『顔の無い花嫁』33
夕食前のひと時。私はドルスデル卿夫人の部屋を訪れた。
彼女のお膳立てのお陰でやっとグラントに逢うことが出来たのだ。一言お礼を言いたかった。
それに、ドルスデル卿夫人も私がグラントから仕入れた情報に興味がおありになるだろう。
王女の傍近くにいる私やドルスデル卿夫人には、現在の状況がどういうものなのか殆ど知らされていない。
ビヒテール卿のお屋敷の正門前に血塗れの国旗や豚の屠殺死体が放置されていた件など、グラントからの手紙を受け取った私は前もって知っていたが、ドルスデル卿夫人はジョルト卿の失言現場には居合わせなかったし、もしかしたら未だにご存知ないのではなかろうか。
ジョルト卿が私達にこれらの事を逐一報告しないのには理由がある事くらい分かっている。
外つ国から輿入れしてきた若い王女の不安を煽ることが無いように……との配慮もあるのだろう。
でも恐らく一番の理由は、アグナダ公国側の『体面』だ。
強者の立場でモスフォリアの王女を迎え入れたアグナダ公国なのに、反モスフォリア活動の反乱分子をのさばらせているなど、国論を統制出来ていない証のようなもの。
身も蓋もない言い方だが、国の威信を疑われるような報告など、体制側の人間には体裁が悪くて出来ないのだ。
だけど何も知らされずに今日のような襲撃を受ける側の身にもなってもらいたい。
私こそ桟橋の横断幕は撤去場面を目撃していたし、グラントからの手紙で反モスフォリア活動の存在を承知していた。
それでも尚、昼間の襲撃には衝撃を受けたのだもの。
何も知らされていなかった王女やドルスデル卿夫人が受けた衝撃の度合いは如何許りだろうか……。
グラントは曲がりなりにも総指揮官であるジョルト卿の補佐役。
今日の襲撃の犯人達について、何らかの情報が私へ伝わっている事をドルスデル卿夫人も期待していた筈。
何もかもを伝えることは出来ないが、話せる範囲の事は全て伝えようと思って私はここに来た。
聡明なドルスデル卿夫人の事、ジョルト卿のように失言などでプシュケーディア姫を必要以上に不安がらせたりすることはあるまい。
「反モスフォリア活動をする人々が見つからない……と?」
訝しげな表情をするドルスデル卿夫人に私が話したのは、反モスフォリア活動について昨日グラントが、周辺の町や村で情報収集して来た結果についてだった。
「ただ単にグラントの耳に入っていないだけかも知れませんけど、今のところ目立つ活動をしている人間も、また、そういった『噂』も……聞こえる部分には表れていないようで……」
たった一日の調査ではあるけれど、グラントは近隣の町や村の酒場や商館に出向き、多くの人々から話を聞いて来ている。
酒場での聞き込みの場合、一見の客……それも明らかに地元の人間ではない彼に警戒心を抱き口が堅くなった可能性もあるが、商館の方は違う。
アグナダ公国国内では商人として活動をしていないが、彼が赴いた商館には他国で知り合った知己もいたそうなのだ。
……商人らにとって『情報』は商いの元。
きな臭い地域があれば武器・防具が売れるし、用心棒や傭兵の斡旋で利益を上げる商人もいる。大きな戦の気配がある場所には兵站の手配を請負う『酒保商人』が付き物。これが動いていれば、噂にならないはずはない。
商機上もそうだけれども、各地へ商品を運び商いをする上での安全を図るためにも、商人達は治安情報には敏感なのだ。
……にもかかわらず、彼らの下へはどうしたわけか『反モスフォリア』の話は聞こえてきていない。
モスフォリア国の王女、プシュケーディア姫とフェスタンディ殿下の結婚を決めたのは『アグナダ公国』と言う『国家』だ。この『国の決定』に本気で異議を唱え、モスフォリアへの報復を求めるのなら、少人数で花嫁行列の襲撃を行うだけでは意味が無い。
国民を巻き込んで世論を『反モスフォリア』へと誘導しなければ、彼らの行動はただの無法な暴力行為と言われる。
花嫁行列の妨害をするよりも街頭に立ち、モスフォリア国がアグナダやリアトーマにどんな裏切り行為を行ったのかをアジテーションした方が、人々の感情を動かす役に立つのではないだろうか?
それなのに、肝心の事実関係の『周知』が全く行われていないなんて、どういうわけなのか……。ドルスデル卿夫人もその点が気になっているのだと思う。
「人を使って情報の収集は続けているようですから、今後違う話も聞こえてくるかもしれませんけど」
「ああ……ええ、そうですね。バルドリー卿夫人……暫くの間王女には婚礼儀式に関する講義を受けていただこうと思っておりますの。なので、また私の代理として今日と同じ用事を頼んでも宜しいかしら?」
プシュケーディア姫の予定表には明日一日分の予定しか記されてはいなかった。
とすると……
「あの、明日も……ですか?」
「ええ」
明日もグラントに会えるのかと思うと嬉しくて思わず頬が緩む。
ドルスデル卿夫人は『否や』の答えが返ることなど無いと確信している様子で微笑まれた。
「一時の事とは言え、仲睦まじい若夫婦を生木を裂くような目に遭わせて申し訳ないことをしました。しかも、あの王女のお相手を殆どあなたに丸投げしてしまいましたもの。……相当精神的に疲れが溜まっておられたようですが……」
元気になったようで安心した……と言われ、私は赤面する。
そんなあからさまにグラントに逢う前と今の様子が違っているのだろうか?
頬の火照りを意識しながら、私はドルスデル卿夫人にグラント経由で入った情報を……その全ては言えないまでも、確定して明かせる部分だけでもまた伝ることを約束し、彼女の部屋を辞した。
***
アングタール伯爵家の夕餐には屋敷の設え同様必要以上の華美さはないものの、厳選された良質の素材を使い心を尽くした品々が供された。
ナツメグの香る茸とジャガイモ、チーズの壷焼き、ホロホロ鳥のコンフュや鹿の腰肉とベーコンを網脂で包んだロースト。鱒のパイ。南瓜やトマト、豆に胡桃、鶏の清湯など数種類のスープに銀器に盛られた新鮮な果実、上質のナッツ。
テーブルにまわされたのはハーブ入りのライ麦パンやふっくりとした白い丸パン、塩無しパン、カリカリのチーズパンなど焼きたての数種類。
奇をてらった料理は無いが、地元の素材を使った素朴な料理を好みや体調に合わせて選べるよう配慮されている。
……とても美味しい食事だった。
スフォール滞在時からこちら、食事を美味しいと思うなんて久しぶりじゃないだろうか。
やっぱりこれはグラントに逢えたことが大きく影響していると思う。
日中あんな騒動に巻き込まれた後だと言うのに……これじゃあドルスデル卿夫人に笑われても当然だわ。
夕餐の席にグラントの姿は無かった。
グラントだけではない、屋敷内には花嫁行列を構成する人々の中からナイト爵以上の爵位を持つものが招待されていたのだが、その殆どが欠席。
ジョルト卿はホストであるアングタール伯爵への礼儀上夕餐の席についたのだけれど、並べられた料理に殆ど手をつけることもなく
「緊急時ゆえ中座の非礼を赦してもらいたい」
……と詫び、野外の天幕へと急ぎ戻っていった。
愚かしい話だ。
総指揮官があんな風に振舞って、誰が安心して道中の安全を任せられると思うのかしら?
「緊急時」
なんて言葉で中座を詫びるくらいなら、最初から夕餐に参加などしなければいいのに……。
これまでのプシュケーディア姫であれば、ジョルト卿の行動に不安や不快感を隠すことが出来なかったと思う。
しかし、王女は何事もなかったかのように平静を装い、更にはぎこちない笑みを浮かべながらアングタール伯爵夫妻との交流を図ろうとしていた。
……ビヒテール卿邸への投宿時には考えられなかった変化だ。
これから先の人生をアグナダ公国で過ごすのなら、この国の社交界に馴染む事は彼女自身のため。
だけどプシュケーディア姫にはアグナダ公国の貴族との『馴れ合い』が、国同士の力関係に自身まで屈するように感じられていたのだと思う。
話しかけられれば答え儀礼どおりに謝意は述べるものの、どこか冷ややかだったプシュケーディア姫。
王女の気持ちも分からぬではないけれど、『実』の無い矜持にしがみつき意固地になるのは子供の行いだ。
でも……今の彼女は違う。
桟橋の横断幕を始めとするここ数日のトラブルに危機感を募らせた王女は、モスフォリア国を守るべき対象として明確に意識し、子供っぽい矜持を瑣末事と切り捨てることにしたようだ。
甘やかされ現実を知らずにいただけで、もともとプシュケーディア姫は馬鹿な娘では無い。
自分を通して少しでも多くの人々のモスフォリア国に対する感情を、良い方向へ誘導しようと思い定めたのだろう。
先日までのように頭を聳やかし冷ややかな態度をとるプシュケーディア姫よりも、故郷を守る為にこの国に馴染む努力を始めた彼女の方が、遥かに誇り高く大人びて美しく見えた。
ドルスデル卿夫人がさりげなく話題を振ってビヒテール伯爵夫妻と王女の仲立ちをなさっている。
これから先もきっと、ドルスデル卿夫人がこのように社交界での後見役を果たしてくださる事だろう。
彼女もレレイスのように次代のアグナダ公国を担う子を産めば、徐々にこの国の人々に受け入れられてゆくはず。
……勿論全ては彼女と『新造船』の設計図がセ・セペンテスに到着し、設計図の引渡しとフェスタンディ殿下と彼女の婚姻が無事に成立したら……ではあるけれど。
ジョルト卿は頼りない総指揮官だが、グラントが守ってくれているのだから私達がセ・セペンテスまで無事辿り着けないはずは無い。
それは間違いなく信じていられるのだけれど、どうにも……気持ちが悪かった。
私達を今日襲撃した集団は、一体何を目的とした集団なのかしら?
タフテロッサ周辺には反モスフォリアなど噂にすら聞こえておらず、商館の情報網にもそんな話は引っかかってきていないとグラントは言った。
商館の情報網は完璧とはいえまいが、ある程度のモノは掴めると思う。
その網に掛かってこないと言うのは、彼らの活動がよほど限定的地域でのことなのか……それとも秘密結社的組織ものなのか……。
世間に向けてモスフォリアの行った行為を周知させなければ、世論は動かない。
だけど限定的地域での活動では『世間への周知』が現時点で出来ていないことになるし、秘密結社なら構成員であること自体隠匿する必要がある以上、やはり世に向けてのアジテーションは難しい。
世論を動かしモスフォリア国との開戦を望んでいるわけではない……と言うことならば、彼らの行動は一重にこの国の首脳部への示威行為と言うことになるのだけれど。
***
「……他にやりようがいくらでもあると思うの…………」
どうにも私はすっきりしなかった。
首脳部に不満を表明する為にプシュケーディア姫の花嫁行列を襲撃すると言うのは、手間や資金面での負担も大きければ、怪我や落命……捕縛される可能性もあるリスクの大きな方法だ。
まあ、それだけ彼らの怒りや不満が大きいのだという意思表示にもなるかもしれないが。
「何が引っかかっているんだい、フローお嬢さんは?」
眉間にシワを寄せて唇をぎゅっと閉じた私に、グラントが聞いてきた。
それは夕餐前のアングタール伯爵の書斎での話。
彼は両袖机の立派な革張り椅子に腰を下ろし、私をその膝の上に乗せていた。
……これはその、書斎にこの椅子一つきりしか無かったから仕方が無く……だ。
プシュケーディア姫の明日の予定表の受け取りだけなら椅子など必要ないけれど、私もグラントも色々話したいこともあったし、彼は昨日から今朝まで休むまもなく情報収集のためにあちこち動き回っていた。
船旅を終えたばかりでそれだけでも大変だっただろうに、加えての襲撃騒動。疲労が溜まっていないわけがない。
だけど彼にはこの後またも『対策会議』とやらが待っているのだから、少しでも体を休める必要がある。
グラントを椅子に私は机の天板に腰掛けていれば良かったのかもしれないけれど、そんなお行儀悪いことをいつまでも続けたくはない。
……殿方の膝の上に座るのもみっともないかもしれないが、相手は夫であるグラントなのだから……人目の無い場所でならこれくらいは許されるだろう。
「襲撃現場に残されたモスフォリア国旗も、ビヒテール卿のお屋敷の門のところに置き去られた国旗も……モスフォリアやアグナダ首脳部に対して持っている感情を……比喩的に表現したものなのでしょう?」
国旗を置き去るだけではなく、それをわざわざ血で汚しているのだ。そこに意味が無いわけがない。
「そうだな……。ビヒテール卿の屋敷で見つかった国旗が豚の死体と一緒だったってことは、手紙に書いていただろ?」
「ええ」
「もう少し詳しく言うと、国旗は豚の上に被せてあったんだ。……上から剣でブスリと刺し留めてある感じで。それと併せて考えればアレは……そう。『モスフォリアの豚野郎、お前もこうしてやるぞ』と言う感じの脅し文句かな」
彼の肩に頭を凭せかけ、私は額や鼻柱を伸び過ぎて柔らかい無精髭に擦り付けたながら、眉間のシワを深くした。
「そこよ。脅しと言うのは『警告』と変わらないわ。……警戒させてから襲撃をかけるんじゃその分困難さは増すじゃない。馬鹿ばかしいとは思わなくて?」
あれがモスフォリアとの決着に対する不服の表明だとしても、全体的に合理的なやり方とは言い難い。
「……ねえグラント。モスフォリアがボルキナ国に依頼されて船を開発していた事や……メレンナルナ姫がもしかしたら殿下暗殺を……なんて話、国内には出回っていないのでしょう?」
額や鼻柱に当たっていたお髭がふしゃふしゃと顔をくすぐった。
彼が首を振ったのだ。
「それどころかフドルツの金鉱から金が不正に流出していたこともほぼ一般には知られていないよ。……あくまで俺が掴んだ今現在の情報では……だけど。……よっぽど必死に火消しが動いたんだろうな」
そうなのだ。
アグナダとリアトーマ共同所有の金鉱から金が何年にも渡り流出していたあの不祥事には、両国の貴族階級の人間達も係わっている。
私の目の前でレレイスが暗殺されそうになったのも、リアトーマ国で数度に渡ってサザリドラム王子が襲撃されたという事件も、両国が二人の結婚を機に友好関係を築く事を嫌ったボルキナの手回しによるものだった。
関係者以外の出入りが厳重に禁じられた『フドルツ閉鎖区』の最奥まで入り込まれ、ボルキナ国の良いようにされていた……なんてこと、国として絶対人々に知られるわけには行かない。
あの事件の全容が知られたならば、一体どれほど国の威信が傷つくことか……。
全ての『根』はあのフドルツ山の金の不正流出事件なのだ。
それを省いてボルキナ国がレグニシア大陸に対して野望を抱いていた……などと語ったところで、真実味も危機感も感じられはしない。
ボルキナ国はホルツホルテ海を隔てた向こう側。
人は目の前に見えぬものにそうそう危機意識を抱けるものではない。
ただでさえ真実味薄く聞こえる侵略計画に、モスフォリアとの結託や『新造船』開発依頼を組み合わせたところで、下手な三文小説のような嘘くさい話にしかならない。
金の不正流出を『事実』として下敷きにしてやっと、絵空事のような陰謀話が尤もらしい響きを持つのだ。
それに、『ボルキナ国から発注されて嵐や時化に強い船を開発した』……と言うより、不正流出した『金』をそれと承知で資金として受領し、レグニシア侵攻の為の船を開発した。……しかも、間諜として王女メレンナルナを送り込もうとまでしていたのだ……とでも付け加えた方が、モスフォリアへの反感を煽るに相応しい。
反モスフォリアの動きも今回の一件以外には見えず、フドルツ山の事件の噂も聞こえてこないのであれば、彼らの目的は世論の誘導ではないと見て良いだろう。
だけど、だからこそ……。
「不合理だわ……」
と、そう思ってしまう。
私の左手を捕まえ唇で悪戯に食んでいたグラントがこちらを流し見る。
「声高にモスフォリアの悪行を叫ぶのが目的じゃなく、それに対する政治中枢の出方への不満表明が目的だったら、血塗れの国旗と今日の襲撃で充分だったと思わなくて?」
ビヒテール卿の屋敷の正門前に放置されていた国旗も、豚の死体も、それから今日の襲撃も、一般の人間の目がない場所で行われた事
先刻私がグラントに洩らした通り、あの国旗の件はこちらにとっては『警告』をもらったも同然。
そんな中襲撃を決行したのは、それだけ自分達には大きな不満があるのだ……との意思表示ともとれる。
でも、だったら。
「桟橋の横断幕はなんだったの?」
そう思わざるを得ない。
世論を動かすつもりがなく、不服表明の意思表示として花嫁行列を攻撃しているのならあの横断幕は不自然だ。
『裏切りの国を赦すな! 王女に大公城の門を潜らすべからず!』
衝撃的な言葉が刻まれた横断幕は、人々がプシュケーディア姫を待ち構える桟橋に吊るされていた。
桟橋からでは海に向け、よっぽど海へ身を乗り出さない限り桟橋の人々にあの言葉を読むことは出来ないけれど、なぜあのような場所にあんな……モスフォリアの行った行為を知らなければ意味を成さぬ言葉を掲げる必要があったのか、まったく分からないではないか。
血塗れの国旗と豚。
それに襲撃と、襲撃現場へ再び血塗れの国旗を残すだけで彼らの意思は事情を知る人間には伝わったのに。
「死体と国旗だけでも警戒感は十二分に増してしまうのに、あれは余計なモノだと思うの。一般の人達に喧伝するつもりじゃないのなら、大勢の無関係な人間のいる場所で下手に興味を煽るのは利口なやり方ではないわ。ただでさえ花嫁道中を見ようと街道に人間が集まるというのに、あんな思わせぶりな文句が掲げられていたことが噂になったら、誰だって周囲の怪しい人間やその動向が気になるでしょう?」
人々の耳目が集まれば襲撃を行う側の身動きも取り辛くなる。
今回の場合襲撃者を追った衛士や兵らの証言によれば、武器が飛び道具だったせいか彼らの装備は胸甲程度のきわめて軽いモノだったようだ。
襲撃を行ったのは街道を見下ろす樹林の中。
追跡の兵らは林の奥に馬を乗り入れることが出来ず、徒歩での追尾になった。
しかし襲撃者の方は林道に待機させた逃走用の馬であっという間に姿をくらましたのだとか……。
胸甲やクロスボウ・Y字投石器……スリングショットなどなら一般の旅装に紛れ込ませることもできるけれど、『馬』はそうは行かない。
乗ってくるにしろ借りるにしろ、目に付きやすいし記憶に残りやすい。
もしも横断幕の文言について噂にでもなっていたら、きっとすぐに彼らの行方も明らかになったと思うのだ。
「いや……どうだろうね」
だけど、グラントは私の意見に否定的だった。
「何故? だって、いくら今は街道沿いの町に大勢人が集まっていると言っても、徒歩や馬車じゃなく鞍を載せた馬で移動している人間はそう多くないわ。近隣の村や宿場町に聞き込みすれば……」
「それじゃ薮蛇になってしまう。こっちも『噂』になるわけには行かないんだよ」
そう言われて初めて気づくなんて私も馬鹿だと思うけど……そう言えばそうなのだ。
折角向こうが妙な噂をばら撒かずにいてくれているのに、大人数で周辺地域を必死に聞き込みまわるなど……静かな水面をジャブジャブ乱暴にかき回すも同然。
「さすがにもしもプシュケーディア姫の身に何かあったらもっと大掛かりな探索をすることになるだろうけどね。……たぶん、そういうことにはならないと思うが……」
「……もし、モスフォリアへの報復を望む集団だったら……荷馬車じゃなく、私達の乗った馬車に火を掛けていたわよね」
王女の乗る馬車は、明らかに他の馬車とは違う。
大きい上に華やかな装飾。特注の美しい馬具を着けた六頭もの馬がひく立派なモノだ。
あれを見間違うなんてこと、絶対にありえない。
それを狙わなかったということは、最初からプシュケーディア姫に手出しする心算などないと言うことだと思う。
「だったら、もっと余計に訳が分からない……」
私は彼の肩に凭せ掛けていた頭を起こし、口元に寄せられていた手でグラントの顔をこちらに向けて真っ直ぐその顔を覗き込んだ。
伸びすぎの無精ひげの中、いつも不敵な笑みの気配を漂わせる唇。
砂色の髪がひと房零れ落ちる日に焼けた秀でた額に、りりしい眉。
彼のこの頭の中には私などでは及びもつかない深い考えを巡らせる脳味噌がつまっている。
眉とあまり離れていない暗色の瞳にはいつも知性的な光が宿るけれど、目元に薄く刻まれた笑い皺がその眼光の鋭さを和らげていた。
……男性的で、ハンサムな顔。
グラントの顔を眺めていたら、なんだか私は腹立たしい気持ちになってきた。
「また、私のことを試しているのね、グラント?」
私が何を不思議がり、どこに引っかかっているかなんて……彼にわからないはずがないのだ。
「それは被害妄想だよ、フロー」
「だったら何故私の疑問を誘導するだけで、自分の考えを話してくれないの?」
唇を尖らせる私にグラントは笑いながらも少し慌てたように弁明の口を開く。
「ああ……すまない。そういうつもりじゃないんだよ。ただ俺は……自分が引っかかっている部分がキミと同じなのか、知りたかっただけなんだ」
それは、彼もまた引っかかる部分があった……と、言うこと?
「で、どうたったの?」
私はかすかに顰められたグラントの瞳を覗き込んだ。
「だいたい一緒さ。……やり方がくどい。それに……キミの言うとおり不合理で不自然な部分も多い……」
……ではやはり、彼もこの一連の騒動に私が感じているもの同様の気持ちの悪さを感じていたのだ。
オレンジ色の夕日が差し込むアングタール伯爵家の書斎で、私はグラントが口を開くのを待ちかまえた。




