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金の杖 銀の杖  作者: jorotama
第二章
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『銀の杖と北の方舟』5

「だっておかしいじゃない? グラヴィヴィスは王位継承権の放棄を宣言しているんですもの。なのにどうしてそんな事になるというの?」


 それは王宮の一角に用意されていた部屋へ宴の席から私達が引き揚げた後の事。

 ブルジリア王国内に商館を設立するにあたっての交渉や根回し外交に忙しかったグラントだが、『仕事がらみ』の情報だけではなくいくつかの噂も耳にしてきたようだ。

 対外的に見れば現在ブルジリア王国内部に大きな問題は発生しておらず、アグナダ公国との外交に今後差しさわりが出るような要素は見えない。

 ただ、国家の安定に今後問題を発生させそうな気運が一部の国民の間で高まっているのだと言う。


「グラヴィヴィスは建国王シュスティーヴァの『伝説』を実践してしまったのだから、こう言う空気が流れるのはある程度本人も王室も分かっていたと思うよ」


 私はどうしてグラヴィヴィスがあの祝宴の席で周囲に人の輪もなく……あんな風に一人きりでいたのかが不思議だったから、それについてグラントに訊ねてみたのだ。

 その問いに彼から返されたのは


「いまグラヴィヴィスに近づくと謀反むほんの意志を疑われる可能性があり危険だ……と考えられているからだと思う」


 と言う、全く思いもしなかった答えだった。


 謀反?

 なにを馬鹿な……そんな事ある筈が無いではないか。

 だって彼は既に王位継承権を放棄している。

 それにフォンティウス王には次代の王室を担う王子もある。


「王に子がある事は殆どの貴族や有力者にとって、今日初めて知らされた事実だからね。あの時の『神事の成功』は王家の威厳を示すべきもので、グラヴィヴィス個人のカリスマ性を高めるべき物ではなかった筈なのに、そんな気運が高まると言うのは完全なミスリードだ。俺もあの馬鹿どもに脚を引っ張られさえしなければ、もう少しこの国の国内情勢に神経を回せたんだろうが……。まあ、知ったところでどうなる話しでもないか……」


 そんな言葉とともに溜息をつくグラント。


 『神事』はこの国の建国の王シュスティーヴァが王威を示す為に成したと言われる。

 もともと白い鳩の神事など、あくまでも『伝説』に過ぎなかったのだ。

 それをグラヴィヴィスは現実に成功させてしまった。

 あの『神事』の会場はルルディアス・レイの人々にも公開されていたし、公示人によってその開催や結果が国内に告知喧伝されたせいで、彼が『神事』を成した事を知らぬ者などブルジリア王国にはおるまい。


 本来ならグラントの言うとおり『神事の成功』はグラヴィヴィス個人の功績としてではなく、王家の威厳をこそを増し、その統治の正統性と権威を盤石の物にする筈だったのに、どうも一部の人々にグラヴィヴィスこそがこの国の王に相応しいのではないかとの考えを植えつけてしまったようなのだ。

 そうならないよう何らかのプロパガンダによって国民の意識を誘導するべきだったのに……と、グラントはブルジリア王国首脳部のミスリードに対して憤りを抱いていた。


「フォンティウス王の王子の存在を発表するのが遅すぎるんだ。タイミングとして適していたのは『神事の成功』の直後と言ったトコロかな? この祝宴の後には出席した貴族や有力者らの口から各地方へ広がるだろうし、もう少し違った方向へ行くとは思うんだが……」

「それにしても失礼な話だわ。グラヴィヴィスには王位簒奪の意志なんて無いでしょうに。盛り上がったのはあくまでも一部の何も知らない人達の気持ちだけでしょう? それなのに……こんなお祝いの席でさえグラヴィヴィスを避けるなんて……」

「みんなあらぬ疑いをかけられたくはないんだろう。自分の身を守るためだよ」

「それは……分かっているのよ。でも、私が手を貸した事が今こんなふうになっているなんて、気持ちのいい話じゃないわ……」


 この春、グラントがグラヴィヴィスとサリフォー教会旧勢力との権力闘争に力を貸したのも、たぶんグラントが昔した助言によって教会内部での戦いを余儀なくされたグラヴィヴィスの現状を『気持ちのいい話じゃない』と感じていたからなんだと、今になって私も実感できる。


「……ねえ? 私がグラヴィヴィスとお話をした事で、彼やグラントには迷惑がかかって?」


 自分に火の粉がかからぬよう非の無い相手を避けるのは私だって嫌だ。

 だけど自分のせいでグラントやグラヴィヴィスに迷惑がかかるのは、それ以上に嬉しくない。


「これがアグナダ公国の代表者として来ているドルスデル卿だったりしたらまた話しが違ってきそうだが、まあ大丈夫だろう。俺はあくまでも『おまけ』として披露宴に招待された事になっているから、重要な立場の人間とは思われていない。お嬢さんも同様だろうし、気にする事はないよ」


 ……そうか。立場によってはアグナダ公国と言う国家ぐるみ、グラヴィヴィスを新王に擁立しようとしていると見られる危険すらあったのだ。

 実際にはアグナダ公国とブルジリア王国の王室の関係は良好であり、グラヴィヴィスを新たな王にすることには利点どころかデメリットしか存在しないのだが、そこが流言の恐ろしいトコロだろう。


 『真実』のように聞こえさえすれば、時に人や時局は動いてしまう。

 政治の世界と言うのはあまりに流動的で繊細過ぎて恐ろしい……と、こぼす私に、グラントは私がグラヴィヴィスと話し込んだトコロでそうそう大変なことにはならないと慰めてくれた。


 一度ならただの疑惑であり、二度三度と疑惑を重ねる事によって、無責任な『噂』は真実味を帯びてくるのだと彼は言う。

 白い紙に薄墨を塗り重ねて行くように、重ねられた灰色はやがて人の心の中で『黒』となると言う事か。


「いずれにせよ重要人物になど、なるもんじゃないな」


 ……とのグラントの呟きがやけに重く聞こえたのは、きっと私の気のせいばかりではないだろう。

 彼もやがては『国』と言う重い足枷をかけられ、今のような身軽さを失う事になるのだから。


「……いざとなったら国も身分も捨てて旅に出てもかまわないことよ。二人で行商人にでもなって世界中……知らない国に旅枕を重ねる人生も、それはそれで楽しいのではなくて?」


 半ば本気、半ば冗談でそんな言葉を口にした私に、綺麗に髭をあたった彼の口元に微かな笑いが浮かんだ。


「行商じゃあ大きな商いはできないな。どうせやるなら自分で船を持って世界を股に掛ける大商人だろう。お嬢さんは貴族の妻ではなく大商人の妻になるわけだけれど、それでもいいか?」

「商人の奥さんはお嬢さんでも妻でもなく……『おかみさん』と呼ぶものじゃない?」


 今の話が本気なのかどうか……彼の表情からは掴めなかったけれど、もしも……もしも本当に国を出て身分を失う事になったとしても、私は構わない。

 貴族じゃなくても今のような生活が出来ないとしても、そこにグラントがいてくれたなら私はそれだけで幸せだと思う。


 長椅子に腰を下ろし私を膝の上に座らせ、グラントはさっきよりも幾分和んだ目におどけた様な困ったような色を乗せ、私の額に落ちた髪をそっと撫でながら言う。


「確かに。でも弱ったな……商人の『おかみさん』じゃあ、こんな夜会服姿を見る機会は随分減ってしまうじゃないか」

「それは仕方が無いわ、諦めてもらわなくては。自分の望む物全部を手に入れようと言うのは欲張りすぎるわ」


 にわかに冗談の気配を強めた言葉に私は呆れながら笑い、髪から耳の後ろ辺りに降りてきたグラントの手を彼から貰った白蝶貝の扇子で押し退ける。

 その……つもりだったのだけれど、彼の大きな手はいとも簡単に扇子ごと私の手指を捕えてしまった。


「俺は今みたいに美しく装ったお嬢さんを見るのが好きなんだ。……もちろん、普段の飾らないフローお嬢さんも可愛くて素晴らしいが、美々しいドレスに身を包んで宝石で飾り立てたキミは……堪らなく魅力的だ」


 肩を抱かれ手指を掴まれた私は身をよじって逃げる事も出来ず、この……どうにも大げさな称賛に対する羞恥で耳朶を熱くする。


「う……美しいのはドレスや宝石であって私じゃなくってよ。グラント……貴方の目にはなにかおかしな歪みを生じさせる膜がかかっているような気がするわ、私」

「そうかい? 頬を紅潮させ柳眉を逆立てるお嬢さんはますますもって愛らしくて心が騒ぐけど、キミの言うようにこれがもし俺の目にしか見えていないんだとしたら……それは寧ろありがたい話しだな。他の誰かがこんな……やましい気持ちでお嬢さんの事を見るとしたら、絶対にその男を生かしてはおけない。俺はあっという間に大量殺人鬼だ」


 冗談にしか聞こえない台詞を冗談とも思えない声色で言われる恥ずかしさに耐えかねて、私は唯一動かせる右の手でグラントの胸板を打った。

 何しろ動かせる範囲があまりにも狭いせいで、手の甲はただ弱弱しく彼の胸に当たっただけで私を抱きすくめにかかる彼の身体の間に挟まれ、その自由を失ってしまう。


「……酷いわ。褒めているんだと思っていたら言うに事欠いて『やましい気持ち』で私の事を見ている……だなんて、どういう事なの!?」


 抱きしめる腕の中、身もがく私の耳元をグラントの低い笑い声がくすぐる。


「本当に初めは紛うことない純粋な称賛の目で見ていたよ。……けど、キミがそう初々しく頬を染めているのを見ていたら、だんだん疚しい気持ちにもなるさ。頬や耳だけじゃなく……今見えていない部分も全部、羞恥に染まっているトコロを見たいってね」


 私を抱きすくめ、捕まえる為に両の手がふさがっているグラントの唇がこめかみから耳の上へと滑る。


「………ぁ…ん…っ」


 耳元を普段より熱い息がくすぐるのに耐えられず、詰めた息が思わぬ声になって零れてしまう。


「……そんな可愛い声を聞かされた上にそんな表情を見せられたら……俺がどんな紳士だって疚しい気持にならずにいられないだろう?」


 抜けぬけともっともらしく、彼は自分の『疚しい気持』を私のせいにしてしまう。

 だいたいにして既に『疚しい』どころか『いやらしい気持ち』になっているではないか……。


「……やっぱり酷いわグラント。部屋に戻るなりお髭を剃った癖に自分の事を紳士だと言うだなんて、図々しいにも程があってよ」


 私の耳朶を飾る耳飾りの金具に、グラントの唇と歯とが当たる音が聞こえた。

 短い笑いの気配の後、彼の歯に挟まれた耳飾りが微かな痛みと共に外されて床に落ちて転がった。


「髭の事は……ただ俺が周到な性格をしていると言うだけだ。こうなった時に俺の硬い無精ヒゲでキミの柔肌を刺すのは申し訳ないからね。……言い忘れていたけれど、俺は着飾ったキミからこうして一つずつドレスや装飾品を引きはがす事もとても好きなんだ。何も纏わないキミは……今以上に美しくて魅力的だ……フロー」


 臆面ない台詞を語り続けるグラントの唇が、私の唇に触れ深く重なる。

 とりあえずこれで暫くの間は身の置き所が無いような恥ずかしい言葉を聞かずに済むけれど、熱情の中に巻き込み陶酔を誘う口づけに、反抗や抵抗の意志は蕩けるように消えてしまった……。

 インチキで口がうまくてズルいグラントの腕の中、私の手から白蝶貝の扇子がするりと抜け落ち、耳飾りに続いて床に小さな音を立てた……。




 レグニシア大陸より北に位置するブルジリア王国はあちらに比べて涼しい場所ではあるけれど、テティト山の裾野にあるノルディアークは海抜も高く、盛夏だと言うのに朝夕は空気がひんやりと冷たいほど。

 ルルディアス・レイのような賑わいや華やかさは無い街だが、王のお膝元ノルディアークには貴族らが領地から伺候に来た時に住まう別邸も多く、特に夏には避暑を兼ね一族郎党を引き連れここで過ごすことも珍しくないのだそう。


 私達に用意されていた部屋はさして広い物ではなかったけれど、テティト山の湧水を引いた清い水を溢れさせる噴水や、小さな花を沢山咲かせるカランコエ、夏の気配を色濃く感じさせるノウゼンカズラ、清廉な白の花を風に揺らす白ユリなどに彩られた庭の一角が美しく見渡せる場所にあり、とても気持ちのよいものだった。

 庭に面した露台には直接庭に下りる為の小さな階段もついている。


 私はこの露台にテーブルを出し、甘い香りのローズヒップのお茶の香に鼻をくすぐられながら、ぼんやりと午前を過ごしていた。

 グラントは既に朝の剣の稽古を終え、備え付けのバスタブがすこし小さいと文句を言いつつ入浴を済ませ、食事もしっかり摂った上で商館設立に関する根回し外交のため何処かへ出かけて行った。

 まったく……人をこんなにくたくたに疲れさせておいて、自分だけああも元気なのが腹立たしい。


 ノルディアークの王城は街から見ると無骨で堅牢な印象が強いけれど、中は多少垢ぬけないものの、それなりに華やかに造られていた。

 方舟型の外壁に覆われ敷地が限られている為に広大な庭を作る事は出来ないけれど、豊富な湧水を使い人工的に作った滝や小川や池を、造成された築山や所々に配された大小の岩の間などに巡らせる事によって、まるで起伏に富んだ自然を凝縮させたような意趣溢れる庭へと仕上げている。


 城内の遊戯室やカード室にこもらず、また貴族らが会しての午餐に出席しなかった招待客らがこの庭の中を知人や夫婦で連れ立ち……または一人で、思い思いに散策する姿がちらほらとバルコニーから見受けられる。

 多分グラントは夕刻まで部屋に戻ってこないだろう。

 そう思った私は庭師の渾身の力作であるこの庭を楽しむため、一人露台の小さな階段をゆっくりと下りていった。

 

 気持ちのよい午後だった。

 『自然』をモチーフに造形されたこの庭だが、色とりどりの花々に囲まれた東屋あずまやや華奢な曲線を描く鉄製のベンチ、芸術性豊かな彫刻や、セ・セペンテスではとうに散り終えたつるバラのアーチなどの可愛らしい空間があちこちに配置され、様式的には安定しないものの、飽きがこなくて面白い場所なのだ。


 さらりと軽い冷涼な風や野鳥の鳴き声、葉擦れの音を楽しみながら、私は夕べ窓の外にチラチラと見えてた蛍の光の源と思われる池を指して歩いて行った。

 部屋のすぐ傍にある噴水から湧き出した細い流れは途中幾つかの小噴水や泉水と合流し、岩場や丈の高い草木の脇を巡り、芝を張った築山の麓、柳が深緑の陰を落とす大きな池へと到達する。

 その先にも人口の滝やカスケード等の見どころがあるようだったけれど、私の足は午後の池を可憐な白やピンク色に彩る睡蓮の群生の前に止まっていた。

 庭を逍遥するための遊歩道は思いのほか起伏に富み、ここで足をゆるめたのは少し疲れていたためでもあるが、それよりも空の青と木々の落とす緑の影の水面を騒がせ泳ぐ家鴨や白鳥らに気を取られてのことだ。


 柳の木陰に置かれた水際のベンチに腰を下ろした青年が一人、白鳥や家鴨に向かってパンをちぎって与えている。

 ……王弟グラヴィヴィスだった。

 昨日の宴席では社交に不慣れとは言え無様なうろたえ方をしたと反省していた私は、今度は思い切って自分の方から彼に言葉をかけることにする。


「こんにちはグラヴィヴィス様。今日も良いお天気に恵まれましたわね」


 人が近づく気配に気づいていたらしいグラヴィヴィスは顔を上げてそこに私を認めると、控えめな笑みを浮かべつつベンチから腰を上げた。

 翡翠ひすい色の上着に白に近い紫水晶色のジレを品よく合わせた姿が歩み寄る。


 やはり僧衣を着ていないグラヴィヴィスは奥しれぬ憂いをひそめた貴公子風で、もしまともに社交界に出ていたのなら絶対に女性達は彼を放ってはおかないだろうと思わせる。

 高貴な生まれに見合いその所作も優雅。

 今も上着の隠しから取り出した白いハンカチで自分の手を覆ってから私の手を取ると、儀礼的な口づけをその甲へと落とした。

 パンをちぎって汚れた手で私の手を汚さぬようにとの、さりげない気づかいだ。


「これはフローティアどのごきげんよう。昨夜はノルディアークの城でゆっくり休むことは出来ましたか? 王城とは言え何ぶんこのような田舎の事、行き届かぬ事がありましたなら遠慮なく仰ってください。バルドリー卿夫妻には返しても返しきれぬ恩義がありますから、出来るだけ心地よく過ごしていただきたいものです」

「空気が良くて涼しくて、本当に快適に過ごさせていただいておりますわ。グラヴィヴィス様。……それに、このノルディアークに来てから街や城の行き届いた造りに感心しきりですの。今もまたこの素晴らしい庭をいちいち感嘆しながら堪能させていただいておりましたわ」


 夕べゆっくり休めたかどうかは別として、幸いなことに私はいささかの偽りもなくこの城や街を讃える事が出来る。

 社交界で鍛えられているとは言い難い私には、良心の呵責なく心にもない世辞を口にするのはまだ難しく、本当にありがたいことだ。


 グラントは部屋のバスタブが小さいと文句を言っていたけれど、それは彼の上背うわぜいが必要以上に高くて、肩幅や胸周りの筋肉がやたらとかさばっているせいであり、私や標準的な体躯の人間にとって何の問題もないのだから、彼にその事を言う必要はないだろう。


「そうですか、それは良かった。……ところで、バルドリー侯爵は?」

「午前中からあちこちで得意の弁舌をふるっているようですわ」

「……ああ……商館設立の件で動かれているんですね。まさかバルドリー卿自ら手配の中心においでとは思いませんでしたが」


 アグナダ公国の息がかかった商館をこの国の内部に設立させる許可は、件の『神事』に手を貸す事によって恩を売る形で取り付けたものだ。

 あの件の当事者であったグラヴィヴィスがその事を知っていてもおかしくは無い。


「まぁ……色々あるようです」


 苦笑いで答える私にグラヴィヴィスも何かを察したようで、それ以上の問いを投げかけてはこなかった。


「もし宜しければこちらでしばし足を休ませてゆかれませんか? この池を下ってゆくのでしたら先は少し険しい道になっています。戻られるにしても距離がある。夕刻の宴まではまだまだお時間もあるでしょう。この暇人とのお喋りに付き合っていただければ嬉しいのですが……」


 たしかに……見ると池から先の道は少し急な下りになり、カスケードや滝などに変化を遂げるようである。

 いま来た順路を戻るにしても一息に戻るには多少距離があり、疲れかけたこの脚では辛い事になりそうだ。

 それに戻ったところできっとグラントはまだ帰って来てはおるまい。

 夕べの話では、私がグラヴィヴィスとお話をしたところで誰に迷惑がかかるわけでもなさそうだ。


 私が手を貸した『神事』のせいで彼は今あまり良い立場にはないようだし。……その事で申し訳ない気持もある。

 ふた夜目の宴の身支度にもまだ早い時間。ここで少し座って時間を過ごすのも悪くは無いだろう。


 後に思い返せばここで彼と話しなどしなければ良かったのだろうけれど、私はハンカチでベンチの座部を綺麗に整えるグラヴィヴィスの勧めるままに、深緑の柳の木陰に気持ちよく腰を下ろしてしまった。


 山頂に白い雪を残したテティト山は美しく、空は青く……遠くにはシェイジット山脈の峰々が水色に望める。

 パン屑を与え終えた家鴨や白鳥は葦の茂る一角へと泳ぎ去り、池の向こうの花壇にはのどかに散策を楽しむ人影がひと組ふた組と歩いていた。

 高地の空は澄み、風は清い冷たさを乗せて庭を渡る。

 今夜も晴れやかな祝宴が幕を開け、広間には笑いと音曲が満ちる事だろう。


 まさかこんな気持ちのよい午後に恐ろしい事が私の目の前で起きるだなどと、微塵ほども思いはしなかった。





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