『顔の無い花嫁』8
フルロギ別邸の敷地の外門をくぐると、暫くのあいだ樹間の広い明るい落葉樹の林を行くことになる。
秋色に染まる葉の合間から秋の日差しと落ち葉とを馬車の屋根へふり零す石畳の小道だ。
林の中には古い時代の土塁や崩れ朽ちた石垣跡が点在し、小動物の住処になっている。
幼い頃、健在だった父様の馬の前鞍に乗り、道を反れて林の中に馬上の逍遥を楽しんだ事を思い出す。
この林を抜ければ鉄柵に囲まれた屋敷の門扉。
整然と石畳の敷き詰められた馬車道の左右、刈り込まれた芝生の上に緑のマントを着た魔女のような植え込みが黒い影を落としている。
屋敷の右には幼い日に父様と遊んだ緑の小迷路。左側には温室。裏側には大きなバラ園と水鳥の集まる池やお庭。
庭のずっと奥に果樹園とハーブを中心とした菜園が広がり、それらの向こうは鬱蒼と暗い森が控える。
玄関前、綺麗な弧を描く馬車回しの円の中心に、甲冑姿で長槍を手に竿立つ馬に跨る男性の石像があった。
私はこの石像が嫌いだ。竿立つ馬がエドーニアの崖の上、父様を振り落としたあの葦毛馬を思い出させる。
白茶けた緑色の屋根を戴く大きな屋敷は灰白の石と赤いレンガを組んだ物。
建物の大半はそう古くない時代に建てられた物だけれど、屋敷の左翼上部にここが元々前時代の城塞だったことを物語る灰色の石組みの物見塔がまるで屋敷から生えるように突き出している。
物見塔の隣がこのフルロギ別邸における私のお部屋だった。
私はエドーニアの自然や景色を愛しているけれど、エドーニアの本邸や私の構えた館で暮らした期間と、この別邸で過ごした時間はあまり変わらないと思う。
父様が生きておられる間も亡くなられてからも、家を出るまでエドーニアへは専ら社交のオフシーズンにしか訪れなかったからだ。
もしかしたら厳密にはここでの時間の方が長いくらいかもしれない。
子供時代の私は庭に遊び、屋敷中を走り回る元気でやんちゃな女の子だった。
けれどこの左脚の健康を損ねて以降、別邸で過ごす殆どの時間を自室か自室の後ろに聳える物見塔から外を眺めて暮らして来た。
母様の友人が華やかな衣装で屋敷の車止めに降るのを物見塔の窓の奥……外から気づかれぬ暗がりの中から見つめ、屋敷の裏の広い庭で兄様や学友達が剣術の稽古を受けるのを人知れず観察した。
庭では庭師の仕事を、屋敷の勝手側では生活用品や食料品……そのほか色々な荷物を運び入れる商人の荷車が出入りするのを、私は自室の窓や物見塔からただ眺め暮らした。
来客時に家人は私が屋敷の表に居る事を好まなかった。
当たり前だ。脚を引きずるみっともない子供が屋敷にいるなんて事、兄様も母様も人に知られたくなかったに違いないもの。
もちろん来客がある中シェンバルを弾く事など出来ようはずもなく、使用人らの通路や裏手に行くのもまた、控えねばならなかった。客人達の連れてきた侍女や従僕が私の姿を目に入れる危険があるから……。
そういう時に私は物見塔へ行く。
大昔には敵の動向を探るに必要だった物見塔も、リアトーマ国が平定され平和な時代になってからはかつての存在意義を失い、今はこの屋敷に歴史と威厳を表す要素の一つに過ぎない。
物見塔内部、角の丸く削れた螺旋階段は往時のままに残されているが、中は綺麗に改装され、現在は父様やそれ以前の当主が収集した蔵書を納める図書室となっていた。ここに家人や客人が訪れる事は滅多にない。
学舎出の年老いた司書が図書室に居るけれど、蔵書の補修や管理、何か自分の研究に没頭する老人は私が本を読んでいても、また磨り減った螺旋階段を上って行っても見咎められるコトなど無かった。
屋敷の前、弧を描いて車寄せに馬車が止まる。
右の車窓から竿立つ馬と槍を持つ男の像が見え、私は乾いた喉に唾を飲んだ。
「大丈夫か、お嬢さん?」
胃は痛んでいないけれど、良い顔色はしていないのだろう。
御者が用意した降車用の踏み台に頼ることなく馬車を降りたグラントが、少し心配そうな様子で声を掛けてくる。
「あまり頑張りすぎるな」
との言葉に、私は気負い過ぎた自分に気づき苦笑に唇を歪めた。
「大丈夫よ」
シェムスに銀の杖を手渡し、グラントに手伝われ私は車を降りる。
しっかりと体を支える彼の腕の力強さを感じたお陰か、必要以上に強張った背筋から余計な力が抜けた気がする。
「……今回ばかりはどうにもキミの『大丈夫』は、信用ならないな……」
懐疑心のにじむ呟きに、私は微笑みながら小さく首を振った。
「無理はしなくてよ」
抱き寄せた私をなかなか離そうとしないグラントの腕の中から身をひねり抜け出して、私はシェムスから銀の杖を受け取った。
彼の心配は分かっている。
自分と家族らの中に長年かかって固定されていた意識を変えるのは、きっと難しいのだ。
急な変革で家族関係や自分の心へ余計な軋轢を掛けず、時間を掛けて徐々に変わってゆくのも良いのでは……と、グラントがそう考えているのも知っていた。
でも、私はどうにもならない頑固者だ。
一端『犬』であることをやめようと決めたからには、どれほどきつくても腰を曲げ頭を垂れ、今までの自分に後戻りするような事はしない。
どうあっても、どんなに苦しい思いをしてもそれは出来ない……。
フルロギ別邸に到着後、グラントと私は待たされる事なくすぐに応接室に通された。
シェムスやテティらは荷物を部屋へ運び入れてくれているはずだ。
応接間には兄様と母方の伯母であるホーネスタ夫人とその娘のロディディア。
オドスティン大叔父はご高齢の為に体調が優れないそうで、代わりにその息子ダーディス卿が見えられており、父様に良く似た顔でグラントの事を興味深気にうかがっていた。
兄嫁のポメリアさんは昼食後の着替えに、母様は夜の宴の為の食事やもてなしの采配の確認にそれぞれ動いているようだ。
「バルドリー卿。フルロギ王宮芍薬の宮は如何でしたか?」
との言葉は、兄様がグラントに投げかけた質問だった。
この質問のお陰で手伝いも出来ぬ時間に到着した私を冷ややかな目で一瞥したホーネスタ夫人は、グラントが兄様とポメリアさんの結婚披露の為だけではなく王宮に所用があってフルロギに滞在していた事を知ったようだ。
「驚くほどに壮麗華美な王宮に感嘆するばかりですね。あのように王威に溢れた華麗な宮殿を持つリアトーマ国の人々は、さぞ鼻の高いことでしょう」
いつもどおり、グラントの口はつるつると耳ざわりの良い社交辞令を吐き出している。
これが別の場面であれば、私はあの王宮の『空間恐怖症』と言う言葉を想起させる過密装飾に肩をすくめた彼の姿を思い出し、笑いを堪えるために腹筋と顔の筋肉を強張らせたと思うのだが……。
玉虫色の光沢の素敵なクリーム色のタフタで武装したにもかかわらず、情け無い事に私はホーネスタ夫人の最初の一瞥で早くも気持ちがしぼみ始めているのを感じていた。
「お貸しいただいたテラスハウスは王宮にも近くて非常に便利な立地ですね。周辺の部屋も私でさえ紋章に見覚えのある上位貴族ばかりが住まわれているようで……治安も良いし助かりました」
ジェンフェア・エドーニア家所有のテラスハウスのある区画はリアトーマ国の古い家柄の貴族ばかりが占めている場所だ。
あの場所に部屋を所有するのがこのリアトーマにおけるステイタスの一つだと言う事は、グラントが前もって私から引き出していた情報の一つ。
全く……この人は本当に詐欺師向きだ。こういう一歩間違えれば卑しいおべっかに聞こえそうな台詞を、落ち着きと威厳を保ちながらかつ心に訴えかけるような響きを持たせて口に出来るのは素晴らしい特技だと思う。
「バルドリー卿はご公務でこちらに?」
ダーディス卿が柔和な笑みでグラントに問いかけた。
他国の上位貴族が王宮での宴が催されてもいない日に、目的もなく王宮を訪れる事などそうは無い。
私はごく小さい頃に会ったきりで今日までお逢いした事はなかったのだが、父の従兄弟のダーディス卿と言う人は……これが根っからの単純な性質ゆえの質問でないのなら、なかなか老獪な狸なのだと思われる。
でも『狸』の度合いであればグラントだって負けていない。
「アグナダ公国のフェスタンディ殿下のご婚儀に際するアレコレの……まぁ、使い走りです」
そんな言葉でするりと身をかわす。
当たり前だけれどアグナダ公国とリアトーマの間に結ばれようとしている協定については、一般国民のみならず大半の貴族達は知らされていない。
迂闊にそんな話を広めては、大変な騒ぎになるのは必至だもの。
ああ……でも、そう言えば兄様にフルロギ市街のテラスハウスを借り受ける交渉をした時、どうしてか兄様からグラントがどんな用件があって王宮へ行くか聞かれてはいないようだった。
「『使い走り』に、かのバルドリー侯爵家当主を遣わされるとは……随分と豪勢な話ですな」
ダーディス卿が笑顔のまま大げさに驚きを表した。やはりこの人は一筋縄で行かぬ人物のようだ……。
「アグナダ公国は深刻な人材不足でして」
ほんの僅かに人の悪い笑みを浮かべ、ダーディス卿に答えるグラント。
この中で一番爵位の高いグラントに己の立場を卑下するような発言をされては、皆反応がし辛くなる。
……もちろん、彼はそこを狙っているのだけど。
グラントのこの立ち回りによってこれ以上詮索するような会話は無くなるだろうと思ったのだが、何故だか唐突に兄様はダーディス卿を支援するかのようにグラントに向けて
「ご謙遜を」
と口元だけに笑みを浮かべ首を振った。
どう言う事かと私はいぶかしんだ。
だって、自分の身内だから言うわけではないが、兄様はけっして場を読めぬ愚かな人間ではないのに。
心の中に首をかしげたその時、応接室の扉が叩かれた。
ポメリアさんが着替えを終えて母様と共に私達……いいえ、バルドリー侯爵に挨拶をする為にやって来たのだ。
当たり障りの無い挨拶と、改めての祝いの言葉が交わされる。
私達は再びフルロギ市街のテラスハウスを借り受けた事への礼を。母様も揃い三人になったジェンフェア・エドーニア子爵家の一同は、グラントが贈った結婚祝いの品への感謝の言葉を。
今日のポメリアさんは、エドーニアで初めて会った時よりも少し落ち着いた雰囲気に見えた。
喉元までを真っ白なレースの立ち襟が幾重にも覆い隠す慎ましやかなV字襟のローブは、胸元から一切の締め付けなくふんわりと広がりながら流れ落ちる優雅で古風な形。
緩やかに広がり七分丈でややすぼまる袖口から襟元と同じ真っ白なレースがこぼれている。
ごく細い白とサーモンピンク、渋茶の縞柄は飴色の髪の彼女に良く似合うし、白い泡のようなレースが新妻に相応しい可憐さを上手く演出しているように思う。
動作まで落ち着いて見えるのは大きな襞のゆったりしたローブの形の効果もあるだろうか。
一方母様はスカートのふくらみが控えめでシンプルな形のディドレス。
形は簡素だが布地は華やかな小花のプリントで、背中に共布のリボン飾りが並び、大きなレースの付け袖や喉元まで覆う繊細な付け襟で飾られていた。
忙しい日に動き回るのに適した形なだけではなく、来客に対応するにも無難だし、なにより華奢な母様には良くお似合いになっている。
まぁ……こんな中途半端な時間に客人など来ないから、夕方には夜会用のローブに着替え、次々といらっしゃるお客様らに対応することになるのだろうが。
もてなし役はジェンフェア・エドーニアを名乗る三人が務めるにしても、恐らく私も一族の者としてエントランスでの出迎えくらいはするべきだろう。
エドーニアの時と同じくポメリアさんは私の事を空気のように扱い振舞っていた。
ホーネスタ夫人も私には視線をよこさないが、不満そうな気配をこちらに向けて漂わせているように思えるのは私の気のせいだろうか?
考えすぎだと思いたいけれど、どうにも心が萎む……。
「いかがです、バルドリー卿。もしお疲れじゃないのでしたら夜まで時間もありますし、軽い飲み物など別室で上がりませんか? よろしければダーディスのおじ上もご一緒に」
この場に揃うべき親族が揃い挨拶や社交辞令を交わし終わるのを潮に、兄様が場を仕切る。
「それは良いですね」
にこやかにグラントが同意するのを横目に、私は居心地の悪いこの部屋に女性陣だけで残された後のことを思い、胸の裡に嘆息した。
「……ああ、しかし一端部屋に運ばせた荷物を確認してからにしてもよろしいだろうか? フロー。キミも悪いがちょっと付き合ってくれるかな。夜に着るジレとタイを決めておきたいんだ」
兄様やダーディス卿とともに部屋を移動するために立ち上がったと見えたグラントが、急にそんなことを言いながらこちらへ来て私に手を差し出してきた。
私は少し驚いて彼の顔を見やる。
だって、彼が披露宴の為に着るジレは前もって彼自身が選んで綺麗に火熨斗もかけてあるのだ。
そりゃあ一応何かあった時の為に予備のものも用意はしてあるけれど、着道楽でも優柔不断でもない彼がこういう風に私の手を煩わすなんてこと、今まで無かったのだもの。
グラントは有無を言わさず手を掴み、グイとばかりに私を立ち上がらせ引き寄せたから、私の間抜けな驚き顔は彼以外の目には入らなかったと思う。
引き起こしざまグラントからは、小さなウインクが一つ。
……自分に話を合わせろと言う事か。
「エクロウザ殿とダーディス卿は先に始めていてください。仕度を確認出来次第私もそちらにお邪魔させていただきます。もし部屋がお願いしていた通り用意していただけているなら、案内はフローに頼むので無用です。……色々と忙しい最中にこれ以上使用人の手を無駄に煩わせることはありません」
にこやかに穏やかに……だけれど口を挟む余地の無い彼の言葉に、兄様も笑顔を保ったまま頷きを返した。
「いいえ。私もダーディスのおじ上もまったく構いません。そうですよねおじ上。急がれなくても時間はまだ早い。ごゆるりと仕度の確認をなさって下さい。部屋の方は事前のご要望どおり用意させてあります。しかし……本当にあの部屋で宜しかったので? まだ今なら他のお部屋もご用意できますが。ああ……そうですか、じゃあフローティア、お前が使っていた塔の部屋へ夫君を案内してさしあげてくれ。私とダーディス卿はマホガニーの炉棚の……金糸雀の壁紙のあの部屋に居るよ」
「分かりましたわ兄様。後で仕度が整い次第そちらの部屋へ私がグラントを案内いたします」
私とグラントは室内に残った人々に中座の非礼を詫びると、応接室の外へと出た。




