『顔の無い花嫁』24
自分が当たり前に常識だと思っていたことが、別の人間にとってはそうじゃないと言うことは、往々にしてある話だとは分かっている。
……と言うか、分かっているつもりでいた。
私は困惑の度合いを強くした灰色の瞳を見つめながら、これまで生きてきた二十と数年間の中でかつてないほど必死に頭を働かせ、考えていた。
人間はたいていの場合、それまでの自分を否定されることに不快を感じる生き物だと思う。
別に私はプシュケーディア姫を否定しようと思っているのではないけれど、彼女が考えなかった部分を補足し、埋めてゆくのは、彼女にそれまでの自分を否定することと受け止められる危険があった。
スフォールに来てから数日間の付き合いしかないけれど、王女は思い込みが激しく、嫌な事からは逃避しがちな人間であるように見受けられる。
王女になんとか上手に彼女の置かれた現実を受け止めて貰うにはどうしたらいいのか……。
私にグラントのように説得力のある話術や、グラヴィヴィスのような人を惹き込む力があれば良いのだが、残念なことに私は私でしかないのだ……。
「現実を見ろだなんて……なんだか失礼な言い方をするのねフローティア。私のどこを指してそんなことを言うのよ?」
不服そうに口を曲げるプシュケーディア姫がさほど激した様子の無い事に安堵しつつ、私は頭の中で自分が現在持っている手札を必死に手繰り寄せた。
「プシュケーディア姫……そのことをお話する前に、約束していただいてもよろしいでしょうか?」
「……なに……??」
「王女は先ほど『ご自分は約束を破ったりしない』とおっしゃいましたが、それは本当でしょうか?」
「当たり前よ! 私は約束を破ったりしないわ……!」
「でも、ドルスデル卿夫人との約束は破られました……」
彼女は私をこのスフォールに呼び寄せる事を交換条件に、自分はドルスデル卿夫人の講義を受けると約束していた。
私はそれを破ってしまった彼女の良心に訴える。
「それは……だって、仕方が無いじゃない……! だって……ルナのことでいまさらあんな酷い噂を知ったんだもの。……けど、そうだわ。私は約束を破ったりしないわよ。午後でも夕方でも明日でも、今日の分はちゃんと勉強する」
「安心しました。……プシュケーディア姫は嘘をおっしゃるような方ではないと、私も信じたかったんです……」
自分自身の言動に虫唾が走る思いをこらえつつ、私は少し腰を浮かして隣に座るプシュケーディア姫の手を掴み、嘘くさく見えないことを祈りながら椅子に座りなおす際に左の脚を気にしながら
「うっ」
……と顔を顰めた。
「なに? 脚……痛むの!?」
立ち上がり掛けたプシュケーディア姫を手で制し、この脚は冷やすと痛むのだと言うことを私は伝える。
「アグナダ公国よりこちらの方が温暖な気候ですけれど、さすがにこの季節、夜は冷えますわ。ここは講義の部屋から距離がありますから……。調子の悪い日じゃなければ全然平気なんですけど。いえ、一度砕けた膝なので……。大丈夫です。少しこうして座って休ませればすぐに痛みは治まりますから」
本当は私の脚は痛んでなどいなかった。
同行してくれているテティが私以上に気を使い、冷えを感じる前に決め細やかな世話を焼いてくれるのだもの。
これは『嘘』だ。
「本当? 大丈夫なのね……?」
「はい。心配してくれてありがとうございます」
嘘をついたのは申し訳ないけれど、私は私がプシュケーディア姫の『可哀想なオトモダチ』であることを思い出し、それを意識してもらいたくてこんな下手な三文芝居などして見せた。
彼女が脳内に作り上げた私は相当に不幸な女らしい。
そんな可哀想な境遇のオトモダチになら、多少耳に痛いことを言われても我慢してくれるだろう。
そう思ったから……。
「約束と言うのは、ただ……お怒りにならないで話を聞いて貰いたい……ただそれだけです」
「なぁに? お説教とかなの? 嫌な話をするつもり??」
私の方へと浮かせかけていた腰を座部に深く下ろし、プシュケーディア姫は眉を顰めて肘掛に凭れ掛かる。
あまりに分かりやすく嫌そうな顔をするので、私は思わず笑ってしまった。
「いいえ。私、お説教なんてする柄じゃありませんわプシュケーディア姫。話を聞いて、いくつか考えてみていただきたいだけです。ただ……想像し難いことなので大丈夫かと不安で……」
「私、学校の成績は悪くなかったわよ?」
「ドルスデル卿夫人も王女の記憶力を褒めておりました」
「……本当?」
「はい」
そう。
ドルスデル卿夫人はプシュケーディア姫の記憶力は大変に良いと褒めていた。私も一緒に講義を受けていて、それは間近で見ているから知っている。
なのにどうしてプシュケーディア姫はこんな当たり前のことがすっぽ抜けているのかしら……?
そう思った途端、私は急に自分自身色々と当たり前の部分が抜けた人間である事を思い出す。
人と接する機会があまり無かったとか、経験が不足しているから……との言い訳が出来ない部分で変な思い込みや勘違いをし、それを常識だと思っていたのだ……。
……なるほど。
グラントは自分が大人になったなどとと思っている間はその人はまだまだ子供なんだって言ったけれど、どうやらそれは本当のことらしい。
もっと謙虚でいなければ……と、私は赤面しつつ胸中で猛省した。
「どうかしたのフローティア?」
「あ……いいえ。それより……先ほどの話に戻りますけれど、貴族をやめてどうやって生きていくのかと言うお話……」
「ああ……うん」
「王女はもちろん、貴族と言うのが領地の人々から徴収した税によって養われていることはご存知ですよね?」
もしもこの税から説明しなければならなかったら……と危惧していた私は、少し不機嫌そうに
「そんなこと、知っていてあたりまえでしょう。でも養われているんじゃないわよ。統治してる領土に住まわせてあげているんだから、税を納めるのは当然でしょう」
少しばかり私の持つ認識とのズレはあるけれど、彼女が社会の仕組みを知っているようなのでほっとした。
「貴族をやめたら収入がなくなりますわ。恐らく親御さんから絶縁されるでしょうから家も追い出されますけれど、従兄弟殿とエリルージェさんはどこで生活すればいいとお考えですか?」
「宿でも取るか、家を買えばいいでしょう? 家は借りるのでも構わないわ」
「では、それを借りるための資金はどうします?」
「そんなもの手持ちのお金を使えばいいだけよ。……家が幾らするかわからないけれど、買うのが無理ならやっぱり借りればいいだけだもの」
「手持ち……。従兄弟殿とエリルージェさんは家からお金を持ち出してゆく事が駆け落ちの前提ですのね。でも王女、彼らは一体どれくらい家からお金を持ち出すべきだとお考えですか? 従兄弟殿もエリルージュさんも、家事などしたことはないでしょう? 当然使用人は必要でしょうが、女中を置くにも毎月お金がかかります。食べる物にも着る物にも、冬になって暖炉を付ければ薪が必要になりますわ。夜になって暗くなればランプか蝋燭を使いますが、それもお金を出して買うのですよ? 靴も靴下も靴下や衣服を洗うための石鹸も、顔を洗った後に水気をふき取る布も、すべて黙っていれば湧き出てくるわけではありません。もしも生活の水準をそれまで通り保つのでしたら、それは相当な額になります。……金貨で持ち出すとしたら重くてご自分の手では持ち出せないくらいになるかと存じます。大体にして周囲や親の意に背き、出奔する人間にそんな大きな金額を持ち出させることを家人が許可するとは思えません。お二人は家から『窃盗』を行う……そういう前提でよろしいのですよね?」
「窃盗ってなによ……この場合仕方が無いじゃない。盗んだなんて外聞の悪い言葉を使うべきじゃないわ」
「……無許可で、ですけれど……?」
「だって自分の家のものでしょう!?」
「自分の為に捨てる家のものです。……それにしてもそれほど大量の金貨は持ち出せないのではないかと思いませんか? 金は重いのですよ王女。
無許可で金貨を持ち出すのに人を雇うなど論外な話でしょうから、大きい額は持ち出せないと考えたほうが良いと思います。その上で手持ちのお金が無くなったらどうするとお考えですか?」
「……そしたら、持ち物を売ればいいわ。宝石やいらなくなったドレスとか……」
「ええ……そうですね。……王女は今日、もしも王宮の外に出ることが出来たらどうなさるつもりだったのですか?」
畳み込むように彼女の従兄弟とその元婚約者の話をし、その後の生活や彼らの新しい生活にどれほどの資金が必要なのかを考えさせ、それは何処から出るかに話しをふり、更にその流れからわざと話を別方向へ飛ばした。
唐突に自分に向けて話を振られた王女は一瞬虚をつかれ、いくつか瞬きの後、少しバツの悪そうな様子で私から目を逸らす。
彼女は私を自分と似た立場の人間だと思っている。
私は既にアグナダ公国へ嫁ぎ、プシュケーディア姫曰く『苦しい思い』をしていると言うのに、自分だけはそこから逃げようとしたコトを彼女は恥ずかしく思っているのだろう。
「王宮を出て王女一人で暮らして行くなんて無謀ですわ……。街に逃げ出せたとして今日の夜を何処で過ごすおつもりだったのです?」
数秒間、王女はへの字に結んだ唇を微かに動かしていたが、目を逸らしたまま小さな声で
「友達の家に泊まるつもりだったわ……」
と答えた。
まあそんなところだろうとは思ったが、恋人と逃げるつもりだったなどと返されずに本当に良かった。
「ご友人は宿泊を許可してもご友人の家人がそれに気づけば、きっと王宮に連絡を入れて貴女は連れ戻されることになったと思います」
「そんなことないわ」
……と、馬鹿にしたような笑みを浮かべ王女が言った。
彼女が今夜宿を求めるつもりでいた『友人』の親御さんは、地方の小貴族らしい。
いつも遊びに行けばとても歓待してくれた彼らが、自分の嫌がる事をするはずはない……と、プシュケーディア姫は信じているようだ。
「……残念ですけれどプシュケーディア姫。貴女がこの結婚から逃げることに手助けをする貴族など、この国には一人も存在しないと思います。……貴女とフェスタンディ殿下の結婚に国家の存亡がかかっていますもの」
ボルキナ国の策謀に端を発するこの国とアグナダ公国との問題は、すべての貴族や国民らには知らされていないと思う。
大半の国民らはただ単に、メレンナルナ姫が亡くなったためにプシュケーディア姫がアグナダ公国へ嫁ぐことになったと、そう認識しているだろう。
みなが信じるようにこの縁談がごく普通の縁談だったとしても、人々はプシュケーディア姫が結婚を嫌がり逃げ出すことを許したりはしないはずだ。
モスフォリア国に比べ、アグナダ公国は大国。しかもリアトーマ国との国境以外をぐるりと海に囲まれたアグナダ公国は、造船を主要産業とするモスフォリア国の上得意でもある。
それだけでもモスフォリア国はアグナダと親交を深める意味があるのだが、更に言えばモスフォリアの位置するアリアラ海南岸は近年、紛争や戦争の絶えぬ状態が続いていた。
モスフォリアの西に位置する大国シズミュワレファはボルキナ国と同じく領土の拡大を狙う野心的な国家だ。
プシュケーディア姫の姉姫の一人がシズミュワレファの実力者のもとへ嫁ついではいるが、情勢が変わればいつ何時シズミュワレファの目がモスフォリアを野望の対象として見るともしれない。
シズミュワレファだけではなくモスフォリア周辺には火種が多い。
何かコトが起こらぬよう牽制の為、また、何か起きた時には援軍を要請できる大国を、モスフォリア国は後ろ盾として必要としているのだ。
話の途中、お茶の仕度をするためにカチュカが入ってきたのだが、プシュケーディア姫は気にする様子が無かったので私も彼女のことは気にしないことにした。
王女はさっきよりも少し青ざめた顔色をしている。
「私のせいじゃない。父さまや大臣がやったことのツケを、どうして私が払わなきゃならないのよ!?」
力の無い声で異議を唱えるプシュケーディア姫。
もしかしてこの結婚話の裏の事情を全く知らされていないのではないか……とまで危惧していた私は、彼女のこの言葉により、その辺りの事情を説明する必要が無いことを知った。
「……それは、あなたがこの国の『王女』だからです」
「わ、私は別に好きで王女に生まれたわけじゃないのに!!」
「分かりますわ……プシュケーディア姫。私も自分で選んで『私』として生まれてきたわけではありませんから……」
私は手を伸ばし、泣きそうな顔のプシュケーディア姫の手をそっと握る。
彼女だけじゃない。
彼女の姉姫達だって、好きでこの国の王女として生まれてきたわけではないのだ。
王女が怒りを撒き散らすのではなく泣きそうな顔をしているのも、自分の姉姫らが王女として生まれたが故、自国の安定のために自らの意思とは無縁の結婚を受け入れて嫁ついで行っている中、自分だけがそこから逃げようとしている事に対する罪悪感があるからだろうと思う。
……現実を把握していないことも彼女が自分には逃げる余地があると思っている原因だろうけれど、どうしてこうも子供のように現状に抵抗するのだろう……?
私はずっと、そのことが不思議でならなかった。
「……酷いわよ。そんなの。……父さまは言ったのよ? 約束したのよ? 私だけはモスフォリアから出て行かなくていいって……」
私の手を握り返し、灰色の瞳から涙の粒を溢れさせる王女。
「……王……プシュケーディア姫の父さまが?」
「そうよ……! 私だけは最後の『子供』だから、ずっとそばに置くって言ったんだから。そう約束したんだから……! なのに、嘘をつくなんて酷いわ」
ああ……。
と、私は思った。
これが、プシュケーディア姫の反抗の『根』のひとつなのか……と。
子供のように手放しで泣きじゃくり始めたプシュケーディア姫に、私はスカートのウエスト部分に挟んでいたハンカチを取り出して手渡した。
お茶の準備を終えたカチュカは隣室から畳まれたハンカチの束を持って来て、そっと王女の傍のティーテーブルの上に置き
「呼び鈴を鳴らしてくだされば直ぐに参ります」
と言い残して退出して行った。
プシュケーディア姫とそう年齢の変わらぬ若い娘だが、なかなか良い使用人だ。
「先日お会いした王様は酷くやつれておいでのようでした。王とて苦しまれておいでなのですわ……」
「分かってるわよ……だからドルスデル卿夫人の授業にだって出るようにしたじゃない。父さまは約束を破ったけど、私はフローティアが来てくれたから、ちゃんと真面目な態度で勉強をするようにだってしたわよ!? ……ちょっと今日はサボったけど……だけど、ルナのあんな酷い話……私は聞いていないもの」
「……亡くなられた方の名誉のため伏せるべき話だってございます。それに……王女。フェスタンディ殿下はすべてを承知した上で他国から嫁ついで来た者同士、気持ちの通じる部分もあるだろうと私を介添え役に任じたのです。ドルスデル卿夫人を王女の教育係としたのも、今後の王女の後見役をかねてのことと思いますわ。夫人は社交界での顔も効き、公国内でも有数の旧家の出の方ですもの。フェスタンディ殿下は懐が深く決め細やかな配慮の出来る男性です。安心してアグナダ公国にいらっしゃって大丈夫ですわ」
レースの縁取りのハンカチで大粒の涙を拭っていた王女は、チラリとこちらに灰色の瞳を向けた。
「やけにフェスタンディ殿下の肩を持つのねフローティア。殿下とは愛人関係かなんかなの?」
「……な……!?」
いまどきの若いお嬢さんと言うのは、こんなことを平気で口にするものなのだろうか。
確かに……望む相手と結婚できないコトの多い貴族社会では婚外恋愛など珍しい話ではないけれど、それにしたって若い未婚女性の口からそんな言葉がサラリと出て来るなんて思いもしない。
あまりのことに驚いて否定の言葉を差し挟むのを忘れてしまったが、プシュケーディア姫は別段それを気にした様子も無く言葉を続けた。
「殿下はおじさんはおじさんでも、そう悪い人じゃないってことなのはわかったけど、でも……やっぱり……どうしてたまたま王の娘に生まれたってだけで、私がそんな……。フローティアを介添え役にしたのも、ドルスデル卿夫人を後見人に必要とするのも、結局私が大変な場所に行くんだって分かっているからじゃないのよ。酷いわ……父さまは私に臣下の中なら誰でも好きな人と結婚させるって言ってくれたのに……」
昨日メレンナルナ姫の部屋で見損ねたフェスタンディ殿下の肖像画を、王女は未だに見ていないらしい。
絶世の美女と言う呼び名を追従や誇張なしに冠するあのレレイスの兄、フェスタンディ殿下は非常な美丈夫だ。
……まぁ……私の目から見ると殿下はあまりにも造作が完璧過ぎ、伊達に過ぎて、少し無骨さを感じさせるグラントの方が男性的で素敵だと思うのだが……たぶんこれはいわゆる惚れた欲目と言うやつだと思う。
みんなの目にも私と同じようにグラントがこれほど素敵に映っていては……困ってしまうではないか。
さておき。
プシュケーディア姫はまた『ふりだし』に戻り、王女として生まれたからと言って何故そんな責任を負わされなければならないのか……との泣き言を繰り返す。
やはり彼女は自分の立場と言うものを理解していない。
根本的な部分を分かっていないから、何度でも同じ地点に戻ってきてしまうのだ……。
ああ……グラント……私は貴方みたいに優しくなれそうもないわ。
この秋、レレイスから届いた手紙と書物で明るみに出た私の房事に対する妙な思い込みで、グラントがどれほど大変な思いをしたか今になってつくづく思い知る。
何処が問題なのかを見つけ出し、見定めて、その状態に見合った対処を取ると言うのは本当に難しいものだ。
私にはグラントのような懐の広さがないのだもの。
「では……プシュケーディア姫。そんなに『王女』と言うお立場が嫌なのでしたら、それをやめてみては如何ですか?」
我ながら意地悪だと思いつつ、私は私のハンカチをくしゃくしゃに握り締めて繰言をくり返すプシュケーディア姫に、そんな言葉を投げかけていた。




