『銀の杖と北の方舟』9
グラントと私はもう暫く投宿して歓待を受けて欲しい……との王室の意向を辞退して、第三夜目の宴が終わった翌日にはノルディアーク城を後にした。
行き先はレシタルさんが市内に手配してくれた館だ。
当初の予定では私達はひと月ほどブルジリア王国に留まり、商館の事業の開始を見届けてから帰国するつもりでいた。
……のだけれど、もしかしたら滞在はもう少しのびる事になるかもしれない。
それにしても、腹立たしい。
グラントが公爵夫人から聞いて来たグラヴィヴィスと……たぶん私とのあの噂は、あの後、瞬く間に宴に来ていた招待客の間で広まってしまった。
二夜目の宴が終わった後、私もグラントも状況へ対する警戒感から、それなりに対策を立ててはいたのだ。
私はあれ以上グラヴィヴィスと接触を持たないよう三日目の日中は大人しく部屋の中で過ごしたし、三夜目の宴の席には一番体型が近いテティに私のドレスを着せて古式ゆかしい『付き添い』の役をさせ、忙しいグラントが席を外している間一人きりでグラヴィヴィスと遭遇する事が無い様に取り計らいもした。
今はもう完全に、この噂が広がったのはグラヴィヴィス本人の意志も介在しての物だと確信しているが、この三夜目にも彼は私がいる帳の席に『お話をしに』現れてくれた……。
しかも前夜よりもさらに大勢の取り巻きを引き連れていながら、ご丁寧にも彼らの面前で周囲の人間など眼中にないようなそぶりで彼らを振り切り……だ。
これが『故意』以外の何物だというのか。
グラヴィヴィスが現れた直後、この事を気にかけていたグラントが直ぐに私の元へと戻ってきてくれてくれたのだが、……これがまた『噂』に妙な尾ひれを付ける結果になったようだ。
千人の人間に聞かれたなら千人の人間に対して断言しよう。
グラントとグラヴィヴィスはお仕事の事を少し話しただけだった。
決して私を巡って静かに火花など散らしたりしていなかった。
得てして『噂』とはそういう物なのだろうけれど、広まった話は事実誤認も甚だしい無責任なものなんだとつくづく思い知る。
大いに憤慨する私をグラントは面白そうに見るけれど、何しろ私は社交界と言う物に揉まれた事がないのだもの。達観した大人の対応をしようと思ってもそれは難しい。
「フローお嬢さん。キミは頭もいいし勘もいいのに、時々……特に自分に寄せられる感情に関しては……なんというか、鈍い部分があるようだな……」
苦笑いでそんな事をグラントは言うけれど、どういう事なのだろう。
最初の日にグラヴィヴィスが現れた時、『噂』に飢えてその種を探している人々の気持ちを敏感にくみ取って、もっと警戒するべきだったとでも言うんだろうか?
……そんなの無理だわ。
この先どれほど社交界の経験値を積めば、そんな預言者じみた能力が身に付くと言うのか。
「貴方が着飾った私の事を馬鹿みたいに褒めたたえる時のように、ゴシップ好きの人の目には全ての事が醜聞に見えるような変な膜がかかっているのよ。そういう人たちには、私がただ大人しく礼儀正しく挨拶の為に手を差し出したのだって怪しげな情交に見えてしまうんですもの。そんなものにどうやって対抗しろと言うの!?」
「……いや……そうじゃなくてだ……」
暗色の瞳を天井に向けてグラントが口の中で唸るように言う。なんだかさっきからやけに歯切れの悪い物言いをするのはどういうわけなんだろう……。
「なぁに?? はっきり仰って下さらない?」
「……なんだか本来なら俺は嫉妬するべき立場なんだろうけど、キミにかかってはむしろグラヴィヴィスに同情するべきじゃないかと言う気になるよ……」
なにを馬鹿な事を言っているんだろう、グラントは。
「いやだわグラントったら。変な事を言うのね。……グラヴィヴィスには何か思惑があるのだわ。何がかは向こうから話してこないのなら聞く事もないんでしょうけれど、絶対に意味もなくこんな噂を煽るような真似を、ああいう人がするとは思えないわ。……あの手紙だって、今回の事に対する迷惑料のようなものでしょう?」
私が言っているのは二夜目の祝宴の夜に、彼からグラントへと言付かった『書簡』の事だ。
あの手紙の事で今、グラントや私、それにこの国での事業の起業人員であるレシタルさんやジェイド、ナップスやシュトームら多くの人間が忙しく手配に追われている。
おいおいそこに話は及ぶが、簡単に言うならばあれはサリフォー教会からの商品依頼を得る為の『試験』を受ける許可のようなモノだったのだ。
もちろんその依頼を正式に得るには試験に受からなければいけないのだけれど、もしも上手く行けば企業としての名前をこの国で売るための好機になりそうな話しだった。
……そんな美味しい話を貰ったのだもの。
多少の不愉快さには目を瞑るべきなのかもしれない。
もしこれがアグナダ公国国内での噂なら耐えがたいだろうけれど、ブルジリア王国とアグナダ公国の間はホルツホルテ海が隔ててくれている。
こう言ういい方をしては失礼かもしれないけど、ブルジリア王国はさほど大きな国ではない。
アグナダ公国にこの国の社交界での噂が流れてくることはまず無いだろうと、グラントも言っていた。
だったら私には何も文句は言えない。
彼は最初からそんな話をまるきり信じる様子など見せなかったし、私はグラントが信じてくれてさえいれば遠くでどんな『噂』が流れていたとしても気にしない事にしよう。
それにしてもグラントったら『嫉妬するべき立場にありながら同情したくなる』なんて言っていたけれど、……でもその割に二夜目の祝宴が終わった後の彼はちょっと不機嫌そうな様子で、部屋に戻るなりいそいそとお髭を剃ろうとしたのは何故だったのかしら。
……まあ、別にかまわないわ。
なんとなくそんな予感がしていた私は、前もってフェイスにお髭を剃る道具を隠してしまうよう言いつけてから彼女達を部屋から下がらせたんですもの。
私は悠々と夜着に着替え……
「今日はとても疲れたので先に休ませてもらうわね」
……と宣言して、その夜も次の夜もゆっくりと眠る事が出来たのだった。
***
この国の経済と商業の中心地は、東西南北の四方にエルテカ帝国時代の街道が伸びる聖都、ルルディアス・レイである。
王都ノルディアークはルルディアス・レイのように経済活動の拠点に相応しい立地ではない。
それはこの国の成り立ちや建国の王であるシュスティーヴァの目指した『王としての在り方』を考えれば分かるのだけど、隣国の侵略から国を守る城塞である……と言う事が、このノルディアークの存在意義な以上仕方ない事だろう。
確かにノルディアークは商業の中心となるには向かない場所ではあるけれど、そのかわり法政の中心として国内各地方へと情報を伝達する為、国営の伝達網が完璧に整備されている。
ルルディアス・レイでグラヴィヴィスが王位継承権を返上したさい公示人に遭遇したことがあるけれど、ノルディアークから発せられた情報はいくつもの駅馬伝馬基地を経由し、枝分かれしながら各方面へ向けて分散し、国内に効率よく公示されるように手配されているのだ。
アグナダ公国やリアトーマ国にも『駅制』と言う似たような情報伝達のルートはあるが、ここまでの徹底した合理性は持たないのではなかろうか。
経済活動こそルルディアス・レイに中心を置いているけれど、法制度の中心はあくまでも王のお膝元にある。
商活動に必要な許可や認可を発行する公官庁の大半もここだ。
だからだろう。ノルディアークには商業組合や商館・商会の支局、本社などの事務機関が多く設置されている。
これら商業組織の事務機関の多さゆえ、国営の伝達網だけではなく商人や一般の人間も料金さえ支払えば使える情報伝達網がこの街を起点にきちんと整備され、発達している。
グラントらがこれまでその設立のために奔走してきた商館は、ノルディアークに『本社』を構える事になっていた。
「貴方のしている事って……変な言い方だけど、アグナダ公国が非公式に『認可』した活動なのでしょう?」
資金は潤沢に使える筈なのに、ノルディアークに構える『本社』がとても小さくて奥まった場所にある事を不思議がる私に、グラントが小さく笑いながら肩を竦めて見せる。
「使える資金はあるけど、なにしろ紐付きの金だからね。それ以前の問題として、ここはこんなもんで充分なんだよ。あくまでも活動の拠点はルルディアス・レイになるんだから」
「……ここは、形だけ……って事なの?」
不思議がる私にグラントは『形』が大切な事もあると教えてくれた。
「もちろん『形』だけでは駄目だが、俺のしようとしているのはとても実験的要素の強い活動だからね。ブルジリア王国側にも説明は充分にしてあるとは言え、アグナダにはこの国に対して一切の『他意』も『害意』も無いのだと示す必要があるんだ」
「ああ……だから王様のお膝元であるこのノルディアークに本社を置く必要があるのね……」
「そう。それに『形』だけでは駄目だと言うのは、少しでも怪しいと思ったらすぐに『監査』を入れて貰う為だ。商業活動を通じて広く世界の動向を知る……っていうのがここの目的であって、商館自体は何処かに潜入して非合法な諜報活動を行う機関では無いんだってところをしっかり理解してもらわないといけない。……アグナダ公国は勿論だけれど、この国の有力者や地方領主だって一度や二度は商人から情報の提供を受けた事はある筈なんだ。近くどの国で戦争が起きるかもしれない……とか、あの国では蝗害で小麦が高騰しているから輸出条件を緩和してもらいたい……とかね。商人は自分の利益の為に申告して権力者に取引の際の法規制の緩和等を求めているに過ぎないだろうけど、そういう情報こそが結局は国防や国益に繋がるんだって事も理解して貰えたと思う。ただ、この商館が疑わしいと思った時にはいつでも遠慮なく内部を調べて貰いたいとの旨は申し出てある。ブルジリア王国としても、ある意味ここは試験的機関として興味の対象だろうから、気になるトコロだろうし監査の為の門戸はいつでも開いておくつもりでいる」
「もしも上手く行ったら……この国でも同じような活動を始めるかもしれないと言う事よね? 上手くゆかないのなら、それはそれで自分達の腹が痛むわけでもなし……。ねえグラント、これについてはこの春のあの『神事』の後で突然言い出したんじゃなく、ずっと以前からブルジリア王国に打診していたのではなくて? だって『神事』の事で王室に恩を売ったのは事実でもこんな話、きっちりと説明して短期間のうちに許可を得るなんて……いくら口から先に生まれたインチキ商人の貴方でも、数日で終わらせられる事だとは思えないわ」
グラントは『口から先に生まれたインチキ商人』と言う呼び名が気にいらなかったのかブツブツと文句を言っていたけれど、それでも小さい子供にするように私の頭を撫でながら『良く分かったね』と褒めてくれた。
……子供扱いはあまり嬉しくないけれど、たぶんこれは『インチキ商人』と言う言葉に対する報復なので我慢するより仕方が無いだろう。
「この構想については随分前からフェスタンディや大公には話してあった。アグナダ公国からブルジリア王国へも……まあ、非公式にこう言う『研究』をしたい……と申し入れもしてあったんだ」
そうでなければ、グラント個人が国を相手に二三日でそんな取り決めなど出来る筈はないだろうから、当然と言えば当然か。
それにしてもどうしてグラントもアグナダ公国も、この国に商館を作る事にこだわったのかが分からない。
そんな疑問を口にした私にグラントは、商人というのは『伝手』を大事にする物なのだと教えてくれた。
……そう言えば春にブルジリア王国に来た時、グラントは琥珀の買い付けとレシタルさんへ渡す紹介状の発行を依頼するためにシュバノ村へ出かけたのだった。
あの村で琥珀の買い付けをするには絶対に『伝手』が無ければいけない。
誰か取引実績のある人間を介しての紹介があろうとも、シュバノ村の取引所発行の正式な紹介状を持たない人間はいくら現金を持っていても話しすら聞いて貰えなと言う徹底ぶりだそう。
グラントは彼の商人としての師匠と呼べるダダイ・ミルジェットさんの『伝手』で琥珀の取引の紹介状を手に入れていたようだ。
琥珀の事だけじゃなく、彼はダダイさんを通じてこの国や周辺国の商人達や商業組合に顔を覚えてもらえているし、商人としての実績も積んでいる。
「ともかく……ある程度の知己のいる商業組合に名前を連ねる事が必要なんだよ。そこを足場にして周辺各国への商取引をすれば、他国にも商館の支局を作る事も出来るようになる。その国の組合にも知己が出来る。ただ……ほら、俺の場合さすがにアグナダ公国では商売は出来ないだろう? だから国内では無理だったんだ……」
「……それは……そうだわね……」
初めて彼と出会った時に聞いた話が本当なら、グラントは隊商を組まず隊商に参加せず、ダダイさんの伝手を使って開拓した貴族や富裕層の家屋敷に出入りして、ありきたりな品物には満足しない上流階級の人間達へ異国の珍しい品物を商っていたのだそう。
知り合いだらけのアグナダ公国国内でそんな事……出来る筈がない。
アグナダ公国という後ろ盾を持っているのだから経済的には潤沢に資金を使う事が出来るけれど、実際に実の伴う経済活動をしてこそ情報は集まってくるものだ。
あまり大きく……手広ろ過ぎる商売をする必要はないにしろ、それなりに利益を出した健全な経営を彼らは目指しているようだ。
とりあえずの主力商品は、鉄と琥珀。
どちらもこのブルジリア王国の有名な産物だ。
それだけに競合する商人も多い厳しい市場だが、グラントの場合普通の商人と違ってインチキくさくてズルイけれど、情報とコネクションの両方を持っているのは強みだろう。
今回使う『情報』は、私の兄様とエリンシュート伯爵のお嬢さんの結婚によりフドルツ山を起点としてアグナダ・リアトーマ両国の王都まで伸びる黄金街道を繋ぎ、一本の道にすると言う構想の現実化。
近年中には工事が開始されるだろうと言うあの話の事だ。
リアトーマ国は鉄を産出する鉱山を保有しているけれど、アグナダ公国では鉄は輸入に頼っている。
道路の敷設やフドルツ山周辺の森林の開墾には鉄を使った機器や道具が必多く必要になってくる。
敷設工事が終了しても、今度は街道沿いには宿泊施設も必要になるし、人の流れが変わる事によって新しく街が出来る事も予想される。
国交が正常化した現在ではアグナダにはリアトーマからの鉄の輸入も増えてはいるが、ブルジリア王国産の鉄製品の方が安価な上、春からこの先数年間対アグナダ公国交易の関税が引き下げられることもあり、鉄製品の取引量は増大する事を彼は前もって知っているのだ。
どういう商品が必要とされているかを予測できる上に、工事を取り仕切る人間とのパイプまで持っているのだもの、こんなインチキな儲け話はそうそうないだろう。
鉄に関しては滑り出しから失敗を心配しなくて良いと言う事だ。
琥珀の方は、もしもグラヴィヴィスの与えてくれた好機を生かす事が出来れば、鉄のように『対アグナダ公国』限定ではなく広く商える可能性もある。
この国の医療や教育機関を殆ど牛耳っていたサリフォー教会からそれらを分離独立させるコトが決定したのは、今年の春。
ブルジリア王国国民にとって、それら生活に密着した機能を負うサリフォー教会に『寄付』や『喜捨』の形で資金や労力の供給提供を行う事は当然の『日常』になっていたけれど、この先、そう言った寄付だけで教会組織を運営する事は難しくなってゆくだろう。
ノルディアークの街に来た初日に、かつてはサリフォー教会だった建築物から教会の象徴である『翼』のレリーフが削り取られているのを私は見た。
肥大した組織がかつて勢力の拡大に伴い方々に建設させた教会や関係建築物等、これから先維持管理が難しくなるだろう大部分を、グラヴィヴィスは容赦なく切り捨てて処分しているのだ。
関係建築物の中には『聖職者と信者の為の保養施設』の名目で、莫大な建築費を投じて作られながらその実態は、教皇を筆頭とする旧教会勢力に所属していた司教個人が使用する妾宅だった……などと言うとんでもない物もあるらしい。
かつての教会がどれだけ乱脈な組織運営をしていたかが窺える話しだ。
ずさんな資金管理で旧勢力所属の聖職者達は教会資金を私物化。
現在、グラヴィヴィスを筆頭とする新勢力が監査活動を行っているようだが、中には私物化した財を持ち海外へ逃亡した聖職者もあるようだった。
運営体勢の早急な立て直しがなければ、いずれはサリフォー教会組織は破滅と破産への道を辿る事になる。
病院や学校、それに薬局などの方面からの収入は今後見込めないのだ。余計な資産を処分した上で、新たな資金供給源を得る道を模索しなければならないのは当然のことだろう。
サリフォー教会と言う王室と並ぶ強大な勢力団体の中での権力を得、甘い汁を吸う為に聖職者になった人間の大部分が既に聖職者を辞めたり破門されたりしているようで、今後数年のうちにサリフォー教会は現在の数十分の一の規模まで縮小される。
私がグラヴィヴィスからグラントへと言付かった書簡は、今後の教会運営に必要な資金源として教会組織が公式に有償で頒布する品物を発注する業者を決める為、近々執り行われる選考会に試作品を提出する許可証のような物だった。
教会組織が公式に有償頒布する品物とは、女神サリフォーの象徴であり聖職者だけが身につけるコトを許されている『翼』をモチーフにしたペンダントである。