テトラポッドを登って
僕がテトラポッドをよじ登って防波堤の上に立つと、足元の砂浜にいつもの姿が見えた。スポーティーなセパレートの水着の色は今日はビビッドなグリーンで、いい色に日焼けした彼女の肌によく似合っている。一つにまとめた肩までの髪は、後ろ前にかぶったサンイエローのキャップで蓋をして、暴れないようにしている。
多分僕と同じか、少し年上の女の子。ここら辺の高校に通ってるんじゃないかな。
8月の太陽はさんさんと砂浜を照らし、水着の女の子は熱く乾いた白い砂の上にうつ伏せに横たわる。波打ち際と並行に、頭をこっちに向けて。顔は伏せてしまって、両手は顔のそば、手のひらを砂につけて。自然と、空を向いた彼女のお尻が僕の目に入る。きれいに引き締まったその形は、彼女が運動を頑張っている証拠だ。
防波堤のヘリに腰掛けて、僕は高みの見物を決め込む。真夏の太陽はギラギラと空に高く、目に入るあらゆるものの影は小さく真っ黒で、穏やかな海から風は少し吹いた。防波堤の焼けたアスファルトの匂い、古いロープの匂い、鉄錆の匂い、そしてムッと膨らんだ海の匂い。
うつ伏せの彼女は何だか真剣にじっとしていて、砂と話でもしてるんじゃないかと思うくらい。しかし次の瞬間、突然シュバっと砂を跳ね散らかして機敏に身を起こしたかと思うと、さっきまで頭が向いていた方と逆の方向に向かって全力で走り出した。
低い姿勢、目にも止まらぬ素早さで次々に送る足、飛び散る砂。そして獲物を襲うネコ科の動物のように両手を前に突き出すと、頭から砂に飛び込みざま、その先に立ててあった赤い小さな旗を掴む。ドシャァッ! 派手に砂が舞い上がり、彼女の動きがようやく止まる。
起き上がった姿は砂まみれで、彼女は両手で体をパタパタ払う。それから再び旗を砂に立てると、ゆっくりこちらに戻ってくる。はあはあ繰り返す息。しかし瞳には充実した気迫。グギュッと喉を鳴らすと、気を取り直すように黄色いキャップをかぶり直した。そうして振り返って距離を確かめると、再び砂にうつ伏せになったのだ。
それから彼女は何度も砂浜を全力疾走しては、旗に向かって飛んだ。ある時は快心の笑みを大きく浮かべ、ある時は砂に足を取られて転がって、地面を叩いて悔しがった。時折流れる雲の影も、彼女の頑張りを邪魔できなかった。
疲れを知らない彼女の明るい努力。僕はひどく惹きつけられた。
彼女と話してみたい。彼女なら僕の話を聞いてくれるんじゃないか。
ついに僕は心を決めると、再びこちらに頭を向けてうつ伏せた彼女に向かい、頃合いを見計らって大声で叫んだ。
「バァン!」
案の定彼女はビクッと反応するなりシュバっと起き上がった。それから悪戯な声の主をキョロキョロ探して、防波堤の上で手を振る僕に気がつくと苦笑いした。
・・・
僕らは炎天下の防波堤の上に並んで腰掛けた。
・・・
「ビーチフラッグスって言うの」
「ライフセイバーのトレーニングなんだ」
「私のウチ、海の家をやってて」
「まあ、今の私じゃ溺れてる人助けれないよ。けど心意気っていうか?」
怪訝な顔の君は、僕が包帯だらけの右足を指さすとちょっと態度を改めて、何をしているのか教えて欲しいと話すと、防波堤の上まで走ってきて、気さくに僕の隣に座ってくれたのだ。
すぐそばにある君の体からは咲き誇るひまわりのような生き生きとした力が感じられる。今頃になって僕は少々恥ずかしくなった。僕のそんな態度は君を眩しそうな表情に変えて、夏の女神はできたての崇拝者に優しく微笑んでくれる。
「…最初は単にカッコよくて始めたんだよ。近所のお兄ちゃんたちがものすごくカッコよくて」
「こんな体丸見えの水着、スイミングスクールでも着ないよ。恥ずかしかったけど、ノリで乗り切っちゃった」
そんなことを言いながら僕の顔を確かめるように見る。
君の体を包んだ布の少ない水着を、見た方が良いのか、見ない方が良いのか、あるいは褒めるべきなのか。態度に迷った僕を見て、君は悪戯っぽく笑った。
「単純な競争なのに、すぐにハマった。私に合ってたんだ。上手くなった先に人助けがあるって思うと、なんか力が出て、身が引き締まった」
「一緒に始めた子たちはあんまり続けなかったけど、私はまだやってる」
「近所のお兄ちゃんたちもまだ続けてる。いつもは一緒に練習してる」
「私がフラッグ取るようになってきたら、お兄ちゃんたちの視線が熱くて」
「でもそれが気持ちよくて、ちょっと体、見せつけちゃう、ほらほらって」
「追いかけてたカッコいいお兄ちゃんたちにモテるのって快感だよ」
キラキラと笑う君は健やかな命のエネルギーに満ちて、確かにすごく魅力的だった。僕は何かを言ってあげたかったけど、とても言葉にはできそうになかった。詰まってしまった僕を見て、君はまたくすぐったそうに笑った。僕の気持ちが君に伝わってればいいんだけど。そんな都合の良いことを僕は考える。
「まあでも、そんなのはオマケ」
「本当は、本当にいつか人助けをしたいと思ってて」
「私、このビーチが好きなんだけど、こんな小さなところだから、危険だって噂が立つとすぐにお客は離れちゃう」
「安全だってアピールしたい」
「備えてるってアピールしなきゃ」
「だから私はフラッグを頑張る」
「ぜったい全国大会に出る」
「私がライフセイバーで有名になれば、周りのみんなも頑張るようになって、そしたらお客は安心できるから」
「ね?」
ああ、君は本当に。
言葉にできない僕の気持ちはそれでも君に伝わって、君はまた眩しそうにする。
・・・
「ああ、なんで初めて会った君に、こんな話ベラベラ喋っちゃうのかなあ」
君は仰向けにゴロンとしてしまって、日差しに目を細める。
青空に向いた君の水着の丸さ。それをチラチラ横目で確かめながら、僕はその理由についてだけは自信を持っている。
僕らの波長は同じなんだ。だから最初から親友のようにできる。互いの言葉に何も疑いを持たず、口からは心からの言葉しか出ない。
そんな相手とはこの地球上ではごく稀にしか出会えない。けれども僕らはそんな相手が存在していることをどこまでも信じていて、だからいつも、無垢な友愛に身を委ねることを夢みてさすらっている。
そして僕は見つけた。君がそうだ。君が僕の友愛の片割れだ。
僕にはそれが分かった。だから君に声をかけたんだ。
「ん?」
僕の視線を感じて、仰向けのままの君が僕を見返す。こんなにすぐそばで君を見ても、君は僕の視線に嫌悪感を持たない。ただちょっと恥じらって、頬をほんのりとさせるだけだ。
君になら頼める。
そして僕は折り入っての頼み事を君にする。
・・・
「ははっ、そんなことが恥ずかしいの?!」
寝転がったままの君はお腹を抱えてケラケラ笑い、僕はトホホと肩を落とす。でもしょうがない。君にだから話したんだ。
「親と喧嘩して家を飛び出してきたから、怖くて帰れないって、君小学何年生?」
横を向いてしまい、膝を抱えてよじれている。僕は君の滑らかな背中のラインをチラチラ見る。君は本当に、太陽のエネルギーをたっぷり吸い込んで伸び上がるひまわりのようだ。
けれども最後には、君が僕のわがままを聞いてくれることを、僕も君も知っていたんだ。
「分かった、暑いけどここでちょっと待ってて。走って行って、反省してること伝えてきてあげる。その後、おうちの方に車で迎えに来てもらって」
身を起こした君は笑い涙を指の背でこしこしすると、「坂上、って、すぐそこから登ってったところだよね、なんとなく分かる」という。
「安宅さんだね、オレンジの瓦の平屋の家。うん、知ってるかも」
「ちょっと先に住んでるのに、今まで君のこと知らなかったなんて不思議」
「どこの高校?」
僕がなんと説明しようか迷っているうちに、向こうの通りから君を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、そうだ、約束してたんだっけ」
君はそわそわして、僕と、君の友人らしい女の子が手を振るのを代わる代わる見る。僕は引き留めたことを謝って、それから僕と話をしてくれたことにお礼をいう。束の間だったけど、僕は本当に久しぶりに誰かと話した気がして、嬉しかったから。
君は慌てて、また会おうねといってくれる。その心遣いが僕にはすごく嬉しい。
「私は真朝。君は?」
「僕は悠夜」
「また話そ悠夜。えーと、そのうち、ここで?」
「ありがとう、真朝」
さようなら、僕の友愛の片割れ。またいつか、地球のどこかで会おう。僕は彼女と握手をしながら、心の中でそう呟く。
***
「三井菜、ごめん、忘れてた」
防波堤から降りた私は、せめてものお詫びにと全速力で友達のところに走った。今日は一緒に瀬早のところに晩御飯をお呼ばれしていて、先に何かお土産を買っていこうと話していたのだ。
「すぐに着替えるから、ちょっと待ってて」
「あんた、そんなに急がなくても、まだ時間あるからいいよ」
三井菜は私の性格をよく分かってくれている。息を切らしながら私は、まだ悠夜にちょっと心を残している。初対面の男の子とあんなに素直に喋ることなんて、ちょっとない。全然日焼けしていない真っ白な顔。あれはきっと図書館人間だ。あんな全く運動しなさそうな男の子が気になるなんて、私ってまだまだ謎だ。しかし彼の素直な表情とスモーキーな声は、確かに私のどこかをとても落ち着かせたのだ。
「ごめんごめん、ちょっと話し込んじゃって」
二人で話しながら、着替えの入ったバッグを置いたベンチに向かう。私はちょっと心配になる。才夏先輩と良い雰囲気になりかかってるところで、他の男の子と仲良さげにしてるのを見られたのはちょっと問題。フォローしておくに越したことはない。
「なんか足怪我してて、ビーチフラッグスに興味があるんだってさ」
何気ないフリを装って、サラリと説明する。三井菜がキョトンとしているので、あれっと思う。
「何、真朝なんの話?」
「え」
しまった、とんだやぶへびだったみたい。仕方なく適当にお茶を濁す。
「いやあの、初めて見た顔だけど、ちょっと先に住んでるんだって」
「誰?」
あちゃあ。話せば話すほど三井菜の心にいらない印象が残ってしまう。がっくり。
「ほら、私がさっき防波堤の上で話してた男の子」
三井菜は立ち止まってこっちを見る。
「それってスマホの話し相手のこと?」
「いやだからね、白いシャツ着た、ほら、あんた見たでしょう三井菜」
三井菜の顔が青白く変わる。
「真朝、あたししばらくあんたのこと見てたけど、あんたずっと防波堤で一人で座ってたよ?」
聞いて私はさっと防波堤を振り返る。悠夜は足を怪我して自由に歩けない。けれどほんのついさっきまで話していた白い人影は、もうどこにも見当たらなかった。
・・・
私は安宅さんのうちに行った。悠夜の話をすると、白髪の目立つお母さんは泣き崩れた。
・・・
ダイバーが何人も防波堤のあたりに潜って、積み上げられたテトラポットの奥底で悠夜を見つけた。7年前によその海岸で行方不明になったきりだったそうだ。右足が狭い隙間に挟まっていて、浮かび上がれなかったんだろう、ということだった。ここまで一生懸命に戻ってきたのに、最後に残念だったね、と誰かが話しているのを聞いた。
・・・
悠夜の遺骨は彼のうちに戻った。私は御焼香しに行った。仏壇の遺影は、防波堤で話した彼の姿そのものだった。「最後に息子が家を出る前に口喧嘩をして。それが気がかりだったのね。本当に優しい子」と彼のお母さんは寂しそうに言った。
・・・
・・・
・・・
最後の暑さとともに夏は慌ただしく去って、いつの間にか海は新しい季節に移っていた。
時折、私は防波堤に一人座る。
そのことについて、三井菜はあんまりいい顔をしない。あの時、防波堤にひとり座る私がとても楽しそうな顔をしていたのを思い出すと、落ち着かない気持ちになるそうだ。
正直、私にもどこか薄寒い感触はある。私は水着という無防備な状態だけじゃなく、心も彼に向けて開いてしまっていたのだ。彼はもはやこの世の存在ではなかったのに。
けれど。
確かに悠夜は影の薄い印象だったけど、私はあの時の彼になんの不自然さも感じなかった。彼のためらいの視線には年頃の男の子らしい健康的な熱さがあったし、彼の言葉には思いやりと信頼があふれていた。私は出会ったばかりの彼の雰囲気を心地よく思い、受け入れ、言葉を素直に聞いた。
そう。私たちは最初から親友だった。
出会ってすぐに心から打ち解けることができる相手。そういう相手との出会いはごく稀に違いない。双子の片割れのように、何もかも許し合える関係。これは恋愛とはちょっと違う。恋愛は体を火に炙られるように悶え苦しくて、すぐに制御不能に陥る。けれど悠夜と私は、互いを理解することそれ自体が喜びで、互いの生き様に干渉することなく、そのままの相手を愛した。
私は黙って膝を抱える。海も黙って私を見つめる。
多分、親しい人を亡くした人の気持ちはこうなのではないか。怖い気持ちを、会いたい気持ちが上回っている。あの温かな人柄にもう一度触れられるならば、彼がなんであろうと、何を躊躇うことがあるだろう。
私は思う。彼のそばに私がいて良かった。彼は親御さんの元に戻るのを切望していた。心を通わせられる無二の存在である私がいたからこそ、彼は意志を完徹できたのだ。私は彼の役に立てて良かったと思う。
彼がもういない人だと分かって、何だか彼が私の中の特別な場所にスポンと入ってしまった。その点、悠夜はずるいと思う。おかげで私は彼のことをずっと忘れないだろう。そう、恋人ができても、その人と一生をともに過ごすことを誓っても、一つ屋根の下で暮らし始めても、夜毎互いを激しく求め合っても、遠い町で暮らし始めても、そうして幾千日も時が過ぎても。
だって友情は恋とは違う。それは宇宙を並び飛ぶ双子の流星だ。決して互いの進路を邪魔することなく、どこまでも見守ってくれる。私は悠夜が恋しい。彼の眼差しが恋しい。
そもそも彼が幽霊だったっていうことが間違っている。私はもう悠夜がいないことを知っているのだけど、そのせいで何だか諦めきれずにいる。だって、幽霊なんだよ? 勝手気ままに、それこそ気分次第で過ごしていそうじゃない? それに私は悠夜と特別な関係だ。私が心底願ったら、ヒュルルと出てきてくれても良さそうじゃない? どうなの、聞いてるんだろ、悠夜のバカタレ。
私は防波堤の上でいつまでもメソメソしながら、あの世の親友に文句を言う。
いつか私という時間の輪が閉じる時、私たちは再び出会うだろう。けれど、ああ、気のおけない本当の親友っていうのは、一度出会ってしまったら、こんなに焦がれてしまうものなんだろうか。
何だか悠夜がニヤニヤ嬉しがってる気がする。遥か彼方でボオと汽笛が鳴った。うっさいボケェ!と泣き顔の私は遠く叫んで、足元で波がチャプリと笑った。
(終)




