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ヌコと和解せよ  作者: あさなぎ とわ


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短編 ヌコと和解せよ

 いつものように玄関を開こうとすると、猫がいた。


「……猫?」


「にゃ」


 灰色の猫だった。


 玄関の真ん中にちょこんと座って、俺を見上げている。


「なんでいるんだ、お前」


「にゃ」


「俺、猫飼ってたっけ」


「にゃ」


「飼ってないよな」


「にゃ」


 会話にならない。


 まあ、猫だから当然か。


 俺は腕時計を見た。


 午前七時二十分。


 出勤まであと三十分。


 猫について考えるには、少し時間が足りない。


 そもそも、なぜ猫がいるのか。


 玄関の鍵は閉まっていた。


 窓も閉めてある。


 昨夜、俺が帰ってきたときには当然こんな猫はいなかった。


 なのに今朝、扉を開けたらいる。


「……野良猫?」


「にゃ」


「どっかから入ってきたのか?」


「にゃ」


「そうか」


 何も分からなかった。


 俺は一度扉を閉めた。


 そして三秒待って、もう一度開けた。


 猫はいた。


「いるな」


「にゃ」


 俺はスマートフォンを取り出した。


 その瞬間、画面が震えた。


 メールだった。


 差出人は知らないアドレス。


 件名はない。


 本文は、一行だけ。


 ――ヌコと和解せよ。


「……は?」


 俺は画面を見た。


 もう一度読む。


 ――ヌコと和解せよ。


「ヌコ?」


 足元を見る。


 猫がいる。


 猫は俺を見ている。


「……お前?」


「にゃ」


「ヌコって、お前のこと?」


「にゃ」


「いや、猫だろ」


「にゃ」


「じゃあヌコって何なんだよ」


「にゃ」


 会話にならない。


 俺はため息をついた。


「まあいいや。帰ったら考える」


「にゃ」


「あと、そこどいて」


「にゃ」


「……どかないの?」


「にゃ」


 出勤できなかった。


 正確には、できなかったわけではない。


 猫が玄関の真ん中から動かなかったのである。


 抱き上げようとすると逃げる。


 追いかけると玄関まで戻る。


 俺が靴を履こうとすると、その靴の上に座る。


 仕方なく別の靴を出すと、今度はそちらに移動する。


「お前、絶対わざとやってるだろ」


「にゃ」


「……そういうところだけ返事いいな」


「にゃ」


 結局、会社には一本遅れる旨を連絡した。


 猫は満足したのか、俺の足元に丸くなった。


 昼休み


 俺はスマートフォンで「ヌコ」と検索した。


 検索結果には、猫の写真が大量に並んだ。


「……猫じゃん」


 どうやら「ヌコ」というのは、インターネット上で猫を指す言葉らしい。


 それなら話は早い。


 今朝のメールは、誰かがふざけて送ってきたのだろう。


 そう思った。


 少なくとも、そのときは。


 午後一時十二分。


 メールが届いた。


 ――ヌコはあなたを許していません。


「……なんで?」


 俺は思わず声に出した。


 隣の席の同僚が振り返る。


「どうした?」


「いや、なんでもない」


 スマートフォンを見る。


 メールの本文には、それ以上何も書かれていない。


 俺は返信した。


 ――どちら様ですか?


 数秒後


 返信が来た。


 ――ヌコはあなたを許していません。


「質問に答えろよ」


 さらに返信。


 ――なぜですか?


 今度は少し時間がかかった。


 やがて画面に文章が表示された。


 ――あなたは、ヌコを猫と呼びました。


「……猫だからだろ」


 思わず返信する。


 ――だって猫でしょう。


 すぐに返ってきた。


 ――違います。


「じゃあ何なんだよ」


 俺は画面を睨んだ。


 返信する。


 ――何が違うんですか?


 既読はついた。


 返事は来なかった。


 その日の帰宅は、少しだけ緊張した。


 家に帰ったら、あの猫がいる。


 そう思っていた。


 そして、実際にいた。


 玄関を開けると、朝と同じ場所に座っていた。


「……ただいま」


「にゃ」


「ずっとそこにいたの?」


「にゃ」


「何食べてたんだ?」


「にゃ」


「水は?」


「にゃ」


「俺の部屋、勝手に入った?」


「にゃ」


「……まあいいか」


 猫は立ち上がった。


 そして俺の後ろをついてくる。


「ついてくるの?」


「にゃ」


「お前、どこから来たんだ?」


「にゃ」


「飼い主は?」


「にゃ」


「家は?」


「にゃ」


「全部『にゃ』じゃん」


「にゃあ」


「おい、ふざけてるだろ」


「にゃ」


 俺はなんとなしに冷蔵庫を開けた。


 中には昨日買った魚があった。


「食う?」


「にゃ」


 返事だけは早い。


 焼いてやると、猫は夢中で食べた。


「うまい?」


「にゃ」


「そうか」


 食べ終わった猫は、俺の足に頭を擦りつけた。


「……現金だな、お前」


「にゃ」


 その夜、俺はソファで寝落ちした。


 翌朝。


 目を覚ますと、枕元に猫がいた。


「……なんで?」


「にゃ」


 昨夜、猫はリビングにいたはずだ。


 俺は寝る前に部屋の扉を閉めたはずだ。


 それなのに、猫は俺の枕元にいた。


「お前、どうやって入った?」


「にゃ」


「……まあ、いいか」


 不思議ではあった。


 でも、猫というものは時々よく分からないことをする。


 そういうものだと思うことにした。


 そのとき、スマートフォンが震えた。


 メールだった。


 ――和解期限まで、あと三日。


 そこから毎朝、メールが来るようになった。


 翌日は、


 ――和解期限まで、あと二日。


 その次の日は、


 ――和解期限まで、あと一日。


 内容はそれだけだった。


 俺はもう返信しなくなった。


 代わりに、猫との生活が少しずつ増えていった。


 最初は一時的に居座っているだけだと思っていた。


 だから何も買わなかった。


 ところが三日経っても帰らない。


 一週間経っても帰らない。


 気づけば、仕事帰りに猫用の餌を買っていた。


 猫用の皿も買った。


 水入れも買った。


 爪とぎまで買った。


結局メールはあれきりで期限が過ぎたからといって、特に何もペナルティーなどもなくヌコとの日々を過ごした。


「……俺、何やってんだろうな」


「にゃ」


「お前のせいだからな」


「にゃ」


「責任取れよ」


「にゃ」


 責任という言葉の意味を分かっているのかどうかは、分からない。


 ある日、俺は猫に名前をつけようと思った。


「なあ」


「にゃ」


「お前、名前ないだろ」


「にゃ」


「じゃあ……ヌコでいいか」


「にゃ」


「ヌコ」


「にゃ」


「気に入った?」


「にゃ」


 名前が決まった。


 その夜、久しぶりにメールが届いた。


 ――和解を確認しました。


「……何と?」


 返信した。


 ――何と和解したんですか?


 返事はなかった。


 それからしばらく、何も起きなかった。


 俺とヌコは普通に暮らした。


 朝、俺が起きる。


 ヌコが鳴く。


 俺が餌を出す。


 ヌコが食べる。


 俺が仕事へ行く。


 帰るとヌコがいる。


 たまに俺の布団を占領している。


「そこ俺の場所なんだけど」


「にゃ」


「どいて」


「にゃ」


「……狭いな」


 仕方なく端で寝る。


 そんな毎日だった。


 ある夜、テレビを見ているとニュースが流れた。


『続いて、都内で相次いで目撃されている謎の動物について――』


「謎の動物?」


 画面に映ったのは、灰色の生き物だった。


 猫にしか見えない。


 いや、猫だった。


 少なくとも、見た目は俺の隣にいるヌコとほとんど同じだった。


『専門家によりますと、現時点では――』


 画面の中の生き物が、こちらを見た。


 俺は固まった。


 ヌコもテレビを見る。


 画面の中の生き物と、隣のヌコ。


 二匹が見つめ合っているように見えた。


「……知り合い?」


「にゃ」


「お前、あいつ知ってる?」


「にゃ」


「……そう」


 ニュースは別の話題に移った。


 俺はテレビを消した。


 翌朝


 メールが来た。


 ――ヌコと和解せよ。


「また?」


 続いて、もう一通。


 ――あなたは、ヌコと和解した。


 そして、もう一通。


 ――しかし、あなたはヌコを理解していない。


 最後に。


 ――ヌコは猫ではありません。


 俺はしばらく画面を眺めていた。


 隣ではヌコが朝飯を食べている。


「……なあ」


「にゃ」


「お前、猫じゃないの?」


「にゃ」


「ヌコなの?」


「にゃ」


「じゃあ、何なんだよ」


「にゃ」


 俺は考えた。


 ヌコとは何なのか。


 猫とは何なのか。


 何が違うのか。


 そもそも、違うというなら、どう違うのか。


 足が四本ある。


 尻尾がある。


 毛がある。


 魚を食べる。


 夜になると俺の布団に入ってくる。


 どう考えても猫だ。


 でも、メールは猫ではないと言っている。


 俺はヌコを見た。


 ヌコも俺を見る。


「……まあ」


 俺は言った。


「猫じゃなくても、いいか」


「にゃ」


「ヌコなんだろ?」


「にゃ」


「じゃあ、それでいいよ」


 ヌコは尻尾を一度だけ振った。


「にゃ」




 そして翌朝


 ヌコはいなくなっていた。


 玄関を開けてもいない。


 リビングにもいない。


 ベッドの下にもいない。


 冷蔵庫の上にもいない。


「……どこ行った?」


 窓は閉まっている。


 玄関も鍵がかかっていた。


 けれど、いない。


 テーブルの上には紙が一枚だけ置かれていた。


 ――和解を確認しました。


「……はいはい」


 俺は紙を捨てた。





 それから数日───


 何も起きなかった。


 少しだけ寂しかった。


買い物に行ってもさかなを買う理由などないし、帰宅しても、玄関にヌコはいない。


 冷蔵庫を開けても、魚を買う理由がないので、その分の空間が空いている。


 ベッドの端を空けて寝る必要もなくなった。


 それなのに、つい二人分の飯を作りそうになる。


 そんな生活にも、少しずつ慣れていった。


 ある日の夕方。


 駅から家へ向かっていると、道路の向こう側に灰色の生き物がいた。


 猫だった。


 いや───俺は走り出そうとする足を止めた。


 猫に見える。


 よく似ている。


 でも――


「……ヌコ?」


 灰色の生き物がこちらを見る。




 ───目が合った


 次の瞬間、そいつは走り出した。


「待て!」


 俺も走った。


 交差点を渡る


 路地に入る


 角を曲がる


 けれど、そこには何もいなかった。


「……逃げ足速すぎだろ」


 スマートフォンが震えた。


 メールだった。


 ――また会いましょう。


 俺はしばらく画面を見ていた。


「……誰だよ、お前」


 当然、返事はなかった。


 その日の帰り、俺は魚を二切れ買った。


 一切れは自分用。


 もう一切れは――まあ、なんとなく。




 家に帰る


 鍵を開け電気をつけるが、


 それでも気配はなく何もいない。


「……ただいま」


 当然だが返事はない。


 俺は魚を焼いた。


 一切れ食べる。


 もう一切れを皿に乗せる


 そして床に置いた。


「……一応な」


 自分でも何をしているのか分からなかった。


 しばらくして───


「にゃ」


「……」


 確かに聞こえた。


 俺は振り返った。


 誰もいない


「……空耳か」


 皿を見る。


 魚は無くなっていた。




 ───翌朝


 テーブルの上に、また紙が置いてあった。


 ――ヌコと和解せよ。


「もう和解したって」


 俺は紙を裏返した。


 何も書いていない。


 表に戻す。


 やっぱり何も変わらない。


「……しつこいな」


 紙をゴミ箱に入れようとして、ふと窓の外を見た。


 向かいの建物の壁


 その上に、灰色の猫がいた。


 じっとこちらを見ている。


 俺は目を細めた。


「……お前」


 猫は動かない。


「ヌコ?」


「にゃ」


 俺は笑った。


「……おはよう、ヌコ」


「にゃ」


 それだけだった。


 結局、最後まで分からなかった。


 ヌコが何なのか、


 猫と何が違うのか。


 あのメールを誰が送っていたのか。


 そもそも、なぜ俺が和解しなければならなかったのか。


 全部分からない。


 でも


 別に、それで困ることもなかった。


 猫には猫という名前がある。


 ヌコにはヌコという名前をつけた。


 それだけだ。


 名前なんて、あとから決めればいい。


 正体だって、いつか分かるかもしれない。


 分からないままかもしれない。


 それでも――


「まあ、いいか」


「にゃ」


 今日も、どこかで猫(ヌコ)が鳴く


 それが猫だったのか


 ヌコだったのか...


 俺には、最後まで分からなかった。

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