『木の杖と初夏の花嫁』3
扉を開けるとその場にいた人々の目が、一斉にグラントへと注がれた。
それは『私の夫』への注目ではなく、五十余年前の戦における聖職者的和平条約締結のきっかけを作ったバルドリー卿の孫への興味からのものだろう。
こういった場や目線に慣れているらしいグラントは、彼らしい鷹揚さで兄様への祝辞を述べ、挨拶を交わした。
彼自身は社交界や社交的集まりがあまり好きではないそうだけれど、好きじゃないイコール苦手であると言うわけではないようだ。
グラントは本人さえそのつもりになれば、いくらでも人を魅する態度や物腰を取る事が出来るのだ。
大柄で筋肉質な体躯が威圧感を与える部分も若干あるけれど、顔立ちは知的で造作も悪くないし、周辺国を旅した経験から話題も豊富。
商人として人づきあいのバランス感覚を養ってきた彼は、どんな場にあっても自分の適格な位置を見つけ出せる。
エクロウザ兄様が仲立ちになり、親族らとグラントを紹介していった。
父方のオドスティン大叔父様はお若い頃の美男子ぶりが忍ばれる白髪の老紳士で、口数は少ないがいつも口元に笑みの気配が漂っておられる方だ。
糊のきいたレースの立ち襟の古風なドレスをまとった母方の伯母上ホーネスタ夫人は、いつも少しの緩みもなく背筋を伸ばしておられる。
ここ数年膝が悪くなられ、自分の世話をさせる為に手元に残した末娘のロディディアを杖代わりに伴っているのだとか。
今回伯母に同行してきたロディディアは私より5歳ほど年嵩だった筈。……ドレスは上等な生地で素晴らしい縫製だが、色味が地味すぎて彼女を年齢より上に見せてしまうようだ。
もっと派手な柄物でも着れば伯母上に良く似た面長の美しい顔立ちが引き立つだろうに、もったいない。
殆ど行き来の無い間柄なので彼女の事はよくわからないが、姿は母親であるホーネスタ夫人と驚くほどよく似ていて、まるで伯母さまの複製品のよう。
次々と紹介される親族らにグラントはこれ以上無いくらい完璧に、威厳を失わない程度に愛想よく挨拶をし、立派に振舞っている。
私は彼の半歩後ろを一緒にまわりながら、彼らの会話を聞いていた。
最後に紹介された相手は、兄様の婚約者ポメリア・エリンシュート嬢だった。
「初めましてバルドリー侯爵。……卿のお祖父様のご高名はこの国では小さな子供ですら存じておりますわ。歴史上の英傑のご子孫にお会い出来て本当に光栄です」
親族らへの紹介が終わり、今回の集まりの真打ちたるポメリア嬢の手の甲へと儀礼上の接吻をするグラントに、彼女はニッコリと笑みを浮かべて返礼代わりのお愛想を述べる。
エクロウザ兄様はグラントの半歩後ろに控えた私も『妹のフローティア』として紹介してくれ、ポメリア嬢は浮かべたままの笑みを一瞬だけこちらへ滑らせた。
視線がふわりと私の上を走ったように思う。
……でも、それだけ。
私はドレスの裾を片方掴み、杖をついて膝を曲げる不格好な挨拶のポーズを味気ない気持でゆっくりと解いた。
この部屋に入ってから、私はこの場にいながらこの場には存在しない人間のようになっている。
ここは身体にちょっと不自由な部分のある私にも普通に接してくれるアグナダ公国の社交界とは違うのだ。
この国の上流階級社会には『健常者』以外は存在しない。
私のように不自由な部分を持って生まれた……または、社交界へデビューする前にそういう部分を持ってしまった人間は、表舞台に立つことは決してない。
社交界へのデビューはもちろん、殆どの場合縁談も無いのが現状だ。
私だってもしも屋敷外で独立せずグラントとの出会いが無かったのなら、きっと今もここかフルロギの屋敷の中でひっそりと日々を過ごし、華やかな席が設けられた時には極力目立たぬよう、息を潜めて部屋に籠っていただろう。
私は歓談する人々の輪の中からそっと抜け、部屋の隅の椅子に腰を下ろして彼らの姿を見ていた。
……グラントと兄様やその婚約者、親族らの邂逅がどんなものになるのかと考えていたのだけれど、殆ど予想通りの展開になったようだ。
もともと彼らにとって『私』は、社会的には存在しない人間だった。
夫となったグラント・バルドリー侯爵を受け入れる事はやぶさかではないけれど、私はこれまで通り関心の無い猫がそこにいたように扱われるらしい。
冷静に考えてみると彼らとグラントの接点は私の筈なのに、とても奇妙な事になっている。
けれど、私自身は別になんてことはなく『こんなものだろう』と思う……。
親族らを始めポメリア嬢もこの国の慣習に従って私の存在を黙殺しているだけで、悪意が無いことは承知していた。
ポメリア嬢が私から直ぐに目を逸らしたのも、私を凝視するのは『失礼なこと』と思ってだろう。
鈍い私はここに来てグラントがさせようとした華美な装いの意味に気づき、胸の中にほんのりとした可笑しさと切なさを覚える。
彼は私に注目させたかったのだ。
……特に、この度の集まりの主役であるポメリア・エリンシュートに。
場の中心は彼女。話題も兄様とポメリアさんの結婚や彼女自身の事になる。
その彼女が私へ関心を寄せたなら、彼女を介して私の存在を周囲にアピールする事が出来る。
もしも私が彼女の目を引く華やかな装いでこの場に現れたどうなっていたか、現実には無かった事態を今さらあれこれ想像したりはしないけど、グラントの気持ちは嬉しかった。
……だけど、こんなの今までどおりと言うだけだもの……気にしなくていいのに。
いえ、彼がいる事によってこれまでよりずっとこの場にいやすくなったくらい……。
もしもグラントが今回同行してくれていなかったなら、私はこうして親族の集まる部屋の椅子に腰掛けてゆっくりと周囲を見渡したり出来なかっただろう。
ポメリア嬢へ紹介され、室内の皆に軽く礼をしたらすぐに退席していた筈だ。
私は視線が不躾な物にならないように注意しながら、兄様の婚約者へと目を向けた。
エリンシュート令嬢は比較的長身で、丸みを帯びた健康そうな体つきの女性だった。
肌が透けるほど白く、髪の色は飴色。顔立ちにこれと言った特徴は無く地味ではあるけれど、青灰色の大きな目は夢見るような色を帯びて美しい。
グラントの『新興の富裕層には華美な衣装を好む傾向がある』の偏見には懐疑心を払底しきれないが、ポメリアさんが今日身につけているドレスは確かに少し派手なのかもしれない。
孔雀青の布地に銀緑に輝く縦縞が地模様に入っており、それらの色との対比も鮮やかな白レースのひだが、胸元や大きく膨らんだスカートの前面から溢れるように覗いている。
ガウンの下の胸当てとエシェル───胸からウエストにかけて並ぶリボン飾りは、リアトーマ国に入国してすぐに目にした例の勿忘草色の物だ。
顔立ちに比較するとドレスの色が勝ち過ぎている気もするけれど、今日の主役が彼女であると思えば、この程度の派手さなら許容される範囲じゃないだろうか。
……それにしても、飴色の髪の毛にまで編み込まれたあのリボン……。
皇太子妃であるレレイスへよほど良い気持を持っているんだろうと思っていたら、彼女は王城の離宮で開かれたお茶会に何度か呼ばれていたのだそう。
レレイスがこちらに嫁いで間もない頃に開かれたお茶会は、ポメリア嬢の話しぶりから考えるに、レレイスのリアトーマ国社交界での友人を作るために行われたもののようだ。
「レレイス様と言えば……」
母様がレレイスの話題に切り替わった瞬間、チラリと物言いたげな目線をこちらへ向けてきた。
恐らくレレイスがこの屋敷に投宿した時に母様や兄様に話した話を……サザリドラム王子との愛情ある結婚の馴れ初めともなった肖像画を描いた人間が私なのだとでも思い出したのだろう。
私が母様へ向けて首を振ったのをグラントも目にしたはずだ。
レレイスの『友人候補』に選ばれたのを喜ぶポメリア嬢に、私のような者とレレイスとが繋がりを持っているなんて話しては、彼女の気持ちを損ねてしまうかもしれない。
……しかも、その話をすると私が結婚の前に一度アグナダ公国へ入国したのをこの場の人々に知られる事になり、そうなると、人身売買組織に浚われグラントに救出された……と言う、あの荒唐無稽な作り話を引っ張り出してこなければならないかもしれない。
あの話は信じられないほどバカバカしいだけではなく、子爵家の娘が人浚いにあったと言う不名誉なお話でもあるのだから、これがうっかり他所へ伝播してしまっては、我が家の名誉が損なわれてしまう。
それどころか、変に興味を持った人間によって私の事を調べられてしまうと、非常に不味いのだ……。
もしもどこかから私がアグナダ公国工作員を探りだす間諜を務めていたなどと知られたら、子爵家の令嬢が人浚いに遭った以上の問題になることは必至。
なればこそ、賢明な兄様は私とレレイスの事をポメリア嬢に語った様子は見られない。母様もその辺りの危うさに気付いてか、何事も無かったかのように口を閉ざしてくれた。
何も知らないポメリア・エリンシュート伯爵令嬢だけがほんの一瞬不思議そうな表情を浮かべ、すぐに母様の言葉を引き取る形で
「レレイス様と言えば、バルドリー侯爵が介添え人をなさったのですわよね? ……素晴らしいわ」
と、どこを見るともなくそう言いながら、うっとりとした表情を浮かべた。
私には彼女の言う
「素晴らしい」
が一体何を指しての感嘆の言葉なのか今ひとつわからなかったけれど、グラントは控えめな笑みと困ったように寄せた眉、それに微妙に竦めた肩で奥ゆかしさと謙遜を演出しながら口を開く。
「あの折りは介添えを務めるに相応しい諸侯らが体調を崩されて……本当に、まさかの巡り合わせで私のような若輩が分に過ぎる大役を務めさせていただいたのです。全く光栄な話でした……」
がちがちに謙遜を押し出すのではなく、微妙に誇らしさを織り交ぜた部分まで含め、グラントの言葉は非常に好感度の高いものだった。
……但し、介添えの任を得る為に彼が実に周到な根回しと権謀を弄したことを知らない場合に限るけれど……。
「アグナダ公国から王都・フルロギまで、あのようにお美しいレレイス様のお傍近くにいられるなんて、ワタクシ……心底羨ましく思いますわ」
ポメリア嬢のこの言葉は情感たっぷりに語られたので、私にも彼女がかなりのレレイス贔屓である事が分かった。
……そう言えば、色味が違う事や着ている人間の体型が違う事で気がつかなかったけれど、ポメリア嬢の着ているドレスはレレイスが好んでいた形に良く似ている。
上部両横が張り出したスカートの形が特徴的なのだが、これはあまり長身の女性向きじゃないかもしれない。
「こ……皇太子妃様の美貌についてよく耳にしますけど、よほどお美しい方なのでしょうねぇ?」
ロディディアが若干懐疑的な口調で問いとも独り言ともつかぬ言葉を発すると、伯母さまや大叔父様、母様らもその事に興味を持っていたようで、皆の視線が実際にレレイスとの面識を持つポメリア嬢や兄様、グラントとに集まった。
「婚礼の宴の席で拝謁しただけだけど、美しい人でしたね」
兄様は横に控える婚約者の手前か、控えめに一ことそう言った。
一番レレイスとの付き合いが長いグラントだが、彼も明日の主役である花嫁を差し置いて他の女性の美貌を褒めたたえるのは穏当では無いと考えたのだろう。
「アグナダ公国の社交界でレレイス様は花形でしたが、リアトーマ国の社交界でも同じのようですね」
そんな無難な言葉でお茶を濁し、それ以上の称賛はしなかった。
言葉を尽くしてレレイスの素晴らしさを語ったのはポメリア嬢だ。どうやら彼女のレレイスへ対する気持ちは、ほとんど心酔と言っても良い程のものであるらしい。
実際彼女は美しい。
美しいという言葉が虚しくなるくらいに完璧で、光り輝かんばかりの人なのだ。
ポメリア嬢のレレイス語りをきっかけに、場の人々は和やかに会話を楽しんでいた。
私はその光景を眺めているうちに少しばかりこの国における自分の立場を忘れ、ゆったり腰を落ち着け過ぎていたようだ。
ホーネスタ夫人の視線がすうっと私の上を通って行ったのに気付いた瞬間に、今まで治まっていた胃痛が不意に蘇ってくる。
……なんだかその視線が、家族の団欒の中に入り込んだ使用人に退出を迫るもののように感じられたからだ。
恐らくそれは私の勝手な被害妄想に違いないけれど、一度心の中に芽生えた自分は『部外者』と言う意識は耐えがたいくらい急激に膨らみ、私を深く掛けた椅子から立ち上がらせていた。
楽しげな人々の邪魔をしないよう自然に、そっと母様へと近づき
「そろそろ私は部屋で休ませてもらいます」
と、努めて朗らかに言葉を掛ける。
「大丈夫か、フロー?」
気遣わし気な表情のグラントに微笑を向け、私は彼に気にせずこの場に残っていてくれるようにと言った。
「長旅で疲れたのね。ゆっくり休んでいらっしゃいフローティア。ああ……荷物は北翼の白い暖炉の部屋に運ばせてありますからね」
母様が教えてくれたのは、レレイスの投宿したこの応接間付きの客室に次いでこの屋敷で大きなゲストルームだ。
皆に会釈をして部屋を出る前に、物言いたげな表情で兄様を見上げるポメリア嬢を見たような気がしたけれど、気のせいだろうか?
本当に私は長旅で疲れているのかもしれない。
そうでないのならこんなに嫌な汗で杖を持つ手が滑りそうになったりはしないだろうし、このエドーニアへの帰郷が私一人だけだったなら、私とグラントが使うあの大きな客間は明日こちらに訪れるエリンシュート伯爵夫妻が使えた筈だったのに……などと、そんな卑屈な事は考えたりはしない筈だ。
私は、母様よりずっと年上のあのホーネスタ夫人と言う人が……苦手なのだ。
ふらつく足取りで母様が用意して下さった部屋へたどり着くと、テティは明日身につける予定になっているドレスを荷物の中から出し、皺を伸ばしたりブラシを掛けてくれているところだった。
「奥様? どうされました? お顔の色が良くありませんけれど……」
いつも私の生活をきめ細やかに世話してくれるテティは、直ぐに私のただならぬ様子に気づいたよう。
「ちょっと疲れが出たみたいなの。きっと故郷に帰ってきて安心してしまったのね……少し休めば良くなると思うわ」
彼女の助けを借りて夜着に着替え、私はベッドに潜り込んだ。
本当は旅の疲れなんて少しも出ていない。脚は悪いけれど、私はわりと体力がある方だ。
今頃グラントはあの部屋で親族らと会話を楽しんでいるだろう。
それは私が彼にそうしてくれるように求めた事なのに、どうしてこんなに私は淋しいなどと勝手なことを思っているのか……。
シクシクと痛む胃を庇うように寝具の中で小さく身体を丸め耳をふさいで目を閉じる私の頭の中に、さっきから何度も繰り返し同じ言葉が巡っている。
昔……ホーネスタ夫人の声が私に言った『あの言葉』……。
『リスタスが死んでこの子が生き残るなんてね……。この子が死んでリスタスが……例え脚が不自由になっても、彼が生き残ってくれれば良かったのに。なのに、どうしてこんな子が生きているのかしら。この子が死ねば良かったのに……』
ぎゅっと目を閉じ、耳を強く塞いでも私の頭の中から……言葉は消えてくれなかった。