『銀の杖と北の方舟』1
エドーニアからセ・セペンテスに戻ってからひと月半程の間、グラントは多忙な日々を過ごした。
一応ブルジリア王国の商館の件はひと段落しているらしく、エドーニア出発前のように眠る事すらできない忙しさでは無いけれど、プシュケーディア姫の『花嫁行列に潜り込む』為の根回し工作に今は奔走しているようだった。
プシュケーディア姫の相談相手になる……それを考えるととても頭が痛いけれど、まだ会ってもいない姫について調べられる事は限られている。
しかも実際にお会いしてみなければどう動くかも分からない事でもあり……そのことについて考え始めると、私は溜息ばかりついてしまう。
レレイスがリアトーマ国へと嫁した時、私は彼女の立場を『人質同然』だと思い同情したものだけれど、プシュケーディア姫に比べれば彼女は楽な立場だったと今は思う。
だって、当時のリアトーマ国とアグナダ公国はフドルツ山の金流出問題での誤解による禍根を引きずってはいたけれど、国の立場は完全に対等だったのだもの。
花嫁であるレレイスは自国から同行した兵や騎士に守られ、自国の介添え人が付き添い……堂々とサザリドラム王子の元へと嫁いだのだ。
けれど……プシュケーディア姫は、人質どころか人身御供に捧げられる生贄のようなモノかもしれない。
事情が事情だけに彼女には自国からの介添え人は愚か、護衛の騎士も兵も最低限にしかつかない。それらは殆ど皆、アグナダ公国側から派遣される事に決まったそうだ。
もちろんフェスタンディ殿下は人身御供を食い散らす悪鬼や悪い竜ではなく心ある花婿だけれど、まだ若い姫にはそんな事を見極める余裕などないのではないだろうか。
セ・セペンテスの屋敷に殿下がいらした時に仰っていた通り、姫には何の咎も無い。
……だけど、国許……モスフォリア国は……。
……いいえ、今は考えまい。
考えたところで今の私に出来る事は無いのだ。
だいたい、私と姫がお会いしたとしても、彼女の方が私のような者に打ち解けて心を開いてくれるかどうかも分からないのだから。
時折プシュケーディア姫の事で埒の明かぬ物思いに耽りながらも、私はブルジリア国へ再び渡る為の準備にあれこれと忙しく日々を過ごした。
ブルジリア王国のサリフォー教会旧勢力と王弟グラヴィヴィスとの争いで、グラントが行きがかり上バルドリー侯爵として『神事』に関わった事により、現ブルジリア国王であるフォンティウス様からじきじきにご自身の結婚の披露宴に招かれているのだ。
まあ……グラントがブルジリア王国王室の結婚披露に招待されるのは、当たり前と言えば当たり前かもしれない。
以前にも彼はサリフォー教会と王室とが一触即発の状態の時、互いの鉾を収めるに必要な助言をしたこともあるのだもの。
当時の協力と助言はあくまでも非公式なモノだったけれど、今回は『神事』の見届け人としてアグナダ公国と言う名とバルドリー侯爵の名を使っている。
『神事』が成功したのだって、彼が王弟グラヴィヴィスらと力を合わせて事前に様々な手配していたからこそだと、王室側も把握しているのだ。
彼の協力は当然おおっぴらには出来ない事であり、一応今回の招待も、たまたまブルジリア王国へ来ていて『神事』に関わった縁で……と言う形を取っているけれど、この機に歓待を受けて欲しいとの感謝の意からだと思われる。
そしてこういうご招待は『夫人同伴』が基本。
だから、私も彼と一緒に行く事になっているのだが……。
「ねえフロー。この水色にクリーム色のリボンの日傘、アイリスブルーのドレスに合うんじゃない? それに貴女がさっき見ていた硝子の花がついた靴、やっぱり素敵だと思いますよ。届けさせることにしましょう」
今度の渡航は商人の妻としてではなく、貴族の妻としてだから当然それなりの身支度が必要になる。
サラ夫人は私をつれて必要な品々と……必要か分からない品々、それにどう考えても今回必要ないのではないかと思われる諸々の仕度を整える買い物を、とても楽しまれているご様子だ。
「うふふ。やっぱり若い娘の身の回りの品を選ぶのって楽しいものですね。自分の物や同年代の友人らでは気合が入らないものよ」
「もう若い娘と呼ばれる様な年齢じゃありませんわ」
「まあ何を言っているのフロー。私の歳の者から見れば貴女は全く『若い娘』ですよ」
そう言ってサラ夫人が笑う。
まだこの国に来て一年余り。
もしも自分だけだったならどういうお店を選んでよいかもかわらず、またリアトーマで社交界の経験が無かった私は通り一遍な仕度しか出来無かった事だろう。
細々とした事を教えて下さるサラ夫人の助言はとてもありがたい。
多少不必要な物まで持たされている様な気がしないでもないけれど、ひと月と少しの間に旅先の仕度と華やかな宴席に必要なドレスを整えられたのは、サラ夫人の協力があっての事だろう。
「もう少し時間に余裕があれば、あと何枚かドレスを仕立てる事が出来たのに残念だわ。銀の紗のあの布地と金の星を縫い付けた生地は貴女が帰って来てから仕立てましょう。それに珊瑚色のベルベット……それに青い光沢のタフタには蔓バラの刺繍を入れさせておくわ」
てきぱきと仕度を進めてくれるサラ夫人には感謝しているけれど、もしかしてもしかすると私……少しばかり着せ替え人形にされてはいないだろうか……?
いいえ、それを楽しまれているのなら別にそれは構わないのだけれど、でも……私はたった一人しかいないのに、どうやってその何枚ものドレスを着ればいいのかしら。
ブルジリア王国での結婚披露の宴は何日か続くにしても、エクロウザ兄様とポメリアさん結婚披露宴に……どうやら出席しない訳には行かないらしいプシュケーディア姫とフェスタンディ殿下の結婚の宴……。
国を跨いでの宴なのだから出席する面子が被る事は殆どないのだもの、別に同じドレスを着たっていいのに。
ちょっとだけそんな事を漏らした私に、グラントが言う。
「メイリー・ミーは髪の毛が赤褐色だろう? 赤っぽい色とか反対色とか……派手になりすぎて着せられない色が多いって以前母上が嘆いていたんだ。もしも大変じゃないのなら少しだけ付き合ってやってくれ」
……でもね、グラント。赤系統のドレスは一着だけしか作っていなくてよ。
しかも、どうして貴方まで忙しい筈なのに私にって何本もの扇子や帽子を誂えて来ているのか、さっぱりわけがわからないのだけれど……?
帽子、手袋、上着にガウン。扇子にハンカチにアクセサリーに靴。……それに、一本の美しい杖を新調した。
貴族の大名旅行よりも商人の妻としての方が、気楽で身軽だと思うのは間違っていないと思う。
私とグラントとは、ある晴れた夏の日の午後、シェムスやテティをはじめとする数人の使用人を伴い、大量の荷物を積んだ何台もの馬車を連ねてブルジリア王国行きの大きな船へと乗り込んだ。
船の名前は『north's ark』
アグナダ公国~ブルジリア王国航路を行き来する船舶の中でも最大級の船だ。
「ねえグラント、この船もモスフォリア国で作られた物なのかしら?」
同行してくれるフェイスやテティらが身の回りの品を手際よく片づけてくれた船室で、私はシェリーを啜りながらグラントに問う。
「そう。恐らくね」
船窓から外の景色を眺めているグラントは私に背中を向けたままそう言った。
フェスタンディ殿下の婚約者、プシュケーディア姫はモスフォリア国の王女だ。
モスフォリア国はアグナダやリアトーマのあるレグニシア大陸の南、アリアラ海を渡った先にあるトロン半島と幾つかの島からなる小さな国家。
大国シズミュワレファや紛争を繰り返す周辺国に囲まれながらも自治を保持し続ける背景には、トロン半島が険しい山並みにより隔てられ攻めるに難い立地の国土であることと、外交努力とがあるそうだ。
国土も狭くさしたる資源も無い国ではあるけれど、モスフォリアには西世界全体にその名を知られる造船の技術があり、その技術を使って作られた船は西世界全域に輸出されていた。
「造船業は完全に国営化されていて、その仕事に従事する人間はモスフォリア国が運営する造船学校を卒業した卒業生が殆どだ」
……と、グラントがプシュケーディア姫の持つ事情について話してくれた時に教えてくれた。
「徹底した教育を受けた技術者や設計者が作った船は、グルリと巻いた形のトロン半島が作り出す内湾で何度も秘密裏に航海実験を繰り返した後に輸出用の製造ラインに乗せられる。その完成度や安全性は他国の造船業者の追随を許さないレベルだよ」
だから西世界で就航する大型客船のほぼ全ては、モスフォリア国から輸出されたものなのだと言う。
「それに……外交的な話しで多少下品な言い草になるけれど、モスフォリアは二つの『乗り物』を世界に輸出しているともよく言われる」
「船以外にも何か作っているの? 馬車とか……それとも馬??」
首を傾げる私に、グラントがバツの悪そうな表情で言う。
「……女性、だよ」
モスフォリア国の王女をはじめとする王族の女性達の多くは、周辺の国家の王族、力のある貴族らの元へと嫁ぎそれらの国との繋がりを強固にするための政略結婚の駒に使われるのだ。
「……確かに嫌な言い方ね、乗り物だなんて馬鹿にしてる。だけど、弱い国を守るためには良くある話だと思うわ……」
「そう。……シズミュワレファの宰相どのもモスフォリア国の王族に連なるお嬢さんを後妻として娶っている。六十過ぎの老宰相に二十代の娘さんでは酷な話しだけれど……まあ、これも国の安定の為には仕方が無いのかもしれない」
「そうね。ええ……気の毒ではあるけど」
王侯貴族の娘として生まれたからには、ある程度そういうふうに『使われる』事は覚悟しなければならないものだと思う。
……勿論、私のような人間が偉そうに言うべき事ではないだろうが。
「ここからが問題なんだが、プシュケーディアの従妹どのの一人は先年失脚したボルキナ国の軍務大臣の元へ……十年ほど前に嫁いでいる。もっとも、去年の春に身体を壊されたとかで子供を連れて里帰りして以来、ボルキナ国へは戻っていないようだが……ね」
……なんだか一気にきな臭い話しになってきた……。
「そんなあからさまなことは普通しないんじゃなくって……?」
十年と少し前、フドルツ山金鉱からボルキナ国の陰謀により金の横流しが始まり、金の産出量の減少に伴いリアトーマ国とアグナダ公国との間はぎくしゃくしたものになった。
リアトーマ国とアグナダ公国とが戦えば国力の拮抗する両国になかなか戦の決着はつかず、やがて二国共に戦に疲弊する時が来る。
……ボルキナ国が狙ったのは、リアトーマ国とアグナダ公国の共倒れだったのだ。
老ラズロの自死をきっかけに、ボルキナ国のフィフリシスで人質同然にされていたメイリー・ミーを救出し、不正の証拠を掴んだのが一昨年の秋口の事。
私がエドーニアで兄上から噂話としてボルキナ国の軍務担当の一人が失脚したと聞いたのは、冬だったか……。
秋の終わりから冬にかけてはレグニシア大陸の北の海、ホルツホルテ海の天候は荒れる日が多くて船は殆ど動かせず、今の船では海を渡るには春を待つしかない状態だ。
「あからさま過ぎるかな? だけど姫の従妹と言ってもモスフォリア王妃の兄弟の娘だ。実際、こちらで腰を入れて調べ始めるまで、この話はさほど知られていなかったよ」
「調べ始めるまでは……と言う事は、もうこの事は大公や殿下も知っていると言う事なのね。でも、何故? ……モスフォリア国はボルキナ国とどういう関係があるの? 周辺国に……賄賂や人質として王族の娘を嫁がせるのは理解出来るわ。それにいざという時『保護』や『援護』を頼みやすいように……と言うのも。けど……モスフォリア国とボルキナ国じゃ随分と離れ過ぎていると思うわ。それにこう言ってはなんだけれど、姫の従妹とは言っても母方の従妹と軍務大臣では……いざと言う時に軍を動かすには弱過ぎるじゃない? ……ねえ、そのことに今回のプシュケーディア姫の輿入れはどうかかわってくるというの!?」
プシュケーディア姫の従妹……ボルキナ国の軍務大臣。それに造船技術で世界に名だたるモスフォリア国。
確か、にこれ以上無いくらいにきな臭い話しではあるけれど……。
「グラント? ……フェスタンディ殿下と亡くなられたメレンナルナ姫の婚約って、モスフォリア国はいざという時の援軍目当てかしらと想像出来るけれど、アグナダ公国側からの動機としては、性能に優れた船を目当ての事だったんじゃなくて? ……もしもアグナダ公国とリアトーマと開戦したのなら、陸路だけじゃなく海路からも軍を輸送出来た方が便利ですものね。そうよ……娘の嫁ぎ先へ優先的に船を輸出するのはおかしい事じゃないわ」
「あ~……やっぱりそこに気がつくか、お嬢さんは」
唇を歪めて苦笑いするグラントに、私は片方の眉を上げて小さく鼻を鳴らした。
「だけど……ボルキナ国と繋がりを持ちながら、アグナダ公国に姫をフェスタンディ殿下の妻として差し出す……。どういう事かしら……」
「メレンナルナ姫は身体の弱い方だったんだ。……気の毒な言い方をするけれど、モスフォリア国側からすれば『惜しくは無い人材』だったと言う事かもしれない。向こうの言い分としては婚約が打診された当時、調度殿下に見合う年頃の王女が彼女しかいなかった……と言う事なんだが。……その頃じゃあプシュケーディア姫は子供だったからね。まあ、彼女の体調が悪い事や……諸々事情があって、フェスタンディ殿下との結婚は伸び伸びになっていたわけだが。……それも、今思えば殿下にとって幸いだった可能性だってある」
どういう事なのかと訝しく見つめる私に彼は言う。
「戦場でなら護衛に守られ武器を放さない男も、寝所では裸の丸腰だと言う事さ」
「まさか……。仮にも一国の王女に、そんな事を」
だけどグラントの言う事も理解出来る。
刃物を手に襲いかかるなんて真似はせずとも、妻ならば人知れず寝酒に毒を混ぜる事は出来るだろうし、そこまでやらずともアグナダ公国の内懐に入り込んでいるのなら、戦略戦術執政状況等の情報を掴むことだって可能だろう。
それをボルキナ国側の間者へ流す事だって……。
でも?
どうしてモスフォリア国はいくら身体が弱く……先の無い人間だったとしても、メレンナルナ姫をそんな事に使おうとしたんだろう。
王女を間者や捨石として使うからには、それに見合った代価をボルキナ国から受けていなければ……。
そこまで考えて、私はやっと気がついた。
いや、気がついたと言うより『思い出した』と言った方がいい。
「……フドルツ山の金鉱から流出した金の、アリアラ海側の行き先って……モスフォリア国だったの……!?」
どうして私は金の流出先がホルツホルテ海経由でボルキナ国だけに渡っていたのではない事を忘れていたんだろう?
金の一部はアリアラ海を渡って南側へと流れていたのだと、昔、たしかにグラントから聞いていたと言うのに。
「ボルキナ国はフドルツから得た『金』を軍備を整える為に使ったのだったわね。……じゃあ、モスフォリア国は一体その『金』を何に使ったの?」
「一部は周辺国の重臣らに賄賂として使い、国の保身に。そして残りの全てを使って『新しい船』を開発していた事が分かっている」
「……船?」
問い返す私に、グラントは一呼吸置いてその答えを教えてくれた。
「そう、船だ。モスフォリアは造船技術の粋を集めて新しい船を開発していたんだ。強い風雨やうねる荒波にも負けない船を。……冬に荒れ狂うホルツホルテ海を渡れる程に、強い新しい船をね」
私の背筋を戦慄が走った。
メイリー・ミーをフィフリシスから連れ出す作戦に巻き込まれ、『amethyst rose』では毒のナイフに命を失いかけていながら、なんとはなし……漠然とした形でしか理解できていなかったボルキナ国の陰謀が、はっきりとした意志と姿を持って今初めて目の前に描きだされた様な気がする。
アグナダ公国もリアトーマ国も、冬場の荒れ狂うホルツホルテ海からの敵の襲来など全く想定していない……。
そこまでの周到な用意を持って、あの国はリアトーマやアグナダ公国を狙っていたのだ……!
私はただ兄様のお役に立ちたくて、こんな私にも出来る事をしようとエドーニアで間諜の様な事をしていたけれど、まさかリアトーマ国とアグナダ公国との関係悪化の根幹がそんな陰謀によって作りだされたものだなんて、あの頃、想像した事もなかった。
……あの事件はまだ終わってはいなかったのだ。
フドルツの金不正流出事件は、国を巻き込み人を飲み込んで思わぬ広がり方をして……また私の前に影を落とす。
もしこの話が全部本当なら……いいえ、現実なのだと言う事は分かっているけれど、思っていた以上にフェスタンディ殿下の婚約者プシュケーディア姫の立場は辛く苦しいものだと言う事になる。
私は暗澹たる気持ちで溜息を吐いた。
……レレイス……どうして私をこんな事に巻き込んだりするの。私、貴女の事を恨んでよ……。