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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
37/97

『顔の無い花嫁』6

「今日、レレイスに逢ってよ。それに、レレイスの赤ちゃんにも」


 私がグラントにその話をしたのは、フルロギ市街に私の兄様が所有しているテラスハウスへ彼が帰宅して暫くしてからのこと。

 王宮からほど近い場所にあるこの建物は、あくまでも王宮への伺候や観劇、買い物などの為フルロギ市街に来る時使うモノなので規模は小さい。

 エドーニアを離れ王都近くに滞在する時用の広い別邸はフルロギ郊外にあるのだ。


 今頃そちらでは母様や兄上達が忙しく披露宴の準備に奔走していることだろう。

 私達はグラントの使者の任もあり、それに……親族らが私と同席するのをあまり喜ばないだろうとの考えからこちらのテラスハウスを使わせてもらっている。

 私が居ると母様も周囲の人間に余計な気を使う。

 それに……私が向こうにいても邪魔にこそなれ手伝いにはならないだろう。


 彼がアグナダ公国の使者として出席した王宮での会議は、幸いな事に速やかな進行を見たようだった。

 グラントの前に何人もの使者が王宮を訪れリアトーマ側との協議が繰り返されており、彼は最終的な協定文書を取り交わす前の最終確認役。

 たたき台となる草稿から最終文書までは相当慎重な協議が持たれたのだろう。そうでなければ今日も彼が帰宅するのは遅くなった筈だ。

 自ら志願したわけでもない使者役で他国の権力者らと交渉するのは、そういう方面の才を持つグラントにしても疲れる仕事だろうと思う。

 だけど……今日は彼の為にと言うよりは自分の為に、グラントが早く帰宅してくれたのがありがたかった。


「……レレイスが王宮に?」


 彼女が突然あの部屋に現れた時は私も本当にびっくりしてしまったけれど、グラントも離宮にいるはずのレレイスに逢ったとの話には驚いたようだ。


「私を驚かせようとして離宮からこっちに戻って来ていたのですって。突然現れてそんなことを言い出すなんて、悪戯が過ぎるとは思わなくて?」

「う~ん。俺の知っている彼女は茶目っ気はあってももう少し落ち着いた人間だった筈なんだが……。よっぽどキミの事を気に入っているのか、お嬢さんの前だと子供じみた振る舞いをするんだな」


 深刻ではないふくれ顔の私に、グラントは寛いだ笑みを見せる。

 重要な仕事を無事終えた後だもの。ずいぶん気持ちも楽になっているんだろう。

 深緑のビロードのマントも鍔広の帽子も……腿の半ばまで来るピカピカの長靴も彼をたいそう立派に見せて素敵ではあるけれど、彼にとっては窮屈で重い衣装なのだと思う。


 二人の前にはホットワインの入った素焼きのデカンタ。

 朝晩の寒さはフドルツ山から冷たい風の吹き降ろすユーシズ程ではないにしろ、この季節フルロギの夜も随分と寒いから、お腹の中から体を温めてくれる甘いワインは忘れてはいけない飲み物の一つだ。

 デカンタの中は冷める前に飲み切るには欲張り過ぎる量のワインが満たされているのだが、見た目洗練されているとは言いがたい素焼きの壷は暖炉で直接暖め直しが利いて便利だ。

 まあ……面倒がらずに一杯ずつ熱いホットワインを運ばせればよいだけの話なのだけど、レレイスの事やグラントの使者としてのお仕事の話などを他人が出入りする部屋では少々話しにくい。

 もちろんバルドリー家から伴ってきた使用人達の事は信用しているが、それにしても、いくら友人だとは言え一国の皇太子妃を呼び捨てにしているところなど聞かせるわけにはいかないではないか。


 温かな飲み物の入ったカップに口をつけながら、グラントはサクサクの生地に覆われたミートパイの切れを美味しそうに頬張る。

 一応彼は王宮でも夕餐に呼ばれていたけれど、窮屈な場所での夕餉はどれほど美味珍味が並んでいても食べた気がしなかったのだろう。

 そんな事もあろうかと用意させた物が彼に喜んでもらえて嬉しかった。


「レレイスを『皇太子妃殿下』って呼んだら、とても不機嫌な顔をされてよ。結局名前で呼ぶまで許して貰えなかったわ。……ねえグラント、貴方の知っているレレイスってどんな感じの人だったの?」

「ん~……アグナダの社交界の花形だった……な。俺はあまり社交界に興味が無いから詳しくないが、若い男は麻疹はしかに掛かるように一度は彼女の虜になるんだ。友人としては機知に富んでいながら割と控えめで、気さくで話しのしやすい人間だったと思う……」


 唇の端についたパイの欠片を無頓着に払うグラントは、不意に何かを思い出したように眉間に皺を寄せる。


「でも……リアトーマに輿入れする少し前から、まるで別人のようになった気がするな……」


 彼が一体何を思い出して渋い顔をしているのかに思い当たり、私はつい唇をほころばせてしまう。

 レレイスはグラントが自分の介添え役の任につく為の助力の代償として、自分を大いに笑わせるような事をしろと要求したのだ。

 それがエドーニアの屋敷で彼が兄上や母様らの前で演じたインチキくさいあの口上の動機。

 あの時のレレイスの気持ちを考えると切なくて仕方がない時期もあった。

 だけど今は彼女が幸せに暮らしている事を知っているから、あのグラントの口上を笑い話にする事が出来る。


「貴方には見せていなかった顔を見せるようになっただけよ。今考えるとブルジリア王国では私が鈍感な人間だってことを随分とあてこすってくれたようだけど……グラントだって酷い鈍感だったんじゃなくて?」


 レレイスはずっとグラントの事が好きだったのだ。

 私もグラントのことを愛してしまっていたから、ユーシズで彼の姿を窓越しに見つめる彼女の目が彼を恋焦がれてのものだと言う事くらい直ぐに気づいた。

 好きな相手に良い顔を見せたいのは当たり前だと思う。彼女はグラントの前で、随分と猫を被っていたのだろう。

 なんだかその気持ちを思うとレレイスの事が可愛く思えて仕方ない……などと暢気に微笑む私を、何故かグラントがやけに圧力ある目で見つめていた。

 まさか、私に『鈍感』呼ばわりされた事に気を悪くしたんだろうか……?


「ど……どうかして……?」


 動揺する私の前、テーブル越しにグラントは口中のミートパイをワインで飲み下し、なんだか不穏な気配を漂わせる笑みと半眼でこちらを眺めてきた。


「どうもしないが……少しだけキミに聞きたい事が出来ただけだよお嬢さん。フローお嬢さんは……一体いつ(・・)いかなる理由(・・・・・・)』で自分が鈍感だった事に気がついたんだい?」


 人間には調子の良い日と悪い日と言うのがあるが、今日は完全に悪い方の日なんだと思う。

 生来私はそれほど迂闊な性格ではなかった筈なのに、グラントの勘と頭の良さを忘れ余計な事を口に出してしまうなんてどうかしている。


 ……実はルルディアス・レイでグラヴィヴィスが私に対して好意を抱いている……との告白を受けた事を、彼には話していないのだ。


 そもそもグラントはルルディアス・レイの中央広場で私がグラヴィヴィスと出会ったこと自体を知らない。

 だってそんな事、いちいち伝える必要があるとは思えなかったのだもの。

 だいたい話が話だけに言いにくいではないか……。

 とは言え私には別に疚しいところなど無いのだから、そんな……常に無い様子でグラントに見つめられたところで慌てる事など無いのだ。

 確かに自分は本当に鈍い女だったとは思うけれど、だったらそれを教えてくれたって良かったのに。そうすれば私にだってグラヴィヴィスと出会った時の心の準備だって出来たものを。

 半ば八つ当たり気味に開き直り、私は頭をそびやかしてグラントを少し不機嫌に見つめ返した。


いつ(・・)からってトコロからまずお答えしてよグラント。最終選考会の後しばらくの間、貴方は他工房への挨拶や何かで忙しくしていらしたでしょう? ルルディアス・レイの街を出る二~三日前に私、お買い物に出かけた中央広場の噴水の前でグラヴィヴィスに逢ったのよ」


 半眼だったグラントの目が私の話を聞いた途端に大きく見開かれ、秀でた形の額へ向けてグイと眉が持ち上がった。

 まあ、無理も無い。

 グラヴィヴィスは街の中をふらふら歩き回るような立場の人ではないのだ。私だってあの時は本当に驚いたのだもの。

 彼の表情の変化を見て私の頑なになりかけていた気持ちも多少和らいだ。


「ノルディアークの王城にいた時のような貴公子然とした出で立ちだったせいか、街の人たちは誰も彼が主管枢機卿だとは気がついていなかったようよ。……そこで彼が人払いを望んだものだから、何か選考会がらみのお話しでもあるのかとシェムスをお使いに出したの。その時にね、グラヴィヴィスに好意を持っているという意味のことを言われたわ。『どうしてか(・・・・・)』の部分は……まあ、そう言う事よ」


 自分ながら少し不自然なくらいに饒舌に……勢い良く話してしまったような気がする。

 いいえ、やましいところは本当にないのだ。

 ただ……やっぱりと言うか、自分が好意を寄せられるなどと言う経験なんて殆どないから……こういう話には苦手意識が付きまとう。

 それに、人に好意を抱かれたなんて誰かに話をするのはとても照れくさい事ではないか。

 しかも私は歴とした既婚者なのだもの、おおっぴらにこんな話しを口外できるはずだってないし……。


 グルグルと今までこの話をグラントにしなかった事の言い訳を胸中に巡らせていた私の耳に、ドンっと叩きつける勢いでカップがテーブルに置かれる音が響く。

 驚いて見やった先、グラントの眉間にはくっきり縦に深い皺。


「あいつめ……」


 ……と、噛みあわせた歯の間から押し出すように唸るグラントは、眉間どころか鼻の上にもくしゃくしゃと変な皺を寄せて……まるで侵入者を見つけた獰猛な番犬のよう。


「もちろんその場ですぐに私、彼の気持ちに応えることは出来ないとお断りしてよ。向こうも断られる事など百も承知していたのだと思うわ。ただ……私に好意を持つ自分と言うものを楽しみたいだけなのだって言っていたもの」


 私には本当に疚しいトコロはないのだから慌てる必要は無いのだろうけど、グラントがあまりにも不快そうな顔をするからなんだか落ち着かず、席を立ってグラントの隣に腰を下ろすと彼の手を取った。


「ほら、それこそさっき貴方が仰っていたじゃない。グラヴィヴィスも麻疹に掛かったようなものだわ。きっとそう言う年頃なのよ。私はレレイスのように美しくは無いけれど、どういった巡り会わせか何度か行きがかり上彼のことを助ける結果になったでしょう? それで、何か錯覚しているに違いないわ」


 私はグラントの気持ちを宥める為、グラヴィヴィスの私に対する好意は麻疹や流感のように一時のモノに過ぎないと言う事を主張したつもりだったのだが……。

 溜息混じりのグラントが呆れ顔で首を振った。


「フローお嬢さん……外見の美しさに惑うより、自分の命や立場を救われる方がより深く気持ちに刻まれるとは思わないのか?」


 しっかりと私の手を握り返し、グラントは言う。

 それも分からないではないけれど……。


「でも、だって……私を相手にそんなことあるわけが無いじゃない?」


 世の中にはいくらでも美しい女性はいる。なにも私のように不具合だらけの、しかも既婚者に気持ちを寄せ続ける必要などないのだ。

 いずれ彼も自分の気の迷いに気がつき相応しい相手を見つけることになるだろう。


「お嬢さんは……自己評価が低すぎる……」


 グラントは呆れ顔を通り越してすっかり毒気を抜かれた風情でいるけれど、彼の私に対する評価が変に高すぎるだけだと思う。

 握られた手が持ち上げられ、少し熱を帯びた唇が押し当てられる。

 直ぐ隣りに座ったグラントからは湯上りの石鹸の香りと彼の体温が感じられた。


「失礼ね。貴方みたいに自信過剰じゃないだけだわ……」


 その頬や口元から無精ひげが綺麗に剃り取られているコトに気づいた途端、私は彼の顔を見上げているのがなんだか急に恥ずかしくなって……ついそんな憎まれ口を叩いてしまう。


「……キミから見て俺は酷く自信過剰か?」


 微かに眉を上げ、左の唇だけを笑みの角度に引き上げた憎らしくも素敵な表情で問いを発する間も、グラントは私の手指を時折弄ぶように唇でねぶる。

 そんなことをされては無駄に胸が呷ってしまうのに……。

 もしかして、意地悪にわざとそんなことをしているのかしら?


「そうよ。だって……貴方は最初から私が自分のことを好きだと決めつけていたじゃない」


 唇を尖らせ目をそらす私の横、グラントが喉の奥で笑う。


「自信があったわけじゃなく、そうなれば良いと思ったからそう言ったんだ。言霊と言うものもあるだろう。……けど、そうだフローお嬢さん? 実際はキミ、いつから俺のことを好きになったんだ……?」


 顔を背けた私の耳元に顔を寄せるようにして響きの良い深い声で問うグラント。

 ……やっぱり絶対、これ(・・)はわざとやっているのだと思う。


「お話しが脱線していてよグラント。わ、私はレレイスに会った話しをしていたのに、どうしてそんな質問になるのよ? 私の話など聞くつもりがないと言うのなら、そう仰ってくださっても結構なのよ?」


 彼の手の中に包まれた手を引き抜こうと身を捩るも、なぜだか私はグラントの腕の中にすっぽり包まれるように抱き込まれてしまった。

 笑いながらではあっても一応


「いや、悪かったよお嬢さん。もう話をまぜっかえしたりしない」


 との謝罪がなかったなら、私は恥ずかしさと腹立ちで彼の腕に噛み付いてしまっていたかもしれない。


 チラリとねめ上げたグラントは目尻に微かな笑い皺を刻みながらも殊勝そうな様子をしていて、私が溜息をつきながらもぎ離そうとしていた手から力を抜くと、片手を離してくれてその腕を肩に回してくる。

 彼の腕の中は……腹立たしいほど心地よかった。


「レレイスは……元気そうだったコトよ。なんだか前よりも更に美しくなっていたわ。名前を呼び捨てにしろ出来ないで揉めて、ちょっとだけ意地悪をされたけれど。概ね機嫌が良くて親切だったの。あの……例の手紙(・・・・)の件では本当に随分心配してくれていたみたいで、申し訳なくて恥ずかしかったのだけど、なんだか……少し嬉しかったわ……」

「ああ……彼女のやることは少しばかり極端だけど、お陰で俺も自分の馬鹿さ加減に気づくことが出来たし……」


 ユーシズにレレイスからの手紙や書籍の山が届けられた『あの日』のことを思い出してか、グラントは自嘲混じりの笑いに胸郭を揺らした。

 触れ合っている部分から染み込んで来るような体温も、石鹸の香りと温もりに混ざって鼻腔をくすぐるグラント自身の匂いも、耳の傍でゆったりと繰り返す呼吸の音すら愛おしく感じる。


 あの、レレイスへの相談の手紙に端を発する二人の間のちょっとした騒動の後、私は房事を『生殖活動』と考え、情緒的な部分をさほど勘案せずにいた自分の……その馬鹿さ加減に落ち込んだ。

 グラントの言ったとおり、私は心と体がバラバラだったんだと思う。

 彼のことを愛している気持ちに偽りはない。

 でも、自分の心だけではなく……その、体もグラントのことを求めるのだと言う事を実感したことがなかったのだ。それについてグラントは、私に対してその余裕を与えなかった自分に非があると謝罪してきたけれど、悪いのは彼ではないと思う。

 相手が私じゃなければ彼だってこんな馬鹿なことに頭を悩ます必要なんてなかったのだもの。


「さほど長い間じゃなかったけれど、楽しくお喋りをしたわ。……レレイスにね、ホルタネラの街やこのフルロギの街でも勿忘草色のリボンや衣装が溢れていたわよってお話ししたの。皇太子妃としての人気を賞賛するつもりで話したのだけれど、なんだかレレイス……迷惑そうにしていたことよ。国民に人気なのは嬉しくても、あの色のドレスはもう着て歩く気持ちになれないって。まあ分からないじゃないけど」

「はは……レレイスには災難だったようだが、リアトーマ国の染色業界とあのリボンの絹地の卸しは笑いが止まらなかっただろうな。……ま、皇太子妃サマ本人がこれ以降あの色を身につけないと断言しているんだから、何時までも左団扇ではいられないだろうけどね」

「あら、うふふ。なんだか『グラント・バーリー』らしい発言ね。リアトーマの染色業界にレレイスがもうあの色は着ない事を教えて差しあげたら? たっぷり謝礼をいただけるんじゃなくて、商人さん?」

「だったら彼女に別の色を身につけてもらうよう頼み込んで、自分で商売した方が利益が大きそうじゃないか」


 私とグラントはそんなこれ以上ないくらいに他愛もない会話を楽しんだ。

 人が聞けば呆れるような内容のない馬鹿話だけれど、私とグラントには意味のある時間だと思っている。


 会話を楽しむための会話。

 ……ユーシズでグラントが言った言葉が私の胸に蘇る。

 彼は私に愛し合う同士が言葉を交わすことと、体を交わすことはある意味似ているような気がする……と言った。

 様様な感情を引き出し……受け止め……投げ返すのに使うのが『言葉』に拠る会話ではなく、『体』と言う別言語を使っているだけで、互いを愛おしいと思う気持ちがあるのならどちらも無くてはならない大切なものなのだ……と。

 それは……ひょっとしたら生殖の可能性の薄い私がグラントを求める事を正当化できるよう気遣う彼の詭弁だったのかもしれない。

 だけど、私の心は彼の言葉を丸々受け入れてしまった。

 ……そうでなければ、私には彼の全てを欲しがる権利が無くなってしまうのだもの。


「レレイスの衣裳部屋にお邪魔して今後の流行を調査してくるべきだったかしら?」

「そうだな、出来る事なら彼女だけじゃなくレレイスの子供の産着の色も調査対象に加えたいところだが……。お嬢さん、赤ん坊にも対面したんだよな、どんな子供だったんだい?」


 彼の質問に、私は乳母の見守る揺り篭の中、寝ぼけ眼を開いて小さな手に柔らかなリネンの端をぎゅっと掴んでいた小さな姿を思い出し、微笑んだ。


「……金色の天使のような子供だったことよ。……レレイスも、サザリドラム王子も二人共金色の髪をしているでしょう? クルクルと巻いた光輪のような柔らかな髪に、青い瞳の……それはもう美しい赤ちゃんなの。でもね、目の色はレレイスなのに、目元の雰囲気はサザリドラム王子に似て……少しやんちゃそうな感じよ」


 染み一つ無いふくふくと丸い頬は健康な赤味を帯び、小さな肉付きの良い手指には波打ち際の桜貝のような薄い爪が一本一本きちんとついていると言う……その当たり前のことに私は激しく深い感動を覚えた。


「……あの子はきっと素晴らしく美しい貴公子になるわ。どちらに似たとしても絶対に人を惹きつける魅力に富む青年になると思わなくて? あんなに小さくてもちゃんとはっきり二人の子だと分かるくらい似ていてよ。……血の繋がりって凄い事だとしみじみ思ったことよ」


 幾重にも豪華なレースが取り巻く立派な揺り篭には健康で美しい赤子がいて、白いシフォンの柔らかな衣装をつけた聖母のようなレレイスと優しい顔の乳母がそこに寄り添う。

 明るく温かな部屋の中に現出した光景は、この上なく幸せに満ち『完全』に近い美しさをもつものだった。


「……フロー……?」


 微かに眉を顰めたグラントが視界の中、急に揺ら揺らと揺れ始めた。

 私はあの切ないほどに美しくて幸せな光景を思い出し、確かに微笑んでいるのに、どうしてこんな……。


「ああ……グラント、違うの。……本当に赤ちゃんは可愛かったのよ? それに、レレイスもとても幸せそうで……素敵なお母さんになっていたわ」


 一こと言葉を発するたび、瞬きを一つするたびに、私の頬の上を涙の粒がパタパタと連なり転がり落ちた。

 微笑みを刻んでいた唇が歪み、胸の奥底、小さく畳んでしまいこんでしまおうと思っていた『痛み』がどうしようもなく暴れ出す……。


「私、レレイスの幸せを妬んだりしてはいなくてよ……少しだけ羨ましかったけど。レレイスの赤ちゃんが本当に可愛くて、本当に二人に良く似ていたから……」


 胸が苦しくて……苦しくて……自分の意思とは無関係に体が震えて止まらない。


「……いいんだ、フロー……分かっている」


 肩に回されていたグラントの手があやす様に頭を撫で、厚い胸元へと私を引き寄せてくれた。

 大きな手が背中を優しくさする……。


 サザリドラム王子が今日グラントや私との対面を望んだのは、彼の意思だけでなくその裏にはレレイスによる政治的意図もあるだろう事を薄々感じていた。

 リアトーマ国の次代の王との個人的面識は、レレイスの兄フェスタンディ殿下が近い将来グラントを政治参謀の一員とした時の武器にも財産にもなるからだ。


 そもそも彼がレレイスやフェスタンディ殿下への『借り』を作ったのは、無理とゴリ押しでレレイスの介添え役を得、彼の元からエドーニアへ帰った私を迎えに来てくれる為。

 その事が無かったとしてもいずれ彼の才覚は大公や殿下に求められる事になっただろうけれど、まだいま暫くの間は自由でい続けることが出来たに違いない。

 グラントの自由にくび木をかける()を作ってしまったのは、私に他ならない。


「フローお嬢さん。俺は、本当にキミさえいれば他に何もいらないんだ」


 私をその腕の中にすっぽりと抱き、グラントは胸郭の奥深くから響く声で静かに……ゆっくりとそう言った。

 彼の言葉に嘘がない事くらい分かっている。

 私はグラントの胸に頬を押し当て、震えながら頷いた。


「わ……分かっているの。分かっているわ、グラント……」


 この春私はルルディアス・レイでゲルダさんに対して考えられないくらいに失礼なお願いをしたり、グラントの気持ちを酷く傷つけた。

 あの事があったから私はグラントの言葉が真実であると信じる事が出来るのだけれど、だけどまだ……彼の子がこの世に存在してくれたならと思わずにはいられない。


 グラントの子を産むことは、私には出来ないのかもしれない。

 たぶん、出来ないのだろう。

 私を妻にしたせいで彼の自由は早くも奪われ、バルドリー家の血筋は絶える。

 だからと言ってもう再びグラントとゲルダさんに抱いたあの苦しい気持ちには耐えることなど出来そうに無い。


 この痛みや苦しさは一重に私の欲深さから来る物だ。

 自分が出来損ないである事を申し訳なく思うけれど、私は絶対にそれをグラントに謝ったりはしない。

 ……そんな事をしては、私だけではなく彼自身をも否定する事になってしまうもの。


「キミがいれば良いんだ。……絶対に、どこへも行くんじゃない……フロー」


 ゲルダさんとの間に子供が出来て不要な存在となったら『身を引く』と言った事で、私はグラントを怒らせ、傷つけてしまった。

 もう二度とあの時のような思いを彼にさせてはいけない。


「行かないわ、私、ずっと貴方と一緒にいたいんですもの。……でも、ね、時々……今みたいに泣いても良くて……?」


 きっと私は涙で瞼が腫れあがり、鼻も赤くて酷い顔をしていると思う。

 頬は涙で濡れているし、洟も出てきてみっともない事この上ない筈なのに、グラントはしゃくり上げる私の頬に自分の頬を押し当て……こめかみや頬、耳元へと何度も口づけを落として頷いた。


「それで……少しでもお嬢さんの気持ちが楽になるならいくらでも。……だけど出来る事なら俺のいるところで泣いてもらえるか……?」


 私が『この事』で苦しみ一人で泣いていることを思うと辛いのだ……とグラントが言う。

 人に言えば私のことを酷いのろけ屋(・・・・)と笑うかもしれないが、彼以上に素敵な男性がこの世に存在するのか疑わしく思うことがある。

 実は今もそういう気持ちになっているのだけれど、でも……それにしても。


「グラント……貴方、少しばかり過保護が過ぎてよ」


 涙を流しながらもなんだか少し笑ってしまった私に、グラントは大きく溜息を吐いて


「この程度で過保護と言われたんじゃ、俺がどれほどキミの事を甘やかしたいと思っているのか知られた日には医者でも呼ばれかねないな」


 と苦笑いした。


 彼がどれほど私を甘やかしたいと思っているのか詳しく訊ねる事はしなかったけれど、少なくともその夜一晩はまるで子供をあやすようにグラントは辛抱強く私を慰め、その広い胸にただ抱きしめ続けてくれた。

 せっかく綺麗にお髭を剃ったと言うのにちょっと申し訳ない気持ちになったけれど、その事を詫びる私にグラントは


「それは『ツケ』として閻魔帳につけておいたから、後日きっちりとりたてさせてもらうよ」


 と、言って片目を瞑って笑って見せてくれた。





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