『顔の無い花嫁』35
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タフテロッサって街は、あちこちから荷物とか人間が集まってくる場所だ。
港近い大通りには、各地から集められた珍しい品々を商う小奇麗な店が立ち並ぶし、遠来の一見客相手の見た目だけ綺麗などうでもいい料理を出す飲食店も多い。
あの人達は一見に常連になって欲しいなんて思っちゃないから、美味しい料理など出す必要はないんだ……と、同僚のネネが言っていた。
大通りの辺りはひやかしに歩くにはイイけど、アタシ達が日常出入りするにはちょっとばかり高級過ぎる。
大通りから一本二本裏手に入ればまあそれなりの値段。
だけど、やっぱりあの辺で買い物したり飲み食いしたって碌なことにならないそうだ。
倉庫街や口入屋、貸し荷馬車屋の並ぶ車庫辺りには安くてウマい店や、船旅に必要なものが何でも揃うちょっとした市場もあるけども、あそこは人も多いしスリや置き引きもいて、アタシはあまり好きな場所じゃない。
『ミソサザイの尾羽亭』はタフテロッサの港から離れた街外れ、家よりも田園が多くなり始める辺りにある居酒屋だ。
アタシらビヒテール家の使用人は、休みを貰うとよくこの店に出入りしている。
アタシは別に酒飲みって訳じゃないけど、ここの料理は安くてそれなり。
屋敷のまかないはあんまり美味しいとは言えないし、いつもいつもあんな似たり寄ったりの献立ばかりじゃ、誰だってたまには外でご飯くらい食べたくなる。
……本当は母さんの作る煮込みが食べたいんだけど、ベツったらあんな男と結婚して……。
お陰でアタシは実家に寄り付きにくくなってしまった。
甲斐性なしのホッソ。
所帯を構えるだけの収入も無く、父さんの残した実家に入り込んで。
ベツもあんなズングリムックリの何処が良いんだか。
甲斐性なしのホッソがベツを孕ますから、毎年毎年ぽろぽろ生んだ子供がもう五人!
ベツは働き通しだし、母さんは子供らの世話に追われる。あんな家に帰ったところで気の休まるわけが無い。
子供は余裕のある人間のぜいたく品なのに、それを分かっていないからあんなことになる……。
「ねえ、ワインもう一杯おかわり」
テーブルの横を通りかかった店員に声をかけると、やる気の無い返事が返ってきた。
この店は店員まで『それなり』だ。
アタシはそれほど酒飲みじゃないけど、時には飲まなきゃやってられないことだってある。
大公の息子の花嫁がアタシの勤め先の屋敷に泊まるのだとかで、お館様も奥様もまったく大騒ぎ。
聞いたことの無いような小さな国の田舎姫が泊まることが、そんなに大事なことなんだか……。
お陰で割を食うのはアタシら使用人。
普段の仕事だって忙しいのに、あっちの隅こっちの隅まで掃いたり拭いたり磨いたり。
十年来使ったこともない銀器を引っ張り出して磨かされるわ、炉棚の下までハタキをかけるわ、真っ直ぐな額縁の傾きを直すんだと言ってご主人は額をあっちこっち動かさせては戻しを繰り返す。
寝台の天蓋の真鍮の柱のてっぺんに埃がついていたからって、誰がそれに気がつくというんだろう?
厨房じゃ献立に頭を悩ます料理長がイライラして怒鳴り散らしているらしいし、屋敷の中だってただでさえうるさ型の女中頭が鬼の形相。
薄給でこき使われているこっちはたまったもんじゃない。
特別な手当てでも出して貰わなきゃやっていられないというものだ。
……だけど、特別手当がついたところで、焼け石に水。
ベツに泣きつかれても甲斐性なしのホッソに頭を下げられても、一等可愛いベツの末息子、巻き毛のアビスの手術代なんて……逆さに吊るされたって出してやれやしない……。
アタシのような地味な女じゃ、身売りして売笑婦になったって殆ど客はつかないだろう。
下級な商売宿で女に飢えたやくざな船員相手なんて、こっちだって願い下げだ。
甲斐性なしのホッソと結婚したベツは子供を生むたびふくふくと肥えて、今ではすっかりお似合いのズングリムックリ夫婦だもん、ベツだって街角に立つなんて出来そうも無い。
アビスを見殺しにするか……アタシが屋敷から何か……小さくて値の張るものでもくすねて売りでもしなきゃあ、あの小さなアビスの笑い声は二度と聞くことが出来ないのだ。
アタシは別にお酒なんて好きじゃないけど、これじゃ飲まずにいられない……。
「ねえ、ちょっと。さっき頼んだワインが来ていないんだけど」
イライラと暗い気持ちで顔を上げたアタシの前のテーブルに、薄い硝子に入ったワインがそっと載せられた。
アタシが飲んでいたのは木製マグに入った安ワイン。
薄い硝子のグラスは上等な酒を頼んだ客にしか出されない物。
「注文間違ってるわよ?」
驚くアタシにさっきのやる気の薄い店員が、奥のテーブルに腰掛ける男を示してこのワインがその男からの『おごり』である事を告げる。
アタシは自惚れる余地もなく地味な女だ。
甘い誘いのわけが無い。
屋敷勤めの立場を使って引き込み強盗の引き込み役でもやらせようとでも言うのか、それとも色仕掛け、冴えない女をだましてその気にさせて、屋敷から金品でも盗ませようと言うのか。
そんな警戒心は席を立ち、ワインの瓶を手にこちらに歩いてきた男の身形を見て薄らいだ。
屋敷に出入りする身分の高い人間をアタシはいつも見ているんだ。
煤けたマントで隠しても、ワインを持つ手に覗くレースの袖口やピカピカした飾り金具のついた靴の先を見れば、この男が貴族並みに裕福な人間だってことくらい分かる。
男のテーブルの後ろの席から鋭い目つきで店内を見張っているのは、この人のお付きの護衛か何かだろう。
「お嬢さん、ちょっと一緒に話しませんか?」
男がアタシのグラスを掴み上げ自分のテーブルへと誘う。
アタシは根っからの雇われ人だ。
いくら今は屋敷の仕事中じゃなくったって、身分の高い人間の言う事に逆らうようなことは出来なくなっていた。
『ミソサザイの尾羽亭』の煤のついたランプの下、男はアタシがビヒテール家の屋敷女中である事を確認してきた。
男はアタシがどんな仕事を任されているかだけじゃなく、名前までも知っていた。
この店にはよくお屋敷の人間が出入りしている。
いずれその誰かから聞きだしていたんだろう。
男はアタシに
「ちょっとした頼みごとがある」
と言う。
再び湧き上がる警戒心は男が懐から出した小さな皮袋を目にした途端、ゆらゆらと揺らいで消えた。
テーブルの上に置かれた袋から、普段はお目にかかれない金色の輝きが覗いているのだ。
ああ……ベツの子供。
巻き毛のアビス坊や……。
「まさか危ない頼みごとじゃありませんでしょうね?」
心の中で殆ど皮袋に手を伸ばしかけながら、アタシは恐る恐る男に聞いた。
幾らなんでもこんなうまい話なんて有りえない。
「手紙をある女性に渡して欲しいだけですよ」
男はそんな事を言うけど、手紙を渡すくらいでこんな……金貨の袋を気前良く渡してくれる人間なんて、いくら裕福でもあるんだろうか?
「モスフォリアからこの国のフェスタンディ殿下に輿入れするため、王女が来ることになっているでしょう?」
顰めた声に、指をテーブルの上の金貨へと這わせていたアタシは男の顔をおどおどと見ながらその手を強張らせた。
「……王女の侍女の一人に確実に、そして誰にも知られぬよう手紙を渡すことがこの報酬を渡す条件です」
王女の侍女?
同僚のネネやジュリがそのことについて噂していたのをアタシは思い出した。
あまり器量良しじゃない王女には、別嬪の侍女がついてくるんだとか。
庶民には奥方に侍女がたくさんついて来ただけに見えても、本当は奥方の寝所は花婿にとっては本妻愛妾入り乱れての後宮のようなものなんだって話だ。
おつに澄ました貴族社会の方が庶民よりよっぽど下種じゃないか。
アタシはそれを聞いた時、あまりの下品さにすっかり呆れてしまっていた。
「まさか、邪魔な王女を殺っちまうための毒が入った手紙じゃないよね?」
とっさにそんな事を口走ってしまったけど、考えてみれば王女がないくちゃ侍女はそのまま国にでも返されるに違いない。
馬鹿なことをと呆れられたかと顔色を伺うと、男は生真面目な表情でそんな事は絶対に無いと請合ってくれた。
懐の中で金貨入りの皮袋がずっしりとした重みをアタシに伝えてくる。
……帰ったら毛織りの古い鞄に手紙と金貨を隠さなきゃ。
今の時間なら皆仕事で誰も部屋には寄り付かない筈だ。
屋敷の忙しさが一段落して休みを貰ったら、久しぶりに母さんの煮込み料理を食べに実家に帰らせてもらおう。
子供らはうるさいし辛気臭いホッソの顔を見るのは嫌だけど、この金貨を渡せば働き者なのに甲斐性無しで年中景気の悪い男の顔にも少しは見られる笑顔が浮かぶかもしれない。
受け取った手紙を開封しようとは少しも思わなかった。
ただ……頼まれた侍女に渡さず金貨だけ受け取っておくことについては……考えなかったかと誰かに聞かれたら答え難い。
だって怖いじゃないか。
変な犯罪の片棒を担ぐのは誰だって御免だ。
こんな手紙一通で金貨なんて、ふつうのことじゃないくらいアタシだって分かる……。
だけどあの男はアタシの名前も身元も知ってる風だった。
一体誰だ、口の軽い馬鹿は?
勝手に人の事ぺらぺら喋ってしまうなんて。
お陰で黙ってお金だけ懐に入れるなんてこと、アタシには怖くて出来やしない。
頼まれた仕事はそれほど難しいものじゃなかった。
王女が一晩しか屋敷に泊まらないって言うならちょっと困ったかもしれないけど、旅の疲れを取るとかで屋敷で二晩過ごすことになっている。
女中頭にそれとなく聞いてみたら、やっぱりアタシが侍女達の部屋の仕度や世話を任されているようだ。
怖がっていても仕方が無い、なんとかタイミングを見計らって男からの手紙を渡せばそれで終わりになるのだ。
『ミソサザイの尾羽亭』で男に言ったとおり、アタシはもしかしたら手紙の中に毒薬でも仕込んであって、それを偉い貴族か王女の食事に侍女が盛るんじゃないかってのが心配だった。
侍女への手紙……一体中身はなんなんだろう?
情報通のネネが言うには『侍女』と言っても故国では相当に良い身分の美女ばっかりだって言うから、もしかしてこれは恋文かもしれない。
もしこれが恋文だったら、悩むことなんかないんだけど。
屋敷に王女が来る日を不安な心持で数えていたアタシだけど、使用人仲間から見聞きした話しで少しばかり気が楽になってきた。
王女やら王女のお供の方と連絡を取りたがる人間が、けっこういるってことが分かったからだ。
奥様の侍女のレーリアは、親戚の宝石商に王女との橋渡しをしてくれと頼まれたそうだし、この先もしかしたら大公の息子の愛人になるかもしれない王女の侍女らに渡りをつけたがっている怪しげな商人や地方貴族の話しも聞こえている。
レーリアは宝石商から『賄賂』として貰った小さなダイアモンドのブローチをこれ見よがしに皆に見せびらかし
「私なんかが王女とそんな商売の話しなんて出来るわけないのに、欲に目がくらんだ人間って馬鹿だわね」
などといって笑っていた。
ハナから王女と繋ぎをつける心算なんて彼女には無く、適当に誤魔化す心算らしい。
洗濯女のブリギットも妙な頼まれごとをしてたっぷりと『駄賃』を貰ったと言っていた。
誰かから伝言を受け取って、洗濯場に赤い布を外から見えるように吊るせとか、なんとか……。
全く意味の分からない頼まれごとだ。
そんなのに比べたら、侍女に手紙を渡すくらいたいしたことでもないだろう。
誰にも見られず知られずに手紙を渡せという条件のせいでちょっとばかり手間取ってしまったけど、王女らご一行が屋敷から出て行く前のごたごた紛れでなんとか面倒な頼まれごとをやっつけることが出来た。
大勢の人間が屋敷やら屋敷の周りの庭やらに泊まった後だ。
暫くの間は片付けたり戻したりで忙しくなるだろうけど、アタシは文句なんて言わずに働くつもりだ。
手紙を渡すまではどうにも気持ちが悪くてしょうがなかったけど、今はつき物でも落ちたみたいにスッキリした心持ちになる事が出来た。
これなら今まで以上に一生懸命働くことも苦にはならない。
女中頭もアタシの真面目な仕事ぶりをみれば、次の休みを早めに貰おうとしたって文句を言いやしないと思う。
体は疲れている筈なのに、アタシは足に羽でも生えたように身が軽く感じた。
そりゃあそうだ。
だって、ベツも母さんもホッソも。それに、何よりもあのアタシのお気に入りの子供アビスも……これで皆が笑顔になれる筈なんだから。
***
アングタール伯爵の夕餐とその後の歓談は和やかな雰囲気とともに終了した。
襲撃事件などの詳細までは伯爵夫妻は知らされていなかったはずなのだが、ジョルト卿の言動やこの屋敷に花嫁行列が到着した時の様子などから何かあった事を察しておられたのだろう。
まあ……半焼した馬車が門を入ってくるのを見れば何事もなく行列が屋敷まで着たとは思わないだろうけれど、夫妻は根掘り葉掘りそれらを聞きだそうとしたりせず、ただ、今日は早めに休んで翌日に備えたほうが良い……と、疲労の見られるプシュケーディア姫が席を立ちやすいようにやんわり水を向けておられた。
ドルスデル卿夫人も王女が無理なく席を立つことが出来るよう、自らも区切りよく腰を上げて綺麗にその座は終了となった。
この屋敷の主達は気配りの利く優しい気性の方々だ……。
客室に戻り、私はお行儀悪く立ったままテティが厨房から貰って来てくれたホットワインを啜り、菊花と無花果模様の厚いカーテンに縁取られた縦長の窓から外の景色を眺めていた。
私の部屋からは兵らが野営の天幕を張る宿営地を見渡すことは出来ないのだが、思ったよりも早く夕餐後に解散したのだから、彼らは未だに『緊急対策会議』とやらを行っているのではないだろうか。
疲れているグラントのためにも責任糾弾が終了し、速やかに次の議題へ移行してくれていれば良いのだが……。
キィッと、微かな軋みをたてる窓を細く押し開け、夜気を部屋に招じ入れる。
セ・セペンテスやユーシズより南とは言え、さすがにこの季節にもなると夜の空気は冷たい。
そう言えばエドーニアの屋敷にレレイスの花嫁行列を迎えたのは早春。
しかもエドーニアは高地で朝晩はとても冷え込むから、宿営の天幕の兵達が少しでも体を温められるようにと屋敷から酒樽の差し入れを行っているのを見た覚えがある。
爵位持ちは屋敷に部屋が用意されているからグラントが風邪を引くことはないだろうけれど、天幕で休む人達は大丈夫だろうか?
アングタール伯爵家の方々は何かと気の利く方たちだ。
きっと兵達には私が今戴いているホットワインのように体の温まる差し入れがなされているだろうけれど……。
そんな取り留めの無い事を考えながら、私は窓の外へ視線を彷徨わせていた。
黒い森の間に青白い蛇のように垣間見える河筋。田園や野から月灯りに照らされた庭へと辿る視線を屋敷へ戻すと、煌々と点された灯火が目にしみた。
今日は未来の国母となるフェスタンディ殿下の花嫁がこの屋敷に投宿するのだ。
祭り日のように祝いの灯火が屋敷全体に点されて、カーテンの閉じた部屋以外の廊下のシャンデリアにも壁掛け式の燭台やランプにも一つ残らず炎が入っているのだろう。
屋敷全体が幻想的なほどに明るく輝いているのが分かる。
アングタール伯爵邸は空から見下ろすと少し変則的なコ字型の建物。
私が与えられた部屋は『コの字』の中央、正面部分のやや左翼寄りの二階。
プシュケーディア姫の泊まる部屋は正面から見て左翼の最奥部分。恐らく私が今日グラントと会った書斎の真上に当たる部分だ。
これまでにも大公はじめ幾人もの貴人王族らが宿泊した由緒ある部屋らしいのだが、そうした人間には当然何人もの使用人や従者がついてくるもので、客用の部屋の隣や近辺には従者が起居する小部屋が用意されている。
建物の造りや建築年代、屋敷の主の好みなどにより、従者用の部屋の位置や従者の呼び出し方は何種類かあるけれど、たいていの場合、主人の部屋に近接した場所に従者は待機しているもので……。
何故私が今そんな事をくどくどしく説明しているかと言えば、プシュケーディア姫の傍近くに侍っている筈の侍女が、何故だか王女の部屋からかなり離れた場所……右翼の外れの人気の無い廊下に佇んでいるのが見えたから。
プシュケーディア姫の六人の侍女達は揃いのお仕着せに身を包んでいる。
実用性よりは見栄え重視の入り組んだレース飾りのエプロンに濃紺のドレス。パリッと糊の利いた白いカフスには青い色硝子を嵌めた飾り釦がついている。
この屋敷の屋敷女中も今日は来客用の美々しいお仕着せを着用していたが、カフスに色硝子の飾り釦がついているのはプシュケーディア姫の侍女だけだった。
たぶん……背格好や髪の色から判断して、あれはプシュケーディア姫の従兄弟の元婚約者、エリルージュだろう。
アリアラ海を渡る船内でもタフテロッサのビヒテール卿の邸宅に到着してからも、彼女はまるで半病人のように窶れ、顔色も良いとは言えなかったのだけど、ああして出歩いていると言うことは、少しは体調や気持ちが回復したのだろうか?
彼女とカチュカ以外の侍女は、自分の美貌を元手に野心を抱いてアグナダ公国へ渡る道を選んだようだが、彼女は婚約まで結んだ相手がいたのだ。
『使用者』から『被使用者』へと激変した立場はもとより、望みもせずに見知らぬ国の城を目指すことになった彼女がその環境の変化に気持ちの安定や体調を崩したとて……仕方の無いことと思う。
私ははじめエリルージュは王女の用……例えば夜食やお茶などを言い付かって厨房へ向かう途中だと思っていた。
でも、エリルージュがいるのは二階の一番端。
……厨房はたいてい一階か半地下の目立たぬ場所、または別棟にあるものだし、エリルージュや王女がなんらかの接点を持ち彼女が尋ねてゆく『用事』が発生しそうな人物は、正面の建物に部屋を与えられていた筈だ。
一階に下りる階段はもう少し手前だったのだと思うのだが、使用人用の階段でもあっちにあるのだろうか?
だがエリルージュはアングタール伯爵邸の右翼の廊下の一番端まで来ると柱の影に半分隠れるように立ち止まる。
あの位置なら彼女から見て正面……プシュケーディア姫の部屋のある左翼からは彼女の姿はまるきり窺い知ることは出来ないだろう。
まあ……私のいる正面棟からであれば、完全に隠れているとは言えないのだが……。
人様の行動を覗き見るなんて良い趣味とは言いがたい行動だ。
それは分かっているのだけれど……私は少女時代から窓の向こうの人々をこっそり観察することが癖になってしまっていた。
それに、想う人がおりながらプシュケーディア姫の『侍女』……フェスタンディ殿下の愛人候補としてこの国に赴くことを引き受けざるを得なかった彼女に同情の気持ちを抱いているせいか、エリルージュの事がとても気に懸かるのだ。
まさかこの国まで渡って来ておきながら、今更おかしな気を起こして二階の窓から身投げしよう……なんて事はないだろうが、なんだか彼女は人目を憚るように辺りを窺っている。
ここから見る限り右翼二階の廊下に人気は無い。
一階から階段を上る人間も見当たらない。
誰も来ないことを確認したエリルージュがエプロンの内側に手を差し入れるのが見えた。
きゅっと絞られたウエスト辺りに挟み込んでいたのか、引き抜かれた手には……手紙が一通。
表書きの文字を食い入るように見つめ、エリルージュがその封筒に頬を寄せるのを見て私はそっと窓を閉じ、カーテンを引いた。
恐らくあれは彼女の恋人からの手紙だろう。
本能的に私はそれを確信していた。
グラントから受け取った手紙に唇を落としたのは昨日の事だもの、そうとしか思えない。
思う相手へ嫁ぐ事が出来ている私でさえ、ほんの暫く彼に遭えなかっただけであんな切ない気持ちになったのだ。国のために恋人と引き裂かれた彼女の苦しさはどれほどのものだろう……。
国を出る前に恋人から貰った手紙は、彼女にとって大切な心のよすがであるに違いない。
もしかしたらお節介な事かもしれないが、セ・セペンテスに到着したら私はグラントを介して……または直接にでもいい。フェスタンディ殿下に彼女の事をなんとかできないか相談してみようかしら……。
そんな事を考えながら、私は冷たい夜気が室内へと流れ込む窓を閉め暖かな灯火に溢れる室内へと目を転じ、冷めかけたホットワインを喉の奥へと流し込んだ。
確かに人様の行動を観察するなんて良い趣味とは言えないことだけれど、私はもう少し……ほんのもう少しだけエリルージュの事を見ているべきだったのかもしれない。
出刃亀と謗られようがなんだろうがあと少しだけこの窓から覗いていたならば、エリルージュが手紙の『封』を開けるところが見えたはずなのだ。
恋人との思い出の『よすが』として持ってきた手紙であれば、未開封のものであるわけがない。
私なら何度もその文面を読み返し、一滴残らず美酒を味わいつくすように恋しい人の筆跡としたためられた言葉を繰り返し読み返し、それをアグナダ公国での生活の心の支えにする。
彼女は恋人とモスフォリアで別れ、アグナダ公国へと渡ってきた。
プシュケーディア姫の従兄弟である彼女の元婚約者はモスフォリアにいるはずである。
なのにエリルージュが貰いたての恋人からの手紙を部屋から抜け出し誰にも見つからぬような場所で封を切り、貪るように読み始めるなんてとても不自然なコトなのだ。
私がここで彼女の行動に対して不信感を抱くことが出来たのなら、この先の展開だってもう少し違っていたのではないだろうか?
なのに、私は彼女から目を離し、訳知りの感傷に浸りながら役にも立たぬ溜息などついていたのだ。
全くどうしてこう人生と言うものは思うに任せないものなのだろう……。




