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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
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『顔の無い花嫁』22

 王の娘らが住まう一角は、クリーム色や白などの明るく軽やかな色彩に彩られた壁面の、動物や神話の世界の不思議な生物の石膏像が出迎える空間だった。

 かつてはここには五人の王女らが起居する場所だったが上の姫から順にあちこちの国の王族貴族へと嫁ぎ行き、メレンナルナ姫が亡くなられた今、この一角に生活しているのはプシュケーディア姫ただ一人となっている。


 メレンナルナ姫が使っていた部屋は蝙蝠羽の海蛇像と人魚像との狭間。水色の扉の前にはこの一角の使用人の頭であるらしい中年女性が、鍵の束を手に佇んでプシュケーディア姫と私を出迎えた。

 どうやらまだ戸は施錠されたままであるようだ。


「……早く開けて」


 プシュケーディア姫が中年女性にそこを開けるようにと指示を出した。


「あの……プシュケーディア姫、こちらにどのような御用が……?」

「亡くなった姉の部屋を訪ねるのに用事が必要なの? ルナとの思い出に浸るためとでも言えば言い訳は立つ? 少なくとも空き巣に入るわけじゃないから安心して。いいから早く開けてちょうだい」

「申し訳ございません。ただ今お開けします……」


 使用人とプシュケーディア姫の間でそんなやり取りがあった後で扉の鍵は開かれたのだが、なんだかその時から私は妙な雰囲気を感じていた。

 私とプシュケーディア姫を部屋に通した時、使用人頭の女が何か言いた気な表情をしていたのだ。

 結局彼女は口を開きはしなかったけれど、あの表情の意味がどういうものだったのか、私達はほど無く知ることになる……。


 埃よけの白い布で覆われた家具の間をプシュケーディア姫が歩いてゆく。

 施錠されていた扉を入ってすぐ、市松模様の大理石張りのこの部屋はメレンナルナ姫の応接室であるらしい。

 これに寝室や衣装室、それに浴室などが一人ずつについているのだとプシュケーディア姫が言う。


「彼女が死んでから廊下のこっち側に来るのは初めて……。ルナと私、あまり顔を合わせることはなかったの。向こうが七つも歳上だったから話も合わないし……あの人はいつもどこか具合の悪い人でね、あまり近づくと風邪とか移されるから駄目だって言われてたわ。いっつも寝室でぐったり寝ているか、元気な時には……この外にルナの花壇があるんだけど、そこで草花をいじってた。後は本を読んでいる姿しか思い出せないわ。すごい本の虫だったの……」


 プシュケーディア姫は迷う様子なく真っ直ぐに応接室の向こうへと続く緑色の扉へと歩いてゆく。どうやらその向こうがメレンナルナ姫の寝室であるらしい。


「寝床で臥せって具合が悪い時でも本を読んでたのよ。物知りだったけど、ちょっと変わり者だったと思う。……寝室ってよりもこの部屋、ちょっとした図書室みたいな感じでね、きっと驚くわよ」


 プシュケーディア姫は緑の扉のドアノブに手をかけ、グイとそれを引いた。


「確か何年か前、こっちの部屋に来た時にルナの婚約者(・・・)の絵を見たような気がするわ。フローティアもこっちに来て……やっぱりさすがに一人でここに入るのは嫌だわ」


 私が聞いた話によれば、メレンナルナ姫は風邪をこじらせて亡くなられたのだとか。

 恐らくはこの自分の寝室で彼女は最期を迎えたのだろうと思う。

 ……多少歴史のある場所であればどんな屋敷であれ城であれ、人の誕生と死の洗礼を受けている。しかしこの部屋の主が亡くなってから、まだ一年と少し。未だに故人の気配が残っていそうで……正直なところ、出来れば踏み込みたくなど無いのだけど……。


 プシュケーディア姫に言われるまま、私も彼女の姉姫の寝室へとそっと足を踏み入る。カーテン越しの光で緑に染まった部屋の中は思いのほか明るい。

 隣室と同じく殆どの家具に白い埃避けの布が被せられており、そのせいで余計に室内が明るく見えているようだ。

 埃避けの布以外に目に入るのは、白い薔薇と蔦模様のカーテン。乳白色と青灰の大理石で市松模様に張られた床の上には東の国から輸入されたと思しき渋い茶色に染色された竹製の編み込み絨毯。

 銀の細い縞模様の入った壁紙はミルクの中にトルコ石を溶かし込んだような美しい水色で、少し低めの位置……たぶん寝台から見るに調度良い高さに小さな植物画が何枚も飾られていた。


 プシュケーディア姫の言うにはメレンナルナ姫は花や植物が好きで、尚且つこの部屋で寝付いていることが多かったと言う。

 晴れた日の屋外を思い起こさせるこの部屋の印象は、そのまま亡き王女の自然への憧憬を反映させているものなのかも知れない。


「あれ……無い?」


 室内を観察してそんな感想を心に抱いていた私の耳に、プシュケーディア姫の……少し呆然とした様子の呟きが飛び込んできた。


「どうしました?」

「おかしい。変だわ……」


 すぐ前に立ち止まったプシュケーディア姫が眉を顰めて私を振り返る。

 その右手はメレンナルナ姫の横たわっていただろう大きな寝台の向こう側に向けて指をさしていた。


「本棚が、スカスカ」


 それは床から天井いっぱいまでの高さの嵌め込み式の書棚だった。

 書斎や図書室にあるなら違和感を覚えないだろうが、うら若い女性の寝室にこんな大きな本棚があるのは見たことがないと言うほど立派な代物だ。

 書棚は壁と一体化した物であるため、ここには埃避けの白布は掛けることが出来なかったのだと思う。

 殆どの物が白布の下に収まったこの部屋にあって、ほぼ唯一剥き出しで置かれているのがこの書棚なのだけど……。


 上段下段、みっしりと詰め込まれた本の列、中段付近にやたらと隙間がある。

 大きさや種類ごとにきっちり並べられた本棚の中、隙間の開いた場所にだらしなく本が倒れ列を乱すのを見れば、不自然さは見るものの胸にいや増しに増す。


「本の整理か……処分でもしたのではないですか?」

「誰が? 何のために……? だって、ここにあったのはルナが自分で集めた本だったのに。……わざわざ取り寄せた東の国の漢方学の本とか、野草の本。薬草の本……ああ、一種類ごとに絵のついた花の本も無くなってる! 毒草か薬草か知らないけど、紫のすっごく綺麗な花の絵が描いてあったやつなのよ。あのページ一枚頂戴ってルナに言ったら、思い切り嫌な顔をされたのに……!」

「……薬草や……毒草?」


 若い女性の持つ本としてあまりふさわしいとは思えぬその内容に、私は背中にひやりと冷たいものを覚えた。


「そう。ルナは花や木や草の薬効にすごく詳しかったわ。それで自分の虚弱体質をどうにかするつもりだったのか分からないけど、あちこちの野山から草花を取って来させて、自分で育てたりもしてたのよ。なのに……ああ、酷い。……ルナのお気に入りの本が根こそぎなくなってるじゃないの……。どういうことなの?? ……ほんとにすぐそこのガラス扉から出たところにね、花壇を持っていたんだから」


 ああ……そうか。


 と、私はこの部屋からそれらの本が何故処分されたかに思い当たった。

 それは、ここに残しておいてはいけない物だったからだ。

 姉姫の蔵書が消えていることにプシュケーディア姫は憤慨し、私に花壇を見せようと部屋を横切って薔薇と蔦のカーテンに手をかけた。

 それがプシュケーディア姫の手で開かれる前に、メレンナルナ姫の花壇がどのような状態になっているか私には容易に想像出来てしまう。


「ああ……っ!? どうして? どうして花壇が無くなってるの!?」


 プシュケーディア姫は、窓の外を見て驚愕の叫びを上げた。

 そこ(・・)にあるものと信じて疑わなかったものが消え失せているのだ。彼女が驚くのも当然だと思う。

 ……見るまでも無い。きっと、薬草や毒草の栽培されていた花壇など最初から無かったかのように『処理』されていたに違いない。


「どういうことなの……どういうことなのよ……」


 真っ直ぐ背中に流された癖の無い髪を、プシュケーディア姫は掻き毟る。

 髪の流れが激しく乱れ、せっかく綺麗に結ばれた後頭部のリボンが無残に折れ曲がってしまったが、今の彼女にはそんなことにかまいつける余裕などないだろう。


 プシュケーディア姫は何も知らないのだ。

 メレンナルナ姫がフェスタンディ殿下に対する何らかの密命を受けていたかもしれないことなど、全く。

 私だって一国の王女がその手を直接汚すような命令を受けていたとは思いたくないが、少なくとも、今のモスフォリア国はそんな疑惑(・・)をアグナダ公国に持たれる事自体を避けたい筈。

 このくらいの工作はやって当然と言える。


「……本だけじゃない。ルナの日記も……自筆のノートも……なんで何も残ってないの!? 泥棒? ……違う。鼈甲の櫛も銀の手鏡も残ってる……洋服も、靴も。本当にどういうことなの……」


 部屋の中を走り回るようにしてプシュケーディア姫は埃避けの布を引き剥がし、姉姫の鏡台の引き出しや寝台横の引き出しをかき回す。

 いくら仲はさほど良くなかったとしても、自分の姉姫の部屋にこんな異変を見つけたら誰だって一体何事かと思うだろう。

 誰かが金目の物を掠めて行ったと言う話なら不快ながらも理解できるだろうが、故人の『趣味』の本や手記だけが無くなっているともなればことさらに。


「なんなの……これ?」


 メレンナルナ姫の寝室やその奥の衣装室。

 再び戻った応接間やお風呂場までをアチコチと駆け回ったプシュケーディア姫が、息を切らし呟くのを聞いて、私は本当にいたたまれない気持ちになった。


「ねぇフローティア……変なのよ。本も花壇も。……ああ……そうだ……押し花を挟んでた手帳も、全部無くなってるのよ? どうなってるの、これ?」


 プシュケーディア姫の混乱や疑問はもっともだけれど、まさか私の口から下手なことを言うわけにも行かない。

 我ながら空々しいとは思ったが、私は彼女の主張するこの部屋の異変に対し


「あまりお気になさらい方がいいと思いますわ。もしかしたらプシュケーディア姫の気のせいかもしれませんし……」


 そう答えるしかなかった。


「気のせい……!?」


 激しく反駁しようとする王女の言葉に押し被せ、私はさらに口を開く。


「だいたい……プシュケーディア姫。この部屋に来たのはフェスタンディ殿下の肖像を探す為だったのではないですか?」


 固い口調。硬い声。

 自分でも不自然すぎて恐ろしくなったけれど、それは私だけではなくプシュケーディア姫の耳にもそう聞こえていたのだろう。


「肖像画!? そんな場合じゃないわ……だって……」


 自分の疑問に同調しようとしない私への苛立ちで声を荒げたプシュケーディア姫が、唐突に口を閉ざす。

 灰色の瞳に真っ直ぐ見つめられ、私は心の中でたじろいだ。


「…………フローティア……あなた、何か知ってるの……?」


 潜められた小さな声。

 真剣なまなざしでの問いかけに、私は返す答えを持たない。

 これは私が口を出して良い問題ではないのだから……。


 息の詰まる数秒の後、プシュケーディア姫は私から情報を引き出すことを諦めたようだった。


「いいわ、あなたじゃ埒が明かない。……父さまに聞くからいい……! お茶は明日に延期よ。フローティアはもう部屋に戻って……っ!」


 癇癪を起こした子供のように叫ぶと、プシュケーディア姫くるり踵を返しメレンナルナ姫の部屋を飛び出していった。

 鍵の束を手にした使用人が部屋の外、頭をたれてプシュケーディア姫を見送る。

 それは恐らく主人に対する礼と言うより、王女と目を合わすことを避けての動きだったのと思う。

 プシュケーディア姫はメレンナルナ姫について取り沙汰される話を知らなかったが、使用人の間ではなんらかの噂が囁かれていてもおかしくはない。

 むしろプシュケーディア姫の為にこの部屋の鍵を開けた時の反応を思い出せば、何も知らないことはないだろう……。


 この部屋に長居する理由は無い。

 ……いいえ、そもそもこの部屋に入るべきではなかったのだ。


 私は顔を伏せ表情をうかがい知ることの出来ぬ使用人の前を通り、明るいクリーム色の壁の廊下へと歩き出した。

 壁に穿たれたがんの中、蝙蝠こうもり羽の海蛇像に見送られ、テラコッタの中庭を望む回廊を行く私の足取りは重い。

 迷路のように入り組んだ構造の王宮だけれど、道順は覚えている。


 王女は姉姫メレンナルナの部屋が何故あのようにされていたのか、探り出す事は出来るだろうか?

 または、それを推察することは……?


 もしもメレンナルナ姫がフェスタンディ殿下に対する密命を受けていた可能性を知れば、アグナダ公国での自分の立場の苦しさに彼女は改めて絶望を覚えるかもしれない。

 私は回廊の途中に立ち止まり、静かな清水を湛える水盤に目をやってため息した。

 我ながら弱気だとは思うけれど、今すぐにでもグラントに会い、このどうにもならぬ状況について思うさま愚痴を零したい気持ちだ。


 グラントがこの国に来るため無理やり作った役目とは、新造船の資料や試作艦の処分がどのように行われたのかをその目で見、フェスタンディ殿下にその報告を行うと言うもの。

 軍は大公はじめ国の上層機関への報告は適正に執り行う予定であり、こうしてフェスタンディ殿下個人から別個にそれを監視する人間が派遣されてくると言うことは、まるで殿下が軍を信用していないのでは……との不快感を抱かせるものであるはずだ。


 アグナダ公国で軍の派遣を大公の指示に従い執り行った軍の最上層へは、殿下や大公が直接今回のグラントの派遣に軍に対する他意など無いと言うことは伝えてあるそうだ。

 また、グラント自身からも書簡にてその旨は申し伝えていると言う。


 彼が今までもアグナダ公国に対して大きな貢献をしてきている事は、国政の中心にいる方々は知っている。

 傭兵出身であるバルドリー家に対する思いもそれぞれあろうから内心どう思っているかは分からないけれど、軍の最上層は一応今回のグラントの行動について了承しているのだそう。


 問題なのは、現地に派遣されている軍の指揮官達だ。

 アグナダ公国国軍内ヒエラルキーで言うなら、彼らは『固定的上層部』。

 ……出自は生粋の貴族家系であり、先祖代々の軍属。

 戦争の無い平和な今の時代にあっては完全に固定された地位に満足するより無い立場にある彼らの中には、成り上がりへの強い嫌悪を抱く者も多いらしい。

 大公やフェスタンディ殿下の覚えめでたい傭兵出身家系のグラントなどは、恰好の嫌悪対象と言うわけだ。


 どう考えても彼の現在の状況は楽しいものではないだろう。

 愚痴を聞いて欲しい……なんて、甘えたことを言っているような場合じゃないことは分かっている。

 私もグラントも、この国に遊びに来たわけではないのだから。


 ……だけど……。


 ああ……もう……変な言い訳をしても仕方が無い。

 私はただ、グラントに会いたいのだ。

 愚痴なんて聞いてくれなくてもいいから、ただ彼の顔が見たいだけ。彼に触れたいだけ。

 彼の温もりが空気を通して感じられる位置にいて欲しいだけ……。


 プシュケーディア姫の事を考えて弱気になっているせいでもあるけれど、彼に会いたい気持ちがこうも募るのは、私が彼の居場所を把握していないせいもあるだろう。

 機密漏えいを防ぐ……と言う軍の活動の性質上、同じアグナダ公国内部の人間であっても私には彼の居場所……つまり、軍の宿営地は教えられていない。


 大型船『white coral』を下船した後、グラント自身にも行き先を知らされていなかったと言うくらい守秘意識は徹底していた。

 まあ……守らねばならぬ機密の重要性からすればこのくらいの事、当然と言えば当然かもしれないけれど。

 その上、プシュケーディア姫の『親切心』により、この王宮に滞在して三日、私の耳には噂レベルの軍の動きすら入ってこない。

 バルドリー卿に関する汚らわしい話など私の耳に入れぬように……と、プシュケーディア姫が周囲の人間に通達したせいだ。


 青い空を映す水盤を眺めながら、私は再び大きなため息を吐いていた。

 ……プシュケーディア姫の立場が苦しいモノであることは理解している。そのことに同情心だって持っている。


 皆がレレイスのように雄々しく、潔く、自分の立場の持つ責任を全う出来るわけじゃ無い……。

 だけど、葛藤し煩悶し反抗し……諦念とともに己の義務を受け入れるに足る時間がプシュケーディア姫に無かったとは思えない。


 フェスタンディ殿下との婚約が発表されたのは、昨年の秋の終わり。

 既に一年の時間が経っているのにそれでも尚自分の立場に向き合えぬと言うのなら、それにはそれなりの理由があるのではないだろうか?

 人の気持ちの機微に疎い私でなければ、その辺のところにすぐ気づいて差し上げられたかもしれないのだけれど……。


 今日彼女の心を乱したのだって、元はと言えば私がフェスタンディ殿下のことを言い出したのがきっかけだ。

 これがため息をつかずにいられるものか……。

 プシュケーディア姫の心の安定を手助けし、王女の我侭と強情に振り回されご苦労なさってきたドルスデル卿夫人に助力出来ればと思っていたのがこのていたらく(・・・・・)なのだもの。


 自分の意志とは関係なしに私の唇は歪んだへの字を描いていた。

 もしもプシュケーディア姫がメレンナルナ姫の事を知ったら、どうなるだろう……?

 またアグナダ公国へ嫁ぐ事を拒否し、ドルスデル卿夫人の明日の講義からも逃げ出すかもしれない。


 それに思い至った私の唇からは、三度目のため息が止めようもなく零れ出るのだった……。


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