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73 マグカップ



 朝、目が覚めて。

ギーツが持ってきたパンをはむはむと食しながら、ギーツが先に起きて集めてきた情報というのを聴いた。


 「下にいたログダリア出身のおじさんと息があってね。」

ギーツは、下の食堂で私たちと同じく、この宿に泊まっていた親父さんに話を訊いてきたのだそうだ。

ラッシュバルドは他の国よりもずっと愛国精神が強いために、他国へ移住する者は少なく、同じく他国からの移民も少ないのだとギーツは前に言っていた。

それゆえに、他国の者への風当たりは強く、銀の髪を持っていた親父さんはなかなかこの国で苦い思いをしながら暮らしていたらしい。

ギーツと私がこの宿にくるところを偶々見ていたおじさんは、同じログダリア出身者ということで、ギーツに心優しくこの国のことを教えてくれたそうだ。

 私のことを気にしていたらしいが、ギーツは人見知りなのだと上手く誤魔化しておいてくれたらしい。

実際は朝に弱いだけだが。


 「これ、ここ見て。」

ギーツが広げたのは、近くの質屋で銅貨一枚で買ったという、この国の、特に城下を中心とした街を拡大した地図だった。

中央に大きな赤い、少し歪な円があり、ラッシュバルド城と書かれているのだとギーツは説明してくれた。

「ギーツはラッシュバルドの文字も読めるの?」

「…ん、まあ、一通りは読める。」

ふぁ、と欠伸を漏らし、とろんとした目で言う。

ああ、前に本を読んでるうちにいろんな国の言葉が読めるようになったと言っていたっけか。

ちなみに、使う文字は違っても、言葉は方言以外は同じらしいので、話すことはできる。

不思議なものだ。


 「この王城がボクらが目指してる場所なんだけど、今いる場所は…、ここ。」

ギーツは地図の上で指を滑らせて、城からすぐ近くの街を指す。

「大分近い、っていうのは分かると思うんだけど、問題はどうやって中へ入るか。」

「強行突破?」

「…それは恐らく無理。」

ラッシュバルドの王城はセノルーンとは違い、ただの国民だけでなく、貴族すらも踏み入ることは困難な場所であるため、城の周りの警備は勿論固く、ギーツの屋敷に掛けられてたものよりも更に強力な結界が張られているのだとか。

「じゃあ、どうやって入るの?ドラドさんのお屋敷みたいに入れて下さい、って頼む?」

「それも無理。あれはあの人が好奇心旺盛な自由人だったから平気だったけど、この国の人はすぐにキミを殺しに来る。ラッシュバルドはどの国よりも黒魔女への警戒が強いはず。」

ギーツはそう言うと、地図上の、私たちがいる街から城を挟んで反対側にある街を指さした。

「そこで、この街に行こうと思う。」

「? どうして?」

「おじさんに聴いた話だと、三日後に一年に一度の大きな祭りがここで開かれるらしいんだ。ラッシュバルド建国記念日なんだって。それでね、王族の人たちはみんな一斉にパレードに参加するから、城の警備が一気にうすくなるらしい。更に、この日だけは城のほんの一部だけだけど、一般公開もされるから一般人でも中に入ることが出来る。」

なるほど。それならばいくらか楽に入れそうだ。

私はシルバのふわふわとした毛並を手のひらで堪能しながらギーツの言葉の続きを待った。

「この国の一大行事だから、慌ただしくなるし、それに紛れればなんとか行けそうでしょ?」

「うん、そう思う。」

「まあ、三日待たなきゃいけないけど。」

「それくらいは別に大丈夫じゃないかな。ここら辺で一回落ち着こうよ。とりあえず、今日はこの街で過ごそう。」

私の提案にこくりと頷いたギーツは、ふと立ち上がった。

「じゃあ、ボクはさっきのおじさんに本を借りてくる。さっきいろいろ話をしてたときに、読書が好きだって言ったらもしよければ貸してあげる、って言われたから。」

ギーツは無表情にそう言ったけれど、ここ何日かあんなに好きだった本を読んでいないので、相当嬉しいはずだ。

顔に出ないからよく分からないけど。

「すぐに戻るから、くれぐれもドアは開けないようにね。」

そう言い残して、ギーツは去って行った。


 ギーツが質素な表紙の小さな本を持ってきて、読み始めたのを横目で見ながら、私はここ何日かの成果と、ログダリアとラッシュバルドの様子を簡単にまとめたものを日記帳に書き記すことにした。

ゆっくりと考えながら手帳に文字を書き込んでいく。

部屋の中には私のペンを走らせる音とギーツの本のページをめくる音と、私たちの小さな呼吸音がするだけで、あとは静かだった。

私はギーツとシルバとののんびりとしたこの時間をただ幸せに感じていた。


 手帳に記し終えた私はシルバの背を借りて昼寝をした。

そして、夢を見た。




 夢の中には兄貴がいて、私と色違いで買った青いパーカーを羽織っていた。

兄貴は「大丈夫だよ」と笑って私の頭を繰り返し撫でた。

私はその心地よさに胸が熱くなる。

「兄ちゃん。」


 見慣れた家の、だけどひどく懐かしい気分にさせるリビングで、兄貴は私の隣の椅子に腰かけている。

私はお気に入りのマグカップを両手で包むように持って、ぽつりと言った。

マグカップの中は空だ。

「ん?」

兄貴はいつもの優しい笑顔で首を傾げる。


「私に会えなくて、寂しい?」

自分でもらしくないな、という質問をしてみる。

兄貴は軽く苦笑して、

「別に?」

と答えた。

だけどショックではなくて。

兄貴は照れる時に必ず苦笑するのを知っていたので、余計に切なくなった。

「もし帰れなかったら、兄貴はどうする?」

「俺は、ナユが絶対帰って来るって信じてるから。」

にこ、と兄貴は笑ってそう言った。

私はその言葉に何も返せなくなった。

「ナユの好きなかぼちゃのポタージュ、買って来といてやるから。あんま遅くなる前に帰ってきなよ?」

苦笑しながら私の頭を撫でる兄貴。

私は。

私は、何て答えたかったのだろう。

すぐに帰るよ、と答えてあげたかったのに。

兄貴はもう私の隣にはおらず、マグカップの中にはただ冷たい、透明な水が満たされていた。


 「…ナユ!ナユ!」

目を開くと、ギーツが心配そうに私を覗き込んでいた。

視界がぼやけて、輪郭が歪んでいる。

「大丈夫?どこか苦しい?」

ギーツの冷たい手が私の頬に触れる。

心地が良い。

ふと、自分が泣いていたことに気付いた。

情けない気持ちで涙を拭う。

額にもたくさん汗をかいている。

 兄貴の、夢。

この世界に来てから何度目だろうか。

悔しいけど、兄貴が今の私の心の支えになっていることは間違いないことだった。

「大丈夫、ありがと。」

私は頬に触れているギーツの手に触れて、笑う。

「ナユ、少し熱が出てる。疲れてるんだね。」

ギーツは私の顔の横の髪をかき上げて耳にかけると、ぽんぽんと優しく肩を叩いて来た。

「そうかな。寝てたからだとは思うけど。」

「それでもやっぱり疲れはあるんだよ。明日と明後日はゆっくり休めるから。」

「…うん。ありがと。」

私は頷いて、寄りかかっていたシルバから離れる。

苦しくさせてしまったかもしれない。

シルバは私を心配するように小さく鳴いて私の手を舐めた。

嬉しくて、私はシルバを愛情いっぱいに撫でながらお礼を言った。

もう日は大分傾いていた。


 その後、私はギーツが持ってきてくれた夕飯をギーツとシルバと一緒に部屋で食べた。

ラッシュバルドはお米に良く似た穀物が主食だったので、懐かしい思いをしながら食べた。

たった数日でこれほど米を懐かしいと思うとは思っていなかった。


 そうして、今日は何事もなく終わった。



   ―――十九日目終了―――

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