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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
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『顔の無い花嫁』37

 花嫁行列がセ・セペンテスに到着する前日、最後の投宿地ペンターナのアズロー公爵へ到着したのは、お昼をまわるかまわらないかの時刻。

 ペンターナに宿泊しなくとも夕刻には大公城のへ入城も可能なのだけど、花嫁の華やかな馬車の列は明るい日の中を歓声を受けつつ行進してゆくのが望ましいとの判断があり、時間調整の意味合いから前泊地からさほど離れていないアズロー公爵の屋敷への投宿が決定したようだ。

 ここから明日早朝に出発すれば、セ・セペンテスの大公城にはお昼丁度くらいに到着できるはず。


 アズロー公爵夫妻は知己である。

 なぜならば、グラントの母上であるサラ夫人とアズロー夫妻が古い友人同士だからだ。

 去年の秋、夫妻は六人いらっしゃる息子さんの内未婚の二人を伴いユーシズの屋敷に暫くのあいだ滞在されていたし、ペンターナから半日と離れていないセ・セペンテスにはよくいらっしゃる。


 アズロー公爵夫人ヘンリッタ様は人柄の良い方なのだけれど、ちょっとだけ問題が無きにしも非ず……。

 少しばかりなんと言うのか、度を越してサラ夫人の事を好いていらっしゃると言うのか、心酔していらっしゃると言うのか……。

 昨年、ユーシズでアズロー公爵らとお酒をご一緒した時にご主人は笑いながら


「サラフィナ夫人が男性なら強力な恋敵になっていたに違いないよ。いや、もしそうならこっちがフラれていたかな」


 などと仰っていたほど……と言えば、少しはどのくらいサラ夫人に傾倒しておられるかが伝わるだろうか。

 サラ夫人にはごくお若い時代にいくつかの有名な武勇伝があるらしく、そのため公国内の同世代の女性達にサラ夫人は妙な具合に人気がある。

 ご本人は


「若気の至りで悪目立ちしたことがあるだけなのよ。お陰で友達も増えたけど、敵も多くなってしまったわね」


 そう苦笑いしておられるし、私としてもサラ夫人の『威光』の恩恵を受け、アグナダ公国の社交界で彼女の信奉者達にずいぶんと親切にしてもらっているのだから、感謝こそすれ文句があろう筈もないのだけれど。


 困った……と、私が思ったのは、アズロー公爵の歓迎の挨拶やプシュケーディア姫からの花嫁行列受け入れに対する礼などが一段落し、場が和やかな雑談へ移行して以降のこと。


 ドルスデル卿夫人とアズロー公爵夫人も当然ながら旧知の仲。

 私も公爵夫妻はだけではなくそのご子息やその連れ合いの方々も面識があったため、話題の中心はあくまでもプシュケーディア姫なのだが、話が『過去の事』に流れがちになってしまうのだ。

 普段ならそれもかまわないのだけれど……今は困る。

 プシュケーディア姫が良い意味で社交界で揉まれてきた人なら問題無いのだろうけれど、故国の社交界では皆が父王の手前彼女をちやほやしていたのだろう。

 王女は決して口下手ではないのだけれど、故国のために……との気負いの為か、自分の知らない話題で盛り上がる中で存在感を示すのが困難な様子。

 私やドルスデル卿夫人はプシュケーディア姫の人となりを分かっているだけに、状況に気を揉み、さり気なさを装い話題の方向修正を試みるのだけれども……。


 アズロー公爵夫人はサラ夫人の信奉者の中でもとりわけ熱心な人だ。

 サラ夫人の共通の友人やバルドリーの家の嫁がいる事が呼び水となったのだろう。逸らしても逸らしても公爵夫人の口からはサラ夫人の名が飛び出してきてしまう。

 客観的に見て夫人の言動はさほど非常識なものではないのだけど、少しだけ彼女がサラ夫人やバルドリー家を誉め過ぎるようで落ち着かない。


 ……いいえ。サラ夫人は確かに素敵な方だから褒められるのは当然だし、バルドリー家への賛辞はその一員となった私にとっても嬉しいこと。

 ただ、私は王女にとって『可哀想なフローティア』でなければならないのに、アズロー公爵夫人は私の事を大好きなサラの息子の嫁として気に入ってくれている上、サラ夫人との仲が良好なのを口にするものだから……。


 嬉しいしありがたいことではあるけれど、不幸な結婚をしているはずの私が義母やその友人にまで可愛がって戴いている事を、王女は面白くは思わないだろうし、グラントを権勢欲の強い下種な人間だと信じたい彼女がこの話題はどう受け止めるか気になってしまうのだ。


 アズロー公爵夫人は良い意味で社交界に揉まれて来た方であり、場の空気が読めぬ人ではない。

 サラ夫人と私との事を話題にしたのも、大公や大公の現在の奥方であるセルシールド夫人もプシュケーディア姫の事を実の娘のように可愛がってくれるだろうと言う話の伏線としてだったのだから、本来ならこの話題には気を揉むような要素などある筈はないというのに。


 心の底に嘆息しつつ、私はドルスデル卿夫人のさりげない援護を受け、公爵家自慢の温室に薔薇や蘭を見に行くと言う王女ら一行と別れ、中庭のベンチに腰を下ろした。


 再びの溜息。

 今度の溜息はあの場から逃げられたことへの安堵の溜息だ。

 私がアズロー公爵夫人らから離れるのにドルスデル卿夫人が援護をくれたと言う事は、やはりあの話の流れはあまり望ましくないものだったと言うことだろう。

 ドルスデル卿夫人もとりあえず私があの場をはずせば、話題がサラ夫人やバルドリー家から逸れると考えられたに違いない。

 プシュケーディア姫の今後のこの国の社交界でのことを考えれば、あまりアチコチに妙な根回しをするわけにも行かないし……本当に居心地が悪くて疲れてしまう。

 

 だけど、それもあと一日……セ・セペンテスの大公城に到着するまでの辛抱。

 フェスタンディ殿下とプシュケーディア姫の婚儀が終了してさえくれたなら、王女の事は介添え役の私の手から離れてくれる。

 後はもう『誤解が解けて』彼女に嫌われようがなんだろうが、フェスタンディ殿下へお任せするしかないのだもの、どう転がるにしろ無責任でいられるのなら気持ちが楽というものだ。

 それに、ここ数日の王女を見ていたら、それほど酷い事にはならないのではないか……と言う気もしていた。

 王女は王女としての責任に目覚め、雄々しくそれを受け入れようとしているではないか。

 そんな彼女なら……と思うのは、楽観的過ぎるだろうか?


 まあ、実際私の楽観視は裏切られることになるのだが。


 ……とまれ。

 それまで続いていた緊張の反動か、私は自分の役目の終了を前に少しばかり心のたが(・・)を緩めてしまっていたのだと思う。


 二日前の投石を最後に、花嫁行列には問題は発生していない。

 その投石も街道の両脇に集まった人々の頭上を跳び越し小石が一つ落下してきただけと言うもの。

 何者かによる故意の事件(・・)なのか、なんらかの偶然による事故(・・)なのか判断が微妙なモノで、モスフォリアの旗やアグナダ公国の旗での犯行声明もない。


 タフテロッサ入港時の横断幕の件や、ビヒテール卿の屋敷前の国旗の件、それにアングタール伯爵家へ向かう途中の襲撃事件など、ことある毎にセ・セペンテスに向けて報告の早馬が送られていた。

 花嫁道中半ば過ぎた辺りから、大公の指令により派遣された軍が街道を管理する各領主らと協力し、ただでさえ厳重であった警備体制はセ・セペンテスに近づくにつれこれ以上ないほどに強化されて行った。

 今現在も、アズロー公爵家の周囲には隙の無い監視と警備が敷かれていることだろう。


 早馬が送られて大公軍の派兵があって以降、警備の陣が整うまでの手際の良さはグラントも感心するほどのもの。

 花嫁行列のアグナダ公国上陸直後には、指揮系統の乱れから襲撃者に後手を取る不手際はあったけれど、大公らこの国の軍事と政治の中枢部は適正な建て直しを図ってくれている。

 セ・セペンテスはもうこのペンターナからは目と鼻の先。

 街道には今以上望めぬほどの完璧な警備が敷かれ、大公城へ花嫁を迎え入れる準備は万端に整っている。


 肩の荷を下ろすことが出来るまで、あと少し。

 もう、ほんの少しだけ……。


 そんな状況の中、強張り通しだったジョルト卿の表情も随分と和らいだし、緊張感に張り詰めていた衛士らの間にも多少は余裕が出来てきているらしい。

 庭に面したベンチに腰を下ろした私の耳に、カンカン……と剣を打ち合わせる音が聞こえている。

 剣呑な雰囲気の剣戟ではなく、剣術の練習の音だ。

 ゆったりとした花嫁行列の進行で体を鈍らせまいと、兵士や騎士らが体を動かしているのが見える。


 アズロー公爵家の庭園は、平面幾何学式庭園と風景式庭園とが折衷したお庭だ。

 屋敷の直ぐ裏手、私の腰掛けるベンチは二つの泉水と二つの噴水、いくつかの小規模花壇と四体の女神と思しき白い裸婦像が一定間隔に配置され、地面には二色の石タイルが貼られた場所にある。

 噴水の正面奥にはきっちりと歪みなく刈られた常緑低木による小さな迷路があり、その右手はやや起伏した小道。

 ここからは分かり難いのだけれど、屋敷の上階から見ると迷路の背後には庭を横切る小川をせき止めた池があり、自然を模した立ち木が小道の周囲に配されている。

 蘭や薔薇を育てる温室は木立が形成する小さな森の向こう側、ベンチに腰掛けた私からも日の光に眩しく反射するドーム型の屋根がチラリと見える。

 正面手前が平面幾何学式庭園であり、その左右と奥は伸びやかに広がる『森』や『野』をイメージした庭と言うことなのだろう。


 アズロー伯爵夫人や王女ら一行は木立の配された区域に差し掛かり、ここからは既に見えない。

 目線を転じて左側には、冬季でも枯れぬ緑の芝の種が撒かれた『野』と、ところどころに美々しく密集した高・低の茂みが配されている。

 そんな『野』の景色の中、兵士らの宿泊する天幕と鮮やかな色彩の旗が微風に揺れて立ち並ぶ。


 アグナダ公国上陸直後は多少手間取った天幕設営も、回数を重ねた今では随分速やかに終了するようになった。

 緊急事態も発生しておらず、周辺を見回る手は充分に足りている。

 昼食も終わり夕餉にはまだまだ時間がある。

 兵士らが手持ち無沙汰に体を動かしたくなるのも尤もと言うもの。

 どうやらこれは正規の訓練ではないようで、時間と手の空いた人間が三々五々に単独で、または対戦相手を見つけて剣術の稽古を行っているようだ。


 ぽつぽつと増えて行く兵らの中に、私はグラントの姿を見つけた。

 さすがに明日はプシュケーディア姫への講義は無く、したがって今日はドルスデル卿夫人の代理として彼に会いに行く予定は無い。


 彼はどうやら若い兵に剣術の指南をしているらしい。動き難い緑のマントも上着も脱ぎ、胸元をはだけたシャツと榛色のズボン。太ももの半ばまでを覆うバックスキンの長靴ちょうかと言う軽装だ。

 もういつ初雪が降ってもおかしくないこの季節、寒くないのかと気になるけれど、周囲の兵士らも同じような姿でいるところを見れば、体を動かしている人間にはあのくらいで丁度いいのだろう。


 その……いつもながら本当に馬鹿だとは思うのだけれど、私は剣を持った手を何度かひねって見せたり、踏み込み時の切っ先の鋭い転換の手本を示しているらしいグラントの動きに……つい見惚れてしまっていた。

 ……自分が体の自由が利かないせいか、私には踊りや剣術、軽業や馬術などを極めた人間の動作に心を奪われる傾向があるのだ。


 彼の動作は美しい。

 大きな体躯であるにもかかわらず、飛燕のように素早くて軽やか。

 体格の良い殿方揃いの兵らの中にいるとグラントの長身も酷くは目立たないのだが、私が彼の姿に目を引かれたのはその動作が美しかったせいだと思う。

 若い兵士の剣の持ち方を何度か手直しし、幾人かの兵に自分と同じような動作を繰り返させている彼の姿に、私は吸い寄せられるように目を向けていた。

 グラントのいるのは緑の迷路の向こう側に広がる池の畔の辺り。

 私の腰掛けるベンチからは少し距離がある。

 まだ日が高く、視界が良好だったから彼が剣術指南の手を止めて池の向こう側……小高く隆起した茂みと小道の方角に顔を向けたのが分かったけれど、これが薄暗い時間ならここまで細かくグラントの動きは見えなかったに違いない。


 彼は一体何を見ているのかしら?

 ここからはグラントの見る方角には自然を模して造園された木立の茂みしか確認出来ない。だけど、もしかして王女ら一行があの辺りを歩いているのが見えているのだろうか?

 そう言えば、緩やかな小道の傾斜を登っていったプシュケーディア姫らはそろそろあの辺りに到達している頃だ。

 木立の方へと向けられていたグラントが、首を巡らせる。

 一端は私の上を通過した顔の向きがこちらへと真っ直ぐ向けられ、数秒間。

 周囲の人間に何か声をかける仕草の後、グラントは大きな歩幅でこちらへ向けて歩み寄ってきた。



 後に何故『あのようなこと』になったのか考えてみたのだけれど、私には確かにセ・セペンテス到着間際で気持ちの緩みはあったと思うのだが、どう考えても間が悪かったとしか言いようの無い部分も多い。


 王女らは温室さして談笑しつつ歩いていた。

 アズロー公爵夫妻やプシュケーディア姫の一行の姿は木立の中。私には見えない向こうから、私達(・・)の姿が見えるなんてこと、思いもしない……。


 ドルスデル卿夫人の話によれば、その時プシュケーディア姫の足元を一匹の灰色栗鼠が過ぎって行ったのだそう。

 だけど私は千里眼など持っていないのだもの、彼女が栗鼠を見失ったのが私のいる方角に顔を向けた時だったなんて分かる訳が無いし、そこがたまたま木立を透かしこちらが見える地点だったなんて、知ろう筈もない。


 プシュケーディア姫はグラントに抱き締められ抱き上げられる私をしばし無言で見つめていたそうだ。

 ドルスデル卿夫人やアズロー公爵夫妻が王女の視線の先の私達に気がついたのは、彼女に遅れること数秒ののち。


 すっかりと……本当にすっかりと失念していたのだけれども、タフテロッサ上陸後のあれやこれやの事件のせいでタイミングが合わず、プシュケーディア姫は『バルドリー卿』に正式に引き合わされずここまで来てしまっていた。

 そう、彼女はグラントの姿かたちを知らないのだ。

 私とグラントとの結婚に愛情の介在はないと頑なに信じ込んでいた王女は、だから、私を抱きしめる相手がグラント・バルドリー侯爵であるなどとは微塵も思わなかったらしい。

 それは王女が一同に放った


「……まあ……フローったら、人目も憚らず『恋人』とあんな風に戸外で抱き合ったりして。思ったよりも大胆なのね」


 との台詞からも明らかだろう。


 プシュケーディア姫の言い種はかなり意地の悪いものだと思う。

 でも……それも仕方の無い事。

 だって私は彼女にとって、現実をつきつけ耳に痛い苦言や聞きたくも無い正論を押し付ける嫌な相手だった筈だもの。


 彼女自身は私の事を好いているように振舞っていたし、もしかしたら自分でも私をオトモダチとして好きだと信じていたのかもしれない。

 自分の心の均衡を保つ為にプシュケーディア姫は『可哀想なフローティア』を自分の中で作り上げたけれど、ただ『可哀想なフローティア』が存在するだけでは意味が無い。

 王女にとって『彼女』は、大切な友達でなければならない。

 同情心が湧かないどうでも良い相手が不幸であったとしても心に響かないからだ。

 だから、王女は私が自分にとって大事な友達であるかのように、自分の心を騙したのではないかと思う。

 私が本当に大好きなオトモダチならば、私が身につけられない色を自慢げに身につけてみたり、自分の美しい足捌きを見せびらかしたりなんて意地悪なことはしないはず。

 ……もしかしたら被害妄想のように聞こえるかもしれないけれど、実際、後に私は


「私はあんたのことが最初から大嫌いだったわ!」


 と、プシュケーディア姫本人に言われたのだから、彼女が私を嫌っていたは紛うことなく事実なのだろう……。


 私が恋人と戸外での密会を楽しんでいるとの発言を聞いて、ドルスデル卿夫人が愕然となさっただろうことは想像に難くない。

 聡明な彼女の事、その誤解は王女とグラントとの面識がないが故に発生したと直ぐに気づいたのではないだろうか。

 一方、アズロー公爵夫人は王女の言葉を冗談や軽口の類と思われたよう。


「本当にいつもバルドリー侯爵夫妻は仲が良くて……恋人同士のよう。あんなに相愛の相手が見つかったことをサラも喜んでいるわ」


 そう仰ったそうだ。


 それを聞いた後のプシュケーディア姫の心の動きは私にも、そしてその場にいたドルスデル卿夫人にも正確には分からない。

 王女はしばし無言のまま木立を透かして私達の姿を見つめており、再び一同の方へと顔を向けた時の表情は普段と変わらぬ様子だったのだとか。


 ドルスデル卿夫人は私にこの時の事を詫びられた。

 前もってアズロー公爵夫人らに手紙でも出しておくべきだった……と、そう彼女は仰るのだが、王女の今後を思えばこそ、それを避けたのは私でも分かる。


 書簡などと言うものは文字の羅列に過ぎず、直接会って真情込めて事態の説明をするのとは違い、ニュアンスを伝えるのが難しい上に……後の世に残ってしまう可能性もある危険な代物だ。

 私だって処分に困る手紙をたくさん手文庫の中に持っているのだから、後顧こうこに憂いを残すのを避けようとなさるドルスデル卿夫人は間違っていないと思えるし、私が彼女でもそんな手段はあまり使いたくなかっただろう。

 温室を見る間も、そして温室からの帰路、談笑しながら屋敷へと戻る小道でも王女の様子に異変は見られなかったようだ。


 夫人が何もせずただ様子を伺っていた訳ではないのだと言うことは、私から弁明したい。

 一行が屋敷へ戻った時に、私はすでに屋敷内に与えられた客室へと入った後であった。

 ……寒さで脚が痛むことを温室同行を断る口実にしたのだから、いつまでも戸外にいるわけには行かなかったのだ。

 王女もまた、夕餐までを自室で休息させてもらうことをアズロー公爵夫妻に断り、部屋へと引き上げて行ったらしい。

 これは何しろセ・セペンテス到着を明日に控えた日の事。

 花嫁が一人の時間を欲するのも当然と受け止められた。


 ドルスデル卿夫人は、私に対する誤解が解けながらも王女が取り乱した様子を見せずにいたことに安堵しつつ、それでも万が一の事を考え、アズロー公爵夫人に直接根回しをなさろうとしていた。

 プシュケーディア姫の誤解が解けたいま、彼女が今後私に対してどんな態度に出るか分からない現状では、ドルスデル卿夫人も慌てるあまり下手な事を言うわけにはいかない。

 もしもアズロー公爵夫人がドルスデル卿夫人が信用する友人でなかったのならば、このまま何事もなく収まるかもしれない藪をつついて蛇を出してしまうような話などされなかったことだろう。

 迂闊な根回しは王女の立場を悪くするだけではなく、ドルスデル卿夫人自身の信用も損なう危険がある。

 ……随分と彼女は私に気を使ってくださっているのだ。


 アズロー公爵夫人の私室、彼女は私と王女の仲に対して自身が抱く危惧について公爵夫人に説明をされ、ありがたいことに、私の事を気にかけてくださっているアズロー公爵夫人も事態を楽観視せずに受け止めてくださった。

 とりあえず王女が今はもう『バルドリー公爵の結婚』について真実を知ったのだと言う事を二人のご婦人は私に早急に報せるべきとの結論を出し、アズロー公爵夫人は私に私室にいらっしゃいとの伝言を託して彼女の侍女(・・)を使いに出したのだそう。


 だけど……その侍女が私の部屋に来た時には、私はすでに部屋にはいなかった。

 何故ならば、その時私はプシュケーディア姫に呼ばれ、彼女の部屋へ伺っていたのだもの。


 侍女は廊下に佇みしばし逡巡した。

 アズロー公爵夫人とドルスデル卿夫人の話を聞いていた彼女は、本当に私の事を心配してくれていたのだ。

 テティに私の不在とその行く先を伝えられた侍女は胸騒ぎを覚えつ、王女の投宿する部屋……丁度私の部屋の上階に位置する窓を見ながら、主の部屋へと取って返すべきか、それとも非礼を承知でプシュケーディア姫の部屋へ私を訪ねるべきか思案していたそうだ。


 王女の部屋へ私を訪ねる事を彼女が決意したその時、『ソレ』は、一点の曇りなく磨き上げられた窓硝子の向こう、明るい水色の空を映す上方から地面へ向けて落下して行った。

 廊下側の窓の下は、モザイクタイルで囲われた植え込み。

 きっちり閉じた窓の外から


 カン……ッ!


 とも


 コン……ッ!


 ともつかぬ落下物の放つ響きを聞いた彼女は、一体何が……? と、訝しみながら、留め金を外して窓をあけ、外へ身を乗り出すようにして付近を見渡してみた。

 彼女が椿の植え込みの陰にそれを見つけたとき、どれほど驚愕したことだろう……。


 侍女が見つけたのは一本の杖。

 象牙で刻まれた馬の頭部を見る影も無く破損させた杖が、無残な姿を晒して常緑の葉陰に転がっていたのだ。




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