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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
69/97

『顔の無い花嫁』38

 気がつくと、椅子の横に立てかけておいた筈の私の杖が見当たらない。


 当然ながら象牙とレターウッドで出来た杖は一人で歩いて行くものではない。

 魔法の様に消えるものでもない。

 もしかしたらと覗き込んだ椅子の裏面にも杖は倒れ転がっている様子は無かったし、一応確認の為に見た右側の側面にも、その見慣れた姿を見つけることは出来なかった。


 ……とすると、今さっきエリルージュが小さく窓を開けて階下へ落とした物は、私の見間違えなどではなく象牙の柄の杖だった……そう言うことなのかしら?



 ***


 一体何処から振り返るべきだろう。

 戸外から屋敷の中に入りテティの待つ部屋へ向かった私は、馬車移動の為に身につけていた旅行服からもう少し楽な衣服へと着替えをした。

 もし何もなければ夕餐までの時間を室内でゆっくり過ごす心積もりでいたのだ。


 アズロー公爵家で与えられた客用寝室は一階の奥。

 このお屋敷の客室の殆どは二階にある筈だけれども、私の脚をのことを考慮した公爵夫人……ヘンリッタ様が気を使ってこの部屋を整えてくださったようだ。

 素朴な木の家具とひな色の壁紙は取り澄ました客間には無い身に馴染む温かみがある。もしかしたら元はご家族の誰かのお部屋だったのかもしれない。


 ……着替えを終えてどのくらい経った頃だろうか。プシュケーディア姫の侍女、カチュカが私に王女が部屋に呼んでいる旨を告げに来たのは。

 私が着替え終えてから、たぶん……まださほど時間は経過していなかったと思う。

 それこそ、王女は温室から部屋に戻ってすぐに彼女を使いに出したのではないだろうかと思う。

 私には肩の荷がおりホッとするセ・セペンテスへの到着も、王女にとっては恐れと緊張とを伴うもの。

 ここ数日すっかり人が変わったように大人びた王女ではあるけれど、今は誰かに近くにいて欲しいほど不安になっているのかもしれない。



 私が違和感を覚えたのは王女の部屋に入った瞬間のことだ。

 いいえ、正確には『入る前』から異変に気がついていた。

 扉の向こうから王女の怒鳴り声が聞こえていたのだもの。耳の遠いお年寄りでもなければ気づかぬ筈がない。


「私の言うとおりにしなければあんた達みんなクビにするわよ! 身一つで追い出してやるんだから!」


 聞こえてきたのはそんな言葉。

 さすがに私が扉を叩くと怒鳴り声は止んだけれど、それでもひそめた声で室内の侍女らを


「分かっているわね……!」


 との恫喝どうかつのような言葉は私の耳にも届いた。

 今になって思えば私は自分を全くもっておめでたい人間だと思う。

 ほんの数年前までは人を信じる事など出来ない生活をしていたのに、こんなに簡単に騙されるようになってしまうなど……どれだけ今の生活はぬるま湯なのか……。

 

 部屋へ招じ入れられた時、王女は小さな応接間付き客間の奥の寝室から着替えを終えて出てこようとしているところだった。


 故郷を離れ海を渡り、プシュケーディア姫はアグナダ公国へとやって来た。

 父王に溺愛され甘やかされて育った彼女が襲撃事件や度重なる花嫁行列への妨害工作に耐え、故国の為、必死にこの国で受け入れられる立派な王女になろうと努力をして来たのを、私は間近に目にしている。

 だけどやっぱり彼女はまだ二十歳にもならぬ若い娘なのだ。

 ただの一面識も無いプシュケーディア姫の婚約者、フェスタンディ殿下との邂逅を明日に控えた今、王女が多少平静とは違う精神状態にあったとして何の不自然があるものか。


 そういえば……そう。

 もしかしてプシュケーディア姫はメレンナルナ王女が所有していたフェスタンディ殿下の肖像を見ていないのではないだろうか?


 ……会った事もない上にその似姿すら目にしたことが無い殿方と明後日には結婚式を挙げることになるのだもの、彼女が苛々していても仕方の無い事。

 侍女達は王女の叱責を受け、萎縮した様子だ。


 ……見たところ王女の着替えを手伝ったのは、侍女のミナリとグリーテ。

 セリアータとエリルージュが脱衣した衣装にブラシをかけたり皺を伸ばしたりの始末をしているらしい。

 スティルハートはこの時プシュケーディア姫に言い付かり、お茶の仕度を頼みに部屋を出ていたようだし、最古参の侍女カチュカは私を迎えに場を外していた。


 そういえば、アリアラ海を渡る船の中でも時々王女が彼女達に癇癪を起こしているのを私は目撃している。

 ただでさえ不安から神経が高ぶった状態にある王女の事、この不慣れな『侍女』らの着替えの介助で勘に障ることがあったのかも知れない。

 私はそんな風にこの場面を受け止めてしまった。


「ああ、フロー。よく来てくれたわ」


 一瞬、侍女らをきつく睨みつけた王女だが、こちらに顔を向けた彼女の口元には笑みが刻まれていた。


「カチュカ。スティルハートにお茶の仕度を頼んだんだけど、お前も手伝いに行って」


 プシュケーディア姫の気持ちが酷く高ぶっているのならどうしたものか……との私の心配をよそに、王女はてきぱきとカチュカに指示を出す。


「ごめんねフロー。呼び立てたのにお茶の仕度がまだ整っていないのよ。さあこっちに来て座ってちょうだい。そっちは隙間風が入るからこっちの……その暖炉の前の椅子が座り心地がいいわ。さあどうぞ腰掛けて」


 私が見たところ王女の表情に不機嫌さはなく、むしろ上機嫌と言っても良いほど。


「お茶……ちょっと遅くなるかもしれないわ。ねえ、どうしても今すぐあのお菓子が食べたいっ! ……って気持ちになることがあるでしょ? 私、今どうしても焼きメレンゲが食べたくなっちゃったの。中に香ばしく焼いたアーモンドを一粒忍ばせた焼きたてサクサクのメレンゲをね。湿ってふにゃけたモノなんて話にならないわ。だから焼き上がりまで暫く時間が掛かると思うんだけど、一緒にお喋りでもして気長に待ちましょうよ。どうせまだ夕食までは時間もたっぷりあることだし、ね」


 最近に無く口数の多いプシュケーディア姫。

 暖炉に近い椅子に彼女の勧めで私は腰を下ろし、いつものように自分の左側後方に杖を立てかけた。

 侍女達は私の後方、暖炉の脇の壁際に立ち並ぶ。



 ……こうして振り返ってみると、腹立たしいほどに王女の思惑通り事が進んでいたのだと分かる。

 こういう時ではあるけれど、やっぱりプシュケーディア姫は馬鹿な娘ではないのだとつくづく思う。

 室外に聞こえる程に王女が怒鳴り散らしていたのは、私の杖をこっそり奪い、窓の外へ投げ捨ててしまうよう彼女達に強要していた場面だったのだ。

 プシュケーディア姫を諌める可能性のあるカチュカとスティルハートに用事を言いつけ部屋から出して、仕事をクビになってはどうして良いか分からぬ世慣れぬ侍女らを脅しつけ、彼女はそれを実行させた……。

 私の座る位置から侍女らの立ち位置まで……まったく良く考えたものだと思う。

 彼女達が背後にいるのは不自然じゃない上、背後で動く気配があっても後ろは暖炉。

 多少の動きがあっても火の世話だろうと気に留めもしなかったのだから。


 若干気持ちが高ぶっている様子は見られたものの、私はプシュケーディア姫が泣き出したり落ち込んだりしているわけでは無い事に安堵を覚えていた。

 私としたことが……本当に騙されやすいお人よしになってしまったものだ。

 彼女の口からは幸い重い話題などは出ず、先ほど見に行った温室の話やこれまで投宿した屋敷の事など、とりとめない話を振ってくる。


 ……不安から一人でいるのに耐えられなくなって私を呼んだのだろう。

 そんな風に思い始めた時の事だった。


 先刻から背後でごそごそと動きのあった侍女達だったのだが、今度は何か……静かにではあるけれど何かを揉めるような剣呑な気配がしだしていた。

 だけど私の斜め前。

 侍女らの様子が見える位置の椅子に腰掛けた王女は、何事も無いように話を続けている。

 わざわざぐるりと振り返って見るのは少しお行儀が悪いようで……。


 思えばこの時、侍女らは誰が杖を窓から放り投げるかを押し付けあっていたのではないだろうか。


「……わたくしがいたします……」


 潜めた声でそう言って、その嫌な役を引き受けたのは王女の従兄弟の元婚約者であるエリルージュ。

 背後の気配はなるべく気にしないようにしていたのだけれど、キィ……と言う微かな軋みの音とともに冷えた外気が室内に入り込むと、さすがに私も音と冷気の源へと顔を向けた。

 見えたのはエリルージュの美しい横顔。


 暫く前……そう。船の中では酷くやせ細り……顔色も悪く、侍女としての仕事をするどころか今にも倒れそうな彼女がセ・セペンテスまで無事にたどり着けるんだろうか?

 そんな危惧まで抱かせる状態だったのだが、今はそげていた頬の線も随分と以前のようなまろい曲線を描くようになってきているようだ。

 これなら彼女の事をグラントやフェスタンディ殿下に相談するまで、なんとか彼女ももってくれそうだ。

 そんな事を考えながら垣間見る彼女の細い手が、なんだか見覚えのあるものを掴み窓の隙間から外へと差だし、落としたのを私は見た。

 ……ような気がした。


 今見たものがあまりに思いがけなくて……現実味の欠片もないのだけれど、もしかしてアレは私の『杖』ではなかったのかしら……?

 だけど……まさかそんな、馬鹿なこと……。

 私は自分の目にしたものを信じる事が出来ぬまま、自分の腰掛けた椅子の横を覗き込んだのだけれど……。



「どうしたの、フロー?」


 呆然としたまま顔を上げるとそこにはプシュケーディア姫の……ここ最近見たこと無いほどに満面の、だけど……どこか歪んだ笑顔があった。


 これが王女の差し金なのだということは一瞬で理解できた。

 カチュカとスティルハートがお菓子の焼き上がりとお茶の仕度で部屋を追い払われている理由も、私にこの席を勧めたのが何故なのかも、全て。

 でも、こんな酷い仕打ちをされるとは思いもしなかった私の頭は、この『現実』を認めることを拒否している。

 どういう感情を持ってこの局面に対応するべきか、判断がつかず混乱した。


 ピンクと白、それから薄い渋緑の格子縞とクリーム色のレースリボンの衣服を身につけた王女は、灰色の瞳を輝かせ頬を紅潮させているせいか、スフォールで少女服を身につけていた時のように子供じみた雰囲気が戻ってしまっている。

 鬱陶しく垂れかかる前髪を綺麗に後ろに上げさえすれば、ずいぶんと印象は違う筈なのに、相も変わらず彼女の切り下げ髪はもっさり野暮ったく彼女の目の縁と頬に無造作に垂れかかっていた。


「なぜ、このような真似を……?」


 自分ながら変に落ち着いて聞こえる声が王女に問いを投げかける。


「このような真似ってなんのこと?」


 プシュケーディア姫が小首を傾げた。


「……私の杖を外へ捨てるよう指示されたことですわ。プシュケーディア姫」


 客観的にみて、私は感情的にはなっていなかったと思う。


「あら私、あなたの杖なんて知らないわ。自分でどこかに落としたか部屋に忘れてきたんじゃないの? 探しに戻ったらどう? 私も侍女達も忙しいからお手伝いは出来ないけど、杖の代わりに火掻き棒でもお貸ししましょうか? それとも這いずってお部屋まで戻る?」


 私よりむしろ王女の方が高ぶった感情を切れない為か、言葉を重ねる内に頬だけではなく白金色の髪から覗かせた耳までもが見る間に赤く染まっていった。

 自分で言った言葉を本当に『面白い』と考えているのかどうか……プシュケーディア姫は一人、くつくつと笑った。


 だけど私が一向に取り乱す様子を見せぬ事にじれてか、王女は口元のニヤニヤ笑いはやがて薄れ、少しずつ不愉快さをあらわす縦シワが彼女の眉間に刻み込まれてゆく

 私はただ、先刻と表情を変えずにだまってプシュケーディア姫を見つめ続けていただけなのだけれど……。


「……なによ?」


 唇を歪ませ、王女は私をにらみつけた。


「わ・私がフローの杖をどうにかした証拠なんてないじゃない。変な言いがかりつけるのは止めてよ? 誰に言ったってそんなの信じる人なんていないんだから」

「王女。私は何も申しておりませんわ。──────何も」


 見る間に真っ赤に染まる王女の顔を眺めるうち、麻痺したようになっていた私の感情がようやく人間らしい機能を回復してきたようだ。

 ……なんだか、ムカムカと気持ちが悪い。

 胸の底のムカムカは物凄い勢いで私の中全体に広がり、溢れんばかりになる。

 こめかみがジリつくし、耳鳴りまでしてきた。


 私が世間に向けてこの馬鹿馬鹿しい嫌がらせを訴える事が出来ぬことを承知の上、王女はこんなことをしでかしてくれたのだ。

 もし万が一私が世間に向けてこれを訴えたところで、彼女は仮にも一国の王女。

 フェスタンディ殿下の花嫁になる人間がそんな事をするなんて誰が信じるものか──────と、そう言う事か。


 実際は、プシュケーディア姫が私に対し悪感情を抱くかもしれない……とは、前もって危惧されていた。

 殿下もドルスデル卿夫人も私の話を信じてくださると思う。

 しかしセ・セペンテス到着を目前にこんなことで騒ぎ立てては『花嫁介添え役』としての信用問題……。

 ドルスデル卿夫人も『教育係』としての立場上、私同様問題を大きくするわけには行かないのだ。

 やったことは稚拙な嫌がらせなのに、なんて狡猾なこと……。


「王女と二人でお話したいことがあるの。下がっていてちょうだい」


 私は背後に軽く顔を傾け、事の成り行きを息を殺して見守っているであろう侍女達に、部屋からの退出を求めた。


「ちょ……フロー! 私の侍女に何勝手なことを言ってるの。あなたたち、出て行かなくていいわよ……!」


 慌てたプシュケーディア姫が椅子の上で腰を浮かせるのを無視し、私は今一度、静かに……だけどきっぱりと彼女らに退去を命じる。


「すぐに部屋からお下がりなさい」


 ……と。


 普段私は使用人に対してこんな風に威圧的な言葉掛けはしない。

 私の杖を窓から投げ落としたのはプシュケーディア姫の命令だもの。侍女達を責める気持ちなどないけれど、ここに留めて二人の話を聞かせてしまっては、今後王女の『女主人』としての威厳が損なわれるかもしれない。

 そういう意味もあって、どうしても侍女らを下がらせる必要があったのだ。


 逃げるように侍女らが部屋を去った後、私と二人きりで残された王女はふて腐れたようにあらぬ方向へ目を背け、椅子の上にふんぞり返った。

 目を合わせることが出来ないのは『事』にあたっての彼女の覚悟のなさか、周到なやり方をしているのにあまりにも衝動的で子供じみている……。


 胸のムカムカはいや増しに募る。

 だけど感情のままに動いては言いたい事も上手く言えなくなってしまいそうで、私は勢いのまま発露しようとする己の感情を抑えるため……大きく息を吸って静かにそれを吐き出した。

 最近すっかり忘れ果ててしまっていたけれど、私はけっして『穏やか』な性質の人間などではないのだ……。

 それに……ああ……グラント。

 私自身に自覚は無かったけれど、貴方の言うとおり。

 私は自分が思っていた以上にこの……プシュケーディア姫という歳若い娘の事を気に入っていたのだと思う。だからこそこんなに心が乱れてしまうのだ。


「……プシュケーディア姫……」


 王女の体がビクリと震えた。


「な……なによ!?」


 身構えるプシュケーディア姫の唇がへの字を描く。

 それにしても……杖がなければ普段のように身動きが取れない。

 肘掛につかまれば片足しか力が入らずともなんとか立ち上がれるし、長い距離でなければ移動出来ないこともないのだけれど……。

 どうしたものか……と、私が思案に暮れかけたその時だった。


 コン・コンコンコンッ!


 突如として鋭く癇症に響くノックの音。

 室内の人間がそれに応える隙もあらばこそ、二階廊下突き当たりにある部屋の扉が弾けるように勢い良く内に向けて開かれた。

 驚きに思わず引き寄せられた視線の先にいたのは、アズロー公爵家の侍女のお仕着せに身を包みむ赤褐色の髪の懐かしい顔。

 私は驚きに目を見開いて椅子の上から彼女を見上げる。


「メイリー・ミー……!」


 ……そう。

 その茶色の優しい目に心配と怒りを湛えたメイリー・ミーが、王女と私が気まずく対峙する部屋へと飛び込んできたのだった。




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