『銀の杖と北の方舟』18
白いキャンバスいっぱいに風を孕み、船は紺碧の海に白い航跡を描いて進む。
北から南へ。
グラントと私、それにシェムスやテティら従者を乗せて、ホルツホルテ海をアグナダ公国へと海の上を走って行くのだ。
予定より随分と長く屋敷を空けてしまったけれど、サラ夫人は変わらず元気でおられるだろうか?
帰宅がこんなに遅くなってしまったのだもの、夏ごろに一度屋敷に顔を出すと言っていたメイリー・ミーもとっくに行儀見習い先の屋敷に戻ってしまっているに違いない。
彼女と次にゆっくり会えるのはフェスタンディ殿下の結婚披露が終わった後……今年の終わりか来年になってからになりそうだった。
春にリネの港でお別れして以来声を聞いていないのは淋しいけど、あちこちへ飛び回らねばならない今年の予定が終わればまたゆっくり逢える機会もあるだろう……と、私は自分の心を慰める。
淋しいなんて甘ったれたことを考える自分がちょっと情けない。
一昨年最愛の父を失い、一人で強く生きていこうとしているメイリー・ミーの方がずっと辛く不安な筈だ。
馴れぬお屋敷勤めで覚える事も多く大変な日々を過ごしているだろうけれど、メイリー・ミーの事だから、先方のお役に立ちつつ学ぶ事はちゃんと学び取っていることと思う。
次に顔を合わせる時はきっと以前よりも強く、優しく、女性らしくなった彼女と笑顔で会えると信じている。
ルルディアス・レイで行われた最終選考会の翌日から、グラントはエンドリオ工房とザゼグの工房を除く競合二工房へ挨拶まわりに出かけたりしていて忙しそうだった。
本人から直接詳しい『挨拶』の内容について聞く事は無かったけれど、レシタルさんらとグラントとの会話、それに私がグラヴィヴィスから得た情報を考え合わせると、何と言うか……今後教会が同じモチーフを使用した新商品を発注するなら、競合二社にそのお仕事を……と言うような話しを彼は向こうに持ちかけたんじゃないかと予想された。
そんな事をしては勿体無いのでは……などと思うのはたぶん素人考えなのだろう。
もともとグラントは今回のお仕事も「取れたら取りたい」仕事であって、絶対に取らねばならないお仕事ではなかったような事を言っていたのだ。
選考会への参加も、どちらかと言えば新規事業を立ち上げた商館の宣伝的な意味合いが強かったようだし。
工房の意匠担当の腕がとても良かったから最終選考に選ばれたけど、この仕事で必要以上に競合各社との軋轢を生むのは避けるべきなのだそう。
商館の設立は終わり、事業は動き始めた。
こうなればもう後は現地の人員に任せ、根回しやらの工作を終えたグラントの仕事は終了だ。
商業を通じての各国の動向を探るにはある程度の実績を積み周囲の情報が集まらねば出来ないだろうし、今のトコロ彼の出番は無いんじゃないかと思う。
ルルディアス・レイにはグラントの腹心であるレシタルさんも残っているし、未だに別の商館で『使い走り』をさせられているらしいジェイドも、グラント曰く「使い物になるようになったら」そこに加わるそうだ。
……はっきりと言葉にして言うのを聞いたわけではないけれど、ジェイドにはいずれグラント自身がやっていたように単騎での商業活動をさせたいのではないかと思う。
この先彼は身軽に動き回る事が出来ない立場になりそうだから、ジェイドには自分の代わりにあちこちを見て回る『目』になって欲しいと考えているのかもしれない……。
私は……彼の望むまま、これまでのように自由に行きたい場所へと好きな時に出かけられれば良いのにと思うのだけれど、大公やフェスタンディ殿下がグラントを腹心にと熱望している現状を、一体どうしたならば彼の望む未来に繋げられるのかさっぱり見当も付かない。
彼のくび木を外すには相当に強力なカードが必要になるだろうけれど、私や彼の手には今のところそんなカードは握られていないのだ……。
***
海を眺めて物思いに耽る私の耳元を、海風が時折小さな唸りをあげて吹き抜けていった。
青く染めた麻で編んだ鍔広帽子を風が揺らし、藁色の後れ毛を巻き上げる。
銀の造花やガラス玉を盛り付けた青い帽子は、ハットピンで留めた上にオーガンジーのリボンを顎の下で結んでいるからそう簡単に風に飛ばされないだろうし、気温がある程度高いので外にいるのが辛いこともないのだが、帽子の鍔が風を切る音は少しばかり耳に付く。
私は風に気をつけながら髪からピンを引き抜いてオーガンジーのリボンを解いた。
この帽子はブルジリア王国へ渡航するにあたり、サラ夫人に帽子屋に同行してもらい誂えた品だ。
色合いも顔映りが良く、レースのように繊細に編みこまれた帽子は蒸れない上に軽いので気に入っており、ブルジリア王国に滞在しているあいだ割と頻繁に使った覚えがある。
……そう言えば、最後にグラヴィヴィスに会ったあの時にも、私はこの帽子を頭にのせていたのではなかったかしら……?
ふと思い出したのは、ルルディアス・レイを去る二三日ほど前の事。
その日グラントはカーテルナーさんの工房……いいえ?それとも、ドランダード商会の工房だったかしら?
……とにかく、そのどちらかへと『ご挨拶』に出かけて街を留守にしていた。
***
一人で時間を持て余した時の常。
私はシェムスを伴ってディダが鳩の餌を商う中央広場へとのんびり歩いて出かけて行った。
近日中にアグナダ公国へ帰るために出発する事が決まっていた私は、ちょっとしたお土産物を見繕う為にここ数日広場や周辺の市場へと毎日のように足を運んでいたのだ。
青い帽子を頭にのせ、華美に過ぎないレースの手袋と銀貨を何枚か入れたビーズ刺繍の小さな手提げバッグ。白地レースに薄緑のサテンリボンがぐるぐる巻いた白いガーベラのような日傘をさして、銀鼠色に葡萄の葉と蔦模様の軽い生地のガウンと言う出で立ちは、まあ……侯爵夫人らしいとまで行かないが、それなりに見苦しくない姿だったと思う。
そう。……少なくとも汗でドレスの袖や脇に変な皺が寄ったりパニエが潰れて歪んでいるなんて事は、なかった。
このところなかなかに繁盛しているらしいディダから鳩の餌を買い、子供が清掃し終わったばかりの噴水近くのベンチへと移動している途中、私に
「こんにちは」
と声を掛けてくる男性があった。
水色に金銀の刺繍の施された豪華なジレに、ゆったり膨らんだ袖と袖口に純白のレースをふんだんにあしらった貴公子らしい雅なドレスシャツ。鮮やかな青地に銀モールが飾られた帽子を身につけたその人物に目を向けたまま、私は数秒間はたっぷり思考が停止していたと思う。
だって、彼はここにいてもおかしくは無いかもしれないが、こんな風にここで出会うのはとても不自然な人物だったのだもの。
「……グラヴィヴィス様……」
呆然と呟く私に向けて、貴公子姿のグラヴィヴィスは濃い青と銀モールと羽で飾られた帽子取ると、優雅としか言いようの無い動作で腰を折って挨拶をする。
幅広のレースリボンでキチンと束ねられたこげ茶の髪が、日差しにまぶしい光輪を描いた。
「ご機嫌うるわしゅう。バルドリー……いいえ、ここでは『バーリー夫人』でしたか。……フローティア殿とお名前でお呼びした方がよろしいでしょうか?」
「え……ええ。あの、そ……そうなさっていただけるとありがたいですわ……」
こちらの動揺などまるで眼中にないかのように、極めて自然に、そして堂々と振舞うグラヴィヴィス。
ノルディアークの王城でならいざ知らず、彼がこのような身形でこの人の多い街中をうろついているなんてあまりにも予想外の出来事だった。
……もしかしたら私は夢でも見ているのだろうか?
実際の行動には出さなかったけれど、己の頬をつねってみたい衝動を抑えながら傍らにいるシェムスの顔を盗み見ると、彼もやっぱり狐にでも抓まれたような呆然とした表情をしてグラヴィヴィスを見ていた。
……それはそうだろう。
シェムスにとっての『グラヴィヴィス』とは、ノルディアークで出会ったこの国の王の弟である王族のグラヴィヴィスなのだもの。
そんな身分の人間がこんな街中で……一人の供も連れずに出歩いているなんて彼の常識の中ではありえない話に違いない。
とりあえずシェムスの表情を見る限り、どうやら私が白昼夢を見ていると言うわけではないようだ。
「あの……どうしてこんなところに……?」
心の動揺と混乱のまま、私はそんな愚かな質問を彼に投げかけてしまったのだが、どうしてもこうしても……彼はこのルルディアス・レイに住んでいる。
いつでも僧衣を身につけ超然とした表情で教会のお仕事をしている……と言うイメージを勝手に持っていたけれど、どんな格好で街を歩こうと構わないのだという事に気づき、私は恥ずかしさで耳が熱く火照りだすのを感じた。
「ディダに、このところ今頃の時間フローティア殿がこの辺りにいらっしゃる事が多いと聞きましたので……上手く行けばお会い出来るかと、教会を抜け出して参りました」
にこやかに笑いながら、彼は私が腰を下ろそうとしていたベンチに王城の庭でしてくれたようにハンカチを敷いて席を勧めてくれた。
グラヴィヴィスはこの街ではとても有名な人間だ。
それが私服姿でこんなに人出のある場所にいては周りの目を引いてしまうのではないかと気が気じゃなかった。
……なにしろ、ノルディアーク以降広まった『噂』の事だってある。
ハンカチの上に腰を下ろしながら私はさり気なく周囲を見たけれど、どうやら広場を行きかう人々はここにいる彼を『主管枢機卿』だとは気づいていない様子……。
「どうやら私は運が良いらしい。たった一度の冒険でこうして貴女にお逢いする事が出来ました」
実に魅力的な笑みを浮かべそんな台詞を口にするグラヴィヴィスに視線を戻し、私は改めて彼を観察する。
艶やかなこげ茶の髪の上に載せた華やかな帽子は秀麗な顔立ちのグラヴィヴィスには良く似合っているし、髪を束ねる金糸で縁を飾った幅広のアイボリーのレースも高貴な雰囲気でとても感じが良い。
ここにいるのは地味で重苦しい僧衣を着込み、年齢に見合わぬ泰然自若な言動でサリフォー教会の主管枢機卿を務める青年ではない。
上流階級の同世代の青年が身につけるのと変わらぬ衣装をつけ、観光客に溢れるルルディアス・レイの中央広場で寛ぐ一人の青年。
……行き交う人々の目にはそう映っているのだろう。
私だってノルディアークの王城で初めて私服の彼を見た時、その貴公子ぶりに驚いたものだ。
彼の面立ちに既視感を覚える人がいても、堂々と自然に振舞う彼をお堅い聖職者殿だと看破する人間はいないかもしれない。
まあ……それにしても、こんな人間の多い場所で堂々としていられるその大胆さには驚きを覚えずにはいられないけれど……。
「あの……私に何か御用でも……?」
宗教家ではない時のグラヴィヴィスに接する時、私はどうにも……彼が王の弟であるとの事実を忘れ、そっけない対応になるきらいがあるようだ。
今向いている顔の角度からはシェムスの表情を窺い知ることは出来ないが、彼が私に呆れ驚いているだろう事は、彼との長年の付き合いから分かっている。
幸いにしてグラヴィヴィスは婉曲な表現や比喩暗喩に溢れた貴族社会だけではなく、市井の、あけすけで真っ直ぐな物言いの人間に慣れているせいか、私のこの対応を気に障るものとは思っていないようだけれど。
「ええ、お話ししたい事もございましたので……」
笑みを崩さず柔らかく話す彼の薄茶の瞳が、一瞬シェムスの方へと流れるのが分かった。
……できれば人払いをしてもらいたい……という事か。
「……お宿から少し歩いたので喉が渇いてきましたわね。……大通り沿いのカフェにでも行きません? それとも、シェムスに飲み物を買ってきて貰いますので、ここでご一緒に如何ですか?」
シェムスはきっと私の斜め後ろでぎょっとしたカオをしているに違いない。
カフェは百歩譲って許されるにしても、王の血に連なる者をこんな人の多い野外での買い食いに誘うなんてとんでもない話しだ……と、私に説教をする彼の声が聞こえる気がする。
「それは素敵だ。この辺りを視察に来る事はあっても、ここでゆっくり女神像や人々の流れを眺めた事は無いですね。……東側の外れに出ている屋台のオレンジケーキが美味いとディダに聞いた事がありますが……」
グラヴィヴィスの答えに私は思わず微笑んだ。
天板で四角く焼いたスポンジにオレンジのジャムとチーズクリームとを挟んだスティック状のケーキは、最近人気の食べ物だ。
「オレンジケーキならジンジャー入りのティーソーダが合いますわ。……シェムス、前にも行ったことがあるから分かるわね? オレンジケーキを四人分。それにディダの商いが終わったら彼も喉が渇いているだろうから……そうね、瓶入りのアップルサイダーを買ってきて。瓶なら炭酸は抜けないし、泉水に浸して冷やしておけるわ」
手提げバッグから銀貨を取り出そうとしている私に、シェムスは少し顰めたような目を向けて
「あの……しかし、大丈夫でしょうか……その、私がここを離れても」
と小さく言った。
私はシェムスの忠実で真面目な目を見、次に隣に座るグラヴィヴィスの腰に帯びた剣を見る。
シェムスがこの場を離れるのを渋る理由と私の視線を察したグラヴィヴィスが、カシャリと剣の鍔を鳴らす。
「今日はこうして剣を帯びてきましたよ。とある方に『慎重に生きるように』……とのお叱りを受けたのでね。……自分と美しいご婦人の身を護れる程度の技量はあると思いますが、信用していただけるかな?」
そう、シェムスの目を見ながら言った。
王城の厩舎地区での刺客騒ぎの時にグラヴィヴィスの剣の腕を見ているシェムスは、それ以上何も言わずグラヴィヴィスへと恭しい一礼を残して行き交う人の流れの中へと去ってゆく。
オレンジケーキの屋台は市場の東外れ。
この刻限では行列が出来て買うのに少々手間取るのが常だ。
ティーソーダやアップルサイダーを商う店はそこからほぼ反対の西の方角。すべての品を揃えてシェムスが戻るまでには暫く時間が掛かるだろう。
たぶんグラヴィヴィスが話したいのは先だって、グラントがトニロニー伯爵から差し向けられた刺客の事や最終選考会での事など、サリフォー教会に絡むあれこれだろうと思う。
商館事務所前で襲われた件ではシェムスも当事者の一人だけれど、私もグラントも彼にはあの事件の原因などの詳細は話していない……。
シェムス自身、私に付き添いこの街に来ると言った時に『何も聞かない』事を約束しているので、そこは納得して何も聞こうとはしてこないし、事情を知りたそうなそぶりすら見せずにいてくれる。
シェムスは弁えた従者だ。
申し訳ないけれど、そんな彼に私は甘えさせてもらう事にしていた。
ああ……だけど、後で思えばシェムスにはこの場にいてもらった方が良かったのじゃないだろうかと後悔せずにはおられない。
もしも……恥や外聞や常識などすっ飛ばしても良いものなら、私はこの場から突然逃亡しても良かったのではないかと思うくらいだ……。
グラヴィヴィスと言う人は、私の頭や心をあまりにも引っ掻き回し過ぎる。