『銀の杖と北の方舟』4
私は銀の杖を手に、フォンティウス王の結婚を披露する宴の会場となる広間へと歩み入った。
以前ユーシズの屋敷でレレイスが主催した宴の時に作ったドレスは、当時の流行もあって私の周囲をグルリと取り巻き広がるスカートのその大きな裾のせいで杖を突くに困ったけれど、今回はあの時の教訓を得てドレスの形は左右と……特に後ろにボリュームをつけたものだから、歩き難くはあっても杖をつけない事もない。
普段使いの象牙の握りの木の杖は良質の堅木を使い一流の職人が作った上等な杖で気に入っているが、流石にこう言う場に相応しいデザインとは言えない。
今手にしている銀の杖は、セ・セペンテスの杖職人と宝飾品の職人らに協力してもらいグラントが指示して作らせた宝石のように美しい一本だ。
持ち手は鏡のように磨いた銀の楕円。
葡萄の葉と蔦、それにダイヤ型の模様彫りの装飾部に、古代神殿の円柱を思わせる筋の入った棒の部分が続く。
銀無垢では重いし柔らかすぎるのでもちろんこれはメッキだけれど、中空の杖は丈夫で見た目よりは軽く、底の部分は堅木にゴム引きなので床を痛めたり必要以上に大きな音を立てる事もない。
手になじんだ温かな象牙の杖には及ばないが、こう言った場所でも使えドレスとの親和性のある装飾的な杖を持っていて損はないだろう。
それにこの国の皇太后アリスマリナ様が私のように身体に少し不自由がある者に対してもさしたる差別の無い国の出身の為だろうか、ブルジリア王国の社交界も比較的そういった傾向があるらしく、今回の宴の席にも長時間起立しているのが肉体的に辛い私にありがたい配慮が行き届いている。
「どうぞ……こちらにお席を用意しております」
広間までの順路を導いてくれた侍従が私とグラントを案内してくれたのは、大きな広間の壁際。柱と柱の間に渡された小さな帳のある座席だった。
結婚披露の祝賀の宴席に招かれている列席者の殆どは、広間中央に起立したまま歌や踊りを楽しみ、疲れたりゆっくり話しをする時には壁際の所々に配置された椅子に座り、お腹が空いたら隣室に用意されている食事のテーブルに好きな時に着く……と言う自由度の高い形式の宴のようだけれど、私のように踊りの輪に加わったり立ったままの歓談に加わるのが辛い人間用に、会場内には幾つかの帳付きの席も設えられている。
帳の中は思ったよりも明るい。
薄い紗の幕は外部から中は見えにくいけれど、内部から外を見る分には充分な透過性を持っているのだ。
「お申し付けくださいましたらお食事の方もこちらへお持ちいたしますので……」
案内の人間がそう言葉を言い残し、立ち去って行った。
「至れり尽くせりね」
私が感心して言うとグラントは頷きながらも剣呑な事を言い出す。
「確かに便利ではあるけれど、防犯上あまり感心出来ないような気がするな。……例えば、お嬢さんがスカートの中に小型のクロスボウと毒矢でも隠し持っていれば、フォンティウス王の事を弑する事だってできるかもしれない」
「お祝いの席でなんてことを言うの貴方は。……だけど……そうね確かにこうして帳の中から王座を狙えば……あら?」
ノルディアークの街に入ってから何度もこの街の設計の秀逸さに感心しきりだったけれど、この城内に置いてもその設計の素晴らしさにはどうやら死角が無いようだ。
「グラント、そういう不届きなことを考えるのは無理なようだわ。フォンティウス王のいらっしゃる席はここからじゃ狙えないのよ。この……帳を渡してある柱が邪魔になって、もし何かしようとするならここから身を乗り出さなければ出来ないようになっているんだわ。身を乗り出すにしたって、帳が邪魔でしょう? それを持ち上げてもたもたやっているうちに、衛士に捕らえられてしまうのが席の山よ」
グラントは帳から顔を出して周囲の席を確認する。
「他の帳からも王座は狙えないようになっているな。それにここから顔を出した途端、衛士と目があったよ……。外から中は殆ど見えないし、中に入ってしまえば悠々と外部を観察できるけれど、その実、注目を浴びやすくもある……と言う事か。どうやらここで出来るのは小さな密談と、美しいご婦人を連れ込んでのよからぬ事くらいかな……」
ブツブツとそんな事を言う彼の手が夜会用の胸や肩の大きく開いたドレスの解放部に回されようとするのを、私は扇子で阻止した。
真珠の様な光沢を持つ白蝶貝を花と孔雀の透かし彫りにして金彩をかけたこの扇子は、グラントが私の為に誂えてくれたもの。
こういう使い方が正しいかどうかはさておき、さっそく彼からの贈りものは役に立ったと言うわけだ。
「貴方はここに密談や『よからぬ事』をする為に来たわけじゃないでしょう? 私は飲み物でもいただきながら楽しく人間観察でもさせてもらっているわ。グラントは当初の予定通り、商館設立の為の根回しや情報収集でもしていらっしゃいな」
澄ました様子でそう言いながら彼の手を退けるのに使った扇子で帳の端を持ち上げた私に、グラントは片唇だけの笑みを残し、着衣の襟を正すと背をかがめて帳をくぐり広間へと滑り出て行った。
夜会服に装ってからこちら、私は聞いているのが恥ずかしくなる歯の浮く様な褒め言葉の数々を間断なく耳に吹き込まれ続け、いたたまれない気持ちになっていた。
そりゃあ私だって綺麗だとか素敵だとか言われれば嬉しくなる。
けれど、自分がレレイスのような絶世の美女では無い事くらい承知している。
グラントは大げさすぎるのだ。
そう言うと彼は真面目な顔で大いに反論するのだけれど、もしも大げさじゃないのならきっと彼の目がおかしいに違いない。
これ以上この帳の中に一緒にいたならば、『よからぬ事』以上に彼のそんな言葉に耐えられなくなって、身悶えながら広間に転がり出るような奇行に走ってしまいそうだった。
帳から出たグラントはさっきまでとは別人のように威厳あり気な表情で、あちらへこちらへと水を得た魚のように外交的活動にいそしんでいるようだ。
そうこうするうちに城中にラッパの音が響き渡り、ブルジリア王国王室侍従長による司会進行によってフォンティウス王の結婚を祝賀する宴が始まった。
フォンティウス王の后となった女性……王妃ミストヴィネと言う人は、見た目に華やかさは無いけれど優しく聡明そうな印象の人だった。
私はブルジリア王国の貴族らに詳しくないが、そう高い位の貴族の出身ではないらしい。
……驚いたのはこの結婚披露の宴でお披露目されたのは彼女だけではなく、彼女とフォンティウス王との間に生まれたと言う幼い王子も紹介されたことだ。
年齢は1歳~2歳と言うところだろうか。
どうやらブルジリア王国内でもこれは殆ど知られていなかったらしく、王妃と共に王妃の腕に抱かれた幼い王子が披露されると、会場内には驚きのざわめきが流れた。
ざわめきはその後、この国の次代の王位継承者誕生を寿ぐ拍手と歓声に代わったけれど、皆の驚愕は人々の興奮しきった表情から容易に見て取ることが出来る。
……王弟グラヴィヴィスがフォンティウス王の結婚前に王位継承権を放棄するなんて行動に出ることが出来たのは、この幼い王子の存在があった為なのだ……。
帳の席から離れた場所にいたグラントがチラリと視線を寄こす。
流石の彼もこれは知らなかったようだ。
……だけど、冷静に考えてみればいくらフォンティウス王が現在健康であり、またその婚約者もそうであったとしても、子供でもいない限り王位継承権第二位のグラヴィヴィスが継承権を放棄するなんて、出来る筈は無かったのだ。
国の新しい王位継承者を得ていながらこれまでそれを伏せ、機を待って油断したサリフォー教会勢力に臨む。
王やグラヴィヴィスがどれだけの危機感を持ち、事に当たったかが見える気がする。
周辺各国から招かれた代表たちの祝辞と贈り物が次々と届けられ、披露され、華やかな音曲と綺羅に着飾った人々の踊りの輪が帳越しのそちらこちらで揺れ動く。
私は踊りの輪や歓談のざわめきの中にグラヴィヴィスの姿を探した。
いくら王位継承権を放棄したとはいえ、彼が王族であり現王フォンティウスの弟である事には変わりない。
恐らくはこの宴に彼も出席しているだろう。
こんな祝いの席、ましてやあのような経緯があった後での事、まさかサリフォー教会の僧衣を着てこの場に来てはいまい。
何度か会って記憶しているグラヴィヴィスの姿を脳裏に思い起こしつつ、私は沢山の人であふれた広間に視線を彷徨わせた。
背はグラントよりは低いけれど長身。
教義的な物か時折菜食期間や断食期間を設けるために痩身だが、バランスの整った筋肉質な四肢をしていたように思う。
フェスタンディ殿下とは従兄弟どうしなだけあって面差しに少し似たところがあった……。
きっとグラヴィヴィスは王を寿ぐ人の輪の中にいるのだろうと思い、私は幾つも出来ている歓談者の集まりの中に彼の姿を探していたのだが……見つからない。
踊りの輪へも一応視線での捜索の手を伸ばしたけれど、やはりいないようだ。
もしかするとここには来ていないのではないかと思い始めた時、私は人波の外れに佇むグラヴィヴィスの姿をようやく見つける事が出来た。
僧衣の時には背に下ろしている褐色の髪が、白いレースのリボンで束ねられていた。
青みのある銀灰色の上着の前身ごろには銀糸での刺繍。白い大きな襟にも同色の絹で繊細な刺繍が施されていてとてもエレガントだ。
僧衣姿のグラヴィヴィスは端正な顔立ちながらやはり聖職者らしい清廉な印象を与えるのだが、紳士らしい装いをした彼は繊細そうな印象を与える魅力的な貴公子に見える。
……それにしても、どうして彼は一人きりであんな風につまらなそうに広間を眺めているんだろうか?
だって、彼はこの宴の主役の一族であるのに。
いくら若い……まだ少年と言っていいうちにサリフォー教会に入信し社交界を離れていたとは言え、彼だって王家の一員ではないか。
祝意を伝える人々に囲まれ場の中心にいてあたりまえの彼はしかし、手にしたグラスの中身を時々口元へ運びつつ完全に『傍観者』の様子で広間の人々の間を縫っている。
実は……とても人間嫌いで有名……とかなのかしら?
私はブルジリア王国の社交界の事など何も知らない。
王弟グラヴィヴィスと関わる事になったのも、本当に偶然が重なっての事だった。
主管枢機卿としての彼は誠実にその職務を果たしていたし、はやり病で身よりの無い子供が大勢出来ると迅速に孤児院を組織建造するなど、慈悲深い上に頭の切れる人間と言う風評を耳にした。
政治的能力を持った聖職者と言うのが、私が抱いた印象だ。
……少し不思議な雰囲気の人だとは思ったけれど、特に彼の人となりについて深く知るような機会は無かった。
だから殆ど誰とも会話する様子もなくいる今の彼が常態どおりなのか、それともそうじゃないのか判断材料が無い。
私も、それにグラントも、春にこの国を去ってからの状況の変化には詳しくなかった。
グラントが本来どおりの生活を送れていたのなら、きっとグラヴィヴィスが今どんな立場に置かれているのかを掴むことは出来た筈だけれど、今年の春から彼は商館の設立に忙しく、それどころじゃなかったのだ……。
今更なにをどうこう言おうとも、私は事前に何も知らなかったのだし、グラヴィヴィスが好んで一人でいるのではなく……この国の貴族や有力者達に『警戒して避けられている』のだと言う事になど、気がつけるわけなんてなかった。
グラヴィヴィスの姿にちょっとだけ首を傾げたものの、帳の中から広間を眺める身では何の情報もつかめるわけもなく、後からグラントにでも聞いてみようかと思ったきり、私は再び音楽に乗り踊る人々や扇の影で囁き交わす紳士淑女の群れを興味深く観察するうちにすっかり彼の事など忘れてしまっていた。
広間全体のさんざめき。道化のもたらす笑い。楽士達の見事な演奏。踊りの輪。
祝宴の雰囲気に耳や目を楽しませつつ美酒に喉を潤すうち、なんだか私も楽しい気分になっていた。
「バルドリー侯爵夫人、お飲み物をお持ちいたしました」
帳の外から声を掛けられ給仕が飲み物のサーブをしやすいように紗の布を扇子の端で引っ掛けるように持ち上げると、思いがけず直ぐ目の前に王弟グラヴィヴィスの姿。
恐らくは給仕が声を掛けてくれる時に言った『バルドリー侯爵夫人』と言う名に反応したのだろう。
彼の目は扇子で帳を持ち上げる私へと真っすぐに向けられていた。
もともと彼とグラントとは知己なのだから、グラントの名が近くで聞こえればそちらへ目を向けるのは自然な事だと思う。
ただ、私はなんの心の準備も無いままにグラヴィヴィスの少し独特な雰囲気を持つあの薄茶色の瞳に出会い、一瞬思考が停止してしまった。
こう言う場に慣れていない上に『帳』と言う外部からの目に遮断された空間に守られていた私は、とっさにどう反応して良いか分からず、表面上はどうあれ少しばかり動揺してしまう。
「これはバルドリー侯爵夫人……お久しぶりにございます。この度は遠路このノルディアークの王城までお運び下さいましてありがとうございました」
私が言葉を発せずにいる間、グラヴィヴィスは貴公子然とした態度で来城の礼を述べながら私の手をとり、儀礼的な接吻をその甲の上に落とした。
「このように座ったまま、ご挨拶にも伺いませんで申し訳ありませんでしたわ……」
なんとか無礼にならないように言葉を捻りだす私に、グラヴィヴィスは口元にふと笑みを浮かべる。
なかなかに魅力的な笑みだ。
「バルドリー侯爵とは先ほど挨拶だけさせていただきました。……私の方こそ貴女にはお礼を申し上げなければならなかったのですが……」
私とグラヴィヴィスが話す間、給仕はそう広くない帳の開口部で銀の盆を持ったままかしこまり直立していた。
まあ……王の弟の脇をすり抜けてサーブするなんて失礼なことは出来る筈はないのだから、当然だろう。
「あの、よろしければこちらに少しお掛けになられてはいかがですか? あなた、それをテーブルの上に置いたらもう一つグラスを持って来てくださらない?」
部外者である給仕がこの場にいては、グラヴィヴィスもあの時の話しをし辛いだろう。
グラヴィヴィスは一瞬周囲を見渡した後
「それでは……」
と、テーブルを挟んだ席に腰を下ろした。
それまで身動きを取れずにいた給仕は自分で帳の端をおさえたまま、銀の盆の上から私が頼んだ泡入りの白いワインとグラスを一つセットすると、洗練された動きですっとその場を離れて行く。
支える手が無くなった紗の帳がふわりと落ち、私とグラヴィヴィスの座るこの席はまた『仮りに閉ざされた空間』へと戻った。
「バルドリー侯爵夫人。貴女の後ろ……左側に銀色の紐が下がっているのがおわかりでしょうか? そう……それです。それを引くとこの帳の前面が上に持ちあがって開くようになっているんです」
グラヴィヴィスの言うとおり、見ると、私の後ろには銀の太いモールが下がっている。
どうやらこれを引けば舞台の緞帳のように、この紗の帳は美しいドレープを寄せながらまくれ上がるようだ。
帳をたくしあげたまま固定させる為の硝子の留め具も上部には取り付けられている。
「まあ、便利な物ですのね。私の生まれた国やアグナダ公国ではこのような物は目にした事がございませんでしたわ……。もっとも私はこの脚のせいで国許では社交界には出た事がなくて、そうあちこち拝見したわけではありませんでしたけれど……」
リアトーマ国ではたぶん、こう言う物自体存在しないのではないだろうと思う。
アグナダ公国ではまだそう頻繁によその……それも大きな宴に出席する機会は持っていないが、グラントの先ほどの様子からするとそうあるモノじゃないのだろう。
……フェスタンディ殿下とプシュケーディア姫の結婚披露に出席するのなら、長居しないで私だけ先に失礼させていただいた方がよさそうだ。
「失礼ですが、どちらのご出身でしょうか。もし……差し支えなければですが」
「もちろん構いませんわ。アグナダの隣国、リアトーマ国です。……ご存じでしょうか、秀峰と名高いフドルツ山の麓に広がる美しい湖沼地帯……エドーニアを?」
「ああ、エドーニアの名は耳にした事があります。フドルツ山を望む風光明美な土地だとか。……フドルツ山……あの山を巡ってリアトーマとアグナダは互いに長く遺恨を残す残念なことになっていましたね」
「……今やそれも『過去』の事になりましたわ」
「美しい従姉どのとバルドリー侯爵夫人、貴女が両国の和平のかけ橋になられたと言う事でしょうか」
『打ては響く』とでも言うのだろうか?
自国の事ではないアグナダ公国やリアトーマ国の関係、それにフドルツについてグラヴィヴィスは正確に今の状況を把握しているらしく、彼の口からは淀みなく言葉が流れ出してくる。
当たり障りの無い雑談の内に給仕の者がグラヴィヴィスの為のグラスを銀の盆に載せて帳を訪れた。
私は先ほど教えてもらったとおり、銀の紐で帳を引き上げ給仕を招じ入れる。
二人のグラスに程良く冷えた泡入りの白ワインが満たされ、金色の星のような泡を立ち上らせると給仕は一礼して去っていった。
ゆっくりと手を放すとスルスルと滑らかに帳が降りてくる。
……本当に便利だ。アグナダでもこう言う便利な物が整備されてくれればありがたいのだけれど……。
そんな事を考えながら冷えたグラスを持ち上げようと手を伸ばすと、グラヴィヴィスが私の方を見ている。
その表情から物言いた気な気配を感じたのは気のせいだろうか?
「あの……?」
私はこの時、私とグラヴィヴィスが帳を下ろしてここでお話をしていた事によって後々色んな誤解を受ける事になるだなんて、考えてもいなかった。
だいたいにして、『帳の席』なんて物、リアトーマにもアグナダにもなかったんだから、『誤解』を受ける可能性なんて想像は出来なかったのだ。
誤解を受けたくないのならあの銀の紐を使って帳の前面を上げ、中が見えるようにしておくべきだ……と言うのがこのブルジリア王国の流儀だと言う事も、私はこの国の人間じゃないんだもの知る筈もない。
グラヴィヴィスが銀の紐について私に教えてくれたのはそう言う意図があっての事だったのだと後になってから気づいたけれど、あの時に唐突にそんなこの国の社交界の説明をし始めるのはいかにも流れを読まない野暮なことと彼だって判断したんだと思う。
……それとも、あの時から既にグラヴィヴィスの腹には一物あったのだろうか……?
そうは思いたくないが彼の事だから分からない。
……帳の中は外部からの目線を遮蔽され気楽だけれど、帳の中に誰がいるのかは衛士をはじめ既知の事。
それに、グラヴィヴィスはやはりこの国の王の弟であり周囲に人の輪がないとしても人は彼の事を注目している事に変わりは無い。
殊に……今現在の彼はある意味『危険な人間』として、いつも以上に実は人の目を集めていたのだ。
「いいえ、なんでもありません」
グラヴィヴィスは口元に微かな笑みを浮かべ、テーブルの上からワインのグラスを持ち上げた。
「それよりも、あの時のお礼の言葉を直接貴女にお伝えしていませんでしたね。いくらあの後教会内が落ち着かなかったとは言え、失礼しました。……バルドリー侯爵夫人……宜しければお名前をお伺いしたいのですが?」
グラヴィヴィスの華美に過ぎない秀麗さをもつ面の中、薄茶の瞳には形容しがたい不思議な光が浮いていた。
彼は頭も良く行動力もあり、人を引き付ける力もある。
だからこそサリフォー教会内でただの『お飾り』の主管枢機卿ではない力を得、旧勢力と教会内権力を争う位置にまで付く事が出来たのだろうけれど、彼には……少しミステリアスなものを感じる。
何かを作り上げる事よりも壊す事の方を好む……だなんて、そんな冗談めいた言葉を彼の口から聞いていたからそう思うのかもしれないけれど……。
「……フローティア、と申します」
「とても素敵な名前ですね。……フローティアどの。その節は私に……ひいてはこの王国の安定のためにご助力をいただき、本当にありがとうございました。感謝しております」
金色の星屑のような泡が立ち上るグラスを持ち上げるグラヴィヴィスに促され、私もグラスを持ち上げて笑みを浮かべた。
「私が少しでもお役に立てたと仰っていただけるのでしたら、とてもうれしゅうございますわ」
触れるか触れないかに二つのグラスを合わせ、私達は冷えた泡入りのワインに喉を潤した。
誰に誓ってもいい。
グラントにでも亡くなった私の父様にでも。
私とグラヴィヴィスとは帳の中でただなんてコトのないお話をしていただけで、疚しい事などは一切なかったのだと。
たけどその事を私が今いくら声高に主張したトコロで、広まり尾ひれがついた噂を終息させる事など出来はしないのだろう……。
当然だけれどグラントは私の事を信じてくれているし、私自身疚しいトコロなどないのだと自分で知っている。
だいたいブルジリア王国を離れてしまえば他所の国に一時的に広まった噂話など、気にしなければいいだけの話なのだが。
……後に『気にしなければいい』で済まない事態がこの帳での数分間のせいで引き起こされるなんて、私には想像も出来なかった。
……『噂』と言うのは、本当に恐ろしい物だ。