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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
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『顔の無い花嫁』5

 私には礼儀や礼節・家格や地位・年齢による序列を抜きにして人と話をする時、相手との距離感が良く分からない。

 人と接する機会が少なく実体験による経験が足りないから、通り一遍の常識と本で仕入れた知識しか行動の判断基準がないせいだ。


 私は自分がとても無知で馬鹿だと言う事を、最近まで知らずに生きてきた。

 そのせいでグラントには思わぬ方向でいらぬ迷惑をかけたり歯がゆい思いもさせた。

 それに……一時とは言え不要な忍耐を強いることにもなってしまった。

 本当に彼には申し訳ないことをしてしまったと思っている。

 レレイスにもきっと私の相談(・・)で心配をかけてしまったんだとは思っているのだけれど……。


 結婚後の男女のその……房事の適正な回数というのはどういうものなのかと言う疑問を、私はレレイスに手紙で問い合わせた。

 馬鹿なことを聞いたと思う。

 一応彼女には私の疑問は解消された旨を知らせ、親切な助言をくれた事への感謝の言葉を綴った返信を書き送ってはいたのだけれど、こうして直接対面し、しかも周囲から人を払ってくれているのだから……ある程度『事の顛末』を説明する義務が私にはある……のだろう。

 心もとないけれど、たぶんそういうものなんだと思う。


 私は房事と言うものを、有り体に言えば『繁殖行動』としてのみ認識していたらしい。

 そして……私にはグラントの子供を生む能力が、もしかしたら……無いのかもしれない……。


 結婚以前は年に一~二度あるなしだった月のモノの回数は結婚後に実は多少増えたのだけど、それにしても健康な一般女性に比べたら無いようなもの。

 完全に諦めたわけではないけど現実は希望を抱けるような状況には無い……。

 それを知っているはずのグラントが、私をその……やたらと寝台に引き込みたがるのはおかしいのではないかと、その事がとても不思議でならなかった。

 男性は女性とは違う生き物であるのだからそういう行為も必要である事はわかっていたつもりだし、房事に伴う快楽と言うものについても私の考えた『適正回数』の計算の中には組み入れたつもりだった。


 だけど……どうして私のような人間相手に彼が情熱的であるのかを理解する事ができなかった。

 だって、私は繁殖行為を行う相手としてはあまり相応しいとは言いがたいのだから、私など相手にしても無駄だと思えたのだもの……。


 今もその気持ちを完全に拭い去りきる事は出来ずにいるけれど、前よりはグラントのお陰で色々と理解できた部分も多い。

 そもそも……そんな妙な計算式を使って適正回数などと言うものを割り出そうとする事自体がとんでもない間違いだったのだと今は分かる。

 レレイスには私が彼の子を成すことが出来ない可能性までは言っていない。それは言う必要の無い事だと思うし……言いたくない。


 彼女が知っているのは、私が結婚後の夫婦間の房事は全て子孫繁栄の為の繁殖行為だと思い込んでいたと言う事と、私の作ったおかしな計算式。

 そんな馬鹿な私を心配したレレイスは、男女間の行為について書かれた書籍と私の抱く疑問をきちんとグラントに話すよう叱責の手紙を送ってくれたのだ。

 ……彼女の送ってくれた書籍は……私には到底直視熟読できないほどあからさまで強烈な描写の連続だった。

 数冊ほんのさわりの部分を読んだだけだが、あれ以上読み進める事なんて……絶対に出来ない。

 いつの間にかそれらの本はグラントの手によって片付けられてしまったが、あの時、私の様子のおかしさに彼が気づいてくれたからこそ、それまでにもずっと折に触れて口にしていた私の疑問が冗談ごとではない本気の疑問であったと彼の知るところとなったのだ。


 だから、本当にレレイスには感謝の気持ちを持ってはいるのだ。

 でも、だからと言ってどうして私は自分のこんな私的な部分の話まで彼女にしなければならないのかしら?

 そんな疑問や反発心を彼女は


「だって私とあなたは友達なんだから」


 と揺さぶり


「私はフローのことがとても心配だったのよ」


 と、ほだす。


 私に自分の名を呼び捨てで呼ばせるまでと、呼ばせた直後に私をからかった時のような意地悪や悪戯な色はすっかりレレイスの上からは消えているようだ。

 穏やかな口調と声に嘘や偽りの気配は感じられなかった。


「ああ……押し付けがましく聞こえたなら謝るわ。ただね、私はあなたとグラントが……仲良く(・・・)できているならいいと思っているだけ。言いたくなければ何も言わなくても良くてよ。……でも、もしも……まさかグラントがあなたの意志に背いた酷い事(・・・)をしていると言うのなら……」


 言いたくないのなら言わなくても良いとの前置きの後、中途半端に疑問を呈して来るのは言葉の流れ的に矛盾があるが、私は彼女がはっきり質問できなかった理由を悟って慌ててそれ(・・)を否定した。

 そんな勘違いをされてはグラントに申し訳ない。

 そういう意味でグラントは私に常識はずれな無理強いなんてしたことはないのだもの。


「そ、そんなこと無くってよレレイス。 違うの。グラントが悪いんじゃなくて私がおかしかっただけだわ。……本当に私が何も知らない馬鹿だっただけだって……彼と話し合いをした後でつくづく思い知ったことよ。でもね……だって、文豪の名作と呼ばれるものには一通り目を通してきたけれど、そういう本には愛とか恋の感情について書かれていたとしても、結婚した男女がどういう生活を送っているかについては全然詳しく書いていないじゃない……。友達づきあいと同じ。何を判断基準にしていいのか、全く分からないんだもの……」


 溜息と共にそんな情けない事をぼやく私に、やはりレレイスはとても優しかった。

 どうしてここでこんな話をしているんだろうと言う座りの悪い気持ちは、彼女の優しい態度によって随分と和らげられていた……。


 王宮でレレイスと共に過ごした数時間に大きな事件があったわけではない。

 ……にもかかわらず、私は帰りの馬車の中、色々な事が山のようにあったような疲労感を覚えていた。

 嫌な疲れではない。

 ……楽しかった出来事の名残と、そういった出来事の後に覚える虚脱感だと思う。

 それに、言葉に出来ない切なさと……痛み。


 レレイスとはくだらない事からそうでもない話まで色々な事を話した。

 貴族の娘と言うのはある程度の年齢になると結婚に際する心得の講義を受けると言う事を、彼女との会話の中で初めて知った。


 講義の教師は母親だったり女性家庭教師だったり、場合と状況によって違うようだが、そういった教育の為の立派な専門書も存在するのだとか。

 ハドファリのシバル伯爵との縁談が持ち上がりはしたけれど、本当なら私の人生に『結婚』などという経験は入る余地の無いものだったから、そんなもの本当に全然知らなかった……。


「当たり障りの無い部分にはね、婚儀の時のマナーについてとか挨拶状の書き方なんてのもあるのだけれど、新婦として相応しい初夜の振る舞いについての指南まであるのよ? それが微に入り細に入り図解されているものだから、同世代の女の子同士が集まった時にそれを持ち出して大騒ぎになった事もあったわ。面白いわよ? 本から破り取ったページを誰かの持ち物の中に忍ばせたり、あなたに送ったような本をプレゼントしたりね。うふふ……碌でもないけど初心で悪戯な時代の思い出よ」


 と笑うレレイスの言葉に私は少しばかり愕然とする。

 だって……あんな本を送りつけあう事が可愛らしい悪戯だと言うなんて、信じられない……。

 件の本にはその他にも結婚生活全般の婦女子の心得について語られており、その中には房事についての項目も当然のようにあるし、妊娠出産に際した項目もあるのだとか。

 ただ実際はそんな本に頼らずとも、みんな何とは無しに年頃になれば色々な事を知って行くのだともレレイスは言う。


「そういうものなの?」


 と問う私に


「そうよ」


 と笑い混じりの返答。


 ……と言う事は、年頃のメイリー・ミーなども同世代の友人達とそんな話や悪ふざけで盛り上がっていると言う事なのかと、少し複雑な気持ちにならないでもない。


 私はエドーニアやフルロギの別邸にある図書室の書架を思い出してみたけれど、レレイスが言うような本をあの中に見た覚えは無かった。

 でも、それはあたりまえか。

 その本は結婚前の妙齢の娘に読ませるための物なのだ。

 父には女の兄弟は無いし、私にも兄しかいない。

 母様も結婚前に生家でお読みになったのだろうけれど、そんな本を嫁ぎ先に持ち込まないだろう。

 もし他家に嫁ぐ予定の娘がいたのなら、しかるべき時に書籍商から取り寄せれば良いだけの話だ。

 私は嫁ぐ予定が無かった娘だからそんなモノを見た覚えは無いというだけ。


 ハドファリのシバル伯爵とのお話しが進んだなら……母様は私にその本を用意してくれただろうか?

 だけど私は突然グラントとの結婚が決まってしまい、そんな講義を受ける暇もあらばこそ、貴族の娘の輿入れに相応しい身支度を整えるだけで精一杯の時間しかなかった。

 レレイスが私に贈ってくれた書籍の中に該当する本は見当たらなかったと思う。

 あれらの本は……ちょっと読む事など出来そうに無いが、向こうに戻ったら書籍商に彼女の教えてくれた本を探してもらうのもいいかもしれない。

 まあ……今更といえばいまさらだけど。


「面白がってはいけないんだろうけど、フロー。あなたは並外れて『初心うぶ』なのね」


 ほんのり笑いながらレレイスが言う。

 そんな事を断言されると、困った事に変な部分で負けん気の強い私はつい反論したくなってしまう。

 『初心』なんて言えばなんだか可愛らしく聞こえるけれど、私の場合はただ本当に『無知』なだけなのだもの。

 そんな情けない反駁の口を開きかける私の隣りで、レレイスが微かに吐息した。


「……でも仕方がないのよね、この国じゃあ……」


 そんな小さな呟きの後、おもむろに彼女が立ち上がる。

 気がつけば私はレレイスの胸の中にふんわりと抱きしめられていた。

 柔らかなシルクシフォンが頬に当たり、香水とは違う優しく甘い……なんだか懐かしい気持ちを抱かせる香りがレレイスの腕とともに私をすっぽりと包む。


「子供を身ごもったと分かった時とても幸せだったのだけれど、同時にとても不安でならなかったわ。……もしもお腹の子が健康で五体満足に生まれてこなかったらどうしようって心配になったんですもの。その時初めてこの国の社交界であまり体に不具がある方を見かけていない事に深い恐怖を覚えたことよ。グラントからあなたの事で多少話は聞いていたけれど、それがどういうことなのか本気に考えたことがなかったの。だって……アグナダじゃあ目の悪い子爵もいたし、ロンバルロー卿の末娘だって、花飾りの豪華な車椅子で花嫁になっていたんですもの……」


 レレイスはお腹の子供が何かの不具を持って生まれたらどうなるのかサザリドラム王子に聞き、王子は最初レレイスの不安をただ笑って優しく紛らわそうとしたようだけれど……。


「先代の王の兄弟の中にも生まれたことを公表すらされない王子がいらっしゃるらしいわ。今もご存命のようだけれど、ザザは一度もその方にお逢いした事がないのですって」


 微かに怒りを込めたレレイスの言葉を、私は不思議な気持ちで聞いていた。

 自分のお腹の子供のことが心配になるのは当たり前だけど、王子の親族のことで彼女が怒ることなんてないのに。

 だって、この国ではそのくらい当たり前(・・・・)のことなのだもの……。


「ザザとその時初めて喧嘩をしたの。でも……もしそれが自分の子だったらどうするのか、もしその立場にいるのが自分だったらどう思うのかって問い詰めたら彼も分かってくれたけれどね。それとももう二度とキスしてあげないわよって脅したのが効いたのかしら?」


 言葉の最後あたりでは笑いまじり。柔らかな胸が私の頬から離れ、笑いの後として相応しくないくらい真剣な瞳が頭上から私を見下ろしていた。


「この国ではあなたのような人はとても生きにくいのね。……それに、女の意見も少し軽んじられる傾向があるわ」

「……もしかして……レレイス、私のことを可哀想だと思っていて?」


 悲しげな色を潜めた瞳で見つめられ思わず口からこぼれた問いに、レレイスは美しい弧を描く眉と眉の間に縦皺を刻むと小さくだがはっきりと……しかも何度も小刻みに首を振る。


「それはないわ。なにかしら……フローのいた境遇は気の毒に思うけれど、あなた本人が可哀想だとは不思議と全然思わないの……。いやだわ、私ったら未だに私が振られてあなたが選ばれたことを根に持っているのかしら???

そんな事は無いはずだわ。グラントのことはもう過去の思い出なのよ? 今はザザを振り回す……あらいいえ。毎日新たに惚れ直させるのが楽しくて仕方がないんですもの。結婚生活って奥深いわ。同じ相手にずっと愛され続けるのって、若さや美しさに任せて手当たりしだいに誰かを誘惑するよりもきっと大変なのよ。美貌だってだんだん衰えるし、姿の美しさなんてずっと一緒にいればきっと飽きられてしまうものね。うふふ……でも、とても闘志が湧くわ。そんな闘志を燃やせる相手とこうして幸せに暮らせるようになったのは、フロー。あなたのお陰でもあるのよ」


 だから、私にも幸せでいてもらいたいのだ……と、レレイスは言う。


 ほっそり白い手が私の頬に当てられ、ふんわり甘い唇が私の額に優しく触れて離れて行くのを何故か私はとても名残惜しい気持ちで見送った。


 レレイスは……なんだか……そう。母様以上に……母のようだった。

 キラキラと輝くような美しさを持っていたレレイスは、子を生んでから更に深い美しさと……優しさと……強さを身につけている。

 レレイスは私の知らない幸せに輝き、神々しいほどの美しさを持ってそこにいる。

 私の目に、彼女の美しさがとてもまぶしかった。

 レレイスにもう少し抱きしめていてもらいたがっている自分に気づき、私は少しだけ動揺する。

 こんな年齢になって今さら母親を求めるなんてどうかしている。

 それに、母様と私はエドーニアできちんと和解できているではないか……。

 レレイスの温もりと甘い残り香は私の胸に母を恋しがる子供の気持ちと同時に、どうにもできぬ切ない気持ちを刻み込んだ……。



 

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