『木の杖と初夏の花嫁』4
父様が亡くなり私が左脚を怪我したあの事故のあと、母様がまるで抜け殻のように日々を過ごされていた期間があった。
最愛の人を失ったのだから、母さまがそうなっても当然だ。
兄様は哀しみに沈む間もあらばこそ、覚えなければならない仕事と継がねばならないあれこれが成文法不文法の別なく山積でお忙しくされていたから、家内の采配の余裕などありはしない。
そんな中、エドーニアの屋敷に来て屋敷を取り仕切ってくれたのが母様の姉、ホーネスタ夫人だった。
大きな家と言うのは主人や女主人が目配りして指示を出してこそ、正常に切りまわされるもの。
執事や女中頭が優秀であればある程度の期間その『正常さ』を保つことができるだろうけれど、それもそう長く続くものじゃない。
父様を亡くした後、暫くのあいだ母様は細々しく家の采配が出来るような状態になかった。
その間を母様の姉であるホーネスタ夫人が何くれなく気を配り切りまわしてくれたからこそ、再び気持ちを立てなおした母様の手に家内の采配が戻された時、屋敷は荒廃や規律の乱れなく保ち続けられたのだ。
『この子が死ねばよかったのに』
とのあの言葉は、誰もが胸の奥底で同じ気持ちを抱きながらも口にしなかっただけのものだと思う。
私自身ですら自分が死んで父様が生きていてくだされば良かったのにと……一体何度思っただろう。
もしも父様が今の私のように脚を悪くされたとしても、この先もエドーニア領主として、エクロウザ兄様の父として……そして母様の夫として、立派に生きて行くことができたのだ。
でも私は違う。
社交界にデビューも出来ず、政略結婚の駒にすらまともには使えない。不格好に脚を引き歩く姿が目に入るたび、兄様や母様の心に父を夫を死なせた娘だと言う嫌な気持ちがよぎらせる。
……そんな目ざわりなだけの存在になってしまった。
伯母さまの言葉を聞き現実を突き付けられた時、私は絶望に襲われもしたけれど、同時に生きて行くことに対して覚悟を決める切っ掛けをもらったのも事実だ。
私の命は父様がくれたものだもの。自分の命と引き換えに救ってくれたこの命を、どうして私が無駄にできるだろう。
死ぬことが出来ないのなら、生きて行くしかない。
生きて行くのならば立ち上がり……自分の足で歩き、ほんの少しだけでもいいから私が兄様や母様から父様を奪った事の償いがしたかった……。
私はその思いから、ベリットや医師に制止されながら、隙を見ては歩く練習を始めた。
断続的に続いていた熱がやっと下がり、怪我が癒えるか癒えないかの時期によくもあんな無茶をしたものだ……と、いま思えば呆れるくらい当時の私は必死だった。
人目を盗んで寝台を抜け出し、家具に縋って身体を支える。
何カ月も殆ど寝たきりだった私の全身の筋肉は衰え、自分の身体なのに信じられないくらい思うに任せなかったのを覚えている。
バランスを崩し負荷がかかった瞬間に、一度砕けた左の脚から神経をつんざくような痛みが突き抜け、私に悲鳴を上げさせた。
一体何度床に倒れ伏し、老いた侍女のベリットを泣かせたことだろう。
……それでも私は歯を食いしばって壁の腰板に爪を立て、動かない左の脚をなんとか前に出そうともがき続けたのだ。
聞いたのは随分と後になってからだけれど、本当なら私の脚は今のように杖を使ってでも歩けるように回復する見込みは殆どなかった筈だと主治医は言っていたらしい。
だとすると、あの時の無謀とも言える必死さは無駄ではなかったという事だろうか。
私はベッドの中で身体を丸め、ホーネスタ夫人の言葉と一緒にあの当時のあれこれを思い出しながら、以前の私がいつも心に抱いていたあのじりじりとした焦燥感が胸に蘇るのを感じていた。
この気持ちの正体は、分かっている。
私には兄様や母様から父様を奪った『償い』など、全然できていないのではないかという不安だ。
この国の皇太子妃となるレレイスやサザリドラム王子の口添えもあり、あの場面でグラントからの求婚を兄様も母様も断る事は出来なかった。
でも本当はエドーニア領主である兄様にとっては私が他国の侯爵家へ嫁ぐよりも、アリアラ海に面する大きな港ラサスを含むハドファリ地方を収めるシバル伯爵の元へ嫁いだ方が、これからのエドーニアの発展にとって有利だったのではないかと思う。
特にいまエリンシュート家との繋がりが出来れば、黄金街道のリアトーマ国~アグナダ公国間の開通に併せラサスの港との交通網の整備がなる事によって、多くの人と物資とがエドーニアに運ばれる。
なのに私はハドファリのシバル伯爵ではなく、グラントの元へ嫁いでしまった。
……それでもエドーニアの町で間諜のような事をしていた頃には、なんとかこの不安をなだめる事ができた。
だけど、今は……。
せめて私がもっとレレイスと近しい間柄であったなら、王室との繋がりを兄様の為に強く出来たかもしれないのに。
そんな大それたことは出来ないにしても、もう少しだけでも私が自慢できる娘であり妹ならば……。
なんだか急に……こうして後ろ向きなコトを考えながら縮こまっている自分に対して腹が立ち、私は寝具を跳ね除けるようにしてベッドの上に半身を起した。
ベッドに潜り込んだのは開け放った窓から午後の日差しが明るく部屋の壁を照らす時間だったのに、今はもう日が落ち、室内は青白い薄闇にかわっていた。
ホーネスタ夫人の言葉とちょっとした過去をぐだぐだと振り返っていただけなのに、こんなに時間が経っていることに驚いてしまう。
胃の痛みはさっきより少しは楽になってきているけれど、この程度の事でこんなに思考力が落ちてしまう自分の弱さにますます腹が立った。
アグナダ公国での日々がこんなに自分を弱くしてしまったんだろうか……?
枕を抱えて眉間に皺を寄せる私の耳に控えめに寝室の扉を叩く音が聞こえ、返事をする暇もなくそっとドアが軋んだ。
「……グラント……」
細めに開いた扉の隙間からグラントが体を斜にしながら滑り込んで来る。
……もしかすると、私が眠っていると思って彼なりに気を使い、そっと入ってきたつもりなんだろうか?
「起きていたのか。……具合は? まだ胃は痛むのか?」
ベッドの端に腰を下ろし、私の顔を覗きこむ彼の暗色の瞳には気遣わしげな気配があった。
「大丈夫よ、もう殆ど……」
言いかけて、私は私の頬に触れたグラントの手指を掴み、瞼を何度も瞬きながらまじまじとその瞳を見返した。
だって……。
「私、胃が痛むなんて……貴方に言った!?」
「いや……キミからは聞いていないな」
グラントはほんの少し不機嫌そうに目を細め、私の手を握りながら小さく溜息をついた。
「最近、随分とキミの性格を把握出来てきたと思ったんだが……」
彼が言うには、私はこの屋敷に近づくにつれどんどん表情が暗くなっていったらしい。
そしてしきりと鳩尾の辺りを押さえていた……と。
「どうしたのかと聞けば、何でもないと答える。キミは本当に……強情で頑固で負けず嫌いだ」
そう、はっきりと断言されてしまった……。
「あまりに自分の痛みに無頓着過ぎる。無頓着と言うよりも、自覚がない」
ゆっくりとした口調ではあるけれど、なんだか彼の言葉が私の罪状を指を折って数える様に聞こえるのは被害妄想か。
「でも……私、本当に全然平気だと思ったんですもの……」
「青い顔をして部屋を去るキミを見て……または全く見ようともしないで平然としていられる人達と俺とを一緒に見ているんなら、俺にも考えがある」
はっきり誰をとは言わなかったけれど、彼が私の家族を……親族を批難している事を感じ、私は握りあわされたグラントの手を振り払おうと腕に力を入れたのだが、強く握りしめる彼の手は容易には離れてくれなかった。
「私の……家族を悪く言わないでくださらない? 楽しく和やかに皆が話している場に水を差すような事、私がしたくなかっただけだわ。だいたい、そんな大げさに騒ぎだてるほど具合が悪かったわけじゃないもの」
それに、もしも本当にグラントがそんなに私の事を心配していたと言うのなら、なぜあの後すぐに様子を見にこなかったのかとの疑問もある。
……もちろん、そんな拗ねた子供みたいなことを口にするなんて、絶対に嫌だけれど。
「分かって言っているのか? それともやっぱり無自覚なのか? キミは……ルルディアス・レイで俺が暫く街を離れて戻ってきた時、あんなに酷く痩せこけていたじゃないか。あの時俺がどんなに驚いたか。……まったく……キミって人は困ったお嬢さんだな。いいかフロー、キミは……精神的に重圧を感じると胃に負荷が来るんだろう? ……そして、食欲が無くなる」
「そんなことなくてよ……確かにあの時はちょっとばかりそんなこともあったけど、今はそんなに私……」
「そうか? もうじき夕食の時間だな……。夕餐はウズラの中に鵞鳥の肝臓を詰めた物がメインだそうだ。勿論俺と一緒に食べに行くんだよな?」
畳み込むように喋るグラントの口調に押されながら虚勢を張ろうとした私だけれど、鵞鳥の肝臓のこってりとした味や香りが頭の中をよぎった瞬間、その濃厚さについ表情を怯ませてしまう。
例え周囲が薄暗くても、そういうところを見逃すグラントではないのだ。
「どうした? お嬢さんはウズラがお好きだったはずなのに」
その憎らしい言い方に反論したい気持ちはあった。
あったけど……母様に兄様……その婚約者、大叔父様や伯母さまらが揃った食卓で、身の置き場の無い状態のまま件の料理を前にして嘔吐くことなく平然と食事をする自信が、私にはない。
だいたい……形だけは私の席も用意されているだろうけれど、この国の人間ならその席に私が座るのは使用人が主人に並んで食卓に着くのと同じくらい場違いだとみなす筈だ。
グラントがこの屋敷に私を迎えに来てくれるまでだって、家族だけの食卓ならば一緒に囲んでも、来客があった時は私だけ食事を別にしていた。
やっぱり私はこの国を離れている間に少しばかり弱くなっていたんだと思う。
こんなつまらない事で悲しくなるなんて、どうかしている。
「お腹は、あまり空いていないのよ……」
しっかりと手を掴まれたまま目を逸らし、うなだれる私の耳にグラントが胸郭いっぱいに息を吸い、それを静かに吐き出す音が聞こえた。
「キミはキミの好きなように勝手にすればいい。……俺も、自分の思うように勝手にさせてもらう」
耳朶を打つ言葉に私は唇を噛む。
彼の手が私の手指を解放して離れて行くのを、胸が張り裂ける様な気持で黙ったまま見送った。
グラントは立ち上がり、こちらを振り向く事なく扉に向かう。このまま部屋を出て帰ってこないのではないかとの不安が私を襲うけれど、自分のこの……どうにも意地っ張りな性格を今すぐにどうにかするのは難しい。
どうして私はこんなに可愛げがないんだろう……?
心の底に嘆息しながら顔を上げると、扉から隣室へ顔を突き出したグラントがそこに控えていたらしいテティを呼びつけるのが見えた。
「テティ、灯りを一つくれないか? ああ、ありがとう。ちょっと待っててくれ……」
テティの手から古風なランプを一つ受け取ったグラントは、寝台の横のナイトテーブルにそれを置く。
私はてっきり部屋を出て行ってしまうと思っていた彼が戻ってくるのを、ただ茫然と見ていた。
扉の前に待つテティの元へと踵を返しかけた瞬間、グラントの口元にちらりと人の悪い笑みを見た気がする。
「せっかく荷物を解いてくれたトコロ悪いんだがテティ。明日の午後……ここの主の結婚式が終わったらすぐにこの屋敷を発つ事になったから、少し荷を纏め直しておいてくれないか? ……そうだな……明日の朝と昼食を俺は屋敷の人達と一緒に摂るからその分の着替えと、午後に着る礼服はそのままでいい。フローは朝昼そっちの部屋で過ごすだろうから、その分と午後の礼服を」
本当はこの屋敷に今日を含めて四泊ほど滞在する予定でいた。
それを明日には発つと言い出し、テキパキと指示を出す彼の後姿を私は混乱したまま見守った。
「それにシュトームにも明日午後に移動がある事と、事によったら明日の夜か……明後日早朝に急ぎで一番早いブルジリア王国行きの便で手紙を届けてもらう事になるかもしれないと伝言を。一時間もあればこの部屋の荷物の片づけは終わるかな?」
彼の問いに扉の外からテティの「はい」と言う返事が聞こえる。
「じゃあそれが終わった頃に俺の奥さんの食事を取りに行ってもらえるか? 厨房には話しを通してあるんだ」
再びテティの返事が聞こえ、グラントは扉を閉めてこちらに向き直り
「そう言う事だから」
と言う。
でも、何が一体そう言う事なの??
「……急ぎのお仕事でも……入ったの……?」
シュトームへの伝言内容から、仕事関係の何らかの事態が発生したと思った私はそう言ったのだけれど、グラントは唇の片側だけ上げて笑うと小さく肩をすくめて見せる。
「予定通りエドーニアには四泊するさ。……ただ、この屋敷には今夜だけだな」
まさか、私達の結婚式の後のように翡翠亭にでも宿泊すると言うのかしら?
それとも何処か行く場所でもあるの?
でも……それにしたって慌ただしく結婚式の後すぐに発つなんて、少しばかり失礼な話しじゃないかしら?
「きちんと説明してくれなくては分からないわ」
情報を小出しにしてこちらの反応を面白がっているらしいグラントに、さっきまでの消沈した気持ちを忘れ憮然とした面持ちで苦言を呈した。
「リアトーマ国とアグナダ公国は違う。俺だって、そのくらい分かっているさ。良い事とは絶対に思えないけれど、ここに住んでいる人間にはここに住んでいる人間の慣習や因習がある。それを俺みたいな外の人間が不愉快だと否定したところで、今すぐどうにかなる訳が無い……」
再び寝台の端に腰を下ろしたグラントが言う。
「だけど……フロー。俺はキミがあんな風に扱われるのはとても不愉快なんだ。……我慢がならないほどにね」
正直、グラントが私の為に憤ってくれているのは嬉しいと思う。でも、結婚式にさえ出席すれば義理を果たせただろうとまともな歓待さえ受けずに去られては、エドーニア領主としての兄様の面目が保てない。
「だからと言って……明日の午後に急にここを発つなんて……」
言いかけた私の唇の動きを、グラントの人差し指が押し止める。
「俺は俺の好きなようにさせてもらう。でもお嬢さん、俺がキミの気分を著しく害するようなことをすると思うんだったらそれは心外だな」
笑いの影が浮かぶ暗色の瞳を見上げ、彼の指が私の唇の感触を楽しむように撫でそっと離れて行くのを待って「それはどういう事なのか」を、静かに問う。
そう言えば、そう。彼は世渡り下手な青白い青年貴族じゃないのだ。
きっとまたインチキくさい口上で、上手い事皆を丸めこんだに違いない。
「明日の夜はエドーニアの……以前キミが住んでいた館に泊めてもらう事になったんだ。なにしろあそこの方がこの屋敷よりもカゲンスト・バルドリー卿の史跡まで近いからね」
ハッとして見つめるグラントの口元に、白い歯がこぼれる。
「だってそうだろう? バルドリー侯爵はそうそうこの地にこれるもんじゃないんだ。祖父の残した歴史の痕跡を見に行きたいと多少強引に主張しても、誰にも文句は付けられないだろう?」
彼の笑みにつられる形で、私もつい口元をほころばせてしまった。
だって……その場所は、私と彼が初めて出会った時に連れだって行ったトコロなのだもの。
もっともあの時の私はグラントを敵国の間諜ではと疑っていて、その一挙手一投足を監察監視するのに神経を尖らせていたから、あれは決して楽しいデートではなかったけれど……。
「貴方の詭弁と悪知恵には呆れていいのか感心していいのか時々分からなくなってよ。……それでも、明日いらっしゃるエリンシュート伯爵には少し失礼かもしれないわね。きっと英傑の子孫に会うのを楽しみにしているに違いないわ」
多少の皮肉をこめて言う私に、グラントの口元の笑みが思い切り人の悪いものに変化した。
「躾のなっていないご令嬢の親御さんとは、あまり懇意にはなりたくないさ。ふつう社交界に出て何年も経っていれば、マセ返って世擦れした立派なお嬢様が出来あがる筈なんだが。……あれではレレイスの友人候補から外されても当然だろうな」
私が部屋を出る前にチラリと見た気がしていたポメリア嬢の不満顔は、どうやら見間違えではなかったようだ。
……不満そうな表情どころか、小さな声ではあるけれど、兄様に私達がこの部屋を使う事が不満であるとの言葉を漏らしたらしい。
ゲストの耳にそんな言葉を入れるなんて、確かにポメリア嬢は少し迂闊に過ぎる。
明日の結婚式が済めば彼女も『ゲスト』ではなくこの家の人間になるのだ。この先の事を考えると、母様も頭が痛むことだろう。
それに……そう言えばさっき彼女が参加していたと言うレレイスの『お茶会』は、去年の話のようだ。
妊娠が分かった後だってレレイスのサロンはあっただろうに、その話が出ていないところをみると、グラントの言うとおり既に彼女はレレイスの友人候補からは外されているのかもしれない。
出来る事ならポメリア嬢には王室との繋がりを持ってもらいたかったけど……。
「昼前にはエリンシュート伯爵御一行はこちらに到着するようだから、昼食時と式の前後に歓談出来る。それだけの時間があれば、俺が欲しい情報を彼らから引き出すくらい造作ない……」
そこまで言ってグラントは少し喋りすぎた……とでも言う様な顔で一端口を噤んだ。
「なあに? どういう事?」
「キミとキミの家族の不利益になるような話しじゃないよ。ブルジリア王国に立ちあげる商館絡みで、黄金街道拡張工事について知っておきたい事があるだけだ。……それにしても」
グラントの腕が私の肩を抱いた。
「ポメリア嬢と比べては何だが……俺の妻は勘もいいし、頭もいい。多少……いや、かなり気が強いし時々自分の心配をするべきところを怠るのは悪い癖だが、礼節も守れて周囲を見る事も出来る。こんなにいい女なのに、どうしてこの国じゃあんな酷い扱いをされなけりゃならないのかさっぱり分からないな」
気が強くて可愛げがないのは本当の事だ。
だけどそれを差し引くとしてもグラントがあまりに私を褒めすぎだろう。
「グラント、貴方は少し変わり者だと思うわ」
照れてそんな憎まれ口をたたいてしまう私にグラントが目を細め、起きあがってからずっと片手に抱きかかえていた枕を取り上げる。
「もちろんそれは褒め言葉だろう、お嬢さん。……まあ、そうだな、お嬢さんがこの国に生まれてくれたからこそ、俺と出会うまで無事に売れ残っていてくれたんだ。それは感謝しないわけにいかないな」
「売れ残る……って……その言い方はあんまりじゃなくて……?」
取り上げられた枕が当たっていた鳩尾の辺りを、彼の無骨な手指がそっと触れてきた。
「もしもこうしてキミに触れたのが俺の手だけじゃなかったらと思うと、気が狂いそうになる……」
腹部をなぞる指を胃の上あたりと胸の合間をゆっくりと前後させながら、グラントは私の肩を抱く力を強め私の頬に自分の頬を当てて囁いた。
朝出発前に綺麗にあたった髭が伸び掛けており、彼の唇が動く度にざらついた感触が頬を刺激する。
「貴方はお医者様にも嫉妬するの? それじゃあ……お腹の具合が悪いからと言って気軽に診察して貰えないじゃない」
私が揶揄するような軽口を返す間も彼の手は腹部から離れず、鳩尾から胸の下端辺りを彷徨い続けた。
なんだか心拍数が無駄に上がり、頬と耳が熱くなってしまう。
「剣術と金勘定だけじゃなく、医術も学んでおくべきだったかな」
冗談とも本気ともつかない呟きが唇に触れ、グラントの歯が優しく私の下唇を食んだ。重なった胸と胸の間にどちらの物か分からない鼓動が強く、平常より少し強い乱れたリズムを刻むのを感じる。
挨拶や愛情表現の戯れにしてはいささか熱すぎる口づけから名残惜しそうに彼が身をもぎ離したのは、それから暫く時間が経過した後のこと。
グラントの上着の肩口につかまり酸欠の魚のように小さく吐息する私の濡れた唇に再び軽く唇をつけてから、彼が問う。
「胃は……まだ痛むか?」
言われて初めて私はちょっと前までシクシクと痛んでいた鳩尾の痛みが殆ど消えている事に気がついた。
「ああ……いいえ。今は……全然痛まないわ」
この屋敷を早々に後にすることが分かった途端消え去った痛みに、私は苦い笑いと切なさ……それに罪悪感を抱く。
「あまり自分を責め過ぎるな。……さて……非常に名残惜しいけどそろそろ夕餐に参加する仕度をしなけりゃ。あれだけ用事を言いつけてしまったんだ。テティに着替えを手伝わせるわけにはゆくまい」
心を見透かし先回りするような言葉を一つ。
グラントが面倒くさそうに立ち上がった。
「さっき聞いていただろうけど、お嬢さんの食事はこの部屋に運んでもらう事になってる。……キミの好きなウズラだ」
扉の前に立ち振り向きざまに言うグラントに、私は干しイチジクを与えられたっぷり脂の乗った鵞鳥の肝臓を思い出して眉を顰める。
そんな私を彼は面白そうに見下ろし、唇を歪めて笑った。
「キミの母上に許可を貰ってこの部屋に来る前に厨房に寄っていたんだ。キミのメニューは変更させてもらったよ。詰め物無しの岩塩と黒胡椒だけでさっぱり焼いたウズラと、柔らかい春キャベツに出始めの空豆とゆで卵のサラダ……お嬢さんの好みに合わせてハーブとビネガーを効かせた味付けだ。それにビーツのスープと柔らかい白パン。苺ソースの掛ったババロア。……何か問題はあるかね?」
グラントがなかなか部屋に来ないと思っていたのは、兄様や母様ら相手に屋敷からの早い暇を交渉していたのもあるけれど、厨房に乗り込んで食欲を失った私の為に色々な指示を出してくれたからなのだと知り、私の胸はほんわりと熱くなった。
「……無いわ……でも……」
嬉しさについほころんでしまう唇を何とか制御し、私は私の夕餉の献立に不足しているものをおずおずと口に出す。
「お飲み物が、足りないような気がするの……」
扉の前でグラントが吹き出し、笑いながら大股にこちらへ戻ってくると音を立てて私の額に接吻をした。
「言い忘れていたよ。けど……そんな言葉が出てくるなら大丈夫そうだ。……白ワインを大ぶりのゴブレットに一つ。それに使用人用にエールがあるのを見つけたから一杯分けてもらった。……お上品な貴族様の食卓に乗せるには向かないけど、キミはエールが好きだっただろう?」
確かに過度の飲酒は胃には良くなさそうではある。だけど……エールと白ワインが一杯ずつではちょっと淋しい気がしないでもない。
「フロー……そんな表情をしても今夜のトコロはこれで我慢して貰う。……俺も今晩はお嬢さんに無理させないように黙って大人しく眠る事にするから、ゆっくり休んで元気になってくれ。だけど、明日は遠慮なくたっぷりキミの事を堪能させて貰うから、覚悟しておくんだ」
そんな言葉と耳元へのキスを残し、私が何かを言うよりも早くグラントは部屋を出て行った。
まったく……なにを言っているのかしらあの人は。
この悪戯に火照る頬とバクバク言う心臓をどうしてくれるの?
照れ隠しと、いいように気持ちを弄ばれた自分の単純さに対する悔し紛れ、先刻グラントに取り上げられた枕を八つ当たりに壁にぶつけようと持ち上げるも、ふと思いとどまる。
白いリネンレースのピローを胸に抱きしめ、小さく吐息する。
そもそも……グラントが無理やりのごり押しでエドーニアまで同行して来たのは、もしかすると私の事が心配だったからだろうか?
こうなる事を見越していたの?
だけど……グラントが一緒じゃなかったなら、私は具合が悪くなる前にあの部屋から逃げだす事が出来た筈だ。
ポメリア・エリンシュート嬢の両親もこのお部屋に泊る事が出来ただろう。
恐らくは、彼がいない方が心に掛る重圧の分量はこれほど大きなものにならなかったに違いない。
……だけど……きっとその代わり、何か大事な物を心から失ってしまっていたようにも思う。
しゃんと胸を張り、顔を上げてグラントに再び会う気概を……。
グラントは着替えを終え、もう夕餐の席に出ただろうか。隣室ではテティが忙しく立ち働く気配がする。
いくら部屋で食事を戴くにしても、夜着のままではあまりにもだらしが無い。私も忙しい彼女の手を煩わす事なく少しばかり身形を整えようと、立て掛けて置いた杖を掴んで寝台を出た。