『顔の無い花嫁』10
なんとなくではあるが話の方向性を理解したらしいグラントは、私の事を心配しつつも兄様やダーディス卿の待つ部屋へと向かった。
物見塔の部屋へ戻った彼に聞いたところによれば、兄様の話は予想通りユーシズのカンバス材についてだったそうだ。
「でも、どうして兄様がそんなことを?」
その後三人でどんな話しをしたのか私は興味を持ったのだが、グラントの方は私が応接室に戻った後のことを気にしているようだった。
「まぁ……色々ご事情がお有りのようだよ。お嬢さんの方はあの後どうだったんだ?」
「特に、何も無くってよ……幸いにして。……それは後でお話しするから、貴方の方から三人でどんな話し合いをしたのかを教えてくださらない?」
本当に、私の方は特に何かあったわけではなかった。
むしろ……何も無かったからよけいに彼に話すのが躊躇われるとでも言うのか……。
「そうか? まあ、後でキミの話しもきちんときかせてくれるなら順番はどっちだって構わないか……」
私の様子に首を傾げつつもグラントは頷き、兄様とダーディス卿らとどんな会談を行ったのか私にわかりやすく説明してくれた。
……当たり前だが、兄様は商人ではない。だからダーディス卿の領地の船材やグラントのユーシズ産の亜麻のカンバスは絡んでも、それは兄様にとって商売の話ではなく政治の話だ。
アグナダ公国とリアトーマ国とでモスフォリア開発の新造船の設計と技術者を共有する事は、プシュケーディア姫の輿入れになんらかの事件や事故でも起きない限り既定の事である。
……既定であるからには世間一般には公表されていない事態も水面下では既に動き始めている物であるらしい。
兄様は兄様の持つ縁故……つまり、私の嫁ぎ先であるバルドリー侯爵領ユーシズの良質な亜麻帆布の確保について、とある筋から打診を受けているのだそう。
ダーディス卿は船材となる木材の製材設備を持っているだけではなく、領地内に木材を国内外へと出荷輸出する為の小さな港も所有している。その上、海に面した領地の一部が造船施設を建築するのに適しているのだとか。
リアトーマ国内に新造船を作る造船所候補は幾つか挙がっているようだが、造船の為の材料の確保を済ませた上で候補地として名乗りを上げれば、その土地が選出される確率は増すはずだ。
よしんば選に洩れたところでダーディス卿は木材を大量に売ることが出来るし、グラントはカンバスの輸出先を一つ得ることに変わりない。
兄様の主目的はこの件の取りまとめに成功し政治中枢に恩を売り、黄金街道のリアトーマからアグナダへの延長開通事業への便宜を図ってもらうこと。
当然といえば当然ながら、ダーディス卿もグラントも兄様の話には最善の便宜を量ると確約したそうだ。
「思った以上に……美味しいお話じゃないこと?」
もしも今の話をグラントやダーディス卿へ打診してきたのが別の人物ならば、ここまで美味しすぎる話は何かの詐欺ではないかと疑ってしまいそうなくらいだ。
「キミとの結婚を許してもらった『借り』がこれで返せるとは思わないが、確かに美味しい話だな。……いや、美味しいどころじゃないか……」
ビオラの花輪模様の椅子に深く腰を下ろし、自分の顎を自分の右手の親指で支えるようにしながらグラントは空を睨む。
「これをきっかけに色々な発展を考えられる。だけど……それならユーシズからサイノンテスまでの街道を今以上に整備させる必要があるな。港に倉庫と荷馬車用の厩舎……宿泊設備、漁船用の小さな港のままって訳にも行かないし、大型船の入港には水深が足りない分は沖への停泊で何とかなるか……。しかし、どちらにしろ改修工事をしなけりゃ埒が明かない……」
ブツブツと呟く言葉から推察するに、どうやらグラントはユーシズで生産される亜麻のカンバスを自領であるサイノンテス経由でリアトーマ国へ輸出できないかを算段しているようだった。
アリアラ海に面した大きな港といえばタフテロッサが有名だ。タフテロッサなら港の規模も大きいし、出航する船の本数も確かに多い。
だが、アグナダ公国の西隣に位置するリアトーマ国へと荷を運ぶのに国境の直ぐ東にあるユーシズより更にずっと東のタフテロッサまで移動してから船に乗るのでは、無駄に時間が掛かりすぎるのだ。
しかもそちらへ向かう街道には幾つもの関所があり、通過するごとに荷に通行税も課せられる。
「まあいい。それはまた後で考えることにしよう。それよりもお嬢さん、キミの方がどうだったのか……聞かせてくれないのか?」
それまで空を睨んでいた暗色の瞳が急に私を真っ直ぐに見すえる。
彼の目からは私を案ずる気配。
「別に……本当に何もなかったの」
グラントの斜向かいの長椅子の上、私は自分の横のクッションの四隅に付いた房飾りを無意識に弄りながら、彼から目を逸らし……小さく嘆息した。
「貴方を兄様達の部屋へ案内した後、私が応接室に戻ったら……誰もいなかったんですもの。誰もいない場所で何かが起きようはずもないでしょう……」
一端そらした目を戻すと、グラントが暗色の目を見開き気味にこちらを見ていた。
「誰も?」
「……誰もと言っては語弊があるわね。お茶の道具を片付けている使用人は残っていたわ……」
私が間抜けな顔で部屋にいた人々の消息を尋ねると、女中は表情こそ動かしはしなかったが、なんとも気の毒そうな様子で皆のあの後の行方を教えてくれた。
お母様は披露宴の為の音楽やら広間の様子やらを確かめるために部屋を出られ、ポメリアさんは疲れからか少し気分が優れないようで、夕方まで少し休息をとりたいと自室に戻ったのだそう。
ホーネスタ夫人は母様が確認した客人の為の料理や部屋の手配を再確認するため裏方へ行き、ロディディアも伯母様に同行してそちらへ向かった。
これらの事をグラントに報告しながら、情けない気持ちが胸に蘇るのを感じていた。
自分で家族から精神的に距離を置き線を引くことを選びながら、皆から疎外されていることを淋しがるなど馬鹿馬鹿しいとは分かっているのだが……。
頭で『理解』することと、心から『納得』することとの間には大きな隔たりがあるようだ……。
「仕方がないからそこにいた使用人に来客をお出迎えするのに何時ごろ何処へ行けばいいのか母様に聞いて欲しいって頼んで、それから……この部屋に戻ってきたの」
私が応接室に戻ることはあの場にいた人間には分かっていた筈だった。
たしかに母様は夕刻からの来客のおもてなしの仕度でお忙しいのだろうけれど、せめて私に何か伝言でも残してくださればいいのに。
もちろん母様に悪気が無い事くらい分かっている。
分かっているからこそいや増しに、自分がどれほどこの家で軽んじられているかが浮き彫りになる。
胸の底に自嘲の笑みを漏らし、私は大きく息を吐いた。
……しょんぼりしていても仕方が無い。
「いいわ、別に。ホーネスタ夫人にあの冷たい目で睨まれるよりマシだもの。伯母様の毒舌は鋭いなんて言葉で表現できないほどに攻撃力があってよ? 台所の肉切り包丁なみに容赦が無く肉を断つわ」
「チクチクと鋭い舌を持つフローお嬢さんをして、そこまで称されるなんてどれほどの毒舌か。想像するだに恐ろしいな」
ボヤく私にグラントからはいつもどおりの混ぜ返し。
優しい言葉を掛けられるより、今の私にとっては千倍もありがたい。
「……失礼な商人ね」
ツンと頭をそびやかし、唇を歪めて憎まれ口を返せるもの。
変な風に慰められたり同情されたりなどしたら泣き言を言って縋ってしまいそうだ。
だけど私は昔むかし、伯母様に父様の代わりに
『この子が死ねば良かったのに』
と言われたなんて告げ口めいた泣き言をグラントに話すのは嫌だ……。
だって、ホーネスタ夫人の言葉には悪意があるわけではないのだから。
皆が胸の中で抱いている気持ちを彼女は正直に口に出しているだけなのだ。
応接室に私が到着した時のあの冷たい目だって、私が手伝いも出来ぬ時間に到着したことへの非難。
恐らくは数日前からこの屋敷に来て母様を手伝い、これまで忙しく準備に追われてきた人間であれば私に向けても当然の感情なのだ。
私が伯母様を苦手に思うのは、伯母様が私に容赦のない現実を突きつけるから。
今グラントに甘えて逃げ出したりしては、私が現実に負けたも同然だ。そんな情け無い真似、絶対に出来やしない。
「……少し早いけれど、身支度を始めようかしら」
銀の杖を握り締め、私はおもむろに立ち上がる。
「美々しく盛装したお嬢さんを見るのはノルディアーク以来か」
私のことでは必要以上に心配性のグラントのことだから、本当は言いたいことがたくさんあるのだろうと思うけれど、彼は普段と変わらぬ態度を保ち
「楽しみだな」
……と、椅子の背もたれに片腕を掛け、寛いだ様子で笑ってくれた。
藁色の髪をテティとフェイスが二人がかり、一房ごとにふんわり捻りながら小さなピンで留めて綺麗に結い上げてくれた。
女の装いはある意味『武装』なんだとこのごろ強く感じる。
グラントと結婚するまではこんな盛装が必要な席に出ることは無かったし、素晴らしいローブに装う機会がある都度それを心から楽しんだけれど、戦いに赴くような心持である今の私にはおしゃれを楽しむ心の余裕はあまり無いようだ。
隙の無いよう装い、美しいローブで心を鎧う。
淡青色の絹地の上に白いシルクオーガンジーを重ね、その上に銀糸で繊細な蔓薔薇を刺繍した金のオーガンジーを貼るという手の込んだローブは、光につれ動きに連れて金や金緑、水色に揺らぐ。
銀の杖をつき易いようパニエのボリュームは、金の寒冷紗で作った造花と淡萌黄色の大きなリボン飾りのついた両サイドや裳裾を引く後方に置かれている。
デコルテを覆うものの無いビスチェ部分も三色三種類の布を重ね張りした布地。
未だに喉元や肩口の露な衣装は気恥ずかしくて仕方がないが、おろしたての白絹の長手袋を二の腕の半ばまで引き上げると、少しだけ気持ちも落ち着く。
フェイスが私の耳朶に緑金色の琥珀の粒が連なる耳飾りを留めてくれた。テティの繊手が透明な天蚕糸が緑琥珀の粒を……まるで雨粒を載せた蜘蛛の糸のように幾粒も絡め留める素敵なチョーカーを私の首元に巻きつける。
緑琥珀はグラントがシュバノ村から私の為に買い付け、意匠を指定して誂えてくれた物だ。
鏡の中、揺れる耳飾りのグリーンアンバーと同じ色の瞳が、きちんと装った姿の自分を固い表情で見つめ返す。
部屋が暗いか鏡の質が悪いのでなければ少しばかり血色が悪いようだ。
今のような心境でなければ身につけたローブもグラントがくれたアクセサリーも、それにテティやフェイスが調えてくれた髪の形だって、心楽しく見ることが出来るに違いないのだが……。
とりあえずグラントは今日の装いを手放しに絶賛してくれた。
もっとも彼の場合私に対する審美眼限定でどうにも怪しいところがあるから、信じていいかどうか分からない。
まあ……五割くらい差し引いてもドレスとアクセサリの組み合わせは良いらしいし、差し引くのを四割にすると普段の私よりは人の目に美しく映るようだ。
それ以上彼の言葉を信じてしまえば、最終的に私は物語に登場する傾国の美女もかくやと言う美しさで目が眩むらしいので、いくらなんでもそれを信じるわけには行かない。
グラントの言葉を聴いてからさり気なさを装い壁の鏡で自分の姿を見直したけど、やっぱり彼の目には変な膜でも掛かっているんじゃないかと疑わしい。
ただ……彼のお陰でさっきまでいまひとつだった頬の血色は随分と良くなったようだ。
この事に関してだけはグラントに感謝するべきだろう。
「最近の若い娘と言うのは薄情なものだわね。自分の親の手伝いすらしようと考えないのだから」
私がホーネスタ夫人からの最初の一太刀を浴びせられたのは、女中が母様から預かった伝言に従い着替えを済ませて向かった大広間でのこと。
上品な蘇芳色の五分袖ローブを着けた伯母は老齢に近いながらも美しく、ほっそり白い首に多層に巻かれた粒ぞろいの柘榴石が、彼女の姿勢の良さと色の白さを更に強調するようだった。
蘇芳色も柘榴石のワインのような赤も暖色であるはずなのに、夫人の横顔の冷たさを強調するように映るのはどういうわけだろう。
こうして見るとあたりまえだけれど伯母さまは母様と少し似ておられるようだ。
かつての母様はいつも彼女のように冷たい横顔ばかり向けていたことを思い出し、杖を握る私の手指が冷たく強張った。
従姉妹のロディディアは夫人と顔立ちこそ似ているが、そのピンとした綺麗な立ち姿は受け継がなかったようだ。
上品な灰青色の絹と真っ白なレース、ボリュームある金と真珠をふんだんに身につけているのに、おどおどと身を縮めるようにしているせいか仕立の良いローブが借り着のように上衣の前身ごろに妙な隙間が出来ている。
私と一緒に物見塔の前の部屋を出たグラントは、エントランスホールの階段を下りた辺りで兄様やダーディス卿と遭遇し、そのままそこで話し込んでいた。
母様は広間の向こう側で何か使用人達に指示を出していて、ポメリアさんも母様と一緒に……多分こうした仕事を覚えるため、そちらに掛かりきりになっている。
「伯母さまがこうして母様の手助けにいらしてくださったこと、私も心から感謝しておりますわ」
たとえば私がもし何日も前に到着していたとして、何か仕事をさせて貰えたかどうかは甚だ疑わしい。
レレイスがエドーニアの屋敷に三日間投宿した時だって、母様と兄様が殆どの指示や手配を行って私には何の出番も無かったのだ。
それにアグナダ公国からリアトーマへの船便は毎日出ているわけでは無い事や、この先の詰まった予定上、こちらに来る前の私が毎日のように仮縫いや仕度に追われていたと言う事情、グラントと共に私も王宮でサザリドラム王子にお会いする約束をしたため、そもそもどんなに早くても一昨日以降でなければこちらに向かえなかったこと等、言いたいことは胸の中にぐるぐると渦巻いた。
しかし、私自身が母様……ジェンフェア・エドーニアの家から距離を置こうと決め、手伝いに来なかった事は事実なのだ。
言い訳も反論も見苦しいだけだ。
「『感謝』……まったく便利な言葉だこと」
ホーネスタ夫人の言葉は肉切り包丁のように容赦ないと言ったのは自分だが、本当に彼女の言葉は私を叩き切る勢いがある……。
自分が手伝えない分母様を手伝ってくれた事はありがたいと思っていた。だけど、今は父様が亡くなられた時のように母様が力を無くされているわけではない。
きちんとこのジェンフェア・エドーニアの家を采配できる状態にあるのに、何故に今もこうして伯母さまがしゃしゃり出てくるのかと言う反発心が私にはあった。
もしかしたらその気持ちが自分の言葉に表れていたのかも知れない。
だとしたら、私の感謝の言葉はホーネスタ夫人の耳にさぞ空々しく響いたことだろう。
私がどう感じていようと、これは母様と伯母さま姉妹の関係性の問題なのだから口を挟むところではないし、態度でそれを表すのも行儀の良いことではなかった……と、私は目を伏せ、忸怩した。




