『銀の杖と北の方舟』6
「睡蓮が綺麗ですわね。私の生まれ故郷エドーニアはとにかく湖や沼や水辺が多い場所でしたから、夏の天気の良い午後によく睡蓮の花が咲くところを見に行きましたわ」
ベンチに腰を下ろし次々と花を咲かせる睡蓮を眺めながら私は当たり障りの無い話しを口にする。
本当はこの機会にグラヴィヴィス本人に今現在のサリフォー教会の事や、王室周辺の事を聞いてみたい気持ちはあったけれど、私はグラントのように話術に長けてはないもの。一体どんなとっかかりでそんな話に持って行くべきなのか、全く分からない。
「……バルドリー侯爵も……フローティアどのも、本当に不思議な方達だ」
睡蓮の群生に目を向けたまま、すこし唐突にグラヴィヴィスが呟いた。
「失礼ながら……貴女がどんな方なのか興味がありましたので、バルドリー侯爵夫人のご生家について調べさせていただいたのです。……エドーニアの古い家系にお生まれなのですね。リアトーマ国内でも家格の高い家柄で、正直驚きました」
突然自分の身元を調べた……などとの告白を受けて、私は呆気にとられてグラヴィヴィスの横顔を見ていた。
他国のこととは言え、確かに上位貴族ならその身元や血縁、婚姻関係は調べようと思えば簡単に調べる事が出来ると思う。
ましてやアグナダ公国大公家とブルジリア王室は姻戚関係にあるのだから、そうじゃない国よりも貴族の家系に関する文書資料は充実しているだろう。
資料に記載されている事を調べるなとは言わないけれど、それにしたって彼の意図が分からない。
「あの時、バルテスやディダが浚って来た貴女を救い出しに来たバルドリー卿の様子で、フローティアどのが彼にとってとても大切な人である事は分かっていましたが。……まさかお二人が本当に結婚なさっているとは思いませんでした。……その、バルドリー卿が身分を偽って動いている事があるのは随分前に存じておりましたけど、そういった活動に同調され、なお且つあの『神事』の時にもご助力くださった女性が、まさか本当にバルドリー侯爵の奥方だとは……」
ああ……そう言う事か。
やっと私には彼が言いたい事が分かった。
「変わり者同士が巡り合ったと言う事ですわ」
私自身エドーニアの街では身分を隠し庶民的なお店に一人で出入りしたり、アグナダ公国から潜入してきた間諜を発見報告する胡散臭い仕事をしていた上に、グラントと商人夫妻としての旅も経験して感覚が麻痺していたけれど、普通の『侯爵さま』は商人として他国を、自らが駆る馬車に乗って旅する事など絶対にないと思う。
それに、普通の『侯爵夫人』は、尼僧のなりで他国の宗教勢力と王室の勢力争いに手を貸す事は無いに違いない。
グラントの事はアグナダ公国との繋がりで彼が侯爵家の当主であると知っていたのだろうけれど、私の事は彼の活動に同調する活動員の一人とでも思っていたと言う事か。
いくら変わり者のグラントの妻であっても、結婚して一年足らずの私がすんなりとあの役目を引き受けるなんて、普通はあり得ないだろうから、そう思われていてもおかしくは無い。
「……ただの恋人同士でしたら私にもまだ割り込む余地はあったでしょうに、残念ですね」
するりとそんな嬉しがらせの社交辞令を口にするグラヴィヴィス。
僧衣の彼とは違い貴公子姿のグラヴィヴィスは割と『言う』ようだ。
「そんな冗談を仰っては女神の怒りをかいましてよ?」
私が笑いながらそう言うと、グラヴィヴィスは口元にだけ笑みを浮かべ真意を推し量るのが難しい表情で一言
「そんなものは、ありません」
と言い切った。
もしもこの場に女神サリフォーの信者がいたならば、とんでもない事になっていただろう。
いくら彼が信仰心故にサリフォー教会に入信したわけではないのだとしても、今や名実ともにあの教会の主管枢機卿であるグラヴィヴィスが『女神の怒りなど無い』と断言したとあっては、教会内で大きな波紋が生じさせることは間違いない。
少しばかり肝が冷える思いを味わったけれど、こうして彼が話をあの時の事へと誘導してくれたのはありがたいことだった。
私は近くに人がいない事をチラリと確認して、意を決して口を開いた。
「あの時の私のお手伝いのせいで、なにやらおかしなことになっていらっしゃると伺いましたけれど……」
「貴女のお耳にも入ってしまいましたか。……広間でのあの様子を見れば誰でも何かあると思いますよね。昨日やっと兄上が王子の事を公にしてくれましたから、これに限って言えば状況は良い方向へ変化するでしょう。こうなったのもあくまでも王国内の問題であって……先にも言わせていただいたとおり、私は貴女やバルドリー卿には感謝しているのですよ」
いつもの不思議な光を浮かべた薄茶色の瞳が私の目から外れ、睡蓮の池の方へと向けられる。
なんだろう?
私は心の裡に首を傾げた。
王子の存在が国内に広まれば彼やグラントも言った通り、王位継承権を既に放棄しているグラヴィヴィスを王に擁立しようなどと言う動きもやがては沈静化してゆく──────と、言うのがグラヴィヴィスが言う『状況は良い方向へ変化する』と言う事なんだろうけれど、『これに限って言えば』とは、まだ彼は何か問題を抱えていると言う事なんだろうか?
グラヴィヴィスは、こうなったのはブルジリア王国内部の問題が原因だと言う。
……でも、ブルジリア王国は王政の国。
王子の存在を発表しなかったのは、王か王室、それとも王室を取り巻く主要な大臣や貴族らの筈なのだもの、元凶はそこにあると言う意味ではないか。
しかも、何人もの貴族や大臣がもしも王子の存在を知っていたとしたら、たぶん国内のグラヴィヴィスを新王に擁立しようとの一部国民らの感情が高まっていた状況に鑑みても、それを今まで伏せるなんてコトはしなかった筈だ。
彼らはこれを『知らなかった』と見た方がいいだろう。
だとすれば、グラヴィヴィスと何らかの確執があったのはフォンティウス王……?
「あの……それは……」
グラヴィヴィスと初めて対峙した時も、『神事』の時の発言も、そして今も、どうにも彼は私に判断の難しい話題や問題を突きつけてくるようだ。
私は当惑の色を隠せず口ごもるしかなかった。
「この池に咲く睡蓮の花は、ロズロー河の西岸の湿地帯があるフォトンと言う地方から採取してきたものなのです」
グラヴィヴィスの骨っぽい手が誘導するがまま、私は視線を池へと向ける。
思った以上の情報を与えてもらったのは良かったけれど、こうなると……話題をかえてくれた方が気が楽だ。
「私がまだ僧衣に袖を通すなど考えもせず、父王が健在だった頃、私達は毎年のようにフォトンと言うその地方へ行きました。鴨や白鳥……渡り鳥などが飛来する王室の狩り場の沼々がある以外これと言った産物も無い地方でしたけれど、私は毎年狩猟の季節を楽しみにしていたものです」
「……大抵の殿方は狩りがお好きなようですわね」
「ええ、そうですね。私も教会に入るまでは大好きでした。そう……初めて私が兄と共に父王に連れられてフォトン男爵の屋敷に行ったのは、まだ10歳になるかならないかの頃だったと思います。当時、フォトンの男爵には何人かのお嬢さんがいて、長女は美しく二女は愛らしい方でした。私は地味だけれど賢く機知に富む三女をとても気に入って、城に帰る途中に兄上に『自分の妻にするならあの娘のような女性がいい』と言ったのですよ。なにしろ子供の時分の事ですから、本気だったかと問われると……今は首を傾げるしかないのですが……」
池の睡蓮や水鳥に目を向けたままそんな話しをするグラヴィヴィスの声も横顔も穏やか過ぎるほどに穏やかで、私は先ほどの少し取り込んだ話しにひやりとした気持ちをなんとか立てなおす事が出来そうで、ほっとしていた。
「花はやがて散り人の美も遷ろうものですわ。だけど、持って生まれた気立ては百年の時を経ても変わる事はない……。グラヴィヴィス様は堅実な目をお持ちだと言う事ですのね」
「どうやらそれは私だけじゃなかったようで……兄上の花嫁になった女性こそ件の男爵の三女、ミストヴィネ王妃なのですよ」
その言葉を聞いた私の思考は、たっぷり数秒間完全に停止してしまったと思う。
本当に何故にこの人はこう……どう反応して良いか分からない話しばかりをするんだろう?
「そんな話を私にしていいんですか?」
なんだか急に腹が立ってきた私が少しつっけどんな口調で言うと、それまで横顔を見せていたグラヴィヴィスは薄い笑いと困惑の中間のような表情でこちらを見た。
「……話す相手がいないのです。こんな話……」
なんだか彼自身どうして良いか分からないような途方に暮れる目をしている事に気づき、胸に湧いた怒りはその棘を抜かれてしまった。
……まあ……それはそうだろう。
誰にこんな話しを出来るものか。
私がこの国の貴族らと何のかかわりもない他国の人間だからこそ、グラヴィヴィスは話す気になったのかもしれない。
「だけど、私がもし誰かれ構わずこの話を触れまわったら、どうされるおつもりですの?」
「フローティアどのはそのような事はされないと信じておりますから」
グラヴィヴィスの面に魅力的な笑みが浮かんだ。
……この人が清廉な聖職者だと信じていたなんておめでたい人間だったと、その瞬間私は思い知った。
だって、私やグラントが身分を偽りルルディアス・レイの街まで来た事をこの人は知っているのだ。
あの時は別に諜報活動をしていたわけでは無かったけれど、その辺の事だってこの……頭の回る人が気が付いていない筈ないではないか。
それにこの国に設立する商館の事も、商館と言うのは隠れ蓑で経済や流通から周辺国の状況を掴む諜報組織としての側面を強く持つ物だと言う事も彼は知っているんだもの。
「……グラントに話さないとは約束できませんわよ?」
「それは構いませんとも。ご夫婦の間に隠し事があってはいけませんから。サリフォーの原初の教義の一節にもその様な記述がありますしね」
笑みを深めて嘯くグラヴィヴィスに、腹を立てていいのか呆れていいのか分からない。
「私がまだこの城に住んでいた頃、当時の兄上にはまだ詰めが甘いトコロが多々見受けられましたけれどけれど、最近は国を統べる者に相応しい周到さをお持ちになられたようですね。ミストヴィネとの間に子がいる事を知った時は感心しました……。あれなら彼女の身分についてどうこう言っていた大臣らもこれからは沈黙せざるを得ない。どおりで強気で婚約を宣言する筈だ」
兄弟での一人の女性を巡る確執に、現王への批判。
グラヴィヴィスの話しは本当に誰かれ構わず聞かせられる類のものじゃない。
私は……ある意味彼に弱みを握られているからこんな話、グラント以外の誰かに言えはしないけれど……。
僧衣に身を包んだ聖職者としてのグラヴィヴィスにはこんな愚痴のような話しを聞かせられる相手などいないのだろうと思えば、なんとなく切なくもある。
「……もしかして、今回の事……結局は兄弟喧嘩……と言うことなんですの?」
彼の誰かに気を許す事の出来ぬ立場には同情を覚えないでもないけれど、もし本当にこれが一人の女性を巡っての確執が原因であったなら、あまりにも人騒がせが過ぎる。
「兄弟喧嘩と言うとなんだか平和な感じがしていいですね。……だけどそうですね……どちらかと言うと、警告? 釘を刺されたと言うのが近いような気がします」
「一体……何に対する警告ですの?」
「……さあ?」
グラヴィヴィスは小首を傾げて中空に薄茶の瞳を凝らして考えるそぶりを見せ、その後あいまいな笑みを浮かべた。
「なんでしょうか。さっきも言った通り私がフォトンの男爵のお嬢さんを気に入ったと言ったのは子供の頃の事ですし。近年は私も忙しくて兄上を困らせるような振る舞いをした事は無かったのですが……」
彼の言葉を裏返すなら、主管枢機卿になる以前のグラヴィヴィスは今になってこんな剣呑な警告を突き付けられるに足る事を、フォンティウス王に対して行っていたと言う事じゃないかと私は疑っている。
……一体どういう兄弟関係だとこんな事が起きるんだろう。
「人騒がせな話ですわね」
彼に対して幾分敬意や気遣いの気持ちを失いかけている私は、容赦なく断言した。
主管枢機卿のグラヴィヴィスと私人としてのグラヴィヴィスは、どうやら別人として認識した方がよさそうだ。
「申し訳ありません。どうにも……私はバルドリー卿に対する甘えがあるようです。フローティアどのにまでその延長でおかしな話をお聞かせしてしまった」
そんな台詞が出ると言うところを見れば『捉えどころの無い人なりに』……ではあるけれど、グラヴィヴィスには年齢相応の若さというのか青さがあるようだ。
「聞かなかった事にしますわ。今の話は」
「……いいえ、聞かなかった事にはしないで貰いたいのです。聞いて困る話ではあるでしょうけれど……」
「『聞かなかった事』と言うのは……便宜上の事ですわよ……」
小さく嘆息しながら言う私に、腹立たしいくらいに邪気の無い魅力的な笑みを浮かべたグラヴィヴィスが言う。
「『聞かなかった事』よりも……そう。『秘密』にしておいていただけたら嬉しいです」
そんな子供の屁理屈を言い出すのを聞いて、私の唇には苦笑が浮かんだ。
「……では、言葉面だけはそう言う事にしましょう。だけど『秘密』を共有するなら、相手はもっと選んだ方が良いと思いますわよ?」
「私は全然構いませんけれど」
空とぼけた言葉を吐きながらグラヴィヴィスはベンチから腰を上げて私へと向き直る
「フローティアどの。もしももう少しお時間がお有りなら、少々お付き合い願いませんでしょうか? ……実はルルディアス・レイからディダを伴ってきているのですが、夕べ貴女にお会いした事を教えたところ、彼もフローティアどのの顔をぜひ拝見したいと申しておりまして。多分この時間ならディダは厩舎の辺りにいると思います。厩舎までは裏道を使えば貴女の泊っていらっしゃる部屋へ戻るより近いかと……」
「まあ、ディダが?」
差し出されたグラヴィヴィスの手を取り、私は立ちあがる。
あの鳩の餌を商っていた向学心に燃える少年は、元気に過ごしているのだろうか。
彼やバルテスさんのおかげで恐ろしい思いをしたけれど、ディダは両親を亡くし身寄りの無い彼を引き取り世話したグラヴィヴィスに対する恩返しの気持ちからあのような行動に出たのであって、何の悪意も無かった事を知った後、私はディダを恨んではいない。
ゲルダさんとグラントの事で思い悩み、少しばかり痩せてしまった私へのお見舞いとして自分の進学資金を削って高価なチョコレートの箱をくれた優しいディダ。
***
私はグラヴィヴィスと二人、庭師が庭の造成の為に通る作業道を兵舎に隣接する厩へ向かって歩いていた。
前を行くグラヴィヴィスの歩みは杖を突く私を置き去りにする事はなく、また遅すぎる事もない丁度良い早さ。
サリフォー教会は学校や薬局の他に病院施設や養老院なども併設していたから、彼も老人や傷病者、小さな子供らと接する機会は多かったのではないかと思う。
作業道に張り出した枝があれば自分が壁になって私を通し、歩き難い場所ではさり気なく手を貸してくれる。
本当に社交界に出ていたなら彼は女性に人気になるだろう。
サリフォー教会の聖職者は妻帯が許されているのだから、彼も恋人を作っていれば……もしかしたら今回のフォンティウス王の仕打ちも無かったかもしれないのに。
もしかしたら恋人の一人二人、彼にはいるのかもしれないけれど。
グラヴィヴィスが言った通り、睡蓮の池から裏道を通れば思いのほか近い距離に兵舎や訓練場、厩などはあるようだった。
敷地が限られた王城に於いて効率良い配置でそれを感じさせないのは、設計の妙だろう。
王族貴人らが行き交い集う場所では衛士以外は皆武器を持つことを許されていないのだが、この辺りは兵舎が近いせいだろう、剣帯を付けた人の姿がチラチラとみられる。
「私は数日前から城に入っていたのですよ。だけどなにしろ殆ど誰も話し相手になってくれませんでしたので、とても暇だったんです。それで子供の頃を思い出しあちこち歩き回っていた時にここの近道の事を思い出したのですよ」
どうやら今回グラヴィヴィスは完全に『私人』としてこの城へ来ているらしい。
ディダの事もグラヴィヴィスの管理する孤児院の孤児にお手伝いをしてもらっている……と言う事ではなく、彼個人が私費で雇った使用人として連れて来ているようだった。
上の学校へ進む為の学資を必要としているディダにとっては、尊敬し敬愛するグラヴィヴィスの役に立てる上に進学資金の一部を得る事が出来る。
私には少し困った側面ばかり見せるグラヴィヴスではあるが、周囲の人間の事はきちんと考えて接しているようだ。
アグナダ公国から私達は数人の侍女や従僕を引き連れて来ているのだが、私やグラントの身の回りの世話をしてくれるテティやフェイスの他の従僕……主に男性の使用人達は、現在王城の使用人棟で『待機』して貰っている状態だ。
王城には王城の使用人らがいるので今彼らには出る幕が無いと言う事なのだけれど、招待客が伴ってきた使用人らも主人らの身の回りを見る侍女ら以外は皆同じように『待機』と言う事になり、防犯上の理由から王族や貴人らが過ごす場所に入ってくる事は原則として禁じられていた。
その為グラヴィヴィスはここ数日、ディダを庭の作業道や兵舎地区、教練施設などの探索に付き合わせていたそうだ。
「この度はバルテスさんはご一緒じゃありませんの?」
私はディダとともに私の拉致に協力した、あの厳つく大きな身体のグラヴィヴィスの部下を思い出した。
「彼はルルディアス・レイで私の業務の代行をしてもらっています。バルテスは兄上の乳母の息子なんですよ。私がサリフォー教会に入信するまでは兄上の護衛役の一人でした。彼も連れてこれたら良かったんですけれど、そうすると教会本部に目が行き届かなくなるもので……」
護衛役……なるほど。どおりであのような厳つい体つきをしているのか……と、私は納得する。
根っからの聖職者にしては彼の動きには隙がなく、身体も完成されており、初めて会った時からどういった素姓の人だろうかと気になっていたのだ。
彼の母親がフォンティウス王の乳母であり過去においては彼自身現王の近辺警護をしていたのなら、バルテスにとってもこの城はなじみ深い懐かしいものであるに違いない。
私は単純にそういった理由でグラヴィヴィスが彼を連れてこられたら良かったのにと言ったのだと一人合点したのだけれど、実際にはもっと剣呑な理由からだったのだとこの後すぐに私は知る事になる……。
貴族達が出入りする場所と違い兵士の詰め所や訓練施設、それに厩舎などが立ち並ぶ辺りは簡素で合理的な作りをしている。
貴人らの乗り入れた馬車やそれに繋がれていた馬と軍馬とは流石に同じ厩舎には入っていないけれど、鍛冶装蹄や寝藁干し草、それに馬糧の運搬や管理の都合上か、双方隣接した地区にあるのは当然と言えば当然だろう。
厩舎には独特の臭気も発生する。
私はキレイに管理された厩の匂いは嫌いではないけれど、嫌がる人が多いのも承知している。
そうアチコチに厩舎を分散させては臭いの問題も生じるのではないかと思う。
……多分そういう理由でだろう。グラヴィヴィスが自分の馬を預けた厩舎は、衛士兵士らの訓練場からほど近い場所にあった。
「この時間ならディダは馬の世話の手伝いをしていると思います。……馬の世話に慣れていない彼がそんな事をする必要はないのですけれどね。やる事がないのにその時間も私に賃金を支払われているのはおかしいと……。空いた時間を勉強に充ててはどうかと言ったんですけれど、それでは彼は納得が行かないらしい。本当に真面目な少年です」
「自尊心が高いんですわね。……ああいう子にはぜひ夢を叶えて欲しいと思いますわ……」
「ええ、私もそう思っています」
目元を和ませるグラヴィヴィスの表情には少し聖職者としての彼が戻ってきているように見えた。
「……ドレスに汚れや臭いがついてはいけません。ここでお待ちいただけますか。私がディダを呼んで参りましょう」
厩舎の手前でそう言われその場一人残された私は、見るともなしに周囲の景色に目をやった。
割と人の出入りの多い場所だ。
それに馬の立てる音や嘶き、鍛冶職人が蹄鉄を打つ音や兵の訓練施設からは刃を打ち合わせる兵の声やその剣戟が漏れ聞こえ賑やかな場所でもある。
槌の音は蹄鉄を打つ音だけではなく剣や矛などの武器防具を修復する職人の仕事部屋からも聞こえてくるようだ。
教練場の一角では何人かの騎士見習いと思しき少年らが剣術の練習をしているのも見える。
そこからそう離れていない隅の方で、一人黙々と剣をふるう男性の姿もあった。
見覚えあるその輪郭に私は目を凝らす。
この位置からは逆光になっていて見辛いけれど、基本の型を何度も何度も繰り返す厳ついそのシルエットは……シェムスに違いない。
生真面目なのはディダばかりではなかったと、私の口元は笑みにほころんだ。
私の視線に気づいたわけではないだろうが、型を幾度か振り終えたシェムスが顔を上げ私に気付いたようだった。
……なんだかその時色んな事が一時に起きたので上手く整理するのは難しいけれど、殆ど同時くらいに私は厩舎へ向けて歩いてくる人物を目の端に捉えていた。
なりだけを見ればその人物は一見ただの鍛冶屋のように見えた。
何故その男に視線を吸い寄せられたかと問われたなら、それは『勘』としか答えようがないけれど、私はその鍛冶屋に強い違和感を覚えて眉をひそめた。
ガッシリした肩と太い腕。
重そうな道具箱を手に馬の爪を整える為か外れた蹄鉄の釘を打ちなおす為にか、彼はグラヴィヴィスがいる厩に向けて歩を進める。
鍛冶屋の腕が太いのは重い槌を振るって蹄鉄を打つためだし、がっしりした腿は馬の脚をその両腿に挟んで押さえておくために筋肉が培われるせいだ。
私がよく見かける普通の馬の蹄鉄鍛冶屋と同じく、彼は鉄を打つ時に飛び散る火の粉に火傷を負わぬよう分厚い生地のシャツを身に付け、その袖をまくり上げている。
頑丈でしっかりした布地のズボンの上から履いたひざ丈の皮当てには、馬の足を挟む為に内腿の部分に汚れや擦れもある。
「おまたせしましたフローティアどの。ディダは直ぐにこちらに挨拶にくるそうですよ」
言いながらグラヴィヴィスが出てきた瞬間に、私は鍛冶屋に対して抱いていた違和感の正体に気がついた。
まくりあげた袖の下、その男の二の腕や手にはどんな鍛冶屋にも有る筈の『火傷』の痕が全く見当たらないのだ。
平和に浸りすっかりと感覚が鈍ってしまっていたけれど、私だって伊達にエドーニアで間諜をしていたわけではない。
髪の根元が逆立つような言葉にし難い嫌な緊張感に、一気に手脚が冷えた。
鍛冶屋の……いいえ、鍛冶屋の格好をした男の手が道具箱に伸びて一振りの短剣を……湾曲した刀身を持つグルカナイフのような物を引き抜くのが目に入った。
鍛冶屋の視線の先には……。
「お逃げ下さいグラヴィヴィス様っ! その男、武器を……っ!!!」
私が必死に叫んだその瞬間、既に鍛冶屋の格好をした男は短剣を片手にグラヴィヴィスに走り寄ろうとしていた。