『顔の無い花嫁』29
当初の予定では、プシュケーディア姫のタフテロッサ上陸の際には華やかな式典が予定されていた。
しかしあの不穏な横断幕の事もあり、船での長旅による体調不良を公式理由として、王女の式典への出席は取りやめになった。
プシュケーディア姫を歓迎する式典に肝心の花嫁が欠席したのでは、それこそ画竜点睛を欠くと言うモノ。
プシュケーディア姫のモスフォリア国側介添え人である公爵夫妻が王女に代わって主賓を務めるも、たいそう白けたものになったようだ。
まあ……王女がこの式典に出席していたとしても、晴れやかな表情で主役を務めることは出来なかっただろう。
あの横断幕の件を知ることとなった王女は、日焼けが醒めかけ白くなった顔から更に血の気の失せた青白い顔を強張らせていたのだから。
船の中で与えられていた私室の船窓からたまたま横断幕の回収場面を目撃していた私とは違い、王女は当初何が起こったのかを知らなかった。しかし、接岸を前に衛士の指揮官や船内に同乗していた軍の高官らが緊急対策会議を始めたのだから、何事かが起きたことは察したのだろう。
それでも今回の件は不適切な文面の横断幕が発見回収されたというだけで緊急を要する事態に直面しているとは言えないと思う。
それならプシュケーディア姫自身には具体的に何があったのかを知らせることはせず、適当な理由をつけて式典への出席は見合わせることになったとでも伝えるべきだった筈だ。
しかし……。
王女が様子を伺わせる為に使いに出した侍女の一人が船員から不穏な横断幕の存在を聞きだして、あろうことか馬鹿正直にそれをそのままプシュケーディア姫に話してしまったのだ……。
プシュケーディア姫と私、そしてドルスデル卿夫人らはアグナダ公国軍とモスフォリア国の衛士らに護られ、タフテロッサ領領主のビヒテール卿の邸宅へと移動した。
ここで二晩ほど宿泊し、船旅の疲れを取った後にセ・セペンテスへ向けて花嫁行列は北上して行くことになる。
行列を護る護衛の編成は、アグナダ公国の軍が八割でモスフォリア国の軍が二割。
レレイスがリアトーマ国へと入った時の彼女の護衛は殆ど全てがアグナダ公国の軍だったが、今回とは状況が違う。
あの時のリアトーマ側はレレイスを王室に貰い受ける代わり、国境を接する友好国としてアグナダ公国の軍を敵対心無く受け入れる……と言う体裁上からあのような編成になった。
これはアグナダ公国とリアトーマ国の力関係が対等だったからの事。
今回はモスフォリア国の方が圧倒的に立場が弱い。
一時はこの国に害意を持ってメレンナルナ姫を嫁がせようとした事実もあり、その力関係は国力の差の問題ではないのだ。
もはや戦意がない事を示すために丸腰で全てを委ねる……と言うのがモスフォリア国の示した姿勢だ。
だから、王女と『設計図』と『新造船の模型』を護るための最低限の衛士以外は、式典出席後の帰還が決定している。
行列自体の護衛はアグナダ公国側がその役を担うことになる。
自分を護ってくれた同郷の兵らの殆どが帰国することは、王女も知っていた。
そんな中でのあの横断幕……プシュケーディア姫はさぞかし不安な気持ちでいることだろう。
ビヒテール卿は歓迎の意を表し、素晴らしい夕餐を整えプシュケーディア姫を歓待したが、王女は食事に殆ど手をつけることなく、程なく自室へと引き上げてしまった。
さすがに今日は私に暇つぶしの為のお相手としてのお呼びは掛からず、王女はカチュカ以外の侍女を全て追い出し、部屋に引きこもっているようだ。
もしもアグナダ公国国民にボルキナ国とモスフォリア国のしていたことが広く知れ渡ったなら、一体どうなってしまうだろう?
メレンナルナ姫をフェスタンディ殿下へ嫁がせようとしておきながらなんたる裏切りか……と、怒りをもってモスフォリアを糾弾し、報復を叫ぶ声が上がりはしないだろうか……?
そうなったとしてもおかしくはないけれど、政治は感情のままに動かすべきものではない。
海を越えモスフォリア国に戦を仕掛けるなんてばかげた話だ。
アリアラ海南岸の国家は国内外に大小の紛争戦争を繰り返し、決して安定しているとは言いがたい地方。
国力を考えればモスフォリアはアグナダやリアトーマの敵ではないけれど、戦に勝ったとしてなんの利益もありはしない……。
戦力の違いがあるとは言えアグナダ側もまったくの無傷で済むはずも無く、残るのは討ち死にした兵士の屍と、モスフォリアの廃墟。
それに……出兵の為に要した莫大な戦費の勘定書き。
それらを埋めるため、アグナダ公国でも増税は免れまい。
相手方が早期に降伏したとして、不安定な地方に植民地を持つのは利口な人間のすることではなく……要は、戦も報復も全くの無駄だと言うこと。
だいたい裏切りに対する怒りのまま、もしもモスフォリア国に戦を仕掛けていたのなら、『新造船』の技術はとっくの昔にどこか別の国……例えばボルキナ国などへと渡っていたに違いない。
そうなれば悠長にモスフォリア国に攻めいっている場合ではなく、アグナダ公国もリアトーマ国も夏季も冬季も無く常にレグニシア大陸の北岸、ホルツホルテ海側に備えおらねばならなくなる。
でも……そうは言っても扇動の仕方によっては、反モスフォリア国思想を高めるのは比較的容易なことだ。
モスフォリア国は安定を欠くアリアラ海南岸にあって、強力な後ろ盾を手に入れたい一心でボルキナ国との結託を決めたのだろうが、こちらからすれば『非』は完全に向こうということになる。
ほんの少し前まで冷戦状態にあったリアトーマ国との関係も、もとを正せばボルキナ国の策謀が原因。
当時のギクシャクした両国の関係までモスフォリア国に責任転嫁しようと思えば出来ないこともない。
国民感情を反モスフォリアへ煽る為の材料は豊富すぎるほどにある……。
ビヒテール卿は食事の他にも各国から素晴らしいお酒を取り寄せて用意していてくださったけれど、さすがに今日は私もそれに手を伸ばす気持ちにはなれなかった。
卿やビヒテール卿のご夫人らと当たり障りのない話題での歓談をしている間も、頭の奥の方ではあの横断幕から想起される碌でもない今後の展開についてがぐるぐるととめどなく廻り続けるのだ。
お酒など楽しむような余裕などありはしない……。
私は船旅の疲れを理由にして、早々に部屋へ引き上げさせてもらうことにした。
水灰色の大理石タイルが敷き詰められた長い廊下は等間隔にシャンデリアが橙色の灯火を点し、ビヒテール家の歴代当主や、その家族たち個々の肖像や風景画などを照らし出している。
絵から目を転じて反対を向くと、四角い格子に区切られた大きな窓がずらりと並ぶ。
暗い硝子の上方に輝くのは反射するシャンデリアの灯火だが、下の方にちらちらと明るく並ぶのはモスフォリア……またはアグナダ公国の軍人らの野営する天幕の篝火だと思う。
ビヒテール卿とグラントとは知己である筈だ。
この屋敷に来れば今夜にでもグラントと会えると思ったのだけれども、少し考えが甘かったようだ。
レレイスの花嫁行列がエドーニアに投宿した時、グラントは庭で天幕の設営の指示を出していた。
今回その役を任じられているのはジョルト卿と言う方だが、グラントはレレイスの輿入れ時の経験を買われ、彼の補佐役を務めることになっている。
……もちろん、これはフェスタンディ殿下が裏から手をまわしてのコト。
これなら彼は私や王女と離れることなくセ・セペンテスまでを同行することが可能だ。
タフテロッサの広場で行われた歓迎式典では、王女を護る騎士や彼らへの指揮を出すジョルト卿らのプシュケーディア姫への対面と任命式も行われる予定だった。
まあ……状況が状況だっただけにそれは明日の朝この屋敷で執り行われることになったらしいけれど、式典自体は主役不在とは言え一応執り行われた。
そのためグラントらはタフテロッサに到着後すぐに式典会場へと入り、ビヒテール卿宅へと到着したのは日も暮れかけた時間になってから。
レレイスら一行がエドーニアの屋敷に到着した時の記憶から、私はジョルト卿やグラントが挨拶に訪れるのは庭への天幕の設営指示が一段落した頃だろうと予想していた。
だがその予想に反し、卿は屋敷に到着したその足で王女の前にやってきた。
白髪交じりの赤い髪に赤いアゴ髭。
鍔広の緑の帽子と緑のマントはレレイスの介添え役を務めた時にグラントが身につけていたものと同じ意匠だ。
しかし、同じような衣服でも身につける人間によって随分と違う印象を与えるものらしい。
あの時の彼はたいそう立派で私の目にはとてもハンサムに映ったものだったけれど……。
ジョルト卿との対面が慌しく終了した後、プシュケーディア姫は彼を
「……山羊みたいな人ね。それも、赤く染めた山羊。しかも緑のマントを着た赤い山羊なんて、珍妙極まりないわ」
と酷評した。
確かにジョルト卿の髭は真っ赤だし、体躯はちょっと貧相だけれど、これから自分を護ってセ・セペンテスまで連れて行ってくれる人間に対してこれはあまりにも酷い言い種ではないか。
更に王女はチラとこちらに目を向けて
「アレの補佐役だなんて……知れているわね……」
との憎らしい台詞までおまけに吐いてくれた。
プシュケーディア姫曰くの『知れている』人物が誰かなど、考えるまでもない。
彼女が不安から苛立っている事をその顔色や態度から察していなければ、私は腹を立ててプシュケーディア姫に何か言い返したことだろう。
王女に謁見したジョルト卿は連れもなく一人だった。
卿は率いてきた隊をグラントに任せ、プシュケーディア姫に取り急ぎ挨拶をしにきたのだと言う。
グラントから王女への挨拶はジョルト卿に託す形になった。
平常時であればこんな無礼な事をするわけがないのだけれど、今は仕方のないことだろう。
王女の花嫁行列の代表者であるジョルト卿が挨拶に来ている間に宿営指示を経験者であるグラントが行えば、その後の『対策会議』を速やかに始めることが出来るのだ。
花嫁行列は何もなくても万全の警備体制を敷いてセ・セペンテスを目指すのだろうが、あんなことがあったのだから見直す必要のある部分もあるのかもしれない。
窓の外、篝火に照らされる天幕のどれかでジョルト卿やグラント、アグナダ公国軍の仕官らが話し合いを行っているのだろう。
一体今、どんな話し合いが行われているのか、その結果どんな方針が打ち立てられたのか。
それに、あの横断幕を桟橋に掲示した人物に関する情報は掴めているのか。
気になることは山ほどあった。
少しでも早く彼から話を聞きたくて仕方がないのだが、私は一体どうするべきだろうか……?
こんな暗くなってからうら若いテティに手紙を持たせ、野営地へ使いに出すなどもっての他。兵士らの世話をしているこの屋敷の使用人でも捕まえて伝言を頼むか、それともビヒテール卿に直接お願いするか……。
ビヒテール卿に頼むのが一番確実で手っ取り早い方法なのだが、どう言えば王女には内密でグラントとの会見の場をセッティングしてもらえるだろう?
王女の妙な誤解についてまで卿に説明するわけにも行くまいが、かと言ってここまで来て……しかもこの先どうなるか分からない状況の中で今、彼女に癇癪を起こされては堪らない。
プシュケーディア姫の誤解はセ・セペンテスでフェスタンディ殿下との婚儀が終了し、彼女の生活が落ち着いた後に解けてもらえれば一番都合が良いのだけれど……。
「どうすればグラントと話が出来るかしら……?」
明日も一日ビヒテール卿のお屋敷で休養を取り、移動は明後日からと言うことになる。
レレイスの輿入れの時には、グラントはじめ騎士以上の『爵位』を持った人間は天幕ではなく屋敷の中に部屋を用意させてもらった筈だ。
窓から透かし見た感じでは庭の向こう側に何棟も立ち並ぶ天幕のうち一番大きなものには内部に煌々と灯りが点り、中で人間が動いている気配がある。
恐らく会議が行われているのはあの天幕でのことだろう。
今現在あの中でどんな話し合いが行われているかは分からないけれど、会議は何時終了するか見当もつかない。
屋敷内の使用人にでもグラントの部屋の所在を聞き出して、彼の部屋で待っていようか……?
いや……でもそれだと別の方向であらぬ誤解を受けてしまいはしないだろうか。
別にグラントは私の『夫』なのだし、構わないと言えば構わないんだろうけれど。
……私の方から彼の部屋へ忍んで行くと言うのは……そんなつもりじゃないけれど……。
くだらない事に頭を悩ませていたせいだと思う。
私はドルスデル卿夫人が自分のすぐ傍に来ていた事に、気がつくことが出来なかった。
「本当にごめんなさいね。バルドリー卿夫人……」
外は暗く、廊下には明るくシャンデリアからの灯が点っている。
私が考え事などしていなかったならば、窓硝子に映るドルスデル卿夫人の姿がとうに目に入っていたはずだった。
目を開いていても何も見ていなかった自分に驚きながら、私は慌ててドルスデル卿夫人へと顔を向けた。
「私が王女の勘違いをきちんと正すことが出来なかったばかりに、侯爵とはモスフォリア入り以来まともに顔も合わせておられないのでしょう?」
私の独り言を受けて、夫人が申し訳なさそうに言った。
「分かっていて引き受けた仕事でございますわ。お気になさらないで下さいドルスデル卿夫人。ただ……桟橋のあの横断幕のことが気になって。……ですが、私達がジョルト卿や騎士……それに軍の高官にあれはどうなっているのかと訊ねたところで『万全の体制は整えております』とか、『ご心配は不要です』とかの返事しか返されませんもの。グラントなら立場上具体的な情報も掴んでいるのではないかと思って……」
何も知らされずにいるのは不安だ。
だからこれは半分は本当だけれど、私がグラントと話がしたい理由の残り半分は……単純に彼に会いたいから。
「サラフィナの息子は彼女に似て頼りがいがある切れ者のようですわね。大公やフェスタンディ殿下の信頼も篤くて……ウチの宿六とは大違い」
ドルスデル卿夫人は優し気な顔に苦笑いを浮かべ、小さく首を左右に打ち振るう。
上品なこの人の口から『宿六』なんて伝法な言葉が転がり出たことには驚いたけれど、そういえばドルスデル卿は何と言うか……女性好きのギャンブル好きで、確かに『宿六』と表現したくなるトコロがある方だ。
「卿にはその、ノルディアークへ行く際にはグラントが随分と暇つぶしにお相手いただいておりましたわ」
……本当はどちらかと言えばグラントが卿のカードゲームに付き合っていたのだが、ドルスデル卿夫人にはそんなことお見通しだったに違いない。
「またあの人ったらバルドリー侯爵をカードに付き合わせたのでしょう? 一度始めるとしつこいのよあの人は。勝負事には目がなくて……本当にしょうがない人。私がスフォールに渡ってから一度の手紙も寄越さないで。……まぁ、レイナリッタが一緒だから、アレが馬鹿な真似をしないよう上手く誘導してくれているでしょう」
『レイナリッタ』と言う名が夫人の口から出てくるとは思わなかった。
あまりにも不意打ちで表情を取り繕うことが出来なかった私に、ドルスデル卿夫人は鷹揚な笑みを見せる。
「バルドリー夫人もお会いになったでしょう? あれは利口な女性だから、私も安心して任せておけるのよ」
「あの……でも、ドルスデル卿夫人は……腹が立ちませんの……? だって、ご主人が……」
「それは面白いとは思わないけれど、もうウチのはああいう人だって諦めましたからね。社交界の中で未婚既婚問わずに食い散らかしていた昔を思えば、ああいう賢い玄人女に任せておいた方がよっぽど安心だわ。……私が馬鹿だったのです。折角サラフィナがアレは友達としてはいいけれど、夫に持つには苦労が絶えない人間だって心配して忠告してくれたのに……意地になってね。まあ、昔の話」
私はてっきりサラ夫人とはドルスデル卿の方が古い友人で、卿の結婚後に新たに彼女との縁ができた物とばかり思っていたけれど、どうやらそうではなかったようだ。
ドルスデル卿夫人とサラ夫人とが友人同士だとすれば、彼女の優し気でいながらどこか……サラ夫人のような豪気さをドルスデル卿夫人が持つのも妙に納得が行く。
ちょっと言葉が可笑しいかもしれないけれど『類は友を呼ぶ』と言うのか、似た部分があるからこそ友達関係が成立するとでも言うのか……。
「……私やウチの人のことはこの際どうでもいいのです。バルドリー卿夫人、貴女には本当に迷惑ばかり掛けてしまったから侯爵との事は私にお任せいただきたいのだけれど……?」
「え……?」
「橋渡し……とでも言うのですか? 王女がまだ貴女と侯爵のことを誤解したままだから、バルドリー侯爵に会いに行くのに頭を悩まさせてしまっているのですよね……。せめてそのくらいのことはさせていただきたいのです」
プシュケーディア姫の『誤解』は、とうの本人である私が何度か正そうとしてもどうにもならなかったものだ。
王女自身が私を自分よりも可哀想な人間であると信じ込むことで心の均衡を保とうとしているのだから、夫人がいくら説明したところでプシュケーディア姫が耳を貸したとは思えない。
私自身はこの事は……なんというのか、避けようのない事故のようなものだったと半ば諦めているけれど、今後の私と王女の関係を考えれば、ドルスデル卿夫人は私に対して負い目をお持ちになっているのだろう。
ここは夫人の顔を立てる意味も込め、彼女に甘えるのもいいかもしれない。
だいたいにして去年この国に嫁いできたばかりの私とは違い、ドルスデル卿夫人とビヒテール卿夫妻とは親交の度合いも深いようだ。
私が下手な言い訳をして王女に内密にグラントと話す場を手配して貰うより、ドルスデル卿夫人にお願いした方が話がすんなり通りやすいのではないだろうか。
そこで私はこの事をドルスデル卿夫人にお願いし、夫人もそれを快諾してくださったのだけれど……。
夜が明け、日が昇り、その太陽が沈む時間になっても私はグラントと話をする機会を得ることは適わなかった。
ドルスデル卿夫人のせいではない。
タフテロッサの桟橋の横断幕に続き翌日の早朝、ビヒテール卿の屋敷の正門前に屠殺された豚とその血液に塗れたモスフォリア国の国旗が放置される事件が起きたのだもの、それどころではないのも当然だ……。




