婚礼衣装の裳裾を素早く抱え上げた。
「あの……でも……」
ポメリア嬢はエクロウザ兄様に助けを求める様に、おどおどと灰青色の瞳を向けるも
「大丈夫だよポメリア。君の大事な使用人達を幾人かお返しする事は、エリンシュート伯爵もきちんと承諾してくれているんだから。彼らの行く末の事は心配いらないよ。優しい君が心を痛める事は一つも無いんだ」
笑いながら兄様はポメリア嬢の頬にキスを一つ落とし、自分も着替えをする為に部屋を出て行った。
この場面を目にした私は何とも言えない気持ちになりながら部屋へと引き上げたのだけれど……。
「……思い出すだに、キミの血族の恐ろしさに身悶える気持ちだよ」
エドーニアの街外れにある私の館へ向かう馬車の中、グラントが言った。
何が『恐ろしい』……よ。
あの後、部屋へ帰った途端に彼は身体を二つに折り曲げて大笑いし出したのだ。
「やっぱり、血のつながりと言うのはあるもんだな……! いやはや、兄上も御母上も……恐ろしい程やり手な人達だよ」
そう言いながら息も絶え絶え笑うグラントを見つつ、私はポメリア嬢に同情するべきかグラントと一緒に笑うべきかでしばし頭を悩ませた。
だけど……そうね。
ちょっと……正直に言えばポメリアさんと言う人は本当に大丈夫かと思ったけれど、二人が愛情をもって彼女をエドーニアの屋敷に合うように導いてゆくだろうから、きっとうまく行くわ。
私は家を出た人間なんだし、必要以上に心配してもどうしようもないもの。
そう思った私は、申し訳ないな……と思いながらも、ほんのちょっとだけ笑わせていただくことにした。
***
エドーニアの街外れの館は、私が行方不明になってから最低限の管理だけで放置されていたそうだ。
季節ごとの庭の手入れと、掃除。風雨に破損した部分の修繕は定期的に行われていたが、それもお座成りな物だったよう。
でも今年の春、ポメリアさんが兄様に嫁ぎ来ることが決まってから、母様が少し徹底的な館のお手入れをさせたのだそう。
もしも彼女や兄様がエドーニアの街へお買いものに行った時、館で休んだり、遅くなった時には宿泊出来たりする場所が街の近くにあれば便利だろうとの考えの他、私と年齢の変わらぬポメリアさんの友人らがエドーニアに避暑にいらした時、仲間同士気兼ねなくお喋りが出来る場所……それも、本邸のような奥まったトコロではなく、貴族や富裕層が宿泊するエドーニアの宿、湖月亭からそう遠くない場所であればもっと便利だろうとの配慮からだったのだけれど……。
彼女はそんな母様の配慮を飛び越し、私がアトリエとして使っていた部屋と私の元の私室を潰してティーサロンに改築してしまったのだが……。
まあ……余計な配慮など不要なほど、肝が据わった方と言えば言える。
母様は少し気を回し過ぎてしまったのだろう。
だけどその過剰な気づかいは私達にとってありがたい物となった。
だってもしも館が完全に放置された状態のままだったりしたら、グラントが突然向こうに泊りたいのだと言いだしたとしても実質的に使用に耐えられなかったかもしれないのだから。
母様とポメリアさんの気持ちの行き違いに、今回は感謝しなければいけないだろう。
グラントによれば昨日の夕方前にはあちらに何人かの使用人らが向かい、私達を受け入れるべく清掃や空気の入れ替えなどの準備にあたってくれているそうだ。
母様曰く
「どうせ人手は余っているのですからね」
と言う事だった。
ちょっと言いにくい事だけれど……本当に……ポメリアさんと母様には足を向けて眠られない。
……それに、昨日からグラントにはあれこれ感謝しなければならない事が多いのだけれど、館へ向かった人間の人選に関しても彼は上手に母様らを説得してくれたのだ。
館には今、私がずっと以前から申し訳なく気にかけていたシェムスがいる……。
「ねえ、グラント? 本当に私の好きなようにさせてもらってもかまわないのね?」
いまだ思い出し笑いにクツクツと胸を揺らすグラントに私は問いかける。
彼の凄いトコロは、こう言う時の切り替えの素早さだ。
例え前置き無しに私が話し始めたとしてもグラントはだいたいの場合、何を言わんとしているのかを察してくれるのだ。
「構わないと言うより、俺にも責任の一端はあると言えるからね。でも勿論、向こうの気持ちが最優先だろう?」
「ええ……そうね、勿論よ」
私達が話題にしているのは、以前エドーニアの館で私に仕えていてくれた『シェムス』の事。
うさんくさい商人だった『グラント・バーリー』が館に入るのをみすみす見逃し、さらには睡眠薬入りのワインを飲まされて昏倒しているうちに主人である私を彼の手で浚われてしまったシェムスは、一度エクロウザ兄様によって館を解雇されてしまっていた。
だけどあれはシェムスの責任ではなく、私がグラント・バーリーなどというインチキ商人を信用してしまったから起きた事件だ。
エドーニアに帰郷した私は兄様にお願いをして再び彼を屋敷に雇い入れていただいたのだけれど、以前は邸内の仕事をして貰っていた彼が、今は厩番へと降格されてしまっている。
私は、ずっと彼の事が気がかりだった……。
「彼はいつもフローお嬢さんを守る番犬のようだったね。……それも、厳つい顔つきのグレートデンだ」
「酷い言い方しないで。いつも忠実で真面目な人だわ」
「ああ……すまない。褒め言葉として言ったんだが……。シェムスはいつからキミのトコロにいるんだ?」
カラカラと軽快な音をたて多頭立ての馬車は進むけれど、まだ街外れの館に着くまでには時間もある。
私は一瞬目を閉じると、懐かしいシェムスの顔を……ちょっとだけグレートデンに似た彼の事を思い出してから口を開いた。
「お父様の生きていらした頃からシェムスの事は知っているわ。彼のご両親が屋敷に勤めていたの。聞いたところによれば、祖父母の代から屋敷に関わっていたらしいわ」
私の話を聞いたグラントが少し意外そうな表情を浮かべるのが分かった。
「思った以上に生え抜きの使用人なんだな。なのに……いや、こう言う言い方をしたらキミには失礼かもしれないけど、どうしてお嬢さんにつき従ってあんな辺鄙な場所にまで来てくれたんだ??」
彼の言いたい事は分かる。
ジェンフェア・エドーニアの家に仕える生え抜きの使用人だったなら、私に着いてこずとも本邸や王都フルロギの別邸で働いた方が、やりがいのある仕事が出来た筈なのだ。
特にフルロギは華やかな都会だもの。
あそこを離れて私を主人とする淋しい館に引きこもるなんて、お給金に色をつけたからと言って選びたい選択肢ではないだろうから。
「シェムスの父親は庭師だったのよ。母親は洗い場の下女だったと聞いているわ。だけど……シェムスは頭も良くって気働きもきくからと、私のお父様が彼を気に入って文字を教えたりちょっとしたお勉強を見てあげたりしたそうよ」
シェムスは寡黙だけれど真っ正直な男だ。
雨や雪に降り込められ館に何日も閉じ込められた時などに、暇を持て余した私の問いかけに答える形でポツリポツリとこれらの話しをしてくれた。
「それから彼は暫くエドーニアの本邸やフルロギの邸内のお仕事をしていたの」
グラントは黙って私の話を聞いていてくれる。
本当なら私は私自身の事ではないシェムスの生い立ちや家庭の事を人に話すべきではないのだろうけれど、もしもシェムス本人が応諾してくれたら、グラントにも無関係ではなくなるから……このお喋りは許してもらうしかない。
「一時……何年間か屋敷を離れていたりもしたのだけれど、シェムスの父様が亡くなって……彼が戻ってきたわ。それから暫くしてシェムスのお母様が身体を壊されて、結婚して外へ出ていたシェムスのお姉さんのトコロへ引き取られたの。……その頃よ、私が屋敷を出ようと決心したのは。シェムスは私へ同行してくれると言ってくれたわ」
そう言って言葉を切った私の目に、何かを察したらしいグラントの眉が微かに上下に動くのが見えた。
シェムスは母親の介護をする姉に仕送りをする必要があった。
病人の身体に良い物を食べさせ、腕の良い医者に診てもらうにはそれなりの物が必要なのだ。
私は口が堅く、幾つかの決めごとを厳密に守ってくれる使用人を必要としていたし、兄様から潤沢な生活費を与えられていた。
利害の一致を見たと言えば外聞はいいかもしれないけれど、人の弱みにつけ込んで利用したと言えばそのとおりだと思う。
シェムス以外の使用人達も、大なり小なり事情を抱えている者ばかりだった。
そうじゃなければ私は何年間もあの街で、人々に素姓を知られぬまま暮らしてはいられなかった筈だ。
「周到で賢いやり方だ。キミの血族はやっぱり侮れないな」
皆まで言わずとも『それ』を察し、さらには冗談めかして笑ってくれるグラントの余裕のある優しさがありがたい。
「正直で寡黙で力持ちで……忠実な人よ、シェムスは。私……少し彼のそういうトコロに甘え過ぎていたと思うわ。その結果、あんなインチキくさい商人に騙されて、連れ去られるなんてコトになったんですもの」
少しバツの悪そうな表情でグラントは頭を掻く。
「それが……全部シェムスのミスにされてしまうなんて思ってもみなかったわ。でもそれって言い訳よね」
私はグラントの暗色の瞳を真っすぐ見ながら、なんとか微笑みを浮かべた。情けなさと申し訳なさで本当にこの事を考えると、泣きたい気持ちになる。
「……あのね、グラント。シェムスのお母様……もう随分と前に、亡くなっていたの……」
この事を知ったのは、私がグラントと結婚してしばらく後の事だ。
だけど私はもっと前に気がついてもおかしくなかったのに……。
兄様に仕事を解雇された後、シェムスはエドーニアからほど近い田舎町で力仕事や雑用を引き受けて一人生活していた。
フルロギに帰れば彼を知る人間も多く、もっと良い仕事だって得られた筈なのに。
……アグナダ公国からエドーニアに戻り、兄様にシェムスを探し出して屋敷で再雇用して戴いた時、シェムスは……涙をその灰色の厳つい……だけど気真面目な瞳に浮かべて私の無事を喜んでくれた。
私を責める言葉など一切口にせず……だ。
仕事を辞めた後、母親に掛るお金をどう工面していたのか気にする私に、彼は微かに笑いながらこう言った。
「気にせんでくださいませお嬢さん。お給金はたっぷりいただいておりましたので、それなりに蓄えもありましたから」
母様からのお手紙に彼の母の死に触れた一文を見つけた時、私は激しい衝撃を受けた。
彼に『母』と言う……足枷がなくなったのなら、彼はフルロギに帰ればいくらでも条件の良い職につけた筈だ。
それなのにシェムスはエドーニアの辺鄙な街外れに残って、衷心から私の事をいつも守り、仕えていてくれたのだ……。
もしかすると、解雇された後に彼がエドーニア近郊に残って暮らしていたのも、私の消息を得るに館で共に働いた同僚達の元から離れたくなかったのではと考えるのは、あまりに自意識過剰に過ぎるだろうか……?
「小娘だったとは言え、私はダメな雇用主だったと思うわ。でもね……だからこそ……」
「良く分かるよ……フロー」
グラントは静かに頷いてくれた。
エドーニアへ来る前、唐突に
「シェムスをバルドリー家に雇い入れたいの」
と言い出した私に、詳しい事情を訊かぬままその許可をくれた彼の懐の深さに感謝している。
本当に……ちょっと変わり者だけど、どうしてこんな人が私の事を好きになってくれたのか、未だに不思議に思うくらいだ。
感謝の気持ちと、彼を誇らしく思う……誰に向けるともない『惚気』気分で……少しばかり頬が熱くなった。
自分への照れ隠しと、子供じみた彼の愛情確認が入り混じった気持ちで私は口を開く。
「見もしない『お医者様』に嫉妬していた癖に、シェムスは全然平気なのね?」
「嫉妬の対象として見ていいならいくらでも嫉妬するさ。実際、以前エドーニアで俺は彼に警戒されていたからなぁ……『お嬢様に近づく悪い虫めっ!』……そんな目で見られていたのは今思えばいい思い出か」
「そぅお? 私……シェムスは貴方の事、わりと気に入っていたように思っていたけれど」
グラントは黙ったまま小さく肩を竦めて見せた。
さっきまで残照が空の片隅を淡いオレンジ色やスミレ色、オリーブの色に染めていたのだけれど、いつの間にか日は完全に沈み、暗い青い夜が周囲を取り囲んでいた。
黒くこんもり茂った森の端から上った銅貨色の月が、天頂へ行くに従い冷めた白い光へと変わってゆく。
「どういう風に彼を説得するつもりだい?」
館はすぐ傍に近づいていた。
「……普通に、来て欲しいってお願いするわ」
グラントの言わんとしている事は分かっている。シェムスに今の状況を理解してもらうには、私やグラントが当時何をしていたかを話す必要があるから、その事を気にしているのだ。
「シェムスは正直で嘘がつけない人なのよ。……だから、私はあの館で何をしていたか、シェムスや使用人達に話した事は無いわ。もしも何かあった時、彼らまで仲間だと思われてしまっては大変だもの。彼には詳しい事情の説明をするつもりはなくてよ。……貴方の事も、私の事も。今あるがままを受け入れて欲しいってお願いする以外は無いわね」
自分が選んでしていた事の責任は、自分で取らなければならない。
結局……ある意味ではシェムスの人生を巻き込んでしまった事になるけれど。
外から差し込む淡い月明かりに、グラントの心許なさそうな表情が照らされている。
「貴方とは違う意味でだけど、シェムスも懐の深い人よ」
不安が無いわけではないけれど、きっと彼は来てくれるだろうと私は信じていた。
月明かりが木陰に遮られた闇の中、グラントがふ~……っと深く溜息する音が耳に届く。
「……? なに? どうしたの?」
問いかけに答えたのは言葉ではなく、彼の強い腕の力だった。私は向かいの席に座るグラントにグイッと手を掴まれて前のめりに引き寄せられた。
「あ……危ないじゃないのグラント!」
実際はしっかりと彼の腕が私を受け止め守ってくれたからなんともなかったのだけれど、驚いた腹立ちまぎれに少しばかり声を荒げる私にグラントが言う。
「キミは……わざと俺に嫉妬させようとしているのか? 前言撤回だ。やっぱりシェムスは嫉妬の対象に入れておこう」
「まあ、そんなつもりじゃないわ。怒らないでよ。いまさら彼を連れて行くのは認められない……なんて言い出さないで下さるわよね??」
慌てる私から素早くキスを一つ盗んで、彼はクツクツと笑った。
「じゃあその分も『貸し』として、今夜はじっくり取り立てさせてもらう事にしようか。……痛てっ」
最後の『痛てっ』……は、手を私に齧られたグラントの声。
本当に、どうしてこうなのかしら。私の事をからかって。
馬車の車窓から窓と言う窓に灯火を灯された懐かしい館が見えている。
私は徐々に近づいてくる館を見ながら、どうすればシェムスをアグナダ公国へ連れて行けるか心の中であれこれと算段していた。
***
館に到着してすぐに、グラントは一通の手紙をしたためた。
翌朝、ナップスはその手紙を携え、馬の上に鞍を載せてホルタネラの港指して館を発って行った。馬車で動くよりも単騎で動いた方が遥かに身軽に、早く港へ着くだろう。
彼はホルタネラから一番早い船に乗って、ブルジリア王国のレシタルさんやジェイドらの元へと旅をする。
……本当だったら私は早朝発つと言う彼の出発を見送るつもりでいた。
だけど残念なことに私が目を覚ましたのは随分と日が高く昇ってからで……しかも、いつもなら目覚めて直ぐにしゃっきりと冴える目も頭も、今日に限ってはなんだか脳味噌の中に薄い霞でも掛っている様なボンヤリ加減。
一瞬、私は混乱した。
目を開けると見覚えのあるベッドの天蓋と壁紙。グラントの元へ嫁ぐ前毎日見ていた私の日常がそこに広がっていたのだ。
まるで二年の時が逆行してしまったかのような感覚が私を捉える。
エドーニアの街やその近郊を彷徨い、怪しげな動きをする人間を見つけては観察する……あの頃の私には殆ど誰も近しく言葉を交わす相手も無く、人とのふれあいや温もりが感じられぬ日々の生活の根底には、いつでも冷めた緊張感が駆除しきれない雑草のように根を張り巡らせていた。
賑やかな翡翠亭で摂る料理は温かく美味しかったけれど、どこか味気の無い物だと知ったのはいつからだっただろう……?
孤独はどんなに美味しい料理もつまらない『餌』に変えてしまう。
だけど……『孤独』って何だろう?
私はいつだって一人だし……この先もきっとこのままだ……。
今までだってこれからだってそれが当たり前で変わる筈がないのに……なんだってこんなに胸が苦しくて、それを怖ろしいと感じたりなんかするんだろう……?
覚醒しきらない私の心は過去から現在の流れを正しくとらえる整合性に欠いた状態にあったのだと思う。
あまりに孤独で悲しかった過去の気持ちに支配されていた私は、身動きも取れぬままに見開いた目で……ぼんやりとただ周囲を眺めていた。
そんな私を現実に引きもどしたのは、グラントの温かな腕だった。
「おはよう。フローお嬢さん」
機嫌良さ気なグラントの低く良く通る声が耳元に聞こえ、私の頭の下の腕枕の腕がしっかりと肩を抱く感触に、反射的にビクりと身体が震える。
半瞬の間、どうして彼がここにいるのか理解出来なかった。
「……グラント……」
夕べ剃ったばかりの髭が伸び掛けた頬に浮かぶ、片方だけのエクボと笑みがほんの少し薄れ、怪訝そうな表情がその面に浮かんだ頃に、私はやっと今がいつでどうして『グラント』がこの……私の寝台の上に半裸で身を寄せて横たわっているのかを理解することが出来た。
茫然から現実に立ち返った途端、私は激しい羞恥に襲われた。
自分の頬が見る間に赤く染まってゆくのが手に取るように分かる。
私がグラントの横で目覚めるのは決して珍しい事ではない。
昨日の朝だってそうだったのだ。
でも……今はダメ。本当に耐えがたいくらい、恥ずかしい。
たぶん目覚めた時の混乱がまだ私の中に尾を引いているからに違いない。
そうじゃないならば……『かつての私』が『かつてのグラント・バーリー』と同衾するようなふしだらな夢を見てしまったのかと、こんなに慌ててドギマギする必要など無い筈だ。
耳まで真っ赤に染まった私を不思議そうに見るグラントに、急激に腹が立ってくる。
「なによ……またお髭なんてポツポツ伸ばしたりして……」
だいたいにしてグラントが悪いのだ。
有言実行かなにか知らないけれど、あんなに……しつこくするなんて酷い。
前にゲルダさんの事で勝手に空回りした挙句グラントを怒らせた時のように、ちょっと乱暴な扱いをされたわけじゃないけれど、いくら優しくても……もう眠いから勘弁してとの懇願を無視して……あ、あんなのっ……紳士のする事じゃないと思うわ。
彼が私を必要以上に疲労させるから、私は寝起きが悪くて変なふうに頭がこんがらかってしまったのだ。
恨めしい気持ちでねめつける視線をどう受け取ったのか、顎の辺りをニヤニヤさすりながら上半身を起こしたグラントが日向の猫のように目を細め、言った。
「じゃあ、直ぐに剃って来よう」
……この人は……髭を剃って、こんな明るい時間から何をするつもりなの?
「いいえ、結構よ。暫くの間生やしたままで構わないわ」
私は内心の動揺を悟られぬよう不機嫌に言い捨てて、慌てながらも落ち着いた様子に見えるよう気をつけて速やかにベッドを抜け出した……。