『顔の無い花嫁』1
そこだけで数軒分の家が建ちそうな程広いエントランスの床を、黒と白の大理石を組み合わせたモザイク模様が埋め尽くしていた。
壁には近隣で採石される薄薔薇色の大理石の化粧パネルが張られ、繊細華麗な植物文様の施された白漆喰のアーチが高い天井付近に口を開ける大窓や私の肩辺りに穿たれた龕をバラ色の壁から優美に切り抜く。
半円のドーム型天井と壁との境目は漆喰で立体的に盛り上げられた蔓薔薇模様のプレート。
巨人の出入り口のように大きな扉の上や龕の下部を植物や神話の神々や精霊を意匠した薄緑の石膏レリーフが飾り、龕の中からは白い石膏像が眼下の人々を見下ろす。
ドーム型天井は左右対称の升目に区切られ、その一つ一つを植物や蝶や鳥、花の鏝絵が埋め、盛装の女性が何人も並んで歩けるだろう大階段の手すりや段の角をまでもをなんらかの意匠や装飾文様が埋め尽していた。
目の前に見るこの景色に、私は現実感を持つ事が出来ずにいる。
リアトーマ国王都フルロギの王宮……芍薬の宮とも呼ばれるこの王宮は、『壮麗華美』と『悪趣味』の境界線上に位置する。と、かつて読んだ物の本に評されていたのを頭の隅に思い出した。
表現は諧謔的だけど、作者の言いたかった事もこうして目の当たりにしてみれば分からないでもない。
威圧的なまでに華麗で豪華な装飾。
古い時代に建てられたお城は専ら『砦』としての要素が強く、フルロギの王宮のような建築様式には成りえない。
この王宮は平和な時代に新しく建築されたものなのだ。
同じように新しい時代の建築物であっても、陸続きの隣国に野心的な強国ボルキナ国を持つブルジリア王国は、いくら内部を美しく飾っても街の造りも城の存在意義的も『砦』としての城であり、この芍薬の宮のような『宮殿』ではなかった。
秀峰フドルツ山を中心に挟んでアグナダ公国とリアトーマ国の二国だけが存在するレグニシア大陸は、海の外からの侵略を受けたことがあまり無い。
アリアラ海を渡った南大陸では古くから大国同士が覇を競い、小国に分裂し、併合され、また独立し……と、落ち着きがなく海外へ派兵出来るような状態ではなかったし、レグニシア大陸の北のホルツホルテ海は秋の終わりから冬の間海が酷く荒れる為、もしもレグニシア大陸に向けて侵略戦争を仕掛けるのなら兵力の補給も考慮し冬を挟まぬ短期決戦にするよりないだろうけれど、決して小さな国ではないアグナダ公国とリアトーマ国を攻めるに『短期決戦』と言うのは難しい。
もっとも、その油断を突く形でモスフォリア国建造の新造船を使いボルキナ国は海を越えての侵略を狙っていたのだけれど……。
アグナダ公国とリアトーマ国にしても砂時計のくびれのように細く狭い国境にフドルツ山が鎮座し、陸路を行き来するにはあまりにも不便な地形だ。
数十年前の戦争以前にも小競り合い程度の戦いはあったようだけれど、フドルツ山の金鉱脈が見つからなければ二国間に大きな戦いが起こることはなかったかもしれない。
アグナダ公国史にしてもリアトーマ国史にしても、フドルツ山を巡る戦い以前の戦史と言えば、殆どが国内で起きた戦いを記すものだったのだ。
古い時代の名残としてリアトーマ王宮の周囲には幾重にも空堀がめぐらされてはいるけれど、王宮自体は『フドルツ山における紳士的聖職者的協定』以降の安定した時代に建築されたものだから、戦時における砦や要塞の機能を備えていないのも当然と言えば当然かもしれない。
……グラントの言を借りるなら、国内が安定している国家における戦いと言うのは人と人が互いに血を流し合う戦ではなく、情報と外交による戦いなのだそうだから、この城の存在意義は砦ではなく外交の為の武器という事になるだろう。
招じ入れられた人に威圧感と感動を与え、その豪華さをもって強大な国力を知らしめす。
グラントの言うとおり本当にこの王宮の建築意図がそこならば、少なくとも私に対してはその効果はある程度有効に発揮されていると思う。
リアトーマ王宮からの迎えの馬車に揺られ、城門を入った頃からただでさえ嫌な緊張感にこわばっていた手足がエントランスホールに踏み込んでますます自分の意思に反して冷たく冷えていた。
季節は秋で、気温が低いから手足が冷たいのだ……とか、大理石のだだっ広い空間は特に冷えるとか、そういう言い訳を心の中に繰り返しても自分の心を欺ききれないのが情けなくも腹立たしい。
……グラントはいつものようにごく自然な様子だ。
ぐるりを見回し私を顧みる暗色の瞳にはこの大げさな程に壮麗な王宮エントランスを面白がっているような表情が浮かんでいるし、王宮づとめの『誇り』が肥大し、物腰の尊大さが鼻につく案内の侍従の態度を気にするそぶりもなく飄々と振舞っている。
私はグラントのようには行かない。
どう考えても無理だ。
手足の冷たさも胸のつかえるような妙な緊張感も、実はリアトーマ国王宮の威に打たれてのものではないのだけれど……。
私とグラントが芍薬の宮を訪れたのは、二人それぞれ理由と用事があってのことだった。
私が『私用』で、グラントは『公用』。
本来であれば同じ馬車で同じ時刻に二人で王宮を訪れるべきではないのだろうが、この二つの相容れぬ用件をレレイスとサザリドラム王子とが繋いでいる。
グラントの『公用』の方は、アグナダ公国からの使者としてのお役目。
これはフェスタンディ殿下とモスフォリア国王女プシュケーディア姫との婚姻に絡んで、リアトーマ国とアグナダ公国間のなんと言うか……密約の内容確認のためなのだが、この役にグラントが選ばれたのは、私がプシュケーディア姫の介添え人の任を与えられたのと同様将来的に彼がアグナダ公国大公の参謀の一人に加わるための地固め的な意味合いが強い。
話をグラントに持って来たのは他でもないフェスタンディ殿下ご自身だったし、その場に同席していた私の前でフェスタンディ殿下がそのように仰ったのを聞いている。
この春、私達がエドーニアからアグナダ公国へ戻った日、突然セ・セペンテスの屋敷に現れた殿下は、彼の要請を断れないような下地を作った上で私にプシュケーディア姫の介添え人の役をお命じになった。
その時に殿下はグラントに、私と一緒に王女の花嫁行列に参加する心算であれば『貸し借りなし』でそのための協力をすると確約されている。
だが、残念な事にその約束はある意味守られなかった……。
いいえ、フェスタンディ殿下が嘘を吐かれたわけではないのだ。
状況がそれを許さなくなっただけだとは私も分かっている。
当初の予定どおりであれば、私がプシュケーディア姫の花嫁道中に介添え人として合流するのは王女がアグナダ公国入りを果たされた後になる筈だった。
それが……先にモスフォリア国に渡って王女の教育係を勤めておられるドルスデル卿夫人の要請を受け、王女のアグナダ公国入りを待たずして私はモスフォリア国へ向かう事になってしまったのだ。
それについての細かい事情についてはまたの機会に触れるが、そのことが決まり、私以上に慌てたのがグラントだった。
花嫁道中に参加するため適当な役職を作らせるつもりだった彼だけれど、突然の変更。
しかもプシュケーディア姫がアグナダ公国入りしてからであればそこに紛れ込む余地はいくらでもあるが、王女の祖国からとなると、また難しくなるようなのだ。
もしもグラントがモスフォリア国からの花嫁道中に同道を希望するのであれば、今現在より更に現大公と次期大公フェスタンディ殿下にとって重要なポジションにいる事を外にアピールする必要がある……と、そうフェスタンディ殿下は仰られた。
グラントの祖父、カゲンスト・バルドリー卿はアグナダ公国にあれこれ貢献しており、国内でも発言力がお有りだったようだけれど、出身が傭兵であるせいで一部の旧家やある種の軍閥からは強い反感も買っていたようだ。
プシュケーディア姫とフェスタンディ殿下とのご結婚は王族同士の結婚である以上『政治の』一環ではあるが、軍事の色合いがあまりにも強い。
いかにご当人であられるフェスタンディ殿下の口添えがあっても、モスフォリア国側に彼を派遣するには今のグラントでは難しいと言うのだ。
特に、今回の輿入れのような特殊なケースであれば尚。
ボルキナ国がリアトーマ国及びアグナダ公国のあるレグニシア大陸に対して抱いていた野望は、メイリー・ミーの父ラズロ・ボルディラマの死をきっかけに、グラントらの活躍もあって表沙汰になった。
フドルツ山金鉱から不正に流出した金はボルキナ国国内とモスフォリア国へ渡り、ボルキナ国ではレグニシア大陸侵攻のための軍備増強費として使用され、モスフォリア国ではボルキナ国艦隊が冬季の荒れたホルツホルテ海を渡るための新しい船の開発に使われていた。
モスフォリア国は軍艦の開発によってレグニシア大陸侵攻の準備に助力していただけではなく、ボルキナ国と水面下で手を組んでいるのを隠した上で王女の一人をフェスタンディ殿下の下へと嫁がせ、彼女を密偵、若しくは刺客としてアグナダ公国の最奥へと潜入させるつもりでいたと言うその恐ろしい話を、私はグラントから説明してもらっていた。
フドルツ山金鉱からの金の流出に関してその事実は政府上層には明かされたものの、ボルキナ国側では軍部の一部が暴走した可能性は認めながらも国がらみでの関与は認めず、アグナダ公国にしろリアトーマ国にしろ、大国であるボルキナ国との関係を必要以上に悪化させる事を是とはせず、この問題はいわゆる玉虫色の決着を見た形になっている。
ボルキナ国側とはそのような形で問題は収束する事になっているが、モスフォリア国側とはもう少し難しく突っ込んだ話し合いと取引とがなされた。
……当然と言えば当然だと思う。
だって、既にフェスタンディ殿下はモスフォリア国の王女と婚約まで結んでいたのだ。
その相手から今回のような道理に外れた事をされていた以上、アグナダ公国の国としての面子が立たない。
しかし面子を潰された事だけを問題にし、モスフォリア国王室との縁談を破棄したのでは国の安全と安定を守ることなど出来はしない。
なにしろ、ホルツホルテ海の冬季渡航を可能にする新造船は既に開発されてしまっているのだから……。
こんな事を言っては亡くなられたフェスタンディ殿下の婚約者メレンナルナ姫が気の毒ではあるけれど、彼女が亡くなってくれたお陰で仕切り直しがしやすくなったのは事実だと思う。
この冬輿入れが決まっているプシュケーディア姫は、モスフォリアの王が目に入れても痛くないと言うほど溺愛なさっている末の姫。
この王女の身柄を押さえたなら、少なくとも現王の在位中モスフォリア国は下手な動きをする事はないだろう。
新造船の設計図は持参金……嫁入り道具代わりに、船の研究や設計・製造に関わった造船技術者ともどもアグナダ公国へと渡される事になっている。
実情はともあれ体裁さえ整えてしまえば国と国との間に禍根は残りにくくなる。
いずれ時が経ちフェスタンディ殿下とプシュケーディア姫の間に子が生まれ、やがてアグナダ公国を担う大公となれば、モスフォリア国との間のわだかまりも自然と消滅するだろう。
この決着は考えうる限り最良のものだとグラントは言った。確かにそれ以上の上手いまとめ方は無いかも知れない。
ただ、この事の収め方では政治的にとても気を使わねばならない部分がある。
それはリアトーマ国とアグナダ公国との『信頼』と『連携』だ。
五十余年前両国で起きた戦争の原因はフドルツ山金鉱脈の所有権を巡るものだった。
両国の間で締結された『フドルツ山の聖教者的紳士的協定』により、フドルツ山金鉱からの採金は全て二国間で平等に分けられる事になっているのだけれど、ボルキナ国の陰謀により不正に流出された金もこの協定に従えば二国で平等に分けるべきだったものだ。
ボルキナ国の軍備増強に使用された『金』は玉虫色の決着を見た以上取り返す事は適わないけれど、モスフォリア国へ流出した分は……ある意味取り返す事が可能であると判断された。
『金』で返還させるのはではなく、モスフォリア国が開発建造した『新造船』と言う形で……だ。
ただこれはプシュケーディア姫の持参金と言う形に体裁を整えられるため、新造船の設計図とそれに携わった技術者などは、最初、モスフォリア国からアグナダ公国へと渡される事になる。
ボルキナ国がレグニシア大陸侵攻に使用するべく開発させた船は、どちらか一方の国だけが占有すれば国家の安全を脅かす脅威となりうる物。
レレイスがサザリドラム王子の元へ嫁ぎ男児をなした事によって急速に親交が進んでいるとは言え、二年前までは冷戦状態にあったリアトーマ国とアグナダ公国。
ここで疑心暗鬼を呼ぶような事態を絶対に避けねばならないのは、政治の素人である私にも理解できる。
そのためにはアグナダ公国とリアトーマ国の密接な対話ときめ細やかな状況報告が重要になってくるそうだ。
グラントが任されているのは、アグナダ公国とリアトーマ国が互いに共有するべき新造船と言う『財産』のやり取りに関するものだ。
些細な疑惑も疑問も残さぬよう、決してボタンを掛け違う事の無いよう、間近に迫ったフェスタンディ殿下とプシュケーディア姫の婚儀の前に二国間で話し合い取り決めた段取りの最終確認のため、グラントは使者としてこの王城を今日訪れた。
正直、どうしてそこまでしてグラントが私と一緒にプシュケーディア姫の興入れに同行したいのかは分からない。
私が頼りない人間だから心配だと言うのは多分にあるのだろうけれど、それにしても……そこまで酷い失態や粗相はしないつもりなのだけれど、もしかしてそんなに自分には信用がないんだろうか?
一体どうしてなのかと聞いてみる私に、グラントは薄く苦笑いを浮かべ
「このまますんなり事が運ぶとは思えなくてね。ただの心配性の杞憂で終わるようにキミも祈っていてくれ」
と言った。
もちろんそれがどういう事なのかは私も気になりはしたけれど、それ以上はいつものようにのらりくらりとはぐらかされて、どうしても聞き出す事ができない。
それにしても……重要なお役目を負ってこの場に立つグラントが気負いの無い様子でいるのと引き比べ、自分の緊張ぶりが情けない。
私は彼のような大事な役目を持ってこの王宮を訪れたわけではないのだ。
グラントと私はこれからサザリドラム王子とお逢いする事になっていた。
とはいっても、これは『公用』ではない。
レレイスと入れ違うようにリアトーマ国からアグナダ公国の貴族の下へ嫁いだ私と、その嫁ぎ先……リアトーマ国でもその名を知られるカゲンスト・バルドリー卿の孫であるグラントに非公式に挨拶をしたい……と、サザリドラム王子が仰られたのだ。
王子がグラントや私の事を気に掛けるのは別におかしなことではない。
……とは思う。
グラントはレレイスが輿入れする際の介添え人でもある上にフェスタンディ殿下との親交も深く、レレイス本人ともまぁ……なんというか、友人関係にあったのだもの。
そして私はと言えば、何故だかレレイスとは頻繁に手紙をやり取りする間柄になっている。
交わした文の中で確か、この秋兄様の結婚披露の宴のために王都フルロギに二人で来ると書いた覚えもあった。
レレイス自身は出産前から最後に交わした手紙の時点までだが離宮の方でゆっくりしていると書いてあったから、この王宮にはいないのだろう。
なにしろ彼女が子を産んでからまだ半年も経過していないのだ。
当然公務にも復帰していないし、ゆっくり体調を整え子供と共に過ごすならば人の出入りの多い王宮よりも離宮で暮らす方が休まるに違いない。
ただレレイスと王子とはその……どうやらとても仲良くやっているようだし、王子が彼女の交友関係を把握していたならば尚の事、サザリドラム王子が個人的に私達に逢ってみたいと言い出しても不自然ではないだろう。
芍薬の宮の壮麗かつ豪奢なエントランスホール。
高い天井付近の窓から落ちる日差しが漆喰のアーチや龕の中の石膏像に陰影を与え、ホール全体に劇的な効果を与える様を見ながら、私は冷たい手で銀の杖の柄をきつく握り締めた。
喉が半分ふさがった様に苦しくて気持ちが悪い気がするのは、雰囲気に圧倒されていると言うよりも、自分のうかつさに対する後悔の念から来ているものだと思う。
いくらレレイスから来る手紙が醜聞と……ちょっとあけすけ過ぎるほどに『シモ』な内容だったからと言って、私までレレイスに妙な相談事の手紙を書いたのは、考えがなさ過ぎだった。
サザリドラム王子とレレイスが仲の良い夫婦だからと言って何もかもを話し合っているとは思いたくないけれど、もしも万が一の事を考えると、私は一体どんな顔をして王子と対面してよいのか分からないのだ。
レレイスには感謝している。
だって、彼女からの手紙や荷物がなければきっと、今でも私は色々と『夫婦』とか『男女』と言うものの関係を、誤解したまま妙な悩みを抱えて生きていたはずなのだから。
感謝しているのだけれども……心の中に盛大な溜息をつく事を私は私自身に禁じえなかった。
こんな馬鹿馬鹿しい事でこれほどまで緊張する自分が情けなくて仕方がないけれど……実際、私のような人間が一生お逢いする機会など持たなかっただろうリアトーマ国の次代の王とお逢いする緊張感より、レレイスがサザリドラム王子に対して余計な事を漏らしているんでは……との懸念の方が、遥かに喉が詰まるような圧迫感を感じさせるのだからどうにもならない。
そんな自分になんとも言えぬ情けなさを感じながら、私はグラントの隣り、硬い表情で壮麗豪華なエントランスホールを眺めていた。




