『木の杖と初夏の花嫁』2
ホルタネラの港湾地区を始め、役場の建物の扉や街頭、果ては個人店舗の扉や看板にまで、水色のリボンがヒラヒラとはためいていた。
街を行く若い女性たちの髪や喉元、腕などにも美しい水色のリボンが蝶のかたちに結ばれて揺れている。
「ほら見てグラント。あのお嬢さん……帽子の上にあんなに大きなリボン飾りがついていてよ。それに向こうのお菓子屋さんのショウウインドウに、凄い数のリボンで作った天蓋があったの。下にフリルやレースで飾られた揺り籠があって、中に小さなリボン型の綺麗な砂糖菓子の詰め合わせが飾ってあったのよ。とても素敵だったわ」
光沢のある勿忘草色のリボンは、リアトーマ国王室にこの春誕生した新しい王族への祝意を表す印として流行している品物だった。
誕生したのはレレイスとサザリドラム王子との子供。
ただでさえおめでたい王室の慶事である上に、生まれたのが男児ともなれば、国内の祝賀の気運はより一層のものになって当然かもしれない。
「……レレイスはこの国でとても愛されているのね」
元を辿ればリボンの勿忘草色は、彼女が王子との挙式の際身に着けていたドレスの色なのだという。
この流行には多分に染色業界や織物業界の商業的意図を感じるけれど、巷にこれほどまで水色のリボンが溢れたのは、それだけ皇太子妃レレイスが国民の支持を得ていると言う事だろう。
正直、この国の王室に嫁して一年と少しの間にこれほど人気を得られるなんて信じられないくらいだ。
「頭も回るし、社交界的に押し出しの良い女だから……」
馬車の中、私の隣に腰掛けたグラントが車窓からチラリと外を見て気の無さそうな様子で言った。
乗船と同時に殆ど丸々一日を眠り通し、翌日から船を下りるまでの間を再び書類と戦い通したせいか、グラントは少し眠そうだ。
とりあえず急ぎでやらねばならない物は全て終了したらしく、ナップスが出来あがった書類を手に翌日の船でブルジリア王国へ経つことになっていた。
目を閉じ座席の背もたれに上体を預ける彼の目の下に数日前のような隈が無い事を確認して、私は再び馬車の日覆いをあけ流れ行く車窓の景色に目を移す。
レレイスがサザリドラム王子と結婚して以来、アグナダ公国とリアトーマ国との関係は随分と良い方向へ変わっていた。
変化が如実に現れ始めたのは、商業活動からだ。
両国の交易が活発化してお互いの国の物品物資が行き来し出すと、それにつれて文化的交流も盛んになる。
もともと貿易港として多くの船舶が出入りしていたリネの港だったが、最近はとみに船の動きが多い。どうやらアグナダ~リアトーマ間を往復する船の本数が増えた事が影響しているらしい。
過去の戦争の禍根や近年の冷戦の影響は、互いの王室の血が混ざり合う事により急速に薄まっている。
殊に未来のリアトーマ王室を担う男児の誕生は、この傾向を更に加速させてゆくだろう。
フドルツ山を境に対峙し反目し合っていた二つの国は、その垣根を取り払い友好的に行き来しあうのだ。
特に事件や障害もなく、私達はホルタネラの港から街道を南下しリアトーマ国の中央を東西に貫く様に走る黄金街道を東へ進み、無事にエドーニアへと到着する事が出来た。
春も終盤。
殆ど初夏と言ってよい季節になっていたけれど、緑が日ごと色に重さを増しつつある下界とは違い、高地にあるエドーニアの木々は未だ新緑の透明感を失っていない。
空気は澄んでいるし、空は青く明るい。
点在する大小の湖沼や小さな泉が新緑と空の色を映し、そちこちでキラキラしく輝いていた。
フィフリシス、セ・セペンテス、ユーシズにサイノンテス。それにブルジリア王国のルルディアス・レイ。
グラントに出会ってから私は色々な場所へ行ったけれど、一番美しいと感じるのはやはりこのエドーニア。
ユーシズから見るフドルツ山だってもちろん素晴らしいのだけれど、お父様が愛したこの地から望む山容は絶筆に尽くしがたい優美さと力強さを持つ。
久しぶりに目にしたエドーニアの景色は、私の心を躍らせる……。
「フロー? 具合でも悪いのか……?」
向かいの席からグラントにそう言葉を掛けられ、私は驚いて彼の暗色の瞳をマジマジと見つめ返した。
「ええ? どうしたのかしら……そんなふうに見えて? でも私、全然具合なんて悪くなくてよ?」
「いや……表情が冴えないようだったから。移動続きで疲れでも出たのか……少し外の風にでも当たるか?」
こちらを見るグラントが私の事を本当に心配しているようで、申し訳ないけれどなんだかそれがとても不思議に思えた。
私は故郷の景色を見て空気に触れて……心の底から嬉しく思っているのだ。
『表情が冴えない』なんてあり得ない。
「ありがとう。だけど大丈夫よ? 屋敷までもうさほど距離はないわ。もしかしたら貴方の言うとおりちょっと疲れているのかもしれないし、早く向こうに辿りついて休ませてもらいましょうよ」
心配性なグラントにそう言って微笑んだ私は、自分の腕が少しばかり強張っている事に気がついた。
膝の上に置いた杖をどうやら無意識に強く握りしめてしまっていたようだ。
……それに、そう言えばブルジリア王国でゲルダさんと出会った後に私を悩ませていた胃痛が、しばらくぶりに蘇っている。
でも、どうして?
お昼に食べた食事が重すぎたんだろうか?
豪華な馬車での移動は身体が鈍り過ぎる。身体を動かさないと胃や腸の動きも悪くなる。
この胃の痛みはきっとそのせいに違いない。
だって私は大好きなエドーニアにいると言うのに、これから屋敷へ久しぶりに帰ろうと言うのに、嬉しくないなんてコト……ある訳がないじゃない?
エクロウザ兄様の結婚するお相手は、エリンシュート伯爵のご令嬢だ。
エリンシュート伯爵家はアグナダ公国におけるバルドリー家同様、先の戦の後に爵位を与えられた新しい家柄の貴族。
五十余年前の戦争は多くの『家』を絶えさせ、同時に多くの『家』を作りだした戦でもあった。
私の生家は子爵の称号を持ち。エリンシュート家よりも爵位で言えば下になる。
……ただ、その血筋は古く、与えられた領地や権限は辺境伯に準ずる特殊な家だ。
この称号と権力の著しいバランスの崩れは、アグナダ・リアトーマ間の戦争時、後方支援や補給、戦術や戦略の発案と言った知略方面で功績を上げながらも、腺病質故に前線に立てなかった曽祖父が戦いに血を流すことなく柔らかな褥の中でその一生を終える己を恥じ、当時の王へ爵位の降格を申し出た事によって生じたものだった。
死の床にあった曽祖父様の心中を慮った当時の王は彼の願いを聞き入れ、ジェンフェア・エドーニアの家を伯爵から子爵へ降格するも、その領地や権限の返還は一切認めなかった。
その事があって以来、私の生家ジェンフェア・エドーニア子爵家は『清廉なる子爵家』などと呼ばれている。
……そういう事情もあり、お兄様が爵位上で格上の家の令嬢と結婚することには無理も不自然も発生しない。
むしろある意味財や権力、家の格式から言うならば我が家の方が上。
先にも述べたとおり、エリンシュート家は新参の貴族なのだから、歴史あるエドーニア領主との結婚は相手方にとっても良い『縁』を結ぶことになる筈だ。
エクロウザ兄様は私よりも十歳年上。こんなにご結婚が遅くなったのにはちゃんとした理由がある。
リアトーマ国とアグナダ公国との関係が悪化していなかったなら、お兄様はとっくにご結婚されていた。
私とグラントの結婚みたいなのは例外として、ふつう貴族同士の縁組にはそれなりの思惑が絡む。
政略結婚と言えば外聞が悪いけれど、多かれ少なかれそう言った要素は含むものなのだ。
もしもアグナダ公国との戦が始まったなら、両国の国境線に隣接するエドーニアは戦いの前線基地となる要所。 ここを任されるエドーニア領主には軍事に力のある一族との繋がりが必要になる……。
いよいよとなれば兄様は戦の采配に長けた家のお嬢さんと結婚することになっていたのだけれど、戦いにならないのならその結婚も無意味なものになってしまう。
兄様の結婚には慎重な時流の見極めが必要だったのだ。
エリンシュート伯爵家は道路や橋、街の設計建築敷設に才と力を持つ一族だ。
レレイスとサザリドラム王子との結婚によって両国の戦いの道が消えたいま、国境の街エドーニアの領主である兄様が見据えた未来は、リアトーマ国王都・フルロギとフドルツ山を結ぶ『リアトーマ国黄金街道』と、アグナダ公国首都セ・セペンテスを結ぶ『アグナダ公国黄金街道』が接続し、二つの国を繋ぐ一本の街道となること。
今でもリアトーマ国とアグナダ公国を繋ぐ道が無いわけではないけれど、あれはとても街道と呼べるようなシロモノではない。
レレイスが未来のリアトーマ王室の担い手である男児を産み、現在両国の親和友好の気運は加速している。
エクロウザお兄様の思い描く未来は、一層の現実味を帯びているのだ。
そう言う政略的な部分をクリア出来ている上で、兄様のお相手の方が人柄のよい女性であるのを私は願っている。
母様から戴いたお手紙によれば、伯爵家のポメリア嬢は私と同い年。
エクロウザ兄様とは社交界での面識もおありだったらしく、むこうは否やも無くお話はとんとん拍子に進んだようだ。
きっとお兄様のこと。結婚のお相手候補としてあらかじめ印象良く知己になられていたに違いない。
そんな事を考えるともなく考えながら馬車に揺られていた私の目に、やがてエドーニアの屋敷が木立の合間からちらちらと垣間見えてきた。
グラントの馬車の窓からこの屋敷がだんだん小さくなってゆくのを目にしたのは、もう一年以上も前にもなる。
あれから今まであっという間だったような、それとも長い時が経ったような不思議な感覚を覚えながら窓の外を眺めていた私は、以前見た時には無かった変化を目にして内心首を傾げる。
屋敷の一角を建築用の足場の様な物が覆っていた。
あの辺りは私のアトリエと私室として使っていた部屋がある筈だけれど、壁の修理でもしているんだろうか……?
屋敷へ到着した時、私達二人は箱から取り出してきたばかりの殿方と貴婦人のそろいの人形のような出で立ちをしていた。
…グラントの方はちょっとばかり人形の規格から外れ、長身に過ぎたり妙に胸板が厚かったりしていたけれど、形態だけ見たなら美々しい衣服に身を包み、糸屑一つついていない完璧さ。
半ば無理やり娶ることを認めさせた妻の実家に結婚後初めて訪れるのだから、二人ともに威勢の良い立派な姿を見せた方が良いだろうと彼は言った。
……どうやらグラントにもごり押しのような論法で話を進めた自覚はあるようだ。
まあ……彼の言うのも分からないではない。
だけど威勢の良い立派なトコロだったら、去年の夏にユーシズで行った私達の結婚お披露目の席に兄様やお母様をご招待した時、充分に見せていると思う。
ユーシズのあの大きなお城の周りに国中から集まった貴族達の馬車が溢れ、色とりどりの衣装を身に纏った貴人貴婦人が庭に設えた天蓋舞踏場でクルクルと輪を描き踊る様はまるで夢のようだった。
あの場にはアグナダ公国の主要な貴族達だけではなく、次代の大公であるフェスタンディ殿下もいらしていた。
バルドリー家の権勢を示すに、あれ以上の何を見せる必要があると言うのだ。
言葉にはしなかったけれど、心の中では私はグラントが身につけている衣装を……ほんの少しばかり派手すぎるんじゃないかと思っている。
銀糸で細密な刺繍が施された水色の絹のジレに水色の刺繍糸と銀モールで縁取られた青い上着。
……普段身につける物の趣味は悪くないグラントなのに、何と言うか……これはちょっと成金趣味な感じを覚えずにはいられない。
一方私が着ているのは美々しい薄藤色の旅行服で、生地は上等。一流の仕立て師が作ったこの服は形もスマートで素敵なものだし、中のブラウスや胸に飾ったレースのハンカチ、それに帽子も……グラントの意見を取り入れて少しばかり自分の趣味よりは華美にしている。
だけど、最初に彼が勧めたドレスはもっと酷くゴージャスな物だった。
それは銀青色の絹の上に凝視していると眩暈がしそうな繊細なレースを全面に張り付けたドレスで、それだけでも豪華なのに、さらに小粒の真珠が所々に縫い付けてあって……少し装飾過多に見える。
長距離を移動して実家に帰ってきた娘がそんなドレスで現れるのは場違いだし悪趣味だと意見した私に、グラントは深く頷いた。
「俺もそう思う。キミやキミの家族も同じに感じるなら、お嬢さんの生れた家は至極上品で良い趣味をしていると言う事だろうな……」
「どうしてそう思うならこんなドレスを勧めるの?」
私の問いにグラント曰く、自分が商人として以前出入りしていた新興の富裕層では、多少華美な物の方がもてはやされる風潮があるとか。
でも、この場合の『新興の富裕層』と言うのはどう考えてもエリンシュート伯爵家の事ではないか。
「……説明してくれなくては意味が分からないわ。貴方はエリンシュート家の人に対して少しばかり威圧的な出方をするべきだと考えている……と言う事?」
「威圧じゃないけど、ありていに言えば……舐められるべきじゃないとは思ってるかな」
だいたいの場合においてグラントの深謀遠慮と言いたくなるような考えにはきちんとした意味と理由がある。
そう思えばこそ、私は最初に彼に勧められたドレスは断ったけど、派手めの帽子や装飾が少しうるさいブラウス等は受け入れて着用した。
でも、そうしつつもなぜ彼がエリンシュート家に侮られたくないと考えるのか、その訳が分かずにいる。
彼も明確な理由は言葉を濁して話そうとしない。
グラントはリアトーマ国でも名を知られたあのバルドリー家の当主なのだ。彼が軽んじられることなんて絶対にあり得ないではないか。
……ねぜ彼が私を美々しく着飾らせようとしたのか、そしてその理由を私にはっきりと言わなかったのはどうしてなのか、私は後々察することになる……。
屋敷に到着すると、エントランスまでお母様が出迎えて下さった。
十日ほど前からこの屋敷に入っていると言うポメリア・エリンシュート嬢と兄様は、私達よりも先に来ていた親族らのお相手をしているようだ。
私がテティに帽子を……大きな羽飾りとチュール、カットグラスの葡萄の房がついた豪華な帽子を渡す時、グラントが少し残念そうな表情をしたように見えたのは気のせいだろうか?
でも帽子を見せつける為だけにあれを被って室内を歩き回る訳にはゆかないのだから仕方が無い。
……来ている親族と言っても、父方の親族はすでに大叔父様しか残っていないし、母方の親族でこう言った席に出席なさるのは……伯母さまと従妹くらいの少人数だろう。
エリンシュート家の方々は明日揃ってこちらに着かれると母様が仰った。
……結婚式は本当に身内だけで祝うのが通例であり、それを披露する宴こそが『本番』なのだ。
「遠いところを良くいらしてくださいましたね。バルドリー卿もフローティアも……息災そうでなによりですわ」
当たり障りの無い挨拶をする間に、私は屋敷の外側だけではなく屋敷の中にも前には無かった違和感を覚えた。
やけに使用人の姿が目に付くのだ。
我が家の御仕着せとは違う物を着ているから余計に目にとまるのだと思う。
「母様? 明後日の結婚式は先方のご両親とご姉妹、こちらの大叔父様や伯母さま達……それに私達を合わせて10人くらいが出席と仰っていたと思うのだけれど……。いらっしゃる人数がかなり増えたりしているの?」
見慣れぬ使用人の事を暗に仄めかす私の質問の意味を汲み取れなかったらしい母様が、こちらに目を向け不思議そうに瞬きをなさる。
「なんだか屋敷全体が以前になく騒がしい感じがしたものだから……気になったのだけれど」
「ああ……そうね。私はこの十日の間にすっかり慣れてしまったけれど……」
私の言葉の意を汲んだ母様の表情が、なんとも言えない複雑な色を帯びた。
兄様らがいる部屋へグラントと私を案内する為に先に立った母様が歩きながら言うには、屋敷に増えた使用人は全てポメリア嬢が実家から連れてきた自分付きの使用人らであるらしい。
「生まれ育った場所を離れて嫁ぐと言うのは大変心細い事ですものね。……気心の知れた使用人らを連れてきたくなる気持ちは理解できますけどね……」
語尾を微妙に暈す母様に、その複雑な心中を察した。
自分付きの侍女の二、三人を連れて嫁ぐ女性は少なくないけれど、こんなに目につく程の人数を連れてと言うのは、少しばかりやりすぎではあるだろう。
母様も屋敷内の変化に苛立っておられるのかもしれない。
ちょっとだけ歩く速度が速くなり、杖をついてなお足を引きずる私には追いかけるのが大変で……。先ほどまで横顔が見えていた母様が、やがて後姿になる。
グラントは私に歩調を合わせてくれているし、向かう先の部屋がどこなのか分かっているから置き去りにされたところで構わないと言えば構わないのに、なんだか……喉がちりちりするような焦燥感が私の胸に芽生えた。
「……そうだわ、フローティア。言い忘れるところだったけれど、以前貴女が使っていたお部屋、ポメリアさんがお客様を呼んだ時のティールムにしたいと言うので改装工事をしているの。絵や絵の道具は使用人が何処かにしまったと思うのだけど……」
母様が話ながらこちらを振り返り、一瞬、まだ離れた場所を歩いていた私達に驚いたような顔をした。
私はなるべく急いで……頑張って母様の前まで行き、急ごしらえの笑みを浮かべる。
「大したものは残っていなかったと思いますわ」
実際、あの部屋に住んでいたのは少女時分フルロギから避暑に来た時と、アグナダ公国から戻ってきてグラントが迎えに来てくれるまでのわずかの間だけ。描いた絵だって古い下手くそな油彩画が何枚かだったと思う。
最後に描いたお父様の絵は母様の部屋に飾られている筈だし、あの部屋が無くなったからと言って困る事など何もないのだ。
……私はすでに他家へ嫁いだ娘なのだから、部屋はここに住む人間が使いたいように使うべきだろう。
去年レレイスがこの投宿した時に使われた部屋の扉を母様がノックした。
室内には兄様とその妻となるポメリア・エリンシュート嬢。
どこか父様の面影を持つ大叔父様と、年上の従妹。それに……父様が亡くなられた後以来ずっとお会いしていなかったホーネスタ伯母さまがおられる。
喉の奥と胃が、やけるようにチリチリとした……。