『訃報』
本作品はfluere fluoriteシリーズの第三部になります。
第一部を飛ばしてこちらを読むと盛大なネタばれになります。
ぜひ第一部『fluere fluorite』から先にお読みくださいますようお願いいたします。
……ここでは無い世界。
いまでは無い時を刻む物語……
サイノンテスの領地や城は、グラントの曽祖父である初代バルドリー卿が先代のアグナダ大公から拝領したものだ。
城や領地と言ってもそれはささやかな物で、古い石造りの古城は私がエドーニアの街外れで構えていた館と規模はさほど変わらないだろう。
拝領当時、サイノンテスは漁船が出入りする小さな港と年中潮風が吹きつけるせいで石高が上がらない耕作地、それから手つかずの荒地が大半だったらしい。
それでも戦役で功績を上げた傭兵上がりのにわか貴族が拝領するには、上等過ぎるほどに上等である。
……と、サラ夫人やグラントは言うけれど、そう言う物だろうか?
リアトーマ国内でも古いと言うだけならやたらと古い家に生まれた私には判断がつかないが、彼らがそう言うならきっとそうなのだろう。
グラントのお爺様であるカゲンスト・バルドリー卿が戦争での功績とその後の施政への貢献によってユーシズの広大な土地を得るまでは、この古城が貴族としてのバルドリー家の本拠地だったのだそうだ。
今は一年の殆どをセ・セペンテス別邸やユーシズの城で生活しているけれど、バルドリー家の人間はサイノンテスの古城に特別の思い入れがあるようだ。
聞けばサラ夫人も、それにグラントのお祖父様であるカゲンスト卿も新婚時代をこの城で過ごされたらしい。
「サイノンテスは良い場所よ。この季節はまだちょっと暑いですけれど、海風がいつでも吹いていて……海と、空と古い城以外には周りには何もないわ。だけれど……そこがいいのよ」
サラ夫人がそう仰って微笑まれながら私とグラントとをサイノンテスへと送り出してくれたのは、去年の夏。二人の結婚をアグナダ公国内の貴族達へ披露する宴をユーシズで催した直ぐ後の事だった。
秋の狩猟シーズンになればユーシズは社交の場になる。本当の意味での『お披露目外交』で秋は忙しくなるのだから、今の内にゆっくり休んでおいでなさいと言うのだ。
春に思いもかけずグラントと結婚することになり慌ただしくアグナダ公国へやってきて、お披露目の為の準備に追われ……。なんだか本当に、勢いに飲まれるようにして何が何やらわからぬ状態で日々を過ごしていたんだ……と、サイノンテスに来てから私はつくづくと思った。
拝領直後には酷く貧しかった土地も、今は防風林の整備や塩害風害に強い作物への植え替えが進み、以前に比べれば豊かになっているそうだが、風光明美な観光地でもない小さな海辺の土地には見るべきところもなく、訪れる人間は少ない。
だから私もグラントも春以来一度もなかったくらいにたっぷりと、何に追われる事なくただ二人きりで過ごす暇を持つことが出来た。
海を見下ろす高台の城は粗い石造りの無骨な建物で、古い時代に砦を後年改築したものだ。
小さな庭にはグラントのお祖母様であるリリアシータ様が手ずから植えられた草木が生えている。
初夏の頃には石の壁をモッコウ薔薇がカスタードクリームのような黄色に染め、前庭には芍薬が大輪の花を咲かせるそうだ。
私達が訪れたのは夏の花と秋の花との端境期で、小さな庭にはヤグルマギクの涼やかな青色と時期外れの白百合の白くらいしかなかったけれど……。
もしもそれが花盛りの季節だったとしても、花の事などあまり記憶に残っていなかったんじゃないかと思う。
こういうことを言うと馬鹿にされそうだけど、あの時の私は、ただただグラントの事しか目に入らなかったのだから。
ああ……やっぱり言葉にすると馬鹿みたいだ。
だけど、本当にそうなのだ。だって仕方が無いじゃない?
本当に私、こんなに幸せな気持ちで彼の事を見つめる事が出来る日が来るなんて、思っていなかったんだもの。
アグナダ公国を去り、エドーニアに帰ったあの頃は辛かった。
言葉に出来ないくらい、辛かったと今更ながらに思う。
それが……まさかこうして手放しでグラントを愛していていいなんて……。今もまだ信じられない気持になるくらいなのだから。
考えてみれば、私達には『恋人同士』として幸せに過ごした時間など殆ど無かった。
……私はグラントの事を愛していながら彼を好きになってはいけないと苦しい思いをしたのだから、誰はばかる事なく心のままに彼の存在をこの目に貪るくらいの事、許されてもいいと思う。
まだまだ夏の暑さが残っている季節。私達は日中の殆どを庭の木陰で過ごした。
二人寄り添って座った東屋のベンチで、ただ黙ってヤグルマギクを見ていた。
遠く聞こえる海鳴りと頭を凭せかけた彼の胸の下から聞こえる力強い心臓の音を聞き、時折発せられる響きのよい声を聞く。
私の指に絡むしっかりと骨っぽい大きな手指から伝わる熱に、全身がしびれるくらいに幸せを感じた。
私は一日中ずっと彼の顔を見ていても飽きないし、グラントもきっと、たぶん同じだったと思う。
配慮の行き届いたわきまえある使用人達は、誰も庭の私達の邪魔などしなかったし、サイノンテスの小さな城には滅多に訪れる人間もいないから、私達は申し分の無い蜜月を過ごす事が出来ていた。
……あの日までは。
その日も私とグラントは二人の時間を過ごす為に庭へと出ていた。
濃い緑色の巨大な滝のような柳の下のハンモックにグラントが大きな身体を横たえ、私はその上半身に乗り上げるようして彼を見つめ、たわいもない話しをし、キスの合間にとろとろと微睡んだ。
無為に過ごす有意義な時間。
……ただちょっと、そう。誰も来ない状態に慣れ過ぎて油断をしていたのは否めまい。
その時の事を思い出すと赤面せずにはいられないのだけれど、私もグラントも酷い格好をしていたと思う。
いいえ……別にそんな酷い格好はしていないだろうけれど、グラントは緩いシャツの胸を大きくはだけた姿だったし、私は暑い季節なコトもあり、薄手の白リンネルのロングチュニックと青く染めた締め付けの無い緩いローブに小花の刺繍が散るチュールのガウンを纏った部屋着姿。
二人きりの庭で涼むには気持ちが良いけど、お客様を迎える格好ではない。
通常の客人なら応接間で待っていただいている間に着替えることも出来たのだけれど、その『報せ』は緊急だったのだから仕方が無い。
……仕方が無いとは思うのだけれど更に間の悪い事に、席をはずそうにも私は彼に抱きあげられてここまで連れてこられていたせいで杖を持っていなかった。
しかも、室内履きすら履いていない素足では動きようがない。
あの当時、私はまだグラントの仕事と言うか、この国の諜報機関や大公の執政への関わりや立場についてあまり理解しているとは言い難く、また、そう言う事を根掘り葉掘り聞いてはいけないものだと思っていた。
それは慎み深い貴族の妻のあり方としておかしい事では無いだろうと今も思う。
だから早打ちの使者が使用人を押しのけるように庭へと飛び込んで来て、グラントへその『訃報』を告げた時、私は驚きはしたけれど少し不思議でもあった。
亡くなられたのはアグナダ公国とリアトーマ国があるレグニシア大陸の南、アリアラ海を渡った先の小国モスフォリアの王女メレンナルナ姫。
彼女は次期アグナダ大公となるフェスタンディ殿下の婚約者だった。
聞けば、メレンナルナ様はもともと身体が丈夫では無く、この年の冬に風邪をこじらせて以来床に伏しておられたそうだ。
皇位継承権第一位の皇子の婚約者が亡くなられる。
……確かにアグナダ公国の皇室にとって大変な事態ではあると思う。
でもそれはあくまでも『皇室』とその周囲にとっての一大事であり、グラントが侯爵家の当主だからと言って皇室から早馬を仕立て使者が来る……なんておかしいではないか?
アグナダ公国大公は貴族の有力者の中でも特に信に篤い何人かの方々を執政の中心に置かれているそう。
国の統治の方法としてはリアトーマもだいたいこのような感じだ。
けれど、グラントは別にそう言った位置に置かれているわけでもなく、フェスタンディ殿下とは昔から友人としての付き合いがあるが、それはあくまでも個人的な事。
私は使者の知らせを厳しい表情で聞いているグラントの後ろに隠れるようにして、なんとも言葉にはし難い身の置き所の無さと言うのか、居心地の悪さを覚えていた。
「……フロー。すまない、直ぐに迎えに来るから」
そう言葉をかけ使者を伴ったグラントが城の中へと入って行ってからも、私の居心地の悪さは消えてくれなかった。
二人だけの親密な時間が消えてしまった事に拗ねていたのもある。
……そりゃあ私だって拗ねる。
聖人様じゃないんだもの。
でも殿方には殿方の立場や世界がある事くらいわきまえているつもりだ。
実際、この翌日にはグラントと私はサイノンテスで秋まで過ごすと言う予定を切り上げ、大公の城のあるセ・セペンテスへと向かう事になったけど、これに対する不満なんて微塵ほども抱きはしなかったもの。
……ただ……一人。微かに風に揺れるハンモックの中靴も履かず、手元に杖もなく残されているのは気持ちの良い物では無い……。
靴が無いくらい別にかまわない。
芝や土の上を素足で歩く事ならば子供の時分にはやっていた。
だけど、杖が無いのでは歩けない。
グラントに抱きあげられるのは嫌ではないけれど、こうして身動きが取れない状態で取り残されるとやりきれない気持ちになる。
「……労せず移動するというのは、人間として正しくないと言うことね。怠け者は怠惰の報いを受けるんだわ」
別に自分が怠け者だと言うわけではないが、なんとなく教訓含みの寓話を思い出し、私は唇を尖らせた。
……今思えば、随分と呑気な反応だったかもしれない。
幸せ呆けしていたと言われればそれを認めざるを得ない。
幼い頃、リベットが枕辺でおとぎ話を語ってくれた。
勤勉な村娘は王子様に見初められ、見も知らぬ国の王子や王女は魔女や悪魔、仙女らの課した試練を乗り越えて結ばれる。
物語の締めくくりは大抵の場合同じだ。
『二人はいつまでも幸せに暮らしました』
その先の日々について語られる事は無く、お話の中の『試練』や『事件』はシンプルで、一度解決してしまえばその余波に襲われることもないようだった。
けれど現実はそうは行かない。
私は本当に幸せ呆けだったから、自分が命を失いそうになった事件はすべて解決済みだと思っていたのだ。
事件……とは、ボルキナ国が裏で糸を操り、リアトーマ国とアグナダ公国との関係を悪化させ両国が戦争を起こすように画策したあの事件の事。
リアトーマ国とアグナダ公国、そしてボルキナ国の間にどのようなやりとりがあったのか私には分からないけれど、ボルキナ国では軍務責任者の一人が辞任したと聞いた。
本当は裏ではもっと激しい動きがあったのだろうが、私はなんとなくその件は終わった事のように考えていたのだけれど……。
命まで失いそうになっていながらあまりにも迂闊だし『それ』を忘れてしまうなんてあり得ないと失笑されそうだが、『喉元過ぎれば熱さを忘れる』の言葉通り、私は安寧の中に浸り込み、失念してしまっていた。
フドルツ山の金鉱から不正流出した金はレグニシア大陸の北の海、ホルツホルテ海だけではなく南のアリアラ海側にも流されていたのだと言う事実を───。
でも、だけど、私はリアトーマ国の間諜なんて怪しい事をしていた女ではあるけれど、今はグラントの妻として一般的な貴族の妻と同じように……いいえ。
この脚の事もあるから彼の顔を潰さない程度に慎ましく、社交界で周囲の方々と交流を持ったり、グラントやサラ夫人に教わってバルドリー家の事務的なお仕事の手伝いが出来れば……と考えていたのだ。
国の内政に関わる事や誰かの陰謀に巻き込まれたりするなんて生き方をする予定など無かった。
フドルツ山の金鉱事件に巻き込まれたのは自業自得かもしれないけど、ブルジリア王国でサリフォー教会旧勢力と王弟グラヴィヴィスらの権力争いの果てに行われたシュスティーヴァ王の『神事』に関わることになったのは、全くの偶然だった。
……あんなことはそうあるものじゃない。
私は家の采配の手伝いをしたり、時に音楽や絵を楽しむ穏やかで落ち着いた暮らしをしてゆくものだと信じていた。
ささやかな日々にもきっと小さな事件があって、それを乗り越えつつ生きて行くことがおとぎ話のいわゆる
『二人はいつまでも幸せに暮らしました』……の正体だと思っていたのだ。
フェスタンディ殿下の婚約者が亡くなられたのは、大変な事だと思う。
殿下のご成婚の祝賀の宴にはグラントも招待されるだろうし、慣例に従うなら私も同伴を求められるかもしれない。
それに、もしもご成婚後、これまでのように殿下がユーシズに狩猟を楽しみに来られたなら、殿下の奥方と成られる方ともお会いする機会はあるだろう。
その時にはユーシズでのご滞在が楽しいものであるように私もお手伝いが出来たら……と、殿下の奥方と成る方について私はその程度のお付き合いを考えていた。
その考えは実際現実的だし、別におかしい事じゃないと思う。
本来ならこの年の秋に殿下とご成婚あそばす予定だったメレンナルナ王女は、亡くなられてしまった。
フドルツ山金鉱の金不正流出にも関わる、アグナダ公国とモスフォリア国との折衝が秘密裏に執り行われていた事など私には知るよしもなかったのだけれど、この年の秋の終わりには亡くなられた王女の妹君であるプシュケーディア王女が新たなる婚約者と決まり、翌年秋にアグナダ公国へと嫁いでいらっしゃる事が決定したのだ。
ひとりハンモックに揺られながら唇を尖らせていた私はこの時、次期アグナダ大公妃になられるプシュケーディア様と自分が思い描いていた様な関わり方とは少し違った関係を築く事になるなんて考えもしなかった。
しかも……あまり楽しいばかりの関わり方ではないなんて、誰が想像するものか。
……それもこれもグラントが……。
いいえ、そうじゃないわ。
大本を辿れば私の行動から始まってしまったとも言えるもの。
とにかく確かなのは
『二人はいつまでも幸せに暮らしました』
との結び言葉は、私とグラントとの人生にはまだついていなかったという事。
それとも、ささやかな日々に起きる『小さな事件』の大きさの見積もりを誤ってしまっていたのかしら。
ヤグルマギクの咲くサイノンテスの庭で、手元に杖が無い事にふてくされていた自分を今振り返ると、私はその呑気さに嘆息せずにいられない。