邪竜の生贄になったはずが森で騎士様と共同生活しています
「あの、邪竜、見ませんでしたか?」
「竜ならば、昨日斬ったところだ」
西の森には邪竜が棲む。そんな噂が生じたのはいつのことなのだろうか。少なくともそれは、信心深い村の老人たちが捏ね上げた虚言、あるいは子供らを黒い森に近づけぬための嘘ではないらしい。森の中には大いなる影が確かに潜み、炎と闇の気配がセレナの肌を打つ。
「騎士様が、竜を斬ったの、ですか?」
魔力を手繰って森を進み、命のやり取りを覚悟した末に見つけた、一人の騎士。振り向く相貌、風に流れる金髪がセレナの思い出を揺らす。鞘に収まった剣が漂わせるのは、言葉の通りに竜の残滓だ。
「ここは危ない。日のあるうちに村に帰りなさい」
凛とした声で光のある方を示す騎士。けれどもセレナの声は重く沈む。
「……わたし、生贄なんです」
人喰いの邪竜を鎮めなければ。小さな村が極端な手段に走るのに時間はいらず、つまりは若い女の生贄だ。セレナはため息一つ自らの使命を受け入れ、森に贄として足を踏み入れた。それがつい先刻のこと。ゆえにその場にあるまじき騎士の姿はセレナを少し困惑させていた。
「生贄が戻ってきたら、村のお年寄りが不安になっちゃいます」
「だから帰れないと」
騎士としては知ったことではない話だ。だからセレナは期待しない。森で夜を明かすべく一人で野営の準備をし、獣や野党に怯えて眠る。だから、薪を持つ手が一つ増えたことは、彼女をやや驚かせた。
「騎士様、まだいたんですか」
「……竜の呪いでな」
かねてより存在する竜種。それは性質として、己を屠った存在に魂の一部を預けるらしい。死闘の果てに竜を切り裂いた剣はその系譜を受け継ぎ、つまりは竜の役目を継いだのだと、推測交じりに騎士は語る。
「だから私はここから出られないし、生贄たる君の生殺与奪も握っている」
「そう、ですか」
それならば話は早い。喉元を差し出すセレナ。けれど、差し出されたのは剣でも牙でもなく、掌だった。
「エヴァンスだ。君の名は?」
「……セレナです」
竜の代理と生贄の少女。二人の奇妙な共同生活は、それが始まりだった。
騎士。王名のもとに魔物を狩り、そのために必要な金品や物資を村々から徴収する。おとぎ話と異なり、現実を生きる騎士とはそうした不条理の権化だ。けれどもエヴァンスという男は、セレナが思い知るそれらとは少し違った気質を持つらしい。
「セレナ、すまないが果物を取ってきてくれ。川の上流に果樹が群生しているはずだ」
「かしこまりました」
「火を起こすから少し離れていてくれ」
「かしこ――エヴァンス様がなされるのですか?」
「果物とキノコと、虫に魚。実りの季節で助かった」
「え? 虫?」
飾らずおおらかで、野生に対して親しげだ。過去にセレナの村を訪れた数人の騎士は例外なく土に触れることすら苦言を呈したというのに、エヴァンスは素手のまま虫を千切り、野営の段取りを整えていく。暗くなるまでの間、セレナがこなしたのは果物と水を調達することだけだ。
「私の顔に何か付いているか?」
不審そうに作業を見つめるセレナを不思議に思ったのだろう。背中越しにエヴァンスの声が届く。
行動だけでなく、気になることはいくつもあった。従者もつけない孤高の由来、色濃い竜の気配、それに覚えのある相貌。
「いえ、少しお顔が、怖いなと思いまして」
けれどもセレナの口から出たのは、無関係の口濁し。朗らかに森を謳歌する姿に反する険しい表情が、どうしても気になった。
「仕方ないさ。騎士の眉間は寄るものだ」
「そう、ですよね」
これも覚えのある話だ。生贄の少女たるセレナにそれ以上の言葉は出せず、ゆえに薪の弾ける音だけが森を満たしていく。
「……だが」
炎と夜の狭間に、エヴァンスは何を見出したのだろうか。しばしの沈黙を待って、薄く息を漏らす。
「私も今は竜の後座。古の化身なれば、泰然と佇むのも道理か」
差し出される虫の串焼き。振り返る表情は、少し柔らかい。
受け取りながらセレナは思う。ああ、この騎士の顔には、やっぱり困った笑みがよく似合う、と。
陽が横切り、星が小夜啼き、黒き森の時間は緩やかに流れていく。
セレナはエヴァンスと協力し、少しずつ木を分け、屋根を作り、生活の土台を整える。人里離れた生活は、彼女の肌に合っていた。
変わらず眉根を寄せることの多いエヴァンスだったが、セレナが願うと騎士の仮面を外すことも増えた。
「これ、何でしょうか?」
続く日々の折、セレナは大樹の幹に奇妙な痕跡を見つける。
「おそらくは竜の爪とぎ跡だな」
「いえ、その下です」
確かに樹皮をえぐる大きな傷も気になったが、それよりもセレナにとって不審だったのは、根のほど近くにできる幹が削れた跡。まるで縄か何かを通していたかのような痕跡だ。話すと、エヴァンスの表情も薄曇りに翳る。
「この森、エヴァンス様のほかに人は?」
「見たことはないな。村人が獣狩りの罠を仕掛けたのか?」
「あの村の人は、森には近づかないです」
ほとんど手つかずの自然と未整備のマナは、セレナの言葉が正しいことを物語る。ある意味でこの森は邪竜に守られていたとも言えるだろう。セレナは生乾きの爪痕を指先でなぞり、今は見ぬ竜の姿に思いを馳せる。
「エヴァンス様が斬った邪竜とは、どんな方だったんですか?」
「……恐ろしい竜だったよ」
今は亡き、そうエヴァンスが語る邪なる竜。森をそよぐ風が心地よくて、なんとなくセレナにはその竜が悪しき存在には思えなかった。
「竜が怖くないのか?」
「私は生贄ですから」
セレナが強がると、エヴァンスは今までで一番悲しそうに笑みをたたえた。
「邪竜は死んだ。少なくとも私は、生贄の少女を必要となどしていない」
この数日で何度目かの、解放の打診。
「いいんです。わたしの居場所はあの村にはないので。だから、ここにいさせてください」
答えは変わらず、セレナの瞳は偽りの悲しみに満ちる。エヴァンスの偽りの慈悲は振り下ろす先を失い、夕暮れだけが二人の時間を覆っていく。この日のエヴァンスが一歩先へと踏み出せたのは、きっとセレナが垣間見せた本物の心のおかげだ。
「ならせめて、セレナの話を聞かせてくれ」
「……優しいのですね。エヴァンス様は」
たき火の炎を挟んで二人。夕暮れが星空へと変わる中、セレナは静かに口を開く。誰にも話したことのなかった、その過去を。
死んだ祖父はよく、「私は空と星との狭間にいるのだ」と語っていた。
両親を魔物に、騎士に村を奪われたわたしが流れ着いた先。貧しい村に住む傷だらけの老騎士は、わたしの髪を撫でつけながら先の持論をよく口走った。きっとわたしが両親を星々に見出していると思ったのかもしれない。絶望の果てに何も見たくなくなって、ただ上を向いていただけなのに。
「永遠を有する大空と、玉響を瞬く星々。私の空には雲が渡るが、それでも人より多く光にまみえた。セレナが見つけた今宵の星は、きっとお前だけの尊き灯だ」
言葉の意味は幼いわたしには分からなかった。不変の象徴に思える星の輝きを出会いと別れのように言ってのける、そんな祖父の考えも測れなかった。ただそれでも、雄大な語りに反して下がる祖父の眉が、しわの奥に見える優しい瞳が、染み入るように響く声が、わたしの心にただ一つの優しい思い出を残したのは事実だ。だから血のつながりなんてなくても祖父はわたしの祖父で、わたしは祖父が大好きだった。
「おじいちゃんのケガ、悪いドラゴンにやられたって本当?」
「嘘だよ」
竜殺しの修業をしようと息巻くわたしに甘いホットミルクを渡しつつ、祖父はいつものように困り眉で笑う。
「村のみんな、そう言ってたよ?」
「この傷をつけたのは、私の剣なんだ」
「どういうこと?」
庭木の陰に立てかけられた祖父の聖剣。今や草刈りの道具にしか使われないそれは、かつて魔物や悪人を裁く王の剣だったらしい。当時は王政も今ほど腐敗しきっていなくて、祖父は正義の名のもとにその力を存分に振るっていた。
「かっこいい!」
「私もそう思っていたよ」
その日祖父が任された依頼は邪竜の討伐。洞窟に潜む巨大な化け物を斬り、近隣の村に平穏をもたらす、いつもの仕事。竜を斬るのは初めてだったが、祖父にはどんな相手だろうと斬り伏せられる自負があった。
「でも、すぐに甘いと思い知った」
「ドラゴン、そんなに強かったの?」
「大きかったんだ」
山のごとき巨躯、空を覆う翼、そして一面を満たす魔力。祖父を圧倒したのは竜の持つ生物として圧倒的な格の違い、ではない。事実として、わたしの知る祖父の技量は並の竜など遥かに上回っていた。
「彼は、私を攻撃しなかった」
無数の斬撃を浴びせ、牙を折り、翼をこぼれさせ、続いていく戦闘。けれども竜からの反撃はなく、それが祖父にとってひどく不気味に思えた。
「だから、気になって、知りたいと思ったんだ」
騎士として戦い続けた歴史の中で、初めて生じる敵対者への興味。それが竜の魔力と呼応したのか、祖父は邪竜の意思を知ることになる。
「驚いたよ」
「ドラゴン、なんて言ってた?」
「『痛いよお』って」
何とも間の抜けた、でも当然の答え。それが祖父の毒気を抜き、気づけば剣を下ろしていた。
「確かに、『剣で斬られるのは痛いよな』って、思ったんだ」
祖父が竜の痛みを知ると同時に、竜の傷の半分は祖父へと渡った。両者の間にそうあれという願いが通じたためなのだと、祖父は語る。竜にはそういう力があるらしい。
長い時間を経てなお分かり合えない人類。それと対比するように、静かに互いを理解する悠然たる竜の姿。祖父は竜を少しだけ理解し、人を少しだけ知っている。だから、その中間に立っているのだと、どこか誇らしげだった。
「――だから、わたしも竜を知りたいと思ったんです」
星空が瞬く中、セレナの口から語られる生贄の真相。エヴァンスはその事実に驚きを隠せずにいた。言葉が事実であれば、彼女はあの村の出身ではない。確かに、若者の数は無限ではない。やがて生贄は途絶えると踏んでいた。だがまさか、旅の娘を捕まえて竜に突き出そうとは。
「怒っては、ダメです」
苦悶するエヴァンスの頭上に乗せられる、セレナの小さな手のひら。
「エヴァンス様の顔は、祖父と雰囲気がよく似ているんです。だから、笑っていてほしくて」
「……そうか」
心を蝕む見えない罪悪感。葛藤の果て、エヴァンスは精一杯の笑顔を作る。
「これでいいか?」
「ふふ。今日はそれでよしとします」
数か月を経る、騎士と竜の混ざりものと、偽りの村娘の生活。両者にとってそれは存外に心地よく、けれども決して永遠ではない。
「そろそろ服、破れちゃいそうです」
「冬が近い。果物も魚も獲れなさそうだ」
途方に暮れる二人。森の一角に広場を興し、打ち建てた丸太小屋を拠点した生活。二人の生活技術はとどまることなく向上していたが、それでも人間である以上物資は必要だ。
「エヴァンス様。一度、村まで下りませんか?」
「……」
そろそろこの関係も限界だ。村の老人たちに姿を見せるわけにはいかない。名残惜しさを傷の痛みがたしなめる。
「セレナ、話が――」
「わたしとデート、嫌ですか?」
震える声に、はっとする。セレナの心ににじんでいたのは、恐怖。身寄りのない彼女にとって「エヴァンス」からの拒絶は耐え難い苦悩となるはずで、それはエヴァンスが最も恐れたものに相違しない。傷の痛みが訴える真の意味。いつの間にか自らの都合で残酷な決断を下そうとしていたことに気づく。
それ以上に、気弱ながらも確かに芯のあるセレナの心に惹かれている自分がいた。彼女を悲しませたくはない。そう思った。
「ん? デート?」
「はい。デートです」
聞き逃した耳慣れない言葉。言うや否や、残った布を裂いて変装用の道具を編み上げていくセレナ。
あっという間にお揃いの不格好が二人を包む。
「これなら誰もわたしたちに気づきません」
「……セレナは、強いな」
一回り以上小さな手に引かれながら、住み慣れた森を抜けていく。ほとんど来たことのない森の出入口、差し込んでくる木漏れ日が記憶よりまぶしくて、少しだけ笑みがこぼれる。
「おや、珍しい。死の森に騎士様が」
あと数分で森を抜けるころ、二人の前に姿を現したのは大きな荷馬車と、それを引く男。胸に付けたエンブレムが何らかの団体への所属を主張し、「商人さんですね」というセレナの言葉が正解を告げる。
「ここで会ったのも何かの縁。お二人とも、見ていきませんか?」
荷台の後ろを指す商人。積み荷は布だろうか。
「服とかありそうですね」
セレナが喜び勇んで走っていく。
記憶にある限り、女という生き物は買い物を好み、特に服を買うときは時間をかけることを信条としているらしい。
さて、路銀はどう見繕ったものか。悩むエヴァンスのもとに、商人がゆっくりと手を招く。
「私に何か用事か」
「いえ、ちょいとお聞きしたいことが。ここらに住む邪竜の話です」
「……」
回答に窮すエヴァンス。それを知ってか知らずか、商人は饒舌に語る。近ごろ商人の仲間がこの森に分け入ったきり帰ってこないらしい。
「森は危険だから誰も近寄らないと思っていたが」
「それだけこの森が魅力的だったってことです。まあ、近づかないのが正解でしたが」
商人はからからと笑い、それからすっと真顔に戻る。
「騎士様は森から出てきましたよね。今、どうなってます?」
何らかの疑いをかけられている。この手の権謀術数に疎いエヴァンスであっても、はっきりと分かった。商人は笑顔だったが、仲間を殺されたことに対する怒りの感情をひしひしとぶつけてきている。
「……実は」
「見てくださいエヴァンス様。この服、とってもきれいだと思いません?」
沈黙に耐えきれず口を開こうとしたエヴァンスを止めたのは、セレナの明るい一声。その両手に携えられていた、着古されたワンピース。
「商人、あの服は」
「ああ、あれは東の街で仕入れたものです。従者の方もお目が高い」
馬車の後ろに回る。並べられている服を見る。そして、エヴァンスは確信する。
「エヴァンス様、どうしました?」
首をかしげるセレナを自らの後ろにやり、エヴァンスは剣を取る。
「ひ、騎士様、分かってます。お金は取りませんって」
「とぼけるな」
「い、命だけは勘弁してくださいぃ」
両手を開き、その場に這いつくばる商人。その様子が滑稽で、謝意も罪の意識が微塵も伝わってこなくて、だからエヴァンスは眉間を歪ませる。
「この服は、森に来た生贄たちが持っていたものだ」
突き付けられる真実。森の外に秘密裏に逃がしてきたはずの村娘たち。未練なく出ていった彼女らの服や小物がこの場に残るはずがなく、意味するところは、それらが遺品であるということ。
「……なるほどね」
平伏していた商人の指先から爆発が生じ、煙が視界を覆う。
「エ、エヴァンス様?」
「事情はあとで話す。今は逃げろ」
「……絶対ですよ」
離れていくセレナの気配。安堵を感じつつ、目の前の脅威へと意識を集中させる。
「『騎士様』がこんなところにいるわけないよな。そりゃ、仲間も騙されるわけだ」
森にも届いていた噂の盗賊団。眼前の相手がその頭領であること疑う余地はない。その姿が、消える。
「痛っ」
気づいた時には右腕に切り傷ができていた。半世紀ぶりに感じる、戦いの気配。
増えていく生傷と、疼く古傷。
ややもせず始まる激しい戦い。その趨勢は一方的だった。当然だ。エヴァンスは剣士ではない。戦いの経験などありはしないのだから。
「どうした、さっさと姿を見せろよ。化け物の姿をよ!」
「……そうだな」
セレナはもう逃げ切っただろうか。できれば遥か遠くで、この戦いのことなど知らずに平和に暮らしてほしい。ああ、でも、嫌だな。もう少し、一緒にいたかった。心からこぼれてくる想いを懐にそっとしまい、エヴァンスは魔力を解き放つ。
「やはり出やがったか、化け物が」
黒い闇の渦から姿を現すのは、空間を裂く爪、星を覆い隠す翼、そして傷だらけの巨躯。邪竜エヴァンスは忌み嫌う己の黒い姿に、醜く咆哮を上げる。
「お望み通り、化け物として相手をしよう」
怒りと苦しみに心を委ね、舌の裏側で紫の熱が弾ける。炎が弾丸となり、盗賊へ襲い掛かる。
「――痛ぇえええ」
全霊の一撃は敵意のもとに対象を焼き払い、虚無と静寂をもたらす、はずだった。
「痛えが、死にはしないな」
火傷の内側から悲鳴を抑え、盗賊が黒い息を吐く。
エヴァンスは強い。邪竜と呼ばれる種族だ。けれども敵意を振りかざすわけでも、悪意を振りまくでもない。竜ゆえに圧倒的な生命力を誇り、けれどもその戦力は騎士に劣る。
「これなら、全然殺れる」
盗賊にも内心の震えは共鳴してしまったらしい。剣先から恐れが消え、そのままエヴァンスの鱗を剥がさんと刃をしならせてくる。
「竜の素材は高く売れるよなァ」
痛い。嫌だ。戦いたくない。でも、セレナを守らないと。どうやって。
「地獄の仲間たちにゃ悪いが、俺の総取りってやつだ!」
苛む無力感と戦いへの恐怖。何より、突き付けられる本物の悪意。エヴァンスが地に伏すのに、長い時間は必要ない。
『顔を上げろ』
突如、耳元で声がした。
『敵は一人、己も一人。ならばこれは、騎士の決闘だ』
己の声だった。正確には、かつて己と心を分かち合った、騎士エヴァンスの声だ。
「ぼくは、ドラゴンだよ。騎士なんかじゃない」
斬撃の雨の中、弱音を吐くエヴァンス。力ない声にも、幻影は不敵に笑う。
『そうだ。君はドラゴンだ。そして間違いなく誇り高き騎士でもある』
「誇り?」
戦いから逃げ、心から逃げ、嘘をついてきた自分のどこに誇りがあるというのだろうか。
『彼女を見捨てるのか』
弱音をぴしゃりと止める、騎士エヴァンスの言葉。古傷がずきりと痛み、逃げる心を否定する。そうだ。ここで邪竜が倒れれば、盗賊は必ず彼女を苦しめる。だから今日だけは、逃げるわけにはいかない。
『そうだ、それが誇りだ。炎を練り上げろ。竜の息吹は、その気高さが放つものだ』
「――うん」
幻影に促され、生まれて初めて全力を解放するエヴァンス。怒りでも恐れでもない感情が魔力を瞬かせ、流星がごとくまっすぐに放つ灼熱が大地を撫でる。
盗賊が彼の決意に気づくより早く、その必殺は世界へと具現した。
「あ、あが、あがが」
周囲を完全に焼き払う終焉の炎。直撃すらしなかったが、盗賊の心を砕くには十分すぎる一撃だった。
「うん。上出来です」
後ろからカツカツと靴の音。エヴァンスが振り向くより早く、熱が耳元を横切る。
「ぎゃああああ」
「あとは、ちゃんと命中させる練習ですね」
手のひらから炎を揺らめかせ、セレナがにっこりと笑う。エヴァンスは何がなんだか分からず、そのまま意識を遠のかせるしかなかった。
「……」
「目が覚めましたか?」
木と炭のにおい。二人の住処に運ばれたらしい。意識を取り戻すぼくをセレナの手が優しく撫でる。
「事情を聞いても、いいかな」
「それはわたしのセリフでもありますよ。エヴァンス様?」
薄く笑い、セレナは自身の素性を明かしてくれた。流れの魔術師であり、邪竜の噂を受けてこの森まで来たのだと。
「村人たちがあんまりにもひどいんで、じゃあもうわたしが生贄やります、って言って来ちゃいました」
「ええー」
勇み足で生贄を買って出て、けれども森に住むのは騎士一人。襲ってくるのは野党だけ。困惑のままに暮らしを楽しんでいたと語るセレナ。そう言えば盗賊が仲間がやられたと言っていた。彼女の仕業だったのか。
さっきの見せつけられた炎の練度は、確実にぼくのそれより上だった。最初から野党たちには万に一つの勝ち目もなかったのだろう。そもそも竜の巨体を森まで運ぶ魔術師だ。邪竜としては戦慄するほかない。
「それで、そちらはどうして騎士のふりを?」
「……」
「早く」
「は、はい」
素性とともに印象をやや変えるセレナに面食らい、けれどもその瞳の奥には変わらない優しさ。驚きと安堵を共鳴しつつ、ぼくは真意を語る。
「……ぼくが竜の姿だと、みんな怖がって逃げちゃうから」
「そっか」
黒い鱗を優しく撫でるセレナの手。なぜか涙が出そうになって、慌てて固く目をつぶる。
「騎士エヴァンスは、ぼくの憧れなんだ」
「憧れ?」
「ぼくを見ても逃げずに、まっすぐ向かってきてくれた。ぼくの痛みを理解して、受け入れてくれた。すごい人なんだ」
ぼくの全身を覆う無数の傷跡。それは英雄と邪竜の戦いを物語り、セレナにすべての真実を明け渡すに十分な証拠だ。
「本当のぼくは、名前もない一匹のはぐれ竜。騙してて、ごめんよ」
秘密を全部吐き出して、ようやく気が抜ける。やっぱりこらえきれずに泣きだして、あまりの格好悪さに自分がみじめになる。でも、セレナの前では騎士でありたい。ぼくは目を開け、その先に自分と同じ涙顔があったことに、少し驚く。
「どうしたの?」
「そんな顔、よくしてたんです。おじいちゃん」
二つの光が瞬き、星座を作る。竜と人との中間地点。見出すのは過去の光。
ぼくは今竜の姿をしているはずなのに、不思議とセレナの言っている意味が分かる気がした。醜い爪の上に、優しくセレナが手を重ねる。
「改めまして、わたしはセレナ・ルイーズ・エヴァンス。アダム・ジョン・エヴァンスの孫娘です」
「え?」
「騎士道はこれからとして、まずはあなたのお名前をお聞きしても? エヴァンス様?」
「エヴァンスって、名字なの?」
「そうですよ?」
イタズラっぽく笑うセレナ。やっぱり人間は難しい。竜と騎士との中間地点、選んだ道は思ったよりも茨なのかも。
でも、不思議と二人なら楽しく歩ける、そんな気がした。




