『銀の杖と北の方舟』15
「カーテルナーの工房と母体を同じくするドランダードの工房は除外だな。……それに勿論うちのも」
ソファに腰掛けた私の隣で、グラントが私やレシタルさんの顔を見ながら言った。
「怪しいのはザゼグの工房と、エンドリオ工房と言うことでしょうか。……災難に巻き込まれた奥様にはお気の毒でしたけれど、賊が頭の中身と口が軽い人間だったのはありがたい。こんな事をしでかしたのがドコの手の者なのか、ある程度絞り込む事が出来ますね」
小さく何度も頷きながら腕組みの上からレシタルさんが言う。
場所は事務所の応接室。私やシェムスが賊に襲われてから一時間ほどの時間が経過していた。
あの後、事件の事を告げに行くにしても脱力状態の私を一人残してはおけないと判断したシェムスが馬車を事務所の出入り口に寄せようとしたところ、仕事を終えたグラントが出てきてくれて……。
「フロー……大丈夫か?」
しっかりと指を絡め合い、握った手の上からもう片方の手を重ねたグラントが、私に労わりの言葉を掛けてくれる。
「……ええ……大丈夫」
グラントは御者席のシェムスの血のにじむハンカチで頬を押さえた姿を見た瞬間、何事かが起きた事を察し私達をこの応接室に招じ入れてくれたのだが、あの時の私はと言えばまともに歩く事も出来ず、半ば抱きかかえられるようにしてソファにくずおれるていたらく。
今まで何度も恐ろしい目に遭ってきたけれど、意気地の無い私にはそれに馴れるなんて出来そうも無い。
特に今回は私自身ではなくグラントの命が危なかっただけに心に受けた衝撃は大き過ぎて、我ながら情けないと思うのだが、グラントに事の説明をするための言葉すらまともに出てこない有り様だった。
そんな私に代わり、少ない言葉ながら的確に今起きた出来事を彼に伝えてくれたのはシェムスだ。
今日ほど彼のことを頼もしく感じたことはないかもしれない。
そのシェムスは今、事務所の人間が連れてきてくれたお医者様に頬の傷の手当を受けるために別室に行っている。幸い彼の傷は浅く、数年の内には殆ど痕も消えると言うことだ。
……グラントが無事で済んだ事もそうだけれど、彼の傷がそれほどたいした事がなくて本当に良かった……。
「お嬢さん……。キミとシェムスのお陰で命拾いをした。本当に感謝している」
私のことを抱き寄せて瞼の上に小さく接吻を落とすグラント。
不安がる私の手を彼はこの応接室に入ってからずっと離さず握ってくれていた。
「シェムスが機転を利かせてお話しを合わせてくれたの。それで何とかなったのも……彼が本当に正直者として通っていたからこそだわ」
もしもシェムスの言葉がナトガの信用を得られなかったのなら、こんな風に優しく私を包み込む腕も温かな吐息も唇も……二度と感じる事は無かったのだと思うと、未だに身の震えを禁じえない。
激しく恐怖した反動で酷く甘えん坊な自分が顔を出しかけていたけれど、こちらから目を逸らして不自然にそっぽを向いているレシタルさんに気づいた途端、なんだかとても気恥ずかしくなった。
もう少ししゃんとしなければ……。
シェムスの怪我は重く無い。私にも怪我は無かった。なによりも……グラントはこうして無事にここにいる。
それに彼を襲おうとしていた人達は、ルルディアス・レイに彼等の標的であった『バルドリー侯爵』がいる事を偽の情報だったと思い込み、どうやらどこかへ逃げ去ってくれたのだもの。きっともう危険は無いはずだなのだ
こうしていつまでも不安そうにグラントの手に縋りついていたのでは、迅速な対処をしなければならない彼らの足枷になってしまう……。
私は大きく息を吸い込み名残惜しい彼の体温から体をもぎ離すと、ぎこちないながらもなんとか笑みを浮かべた。
「私は、もう大丈夫よ。それよりもお話しを続けて頂戴。……何かやらなくてはいけない事があるのでしょう?
シェムスの治療が済んだら私、お宿に帰っていてよ」
私がそう言ったところで外から扉が叩かれた。
治療を終えて頬から頭に掛けて包帯を巻いたシェムスが少し身を縮めるようにして入って来る。
痛々しげな包帯の白さに思わず眉を顰める私に、シェムスは
「お医者様と言うのは少し大げさでいかんです……」
と、ますます背を丸くして呟いた。
「調度良かった。シェムス、もし動けるようならお嬢さんを宿まで馬車に乗せて戻ってもらえないか? もちろん俺も同行するし、ここにいるレシタルも一緒について行くから。……こう見えてもレシタルは元はアグナダ公国の大公一家の衛士を務めていた事もあるんだ。腕の方は確かだ。最近は口の方が剣よりも達者なようだが、傭兵崩れのごろつき相手に引けを取るような男じゃない」
場を和ませようとしてだろう。軽い口交じりにそんなことを言うグラント。
「私よりも腕も口も達者なグラント様からそんなお墨付きをいただけるなんて、光栄ですね」
彼に合わせるようにレシタルさんも笑みを浮かべ、気障なしぐさで肩を竦めている。
彼らのお陰で私のこわばった笑みも少しは本当の微笑みに近づいたように思う。
「……フローお嬢さん。ここには奴等が標的にしていた『バルドリー侯爵』は存在しない。シェムス、そしてキミのお陰でね。だからもう危ない事は起きないよ。……大丈夫」
暗色の瞳で私を見、力強くグラントは請合ってから絡め合った手指を解いた。
解かれた指に少し寂しさを覚えたのは、さっきまで私の心を苛んでいた不安感ではなく甘えの気持ちに違いない。
私ももう子供じゃないのだから、もっと少しちゃんとしなくては。
「宿の様子を見に行った者がそろそろ帰ってくる頃だな。……ちょっと外を見てくるからキミはここで待っていてくれ」
穏やかな口調で言い置き、グラントが部屋を出て行った。
彼が部屋から去った後、急に手持ち無沙汰な気持ちになった私はとりあえずシェムスの包帯を見に行こうと思い杖に縋って腰を上げたのだが、その時、室外で何かが……たぶん椅子か机が思い切り倒れるような音が聞こえてぎょっとする。
まさかグラントに何かあったのでは……と、驚き慌てた私やシェムスが扉の方へ顔を向けると、今しがた部屋を出たグラントが何事も無かったようにひょっこりと顔を出した。
「……グ……グラント? 今そっちで大きな音がしなかったこと……?」
「ああ、すまない。ちょっと今、様子を見に行っていたナップスが椅子に躓いてね。彼自身は倒れなかったんだが、彼が手を掛けた机が壁に当たってひっくり返ったんだよ。騒がせてしまったな。……宿の周りには怪しい人間の姿は無かったし、それに宿泊者の名前を聞きに来た人間もいなかったそうだ。疲れただろうフロー。宿に戻って休むといい」
「そうなの……ならいいのだけど……」
グラントはいつもどおりの様子をしている。たぶん、本当にどうと言う事も無かったのだろう。
彼に続いて部屋に入ってきたナップスも見たところ大丈夫そう。
「ナップスさん、お怪我はなくて?」
「いや……僕は」
「大丈夫だフロー。ナップスは見た目より機敏だからね。それより壊れた机から思ったよりも破片が飛び散っていて足元が悪いんだ。……馬車まで抱き上げて運ばせてもらうよ」
口早に言いながら、少し強引に私の事を抱き上げて大きな歩幅で事務所内を出入り口へと向かって歩くグラント。
チラリと見えた『倒れた机』は、普通に倒れて壊れたとは思えないくらいにバラバラに砕け、机がぶつかったと思しき箇所の壁は部分的に漆喰が剥がれて穴が開いてしまっていた。
天板も継ぎ目から真っ二つだしまともについている脚は一本も無い。
……こんな酷く机が壊れたというのにナップスさんに怪我がなかったなんて、確かにグラントの言うとおり彼は機敏な人に違いない。
「誂えたばかりの机だが造りがちゃちで脆かったようだ。……家具商に苦情を入れておかないとな」
「酷くバラバラに砕けていたわ。あれ、本当に新品だったの? ……もしかしてシロアリが喰っていたのかもしれなくてよ?」
「明日にでも俺が直接新しい物を買いつけに行って来るとしよう」
文句を言っているにしてはやけに穏やかな口調だったけれど、それも怖い目にあった後の私を労わっての事だろうか。
グラントの力強い腕に運ばれ、私は再び馬車に乗った。
車内は暴漢らがつけた蹴り跡や唾のあとは綺麗にその痕跡を拭い去られていて、ほんのちょっと前にあんな事があったなんて嘘のよう。
事務所に入った時には不安で仕方が無かった私の気持ちも、事務所の出掛けに起きたちょっとしたハプニングのお陰ですっかり切り替わってくれたようだ。
馬車の外、御者台にはシェムスとレシタルさんが乗り私とグラントが後ろに乗り込むと、宿までの短い道のりを何の問題もなく四人は移動した。
グラントとレシタルさんはシェムスと私とを宿に送り届けた後は用事があって出かけるそうだ。……たぶん、今回の事の調査や対策の為だろう。
私はグラントに
「大丈夫だから」
と断ったのだけど、彼は一緒に部屋までついて来てくれて私を軽く抱きしめるとその身を屈め
「直ぐに戻ってくる……」
と囁いた。
「一緒に食事をして、早めに休もう。……頼むから今日だけはシェムスに髭剃り道具を隠してもらうような意地悪は無しにしてくれよ、お嬢さん? もしそんな悪戯をしたら、キミは俺の無精ひげで全身をチクチクとくすぐられる事になるのを覚悟しておくんだ」
そんな言葉とこめかみへのキスを一つ。
それにちょっと意地悪な片唇だけの笑みを残して、グラントは大きな歩幅で部屋を出て行った。
私は己の頬の熱を手のひらに感じながら、その場に立ち尽くす。
相も変わらずこういう時にどんな表情をしていいのか分からないのだ。
べ……別に嫌なわけじゃないけれど、にっこり笑うのは何か可笑しいし、嫌じゃないのなら困ったり怒ったりするのも変ではないか。
やたらとあおる胸の鼓動を無理やりに黙殺し、私は火照る頬から手を離して扉の方向を向きっぱなしだった顔を窓へと向けた。
途中鏡に映った自分の頬を染めた間抜けな表情を見たような気がするけれど、一瞬だったし、窓から入る日差しがほんのりと暮色を帯び始めているからそれが必要以上の血色に見えたに違いないと思うことにした。
なんだか今日はとても疲れる半日だった。
グラントが戻るまで、まずはこのヨレヨレのお洋服を脱いでお風呂に入ろう。
さっぱりと汗を流せばもう少しは気持ちがしゃっきりとする事だろう。
そして、髪を整えて……侯爵夫人には見えないまでも、もう少しだけグラントの目にも美しく映るような姿で彼が帰ってくるのを待つのだ。
***
「……グラント様。奥方があんな目に遭って腹立たしく思われるのは当然でしょうけど、物に当たるってのはどうかと思いますよ」
フローとシェムスを宿に置いた後、グラントとレシタルは貸し馬車屋に馬車を返却しに向かっていた。
二人は今後の打ち合わせの為、馬車の前と後ろとには分かれずに御者台に並んで腰を下ろしている。
手綱を手に巧みに馬を操り路地を曲がりながら言うレシタルに、グラントは御者台の狭い足置きに乗り切らぬ脚をもてあまし気味に組んだ姿勢で、皮帽子の鍔の下からちらりと隣に暗色の瞳を向けた。
「……机と椅子は明日にでも新しい物を運ばせるさ……勿論、俺の私費で。それに、ナップスには後で謝るし事務所に残っていた皆には酒でも奢らせてもらうよ」
「ならいいんですけどね」
御者台の背後、客席に背を凭れて額にずり落ちてきた帽子の鍔を指先で上に持ち上げるグラントからは、さっきまで漂ってきた怒りの気配は随分と薄くなっていた。
「しかし……ここまで思い切ったことをしてくるとは思いませんでしたね。いくらなんでもやり過ぎでしょう。幸い奥方と従者が上手く立ち回ってくれたお陰で事なきを得ましたけど。場合によっては大事になっていますよ……」
フォンティウス王の来賓としてブルジリア王国を訪れている『バルドリー侯爵』に何かあれば、国家間の問題にだって発展しかねない。
それを強いてあのような手段に出るという事は、それだけ相手も追い詰められているという事だろうか。
だが、相手が悪い。
レシタルは自分の隣に座る男の無表情な横顔を見て心の中で肩をすくめた。
自分なら間違ってもグラントを最も怒らせるようなやり方……最愛の女性をあれほど怯えさせるような事は絶対にしたくない。
彼女の前では穏やかな表情をしていたが、事務所の壁に向けて蹴り飛ばされた新品の机は、怒りのままにぶつけた膂力によって木っ端微塵に粉砕されてしまっていた。
今は一度癇癪を起こしたせいか落ち着いた表情をしているけれど、彼の脳内では冷徹にこの件の報復にむけての方法が計算されているに違いない……。
癇癪を起こすよりもそちらの方が恐ろしいと、レシタルは彼との長年の付き合いから分かっているのだ……。
「それにしても、不思議な方ですね貴方の奥方は。怖い目に遭って震える様子はどこにでもいる女性と同じか弱い姿ですのに、賊相手に一芝居打つ心臓とその聡明さはありえないほどですよ……」
「強心臓なんかじゃないよ、フローは。……俺が彼女の危機には命を賭けて護るのと同じように、彼女も俺を護りたいと言ってくれたことがあるんだ。……惚れた腫れたの浮ついた綺麗事だとしても俺には十分に嬉しかったのに、フローは本気の気持ちで言ってくれたんだよ……。あんなに蒼褪めて震えながらも俺を護ってくれたお嬢さんに、俺は一体何をもって報いるべきだと思う、レシタル?」
貸し馬車屋の前、二人の乗る馬車は速度を徐々に落としていた。
だらしなく凭れかかっていた背中を真っ直ぐに起こしたグラントの顔は、傾きかけた日差しと帽子の鍔が作り出した陰でレシタルにはうかがい知れない。
「そうですね。貴方の思うようにされたらいかがですか? 私らも及ばずながら力を尽くしますよ」
馬車が止まる直前、グラントは御者台からひらりと地上へ飛び降りた。
ブーツの靴底、夏の空気に乾いた石畳から軽く土煙が上がる。
「そうか。だったら今回は教会の最終選考に残るだけでいいと思っていたけど、本気で選ばれるために頑張ってみるか。その方がお嬢さんも喜ぶだろうからね。……さっそくで悪いがレシタル。それを返したら馬を一頭借りてきてくれ。俺は商館に戻って手紙を何通か書いておくから。後でお前かナップスに使いを頼むと思う。主管枢機卿殿もフローお嬢さんが酷い目にあったと知れば、全力で動いてくれるだろうし……な。彼の手を借りるのは正直面白くないが、教会内部の事は彼に任せた方が早い。……俺の名前が王弟殿と組み合わされて流出した原因は……たぶんノルディアークでのアレコレからだろう。……ザゼグ工房とエンドリオ工房の母体も調査して貰いたい。頼む」
言いながらグラントの長身は既に至近にある商館事務所へむけて歩を進めていた。
一瞬こちらを向いた彼の瞳の色を見たレシタルが、グラントの背に向けて言う。
「……お手伝いはしますけど、あまりやりすぎだと思ったら止めさせてもらいますよ!」
グラントは振り向かず、軽く手を上げると軽く肩を竦めた。
「大丈夫だ。……紳士的じゃないやり方をしたのが万が一お嬢さんに知れでもしたら、俺が嫌われるだろう?」
大きな歩幅で歩いて行くグラントを見送りながら、レシタルはノルディアークの婚儀以来ちらちら聞こえていた王弟とグラントの妻との噂がどうやら完全に無責任な『噂』に過ぎないわけではないらしいことを裏付ける彼の言動に、困惑と納得の気持ちをあい半ばさせていた。
……確かに、彼女はレレイス公女のような絶世の美女ではないけれど、不思議な魅力を持つ女性だとは思う。
自分にはもっと豊満で色気たっぷりの女らしい女の方が好ましいけれど、人の好みは千差万別……。
「バラバラになった机のお陰で、命拾いした人間が何人いることやら……」
レシタルはふっと息をつきつつ御者台から飛び降りた。




