『侍女の肖像』2
「あんな……優雅な音楽が流れるきらびやかな場所で、滅多に無いほど上等のワインをいただきながら実家の畑やら機織の事をお話するなんて、まったくもって変な感じだったわよ……」
苦笑いの表情ながらしみじみした口調でテティは言った。
膝の上に水彩画を広げて見入っていたはずのフェイスは、いつの間にか穏やかな瞳に真剣な光を浮かべ、真っ直ぐにテティに目を向けている。
「貴族様って綺麗な衣装を着ていい想いをする分考えなきゃならない事も多いわよねぇ……。贅沢を楽しむだけじゃ駄目なのよ。まぁ、無責任で怠惰なのも見る限りたくさんいるけど。……ほどほどに身奇麗に出来て食うに困らないなら、自分や家族の心配だけして生きていく庶民の方が気楽な気がする。……と言うか、私は馬鹿だからそれで手一杯」
フェイスは口調こそおっとりとのんびりしているが、優しく気遣いが出来よく働く娘だ。
しかし家庭的な性格である分社会の流れや政治的なことに興味を持つ事は少なかった。
貴族の責任についてなどついぞ口にしたことのないフェイスにしては今のような発言は珍しいと思いつつ、テティは笑顔で同意の頷きを返した。
「私の実家みたいな小作がいるから上にいる人間の懐が豊かになるんだもん、それを忘れてもらったら困るんだけどね。フローティア様は特権の上に偉そうに威張って胡坐をかいているような輩とは違う真面目な方だから、そういうのは大丈夫だと思う」
「……そうよねぇ……貴族らしいのに貴族らしくないと言う感じ……?」
かすかに首を傾げて言うフェイスとテティの目が合い、二人は若干気まずそうな顔を見合わせた。
貴族の、それも上級貴族の生まれの女性と言うのはそれこそ靴のボタン一つ自分の手を煩わす事なく侍女任せにするものだと、二人はこれまでの経験からそう学んでいた。
ただこれには一部の例外もある。
例えば主家であるバルドリー家がそうだ。
これは傭兵出身のカゲンストが戦場にありながら着替え一つまともに出来ず従僕に洗顔の湯を沸かさせる貴族らの姿を目の当たりにし、そうはならぬよう厳しく方針したためなのだが、他国とは言え貴族階級出身のフローティアもなぜか自分の身支度は殆ど自分でこなしてしまう。
その為、テティもフェイスも家長の方針にはよるわけではない例外……彼女が侍女などおらぬ貧しい家の出身であると思い込んでいたのだ。
「フローティア様のご生家って……由緒ある立派なお屋敷だったってシュトームさんが……」
この日の午後、テラスハウスへと移動してきたグラントに書類を届けに来ていたシュトームと会ったフェイスがそう言うと、テティも頷き
「私も行ってみてびっくりしたわ。王都にある別邸も由緒ある建物だってシェムスさんも仰っていたわ。でも、そうよね。エドーニアと言ったらリアトーマとアグナダの国境……要所なんだから、変な貴族に預けておけるような場所じゃないわ」
そう言って、心の中に小さく嘆息した。
本当はテティはもう少し詳しい話をシェムスに聞いていたのだ。
アグナダやこの国とは違い、リアトーマではフローティアのように身体に不具合を持つ人間は周囲や家族から良い扱いを受けることは無い。
生まれた先が貴族の家系ともなれば、彼女のような子供はその存在ごと家によって隠蔽されるのだと言う。
当然華やかな社交界に出してもらえようはずもなく、それどころか一生生家から出されず終わる事もあるようだ。
フローティアの生家では彼女を家に軟禁こそしなかったが、それでも家族との暮らしに相当な苦痛を覚えていたのだろう。
寡黙なシェムスの言葉の断片を繋ぎ合わせてテティが推測するに、フローティアは早くに家族から独立し、エドーニアの外れ……テティも一度フローティアらに同行して訪れた事がある小さな館に独立し、ひっそりと暮らしていたようだった。
詳しく聞いたわけではないが、彼女がどんな階級のどんな家の出の者であるか名乗る事を禁じられていただろう事くらい容易に想像がついた。
でなければ、通常家によってその存在ごと隠蔽されるフローティアが独立して館を構えることなど許される筈がないからだ。
そして素性を明かさぬ若い娘が周囲と心温まる交流を持てたなどと楽観的なことは、いくら若いテティでも考えられなかった。
自分の身のまわりを殆ど自分でする習慣が身についたのが生家を出る前か、それとも以後のことかは分からないが、いつも弱音を吐かず人に当たらず、真っ直ぐに頭を上げて生きようとしているフローティアがどんな少女時代を過ごしたのかに思いを馳せるとテティの胸は締め付けられる。
グラントとフローティアの結婚を披露する宴が催された昨年夏、屋敷へ招かれたフローティアと実母、それに兄であるエドーニア領主が話をしている様を見た限り、アグナダ公国では考えられぬ酷な扱いを受けていた事で彼女が兄や母に恨みを抱いている様子は見られなかった。
……もしかしたらあまりにも長くその環境に浸かっていたせいで、それが不当な冷遇だったコトに未だ気がついていないだけなのかもしれないとも思うのだが……。
フローティアの世話をする上でテティは最近、愚痴を吐いたり注文を付ける事もしない当の女主人ではなく、少女時代から彼女に仕えて来たシェムスに意見を求める事が多い。
脚や膝の関節や筋や腱の痛みは寒い日だけに限らず、天候が崩れる前や普段よりも余計に歩いた時、体調が思わしくないときにも酷くなるとの情報は彼の口から得たものだ。
夏場でもフランネルの膝掛けは必須だし、痛みがある時の対処として焼き塩をリネンに包んだ温湿布が有効である事も彼に聞いた。
フェイスも馬車に長時間乗る時には大きな柔らかなクッションだけではなく、腰や膝の下の角度を調整するための小さなクッションと足置きの低い台を積み込んでおくように彼に『お願い』されたらしい。
厳つい外見を持ち極端に言葉の少ない彼だが、礼儀正しく配慮の細やかな人間なのだ。
女主人の過ごした少女期を思うと胸がふさぐテティだったが、彼女にシェムスのような従僕がついていて本当に良かったと思っている。
「話す言葉は同じでも、お国が違えば事情もいろいろよねぇ……」
テティのみならずフェイスにも思うところはあるらしく、優しい形の眉を顰めつつそんな言葉を漏らし小さく嘆息すると、沈んだ気持ちを切り替えるためかテティへ向け多少大げさなくらいの笑みを見せた。
「ねえテティ。そう言えばお城を出る前にあなたも一枚絵を描いて貰っていたわよね。どんなだった? ちょっと見せてもらってもいい?」
王城内に持ち込んだ衣装や宝飾品などの貴重品、その他こまごました荷物の搬出指示や確認に侍女二人が追われる間、グラントの方は城に宿泊している有力貴族らの元へ挨拶がてらの外交的根回し工作出向いており不在だったのだが、フローティアは作業の邪魔にならない部屋の隅で携帯用固形顔料のパレットと筆を手に膝の上に広げた画帳へと昨夜の美しい装束姿のテティをよどみのない筆遣いで描いていた。
絵はあらかたの作業が終わった頃合にテティへと手渡され、渡された時に既に画紙の表面がほぼ乾いていたところを見ると、実質筆を走らせていたのはほんの短い時間だったようだ。
黄緑色の生地に若苗色と濃緑のリボン刺繍とビーズで孔雀の羽を立体的に刺したローブ。
艶やかな光沢のサテンリボンの胸当て。花のようにカットされた襞縁を飾るレース飾りなどはさすがに簡略化して描かれているが、夕べ鏡の中に見たままの姿が画紙の上に瑞々しく描かれていた。
絵を描く速さだけならばフローティアは広場や街頭で即興的に似顔絵を描く辻画家に適わないかもしれない。だが彼らは描写対象を目の前に置いて絵筆を走らせるものだ。彼女のように記憶だよりに描いたりしない。
「はぁ~……すごいものよねぇ……ほら、これ。逆毛をたてて立ち上げた前髪の形も、巻いてつまんでピンとリボン飾りで頭の上に留めたこめかみのところの癖毛も……まるごと夕べのテティそのもの。……とても綺麗だわぁ」
テティから水彩画を受け取ったフェイスが感嘆の声を上げる。
「フローティア様……モデルがそこにいなくてもこういう風に描けるのよねぇ。本当は昨日だって私を前に座らせておく必要なんてなかったのよ。描くのもすっごく早いんだもの。あの時はきっとわざとゆっくり時間をかけてくださったのよ。そうすれば、あの綺麗な衣装を私がその間身につけていられるのだもの。ねぇえ? この絵、家宝にしてもいいくらいよね?」
「そうね、大事にしないと。……フローティア様達がノルディアークをお立ちになれば、どうせ私達は少し時間が出来るんだから。ね、その時にでも街を探検がてら絵を入れる額でも見に行かない?」
グラントとフローティアの二人は後日、所用のため、同行してきた使用人の殆どをこのノルディアークに置いて留守にする事になっている。
一応その間も、グラントが設立を任された商館本部が完全に始動するまでこのテラスハウスは主要職員が食事をとりつつの会議をする場として提供されている為、使用人らが留守居の間に暇を持て余す事はないのだが、『侍女』としてフローティアに随行してきた二人は同僚らの手伝いをしたとして、今以上忙しくなることはないだろう。
「帰りの荷物が嵩張りはしないかしら? ああぁ……でもせっかくの絵が折れたり皺になるより大荷物で帰った方がまだましだわ。この国に付いて来る時に随分とお手当てに色をつけてもらったし、奮発して良い額を買う事にしよう」
ひとしきり同僚の水彩画に見入ったフェイスは、画紙をそっとテティに返しながら笑った。
「それからねぇ、時間が出来そうだからどこかでレース編み用の細い番手の上等な糸も買いたいの。昨日お借りした付け襟のようなのを私も作ってみようと思って。……もちろんあんなに素晴らしい工芸品は無理だから、もう少し簡単なのにするけど」
「じゃあ私は古本屋さんでなにか一冊本を手に入れるわ。フェイス……あなたが編み目を数える邪魔しないから、綴りや意味の分からない言葉があったら教えてくれない? 一応屋敷に上がってからみっちり読み書きは仕込んでもらったんだけど、今でも時々分からない字が出てくるのよ。まさか自分がこんなお屋敷で働く事になるなんて思わなかったから、最低限の読み書きだけでまともに学校にも……」
言いさしてテティはふと『あること』に気づき、言葉を切って首をかしげた。
「どうしたのテティ……?」
「え? ……ああ……ねぇフェイス。私フローティア様にユーシズの出だと言ったのは覚えているんだけど、実家が小作だって事も言ってた?」
「あ~……それは……」
テティの疑問を聞いたフェイスが少し首を竦めるようにして長い睫を上下させた。
「私が言ったかも。ううん、言ったの。昨日テティがエシェルに火熨斗を当てに行った後、たまたまメイリー・ミー様のお話になって。……私も行儀見習いでお屋敷に上がったんだって事をお話ししてたら『テティもそうなの?』って聞かれて、それで……そのぉ……ごめんね?」
「謝る事はないわよ。だって屋敷じゃみんな知ってる事だから。……でも……どこまで話したの……?」
夕べの宴の席でのフローティアとの会話を思い返す限り、彼女はテティの生家がユーシズの小作農だという事は知っていたが、それ以上の事を知っている様子は見えなかった。
……ただ単に夕べはその話題にふれなかっただけ……と言う可能性も高いのだが。
なんとなく耳の後ろの辺りに嫌な汗が浮いてくるような気がしはじめたのは、この部屋の窓が小さすぎるせいか、それともにわかに熱を帯び始めた頬と同じく羞恥心によるものか。
「……どこまでって……『あの話の全部』に決まっているでしょう?」
ばつの悪そうな表情に反してそう言ったフェイスの声には、僅かだが笑みが含まれていた。
「だって今でも時々サラフィナ様が昔話の虫干しに披露してくれるんだもの。私がしゃべらなくてもそのうちフローティア様のお耳にも入ったと思うわ」
「……そうかもしれないけど……だけどまさか私が大声で言い合いをしていた事は……」
頬のみならず耳の先まで赤く染め涙目で首を振るテティを暖かい笑みで見つめながら、フェイスは朗らかに
「あら。もちろんそこが無くちゃ始まらないじゃない」
テティは同僚に抗議の言葉を発しようとするが何を言っていいか分からず断念し、小声で唸りながら両手に赤く染まった顔をうずめた。
***
テティの父親が不意に得た病で床に就くやあっと言う間にこの世を去ったのは、彼女がまだ十歳になったばかりの事だった。
テティは父が家の為に手に入れたがっていた『機』を手に入れるため、機購入の互助組織への積み立てに回す現金を得ようと、かつて父と共に野菜を商いに幾度となく訪れていたバルドリー家の厨房に赴き是非とも自分を雇い入れてくれるようと必死に懇願した。
たとえ厨房とは言え貴族の屋敷内に通じる場所。
本当であれば、既に屋敷で働いている人間または口入れ業者の口利きでもない限りそう簡単に新規雇用はないのだが、バルドリー家の料理人頭であるモスランが、いつも新鮮で出来の良い野菜を納入するテティの父の人となりを覚えていたためにこの雇用は実現した。
そもそも小作農の生まれのテティのような身分の娘が上位貴族の屋敷の上級使用人になることなど滅多に無く、同じような出自の娘は良くて厨房の下働きや洗濯婦・掃除婦。たいていの者は敷地内の菜園や牧場の仕事に回される。
テティ自身も『あの事』がなければ今もモスランの下で厨房の仕事をしていただろうと思っている。
彼女が働き始めて一年ほどがたった頃のこと。
料理人頭のモスランが流行り風邪に倒れ、暫くの間休養を余儀なくされた事があった。
おりしもユーシズでは狩猟の季節が始まり屋敷には来客の数も多く、急遽リブロ子爵家から料理人を借り受け代理としたのだが、この料理人と言うのがとんだ曲者であった。
時折海外に出向き料理の研鑽を積むモスランとは料理の腕は比ぶるべくもないが、どうやらこの人物、料理の技術を磨く事への情熱より世俗の欲を満たす事へ情熱を燃やす人物だったようなのだ。
彼が厨房に立つようになって以降、モスランがそれまで使用していた食材納入商の半数が彼の指示で入れ替えられ、残りの半数は代理料理人頭に強要されるまま彼に袖の下を渡すようになってしまった。
賄賂となる資金が無から生み出されるものでない以上、どこかにしわ寄せが来るのは当然の帰結。
代理料理人の懐に入った金額の分、厨房に届けられ食料庫に備蓄される食材の質は低下する。
さすがにグラントやサラフィナ、ユーシズの屋敷への来客の食卓に供される食事に関して品質の劣る食材が回される事は無かったが、使用人らの賄いは以前より目に見えて粗末なものになってしまった。
これに対して賄いを口にする使用人らの不満の声はチラチラと上層の者の耳にも上がっていたのだが、グラントやサラフィナの元にまで苦情が届くことはなかった。
なにしろ今は一年で最も屋敷が賑わう社交の時期なのだ。
いずれモスランが復帰すればこの料理人は去り状況が改善される事は分かりきっているのだから、代理料理人との間に不要な摩擦を起こし彼の機嫌を損ねるのは得策ではなかった。
何故なら、この時期に料理人を失うなど、バルドリー侯爵家の名誉を守るためにも絶対に出来ないのだから。
テティがこの不正に気づいたのは、リブロ子爵家から代理料理人が来て一週間経つかたたないかの頃だった。
厨房に勤めることを許された当初、掃除や皿洗い・野菜や兎や鶏などの処理などの下準備をしていた彼女も、骨身を惜しまぬその働きぶりや気働きを認められ、異例の速さでモスランの調理手伝いへと昇格していた。
初めに目についたのは野菜の質と鮮度だった。
実家の畑を手伝いこの厨房へ商いに来ていただけに、野菜に関しての目利きには多少の自信がある。
代理料理人の不正の噂は程なくあちこちからひそやかに耳に入るようになり、モスランの指示で食材や調味料を貰いに出入りしていた食料室の使用人たちに話を聞くと、厨房の生鮮野菜だけではなく食料室の食材についても納入業者の変更や納入品の規格変更が相次いでいるようだった。
代理料理人や食料室の係りの目を盗み規格変更になった食材について調べてみると、入れ替わった全ての食材がこれまでのものより品質が劣っている。
だがたとえ食材の品質が下がったとしても、納入業者への支払い額も下がっていたのならそれは『不正』ではなく『倹約』となるのだが、家令補佐の男が厨房出納の担当者に食事に関する使用人らの愚痴をこぼしているのをテティがを耳にした限り、出納係も代理料理人の不正行為は承知しながら仕方なく黙っているようだった。
ある日の事。
その夜投宿予定の狩猟仲間へ供する夕餐の相談に厨房を訪れたサラフィナが厨房へ続く扉の前で耳にしたのは、大声で何者かを罵り糾弾する少女の声と、その声をさえぎるようにわめき散らす少し甲高い男の声。
閉じた扉の外までも聞こえるその騒ぎに驚き入室を躊躇したサラフィナに、厨房使用人らの押し殺したような悲鳴と何かがテーブルに当たる鈍く重い音が、一際大きな怒声と共に聞こえてきた……。
「……私が大声で人を罵っていたと聞いて、フローティア様……さぞ呆れられたでしょうね……」
耳を赤く染め羞恥に悶えることを諦め、がっくりと肩から力を抜くテティに、フェイスは温かなまなざしを向けそれを否定した。
「うぅん。呆れてなんかいなかったわ。だいたいアナタは人を罵ったんじゃなくて、悪い事を悪いと責めていただけでしょう? そりゃ……テティにそんな鉄火肌なところがあるのかってフローティア様は本当に驚いていたけど、むしろ感心していらしたのよ? それに、代理の料理人がテティに手を上げた事にたいそう腹を立ていらしたわ。テティは大丈夫だったのかって……とっても心配していたのよ。……本当に酷い話よねぇ。本当のことを言われたからって小さな女の子を殴りつけるなんて。……痛かったでしょうねぇテティ?」
「その時は興奮していたからあまり感じなかったけど……確かに後から腫れたし痛んだわよ。生え変わりかけとは言え二本も歯が折れてたから。……でもそれは本当に後からで、その時はとにかくサラフィナ様があんまり格好良くて……。いつもこの話しを人になさるのはサラフィナ様でしょう。まさか本人の前で言うわけにもいかなかったんだけど、とにかく……素敵だったのよサラフィナ様。ヒョロヒョロと上背のあるその男をね……こう……殆ど片手で……くぃっと簡単にひねり上げておしまいになったの!」
先ほどよりも更に頬を赤く紅潮させ身振り手振りを交えて説明するテティに、フェイスも目元を染めどこかあらぬ彼方を見ながらほっとため息をついた。
「セ・セペンテスでよく遊びにいらっしゃるレモリナ夫人の侍女が言ってたわ。少女時代のサラフィナ様が剣術競技会で次々貴族の子弟を打ち負かした凛々しいお姿は、今でも多くの御婦人方の語り草だって。そりゃ当然よねぇ。今でもあんなに凛々しくていらっしゃるんだもん。ああ……私も大奥様がヒョロヒョロ料理人をひねりあげるところを見てみたかったわぁ……」
自分より遥かに下の立場の小娘に糾弾され、怒りと興奮で我を忘れた代理料理人の男は、殴り倒した少女へと更なる暴行を加えるべく倒れた床から起き上がろうとしているテティの元へ歩み寄り……不意にその腕を背中に向けてギリリとばかりに捻りあげられた。
「一体何の騒ぎですか?」
突然のサラフィナの登場で厨房内は水を打ったように静まり返り、みなどうしてよいか分からぬように口ごもるばかり。
「……申し上げます」
そう声を発したのは他でもない、今しがた打ち倒された床から身を起こしたテティだった。
細い体をよろめかせながらも立ち上がり、サラフィナに向けてお辞儀をすると再び口を開きかけたテティだが、言葉を発する代わりに眉を顰めて横を向き、汚れてすりむけた手のひらに血混じりの歯を二本吐き出した。
口元をエプロンで拭い、抜けた歯をポケットに押し込んだ少女は再びサラフィナに向け頭を下げ、己の無作法を詫びる。
「お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした」
テティの言葉は失われた二本の歯のせいで若干不明瞭な上、口中に流れ出す血で口元は赤く染まっていたが、その目には怯えの影はなく強い光が宿っていた。




