『顔の無い花嫁』14
「ねえフロー……あなたも私の事を怒っていて?」
レレイスが身を縮めるようにしてそう聞いてきたのは、彼女と二人きりになった後の事。
私達がいるのは舞踏室と間続きの広間の一角。
ガラス張りの舞踏室の鏡のように磨かれた茶の腰板と同色のピカピカの床の上、華やかな衣装をつけた人々が優雅に踊る様を一望に見渡せるこの席は、もともと御使者用にと用意されていたものだ。
遥か海の彼方の東国から持ち込まれた色絵の大花瓶が私の横と小卓を挟んで座るレレイスの向こうに色とりどりの花や羊歯の葉を満載し、鎮座している。
慣例で言うなら御使者は一人でこの席に座り、舞踏室の人々を眺めつつ軽い飲み物や軽食で接待を受ける。
だから兄様がレレイスをここに案内して来た時、大きな色絵花瓶に挟まれたこの小卓に椅子は一脚しか用意されておらず、いま私が腰を下ろしている席は、彼女がここで私と話がしたいので……と急遽用意させたものだった。
レレイスは私を自分の隣に座らせると、彼女のそば近く侍ろうとした客人達に美しく魅惑的な微笑みを向け
「フローとゆっくりお話しがしたいので」
と言って、あっさり周辺から人々を排除してしまった。
最後に残ったのはグラント一人。
「レレイス……自分のやる事が唐突過ぎる自覚はあるか?」
周囲にそば立てる耳の無い事を確認し口を開いたグラントは、暗色の瞳に微かな苛立ちを浮かべていた。
この言葉にレレイスも少し気を悪くしたらしく、唇を曲げ、青い瞳の上の蛾眉を顰める。
「あらグラント、貴方も私のはじめた話の尻馬に乗っておきながらその言い草は酷いんじゃなぁい? 私としてはどうして貴方がついているのに彼女があの場の人たちに正当な評価を受けていなかったのか、そのことが不思議でならなくてよ?」
「……すでに方向を定めて転がりだした物事なら、その勢いを利用しない手は無いだろう。皆の前でリアトーマ国の皇太子妃であるキミは、フローの大親友を名乗った。サザリドラム王子も巻き込んでね。その後には大袈裟な逸話つきでブルジリア王国の王弟の名を出し、モスフォリアの王女やフェスタンディ殿下の名を引っ張り出してフローと言う看板を満艦飾に飾り立てた。……確かにキミの言うとおり、俺がついていながらフローがキミの思う『正当な評価』を得ていなかったのは事実だ。……それに、もしも俺が同じように彼女を大々的にこのリアトーマで押し出そうとしたところで、キミのような劇的な演出をする事など到底出来ないよ。非常に華やかだし手っ取り早い。もう今後、このリアトーマ国の社交界でフローを侮るような人間は出てこないだろうね。その点については俺からも礼を言う……」
滔々と語ったグラントがその長身を彼女に向けて折ると、それまでのレレイスの不満気な顔から見る見る勢いが失せて行くのが分かった。
「私には、私の考えがあるのよ……」
不安そうな青い瞳をチラリと私に向け、呟くレレイスにグラントは溜息一つ。
「説明も弁解も相手が違うんじゃないですか、皇太子妃さま。貴女がフローを『友人』だと言った気持ちに嘘が無い事を私は信じておりますよ。……では、これ以上私がここにいるとご迷惑でしょうから失礼いたします」
胸に手をあてて再びの優雅な一礼。
グラントは私の肩に一瞬ポンと手を置くと、レレイスには目も向けずに立ち去って行ってしまった。
しおだれた様子で彼の背を見送るレレイスの横顔を見ながら、私はいま目の前で交わされたグラントとレレイスの会話の意味を考えていた。
レレイスが客人達の前で大仰に私を持ち上げるのは一体何故なのか不思議だったのだけれど、それはどうやら彼女なりに私のことを心配して起こした行動だったようだ。
彼女は私に……なんというか、皇太子妃の友人である事や他国の王室に知己があること、アグナダ公国のフェスタンディ殿下の元へ輿入れするモスフォリアの王女の介添え人のお役目を与えられている事などを使い、本来リアトーマ国の上流社会では存在を隠される筈だった私と言う人間に付加価値を与えようとしたのだ。
グラントはそれを『フローと言う看板を満艦飾に飾り立てた』……と言ったけれど、その表現は言い得て妙だと思う。
そして彼はレレイスの始めた付加価値の添付作業に乗りはしたけれど、本当はそのやり方には不賛同だった事も分かった。
なぜ彼がそれに不賛同だったのか……と言えば、グラントはいつでも私の意を汲んでくれようとする人だから……だろう。
それに恐らくだけど……レレイスがフルロギ別邸に来たのは、黄金街道がらみのことや私への付加価値添付の為だけではないんじゃないかと言う気もする。
「ねえフロー……貴女も私の事を怒っていて?」
いつに無く弱気な気配を漂わすレレイスを、私はじっと見つめる。
「貴女が何を隠しているのか分からないうちからどんな態度を取るかなんて、私には決められなくてよレレイス」
「ええ、そうね。確かにそうだわ……」
小さく細い吐息。
長い睫に縁取られた青い瞳が意を決したようにこちらに向けられた。
「あなたが私のことを怒っても、許してくれても、どちらにしてもはじめに謝っておかなくてはいけなかったんだわ。ごめんなさい、フロー。……私ね、この国の貴族社会に腹を立てていたのよ。この間あなたが王宮に来た時にお話しした事を覚えていて? 先代の王のご兄弟が……あなたのように体にちょっとした不具合があるからと言う理由で、存在自体を隠されているって話を?」
「……ええ」
「ただ目が悪いとか、手足が不自由なだけでどうしてそんな扱いを受けなくてはいけないのか、私にはさっぱりわからないわ。だって、私は貴女が素晴らしい人だって事を知っているんですもの。駄目よフロー……反論しないで。少し黙って聞いていて頂戴。あなたはね、私より頭が良くて勇気もある。強くて優しい人なの。とても素敵な女性なの。グラントは、私があなたの肩書きを満艦飾に飾り立てたって言ったけど、そんなことはないと思うわ。だって、私がさっき皆の前で言った事は全て『本当のこと』ばかりでしょう?
フロー、あなたは私の大事な友達だわ。今では私……こう言っちゃなんだけれど、グラントなんかよりあなたの方が全然好きなくらいよ。だからもしも彼があなたに酷い事をしているんなら、グラントの事を絶対に許さないわ。……それにね、グラヴィヴィスがあなたに感謝していると言う話だって嘘じゃないでしょう?
私がフローと友人同士だって知ってから、あなたの事を教えて欲しいと彼からのお手紙に何度も書いてあってよ。……もちろん人妻に対してそれは少し不穏当だから、自重するようにとは言ってあるけど、だけど、あなたが彼の恩人だと言うのは本当のことだし、グラヴィヴィスがあなたに想いを寄せているっていうのだって本当のことだわ。それから……そう、これからあなたがモスフォリアの王女の介添え役をする事も決まっているのでしょう?」
レレイスが私を本当に大事な友人だと思い、それを公言してはばからないと言ってくれるのは嬉しい事だ。
……彼女が数え上げた幾つかの事も……まあ、ある程度嘘ではない。
だけどどうしてだろう。
彼女が言うと途端にそれが自分のことではないような絢爛豪華な派手さを纏う気がする。
それに……。
「でもレレイス。介添え役はあなたがフェスタンディ殿下に私を推挙したのでしょう? 殿下はそうおっしゃっていたわ。名誉な役ではあるけれど、それってグラントを殿下の参謀に加える為の地固めの一つに過ぎないことよ」
グラヴィヴィスの事はたまたまのめぐり合わせ上恩人などと言う立場になったけれど、介添え役を得たのはレレイスの根回しあっての事なのだ。
「あら……兄がそう言ったの? 確かにグラントの事も多少あるでしょうし、私があなたの名前を挙げたのも本当だけど、あなたが役目に相応しいと判断したのは兄さまだわ。あのね、兄さまはお馬鹿な私と違って、名前を挙げられた人間に考えなしな役目を割り振るような事はなさらない方なの。そうじゃなければとても次期大公位なんて継げなくてよ。私はあなたの名を挙げたわ。だけど、他にも自薦他薦たくさんの名前が挙がっていたはずなの。
考えてもみてよフロー。どうしてグラントが私の介添え役を得るために『私を大いに笑わせる』なんて馬鹿馬鹿しい条件を飲んでまで協力を求めたか。本当なら……少しグラントはその役には不適当な人間だったってこと。彼の地位とか人となりの問題じゃないわよ。まあ……それについては後で説明するわ。……でもね、あなたはモスフォリアの王女側の事情やあなた自身の立場や地位、それに人となりから考えて、その役に相応しいと判断されたからこそ介添え役を任されたのだってことを忘れないで、覚えていて」
勢いと力のある口調でのレレイスの言葉。
それを聞いて私が胸中複雑な気持ちを抱いたとして、誰も責められないのではないだろうか……。
だって、私はグラントの今後の立場を考えその役目をなんとか無難にやりこなそうと思っていたのだ。
確かにフェスタンディ殿下は私に役の依頼に見えた時、プシュケーディア姫の辛い立場を慮って話し相手になってくれと言ってはいた。
当然、私に出来る事はやるつもりではいたけど……。
ここで私の『人となり』などと言うものを期待され、介添え役を任されたなんてレレイスの口から聞かされてしまうと、ただでさえ重い荷がますます重くなってしまう……。
今はそんな場面じゃないとは承知しつつ、この先に待つプシュケーディア姫との出会いに不安を覚え口ごもる私にお構いなし。レレイスは言葉を続けた。
「フロー。あなたがこの国でも名を知られているバルドリー侯爵家の当主……グラントに見初められたのは事実でしょう。皇太子妃である私の一番大好きな友達だってことも本当のこと。それにブルジリア王国の王弟の恩人だってことや、モスフォリアの王女の介添え役をするのだって、全部フローについての本当の情報だわ」
「……なんだかレレイスの話を聞いていると、あんまり立派過ぎてどこか嘘っぽく聞こえてよ。……少女好みの物語に出てくる登場人物みたいだわ」
ボヤく私の言葉に、レレイスが思わずといった様子で笑みをこぼし、すぐに再び表情を引き締めた。
「あなたのそう言うところが好きよフロー。絶対天狗にならないのですもの。さっきは私、あなたが正当な評価を受けていないってグラントを責めてしまったけど、こういうやり方をフロー自身が選ばなかったのよね……。私……あなたが杖をついているって理由だけでこの国の社交界に無視され続けてきたことが我慢ならなかったの。それに、初めてのリアトーマ社交界で嫌な思いをしているんじゃないか考えたら、もういてもたってもいられなかったの。それも……絶対に嘘じゃなくってよ。他にも実は私がここに来たのにはいくつか理由があるんだけれど……」
『他の理由』を口にするに気が重そうなレレイスが可哀想になり、私はそっと助け舟を出す。
「政治的判断? ……例えば、黄金街道がらみでジェンフェア・エドーニアの家を王室がバックアップしていると喧伝する必要があったのでしょう……?」
「ええ……まあ、それもね……」
……それも?
歯切れ悪い彼女の様子を伺い、私はレレイスが御使者の役を奪ったというコスタール卿がどういう人物だったかを思い出した。
もしも私の記憶違いでなければコスタール卿は現王の縁戚にあたり、現王が王位を継承したての数年間宰相を務めた人だったと思う。
……そんな人物が御使者に立っていたならば、なにもレレイス自ら足を運んで来なくても、王室がジェンフェア・エドーニア子爵の後ろについている事は人々に伝わったはず。
「白状すると……ちょっと自己保身の意味合いもあったの。……ほら、今はアグナダとリアトーマの親交が進んだとは言っても、交流は始まったばかりでしょう?
だからこっちにアグナダ公国側の社交界の噂はそう流入していないわ。だけど黄金街道が繋がる事になれば、密度の高い付き合いになるじゃない。……そうなると、私が結婚する前の事実無根な噂までこちらに流れてくる事になるとは思わなくて?」
私はアグナダ公国の社交界に出てそれほど時間が経っているわけではない。
だから噂の類に詳しくはないし、ましてレレイスがいた当時の事など知るはずもないのだが、そんなこと百も承知の彼女が私に話すとなればその内容は自ずと限られてくる……。
「言い辛いんだけど……あのね、私とグラントが何年も付かず離れずの恋愛関係だったって……向こうではまるで事実のように言われていたのよ。実態はフローも知ってのとおり、私の完全な一方通行だったのだけど……」
私は思わず口を開けてレレイスを見た。
ユーシズでレレイスがグラントを見つめていた事は私も知っている。
あの美しい彼女の姿は今も瞼の裏に焼きついて離れないくらいだ。
彼女の想いは余人の知らぬものだと考えていたなんて……どれだけ暢気なのだろう?
私の周囲の人々は気を遣ってその事を知らせずにいてくれたに過ぎないのだ。
だけど……そうなると、レレイスは自分の輿入れの介添え人として『元』恋人を伴ってリアトーマ入りした厚顔無恥な女との誤解を受ける危険がある。
「レレイス……だって、それはグラントのゴリ押しのせいじゃない……っ! それなのにグラントったら……あなたに酷い言い種をして……」
それが分からないグラントのはずは無いのに、先刻の彼のレレイスへの言葉は失礼が過ぎる。
「それは『分かっていた事』なのよ。さっき彼が介添え人を務めるには不適当な人間だったって言ったでしょう? 事前にグラントから何度もそれを確認されたわ」
「それでも……それにしてもやっぱり……」
彼のせいでレレイスは将来あらぬ誤解を受けることになるかもしれないのに、あんな偉そうな事を言うなんて。
「うふふふふ……私の為に怒ってくれているのねフロー? 喜んじゃいけないんでしょうけど、なんだか嬉しくってよ。ただね、本当のところそのくらい誤解されても大したことないのよ。ザザは私の事を信じてくれているし、グラントだってリアトーマに入って早々エドーニア領主の妹……あなたに結婚を申し込んでいるでしょう? それにこうして私とあなたが仲の良い友達同士だって知れているのですもの。アグナダ公国から私の結婚前の話が流れてきたって、グラントとのことは皇太子妃にも若い頃気の迷いがあったのね……って言われる程度のことだと思うわ」
赤い唇を愛らしく曲げてレレイスは言う。
……なんだか私は分からなくなってしまった。
だって、だったらどうしてグラントはあんなに憎らしい事をレレイスに言う必要があったんだろう。
そう疑問を口にする私に向け、レレイスは少しずるそうな笑みを見せる。
「グラントがあんなふうに不機嫌さを隠さ……いいえ、隠せないのは、どう考えてもあなた絡みだらかだわ。保身の為以外にも私があなたを使って何か『たくらんでいる』んだって、グラントには分かっていたのよ。変に頭とか勘のいい男って嫌だわ。まったく扱い辛いったらないことね。……それにしても皮肉な話。恋愛感情があった当時には私、グラントの好みも考え方も全然理解出来ていなかったのよ?
それが今は……付き合いだけは長かったからかしら、腹が立つほど色々と見えてくるんですもの……」
言葉の最後にはレレイスの眉間にうっすらと縦皺が入り、赤い唇から覗く歯は親指の爪をカリカリと噛む。
私はそんな表情をしながらそれでもなお美しい彼女をじっと見つめた。
「……私を使って、なにかをたくらんでいるの?」
長い睫に囲まれた青い瞳が瞬きを一つ。
口元にあった手を自分の膝の上に戻し、レレイスは姿勢を正して私の事を見つめ返す。
「フロー……あなたにも、グラントにも誓って言うわ。私は本当にあなたの事、大好きな大事な友達だって思っているの。この気持ちに後ろ暗い部分は一切無くってよ。それだけは信じて」
揺ぎ無く真っ直ぐに私を見つめる瞳を見て、私は静かに頷きを返す。
『たくらむ』なんて言葉を使っているけれど、彼女が悪事を働こうとしているわけではないことは分かっている。
だって……レレイスの瞳はとても澄んでいるのだ。
グラントはさっき「貴女がフローを『友人』だと言った気持ちに嘘が無い事を、私は信じておりますよ」……などと言う言葉でレレイスに釘をさしながら、私と彼女の二人だけを残してあの場を去って行った。
少しばかり憎らしい態度と言葉ではあったけれど、結局彼も私と同じくレレイスの事を信じていたのだろう。
私の首肯を目にして、レレイスの唇が硬い強張りを解いて笑みを刻む。
それは王宮で見た聖母のような美しさとは違う……これまで一度も見た事のない新しいレレイスの表情だった。




