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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第三章
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『顔の無い花嫁』4

「どうしてお城ってこう無駄にたくさんの部屋があるのかしら。私、道順を覚えるのは昔から苦手なのよ。何度もザザにここの場所を聞いたのに、すっかり迷ってしまってよ」


 白シフォンのドレスの裾裁きも軽やかに、レレイスは私の前に立ちほっそりと形の良い両手で黒手袋の私の両手をきゅっと掴んだ。

 以前見た時より幾分ふんわりとした頬の線。美しさと魅力が攻撃的にすら感じられた顔立ちにしっとりとした優しさが加わり、今のレレイスの美貌は私に神々しさすら感じさせる。

 こんなに美しいレレイスならば夢の中に登場した方がしっくり来るのに、どうして彼女の手はこんなに温かいのかしら?

 このぬくもりのせいでレレイスが現れたのは案内役を待ちくたびれた私の転寝の夢……そんな現実逃避な言い訳が通用しなくなってしまう。


 こういう状況になってつくづく思うのは、とっさの出来事への対応能力の低さ。

 非常事態のへ順応力が低いから目の前のレレイスに対して


「……どうして……?」


 などと言う間抜けな言葉を、自分では見えないけれどたぶん相当な間抜け面で呟く羽目になるのだ。

 私の言葉を耳にした瞬間彼女の瞳は輝きを増して、唇の描く曲線が微笑みからはっきりとした笑みへと深まった。


「あら、そんなの決まっているじゃない。貴女をこういう風にびっくりさせるためよ!」


 悪戯な少女の表情で笑うレレイスは、なんだか頭に来るほど可愛らしい。

 現実味のないままレレイスとの再会を果たしたせいかもしれないけれど、そこから先、暫くの間記憶があやふやだ。

 過剰な装飾に溢れる廊下に再び出た筈なのに、それを見た覚えがまるで無い。

 手に残るぬくもりや感覚からすると、恐らくレレイスは私の手を掴んだままこの部屋まで連れて来てくれたんだと思うのだけど……。


「お元気そうで何よりでございます。レレイス皇太子妃殿下」


 やっとまともな挨拶の言葉を口にする事ができたのは、彼女の応接間の椅子の上。芳醇な香りのする甘いチョコレートに一つ口をつけた後のことだった。


 ……本当に私は駄目だ。


 全く何も考えられないでここまで来たわけではないのだが、余計な事ばかり頭に巡らせてしまって……口にするべき言葉や順番がとんでしまっている。

 レレイスが迎えに来てくれたあの場面に戻り礼儀に適った挨拶をやり直す……のは無理にしろ、せめて少しは取り繕わねばと焦る私の前で、レレイスは不服そうに唇を尖らせた。


「いやぁねフロー。せっかく久しぶりに二人で会ったのにあなたに敬称付きで他人行儀な呼ばれかたをするなんて、思ってもみなかったことよ?」


 と、ふくれ面で小さなチョコレートのカップをテーブルに置くけれど、そんな事を言われても……私はアグナダ公国の貴族の妻なのだし、レレイスは大公の娘にしてこのリアトーマの次代の王妃。

 互いの立場を考えれば私が彼女を呼び捨てになんて出来無い事、分かりきっているのに。


「そう仰られても……」


 言葉を濁す私をしばし見つめた後、レレイスは少し悲しそうな表情で肩を竦めた。


「酷いわ。私にはこの国で近しくくだけたお話が出来る友達はいないのよ? せっかくあなたに会えるのを楽しみに離宮からこっちに戻ったのに、そんなよそよそしくされたら悲しいわ」


 アーモンドのように形の良い瞳を半ば伏せるレレイスの頬に、長い睫が影を落とす。


 なんだか胸が痛んだ。


 アグナダ公国とリアトーマ国との親交の橋渡しとして大きな決意と覚悟を胸に、彼女はサザリドラム王子の元へと嫁いできた人だ。

 春、ホルタネラの港やエドーニアまでの道中に揺れていたリボン。それに、ポメリアさんの勿忘草わすれなぐさ色の装いから熱狂的なレレイス皇太子妃人気は知っていたけれど、国民に人気があるからと言って彼女自身が安楽な私生活を送っているとは限らないことを失念してはいけないのだ。


 アグナダ公国ではその地位と美しさとによって社交界を席巻していた彼女がサザリドラム王子と結婚してからのたった一年と数ヶ月の間にリアトーマの国民や貴族らを魅了しえたのは、次代のリアトーマ国を担う男児を生んだからだけではないと思う。

 彼女自身の魅力と、並々ならぬ努力があったから……。


 貴族社会は甘くは無い。

 いくら高い地位を持っていたとしてもレレイスに本物の誘引力なくては社交界で生きてきたポメリアさんまであれほど彼女に夢中になるなんて事はなかっただろう。

 だけど華やかな位置を占めれば占めるほど、その人物の周囲には妬み嫉みも纏わりつくと思う。

 隙をみせれば身近な人間の口からだって醜聞は世間に広まりかねない。

 人がどれだけ噂話や醜聞を面白おかしく口にするかは社交界での経験が浅い私ですらブルジリア王国で味あわされ、思い知らされたのだもの。

 ましてや彼女はこの国の皇太子妃。

 下手な()を作って不名誉な醜聞の主になるわけには行かない立場なのだ。


 そういうレレイスの立ち位置を慮る事も出来ず、私はこの部屋で熱いチョコレートを振舞われるまでとてもくだらない事をグルグルと考えていた自分が恥ずかしくなった。

 だけど……どうしたものか。


 私はきっと、とても頭の硬い人間なのだと思う。

 いきなり彼女を以前のように……あの、二度と今生で会う事は無いと思っていたグラントとエドーニアで再会した時みたいなとんでもないコトでもない限り、己の立場を忘れて呼び捨てにするなんて、私には難し過ぎる。

 喉の奥の奥。声に出すことの出来ぬ心の声で彼女の事を『レレイス』と呼び、やはりそれは無理だと諦念寄りの逡巡を忙しく心の中に繰り返していた私に向け、レレイスは伏せていた睫を一瞬上げ、小さく悲しげな笑みを浮かべて嘆息した。


「スー……向こうからあの箱を持って来てちょうだい。ええ、羽模様の。……ありがとう。……ベル、スワナも皆しばらく下がっていて。用がある時には呼び鈴をならすわ」


 突然レレイスは私の存在を無視するかのように侍女らにてきぱきと指示を出し、なにやら厚みのある飴色の木箱を手元に取り寄せると使用人の全てを部屋から下がらせてしまった。

 箱はジュエリーボックスのようにも見えるが、それにしては若干厚みがある。

 蝶番ちょうつがいの反対側には幾つかの数字を組み合わせて掛ける『鍵』がついていた。

 突然の人払いに驚き侍女の最後の一人が無言で礼をして扉を閉めるのを呆然と見送っていた私に


「本当に困った人ねぇあなたって。まぁ……いじめ甲斐があって面白いからそれはそれでいいんだけれど」


 などと言いながら、青い瞳を細めて笑うレレイス。

 その表情は表面的に見れば慈母の微笑みだけれども、なんだか意地悪の影が透けて見えるのは彼女が発した言葉のせいだけではないだろう。

 膝の上に置いた箱を私に提示したレレイスに、箱の中には私からの手紙が保管してあるのだと知らされた瞬間、王宮に来て以来妙にフワフワと現実感を喪失していた意識が一気に現実へと引き落とされた気がした。

 耳の奥、頭の中の血管を血流が走る音が心音と同じリズムでドクドクと脈打つ。


「ねえフロー? 私は私が死んだ後に誰かが自分の手紙を世に向けて公開しても、一向にかまわないのよ? ……でもフロー。あなたは私の手紙を余人の目に触れないよう処分する手配をしてくださったのよね。それって裏返せば、自分の手紙も人には見せたくないってコトなんじゃなくて?」


 羽模様の木箱……手文庫てぶんこの横についた数字キーを操作しながら、笑いを含んだ声でレレイスが言った。


 確かに彼女の言うとおりかもしれない。

 自分が良かれと思ったコトは、裏返せば自分がされて嬉しいコト。

 いかにもありがちなことだ。


「私もフローからの手紙を同じように手配して差し上げてもいいとは思っているのよ?」


 手文庫から取り出された見覚えのある何枚かの封筒を目にした途端、嫌な汗がふき出した。

 古い順に収納した手紙の束は当然ながら日付の新しい物ほど上に重ねられる。


 いま目の前でヒラヒラ繊手に振り動かされている手紙の内容を思い出して、私の頬と耳は手足の異常な冷たさと反比例するように熱く火照り始める。

 その手紙の内容こそ……私がこの王宮に来て落ち着かず、更にはレレイスとの再会直後からぐるぐると脳裏を巡った『くだらない事』の大元。


 実際は私にとっては全然『くだらない事』でもなんでもなく、本当に深刻な悩みだったのだけれど、内容が内容だけにおいそれと誰かに聞く事も出来ず……思い余っていつも下世話な醜聞や、ちょっと『シモ』な内容の手紙を書き送ってくるレレイスに相談してしまったのだ。


 ああ……いけない。

 してしまった(・・・・・・)などと言っては、レレイスに失礼だわ。

 だって……結果からすると彼女に相談したのは正解だったのだから。


 手紙の内容はこれ以上無いくらいに私的な、その……『房事』に関する悩みだったから、人によってはそういうお話を友人とする事もあるのかもしれないけれど、なにしろ私にはこれまでの人生友人だなんて呼べるような相手なんて一人もいなかったし、全然、まったく……あの時はこういう風に本人と対面することになるなんて考えられなくて……。


 彼女に相談の手紙を書き送ったからこそ、妙な形に拗れた悩みの迷宮から抜け出す事が出来た今を感謝しておりながら、往生際の悪い私は同時に激しく後悔の気持ちを抱かずにはいられない。


 止めようも無くどんどん赤く染まっていっているだろう私の顔を、レレイスの青い瞳が容赦なく凝視する。

 レレイスが甘い声で言葉を続けた。


「でも……言う事を聞いてくれなくちゃ間違えて私、この手紙をその辺に落としちゃったりするかもしれなくてよ? ……それとも、もしかしたら詩の朗読会に原稿と間違えてこの便箋が紛れ込むなんてことがあるかも……」


 まさか絶対そんな馬鹿な事をする訳ないと思いがらも、私は目の前でひらひらと打ち振られる封筒を彼女の手から引ったくりたい衝動と戦っていた。

 彼女の手から封筒を取り上げその場で引きちぎり、くしゃくしゃに丸めて暖炉の中に勢い良く放り込むのだ。


「ね……フロー。そうならないためには、私のことを『レレイス』って名前で呼ぶだけでいいのよ? 簡単でしょう?」


 優しいを通り越した猫なで声でそう言われ、私も必死に喉の奥から声を出そうとしたのだけれど……。

 がちがちに凝り固まった礼儀や常識の観念が邪魔をして、喉から音が出て来てくれない。


「……強情な人ねぇ」


 楽しそうに笑うレレイスの手がカサカサと音を立てて数枚の便箋を引き出すのを見て、頭皮に生える髪が一本残らず逆立つような気がした。

 便箋を両手の人差し指と親指でつまむ様に持つレレイスは、これ見よがしにこちらを窺いながら一瞬だけ文面の書かれた表面をこちらへ向けた。


 ……こういう時、映像を必要以上克明に記憶してしまう私の記憶力はとても厄介なものになる。

 ほんのチラリと目にしただけなのに、一字一句もらさず全ての文面を脳内に鮮明に蘇らせてしまうのだ。


 喉の奥の方からひゅっと空気が漏れる。声にならない悲鳴だ。

 少し不自然なほど高い位置に掲げた便箋を眺めながら、レレイスが甘い声色でそれを文頭から音読しはじめた。


「親愛なるレレイス皇太子妃様。王都フルロギの空もアグナダ同様今は鮮やかな夏模様となっている事と存じます。レレイス様に置かれましては……」


 彼女の声に被るように、記憶の中の文面がくっきりと流れ……私は……


「やっ……お願いだからやめて頂戴、レ……レレイス……っ!」


 上ずった声で彼女の名を呼び、膝の上に載せていた手袋を揉み絞る私を見て、この後どれほどレレイスが大笑いをしたことか……。



「フロー……あなた、融通の利かない頑固者だって言われるでしょう?」


 ひとしきり笑った後、手紙の束を手文庫にしまったレレイスが意地悪に口を歪めてそう言った。

 私は返す言葉も無くふて腐れ、黙ったまま冷めかけのチョコレートを口中に流し込む。

 レレイスは二脚の椅子を温かな炎をちろちろと揺らす暖炉の前に一人で並べると、戻って来て一人ごちながら私に向けて自らの右手を差し出した。


「……そうよね。そうでもなければあの時だってグラントの所からエドーニアに帰ったりせず、あのまま彼とすんなり一緒になっていた筈なのに……本当に困った人だわ」


 ……言われるまでもない。私は本当にどうにもならない頑固者なのだと思う。

 それにとんでもなく強情で、心底馬鹿な女なのだ。


 不貞腐れついでに容赦なく全身の体重をかけて差し出された白い手に縋ってみれば、レレイスはその細い体のどこからそんな力が出るのか不思議なほどに力強く、私を椅子から引き起こしてくれた。

 気のせいか、さっきまで意地の悪い光を浮かべていた瞳も優しい色になっているように見える。

 開き直りとか居直りとかはあまり褒められたものではないんだろうけれど、どうやら私にはそういう癖があるのだろうと思う。

 と言うか……今更何をどう頑張っても取り繕えるものなどないから、仕方がないといえば仕方がない。

 暖炉の前、炉に向けて二つ並べられた椅子に座るようにとレレイスが私を呼ぶ。


「ほらこっちに座ってお話しをしましょうよフロー」


 二脚並んだ椅子の片方に座り、明るい花柄に張られた座部をポンポン叩く彼女の元へ、むっすりと唇を結んだまま頭をツンとそびやかし私は歩いて行く。

 可愛気のない私の様子を構いつける事なく、レレイスは暖炉の炎に顔を向けて口を開いた。


「テーブル越しに顔を見合わせたんじゃ、あなたの性格じゃ気楽に話しも出来ないでしょう? ほら、ここで薪の燃えるのでも眺めなさいな」


 さっきの意地悪な彼女は何処へ行ったのかといぶかしく思うほどの、優しい声色。


「どう接していいのか分からないわ……」


 レレイスの隣に腰を下ろした私は、彼女の優しく美しい横顔を見ながら自分でも思いもかけぬ言葉を口に出していた。

 そんな情けない言葉を不貞腐れた口調でこの国の皇太子妃に話しているなんて、どう考えてもおかしいと思う。

 本当におかしいとは思うのだけれど……。


「……礼儀とか礼節とか立場とか全部取っ払ってしまった時、どういう風に話していいか分からないのよ」


 チラと窺った先、優しげな横顔を見せていたレレイスの口元がくっ(・・)と楽しそうな笑みを浮かべ、青い瞳がほんの少しだけこちらに向いた。


「私も全然わからなくてよフロー。だって……アグナダでもここでも、子供時代からこちらまともな女友達なんて作った事なんてないんですもの。私の姿に憧れてくれる同性はいても、本当に気の置けない友達なんていなかったわ。私ね、同世代の女の人にはとっても嫌われるのよ? 年若い女の子には好かれたり憧れられたりしていたかもしれないけれどね。それに……年配の女性には……はっきり言われた事はないけど、眉を顰められていたんじゃないかと思うの」


 レレイスは自分も私とどう話をするかなんて分からないけれど、そんなものは適当でいいじゃないかと笑う。

 ……そういうものだろうか?

 私にはたぶんレレイス以上に友達(・・)なんてものとは無縁の人生を過ごしてきていたから、本当に……全く分からないのだ……。


「何でか分からないけど私、あなたのことがとても好きなのよ? フロー。……そうじゃなくちゃこんな面倒な事までしてあなたに名前で呼んでもらおうと頑張ったりなんてしなくてよ」


 そう言って、少し照れたように暖炉の方へと目を向けるレレイス。

 不貞腐れていたせいで硬く寄っていた私の眉間の皺が、いつの間にか解けほぐれて無くなっていた。

 なんだか胸の奥がふんわりと暖かい。暖かくて……なぜか切ない気持ち。


 私は椅子の背もたれに背中を預けると、膝の上に銀の杖をのせ最後まで残っていた強張りを……への字に結んだ唇を自然な笑みの形にほぐして小さく呟く。


「レレイス、ありがとう……」


 と。


 暖炉の中で薪がオレンジ色の炎を揺らめかせながら、パチンと音を立てた。

 私は暫くの間、一瞬ごとに形を変えながら炉の中で踊る炎を眺めていた。

 隣の椅子に腰掛けたレレイスも口を閉ざしたまま、しばしの時が過ぎる。

 ……と言っても数十秒くらいだと思う。

 なんだか何も言わず黙っているレレイスからなにか不自然な気配がした。

 いぶかしく思った私が首を回し彼女の方を見ると、あろうことかレレイスが私の方を向いて声を殺して笑っているではないか。


「うふふふふっ……本当に可愛い人ねあなたって。あはは。やっぱり、本当に大好きだわ……フロー!」


 そんな事を言いつつ肩を揺らして笑うレレイスに、私は膝の上の杖で殴りかかりたい気持ちになったとしても仕方がないのではないだろうか?


 もちろん、そんな乱暴ではしたない真似などしなかったけれど……。





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