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婚約解消?貴方にその資格はございません

作者: 沢野みら
掲載日:2026/05/06

 王立学園の最上階に位置する特別テラス。そこは、高位貴族の子女のみが立ち入りを許された、特権階級の社交場である。


 白い大理石の床には、秋の柔らかな陽光が美しい模様を描き出し、手入れの行き届いたバラの香りが爽やかな風に乗って鼻腔をくすぐる。

 本来テラスは、情報を交換し合う有意義な場所だ。しかし今、その穏やかな場は一人の男の身勝手な宣言によって台無しになってしまった。


「……アメリア。僕との婚約を解消してくれ」


 ペレス侯爵家の嫡子であるカシアンは、あたかも正義を執行するかのような顔でアメリアを見据えていた。

 その隣には、彼の手を必死に握りしめながら震えている令嬢が一人。彼女は最近カシアンと親密な関係だと囁かれている、ターナー伯爵家に最近引き取られた庶子のエイブリーだ。アメリアより一学年下に、最近編入した。


 アメリアは手にしていた白磁のティーカップを、音もなくソーサーへと戻した。ゆっくりと背筋を伸ばし、扇を手に取る。

 カシアンの正義漢ぶった顔、そしてエイブリーの作られた不安顔。それらを感情のない瞳で見つめ返した。


「お断りいたします、カシアン様」


 我ながら驚くほど冷たい声が出た。その音に、周囲で昼食を楽しんでいた生徒たちの手が止まる。高位貴族同士の騒動は、最高級の娯楽だ。遠くにいる公爵令嬢ですら、この成り行きを何も言わずに見ている。彼らの好奇の視線が、アメリアに集中するのが分かった。


「君はどこまで冷酷なんだ! 僕は……僕は、エイブリーを愛してしまったんだ! 魂が共鳴する、真実の愛を見つけたんだよ!」


 カシアンは机を叩くほどの勢いで身を乗り出した。

 愛──その言葉が彼の口から出た瞬間、胸の奥で凍りつかせた感情に、ひびが入る。


「愛しているから……それが理由ですか? まあ……滑稽なことを仰るのですね、カシアン様。ご自分が五年前、私に何と仰ったかお忘れになったのですか?」


 こちらの問いに、カシアンは一瞬だけたじろぎ、しかし、すぐにキッとアメリアを睨みつけながら口を開いた。


「五年前のことなど関係ない! 今、僕の心は彼女にある。心のない結婚など、お互い不幸になるだけだと思わないのか!」

「いいえ。貴方が仰ったのです。五年前に『王侯貴族であるならば、気持ちではなく義務で遂行しなくてはいけない契約である』と」


 アメリアは、あの日、自分の心を殺した時のことを、鮮明に思い出していた。



 五年前の十一歳だった頃。この国を訪れていた隣国の親善大使のコリンズ伯爵一家を、アメリアのマーフィー侯爵家が接待することとなった。

 その息子であるアルフレッドはアメリアの三つ上で、知性に溢れた穏やかな面を持つ美丈夫だった。そしてまだ少女だったアメリアを一人の人間として尊重し、優しく接してくれた。


 彼と過ごした図書室での時間。庭園での散歩。

 それはアメリアの人生で唯一、自分の心が色鮮やかに輝いた時間だった。彼もまた、アメリアに心を寄せてくれたのだ。


 アメリアの婚約はこの時点で、まだ話が進んでいただけで成立していなかった。そしてアルフレッドに婚約者はいない。

 アメリアは勇気を振り絞って父である侯爵に訴えた。アルフレッドに恋をしたため、彼と婚約したいと。


 ペレス侯爵家との縁談に、特別な意味などないと聞かされていた。

 ただ家格が釣り合うからという理由だけで選ばれた相手。ならば、まだ変えられるはずだと、アメリアは信じていた。だからこそ父に縋り、ペレス侯爵家への訪問に同行したのだ。


 しかし、アメリアの期待は裏切られた。


「見苦しいぞ、アメリア。侯爵令嬢ともあろう者が、色恋ごときで家同士の契約を揺るがすとは。僕たちの婚約を、個人の感情などという不確かなゴミのようなもので汚すな」


 虫けらを見るようなカシアンの視線を、今でも忘れられない。ペレス侯爵もまた、その意見を支持した。まだ婚約は成っていないとしても不誠実であると。

 確かにそれは正論で、アメリアの父も強く言えなかった。


 慰謝料よりも両家の結びつきがもたらす利を断固として譲らないペレス侯爵家によって、婚約はそのまま成立することになったのだ。


 その日、アメリアは個人の心を仕舞い込んだ。貴族として感情を捨て、ただペレス侯爵夫人の座を完璧に務めるための人形となる──それが貴族としての義務であると。


 それからアルフレッドに会うことは避けた。コリンズ伯爵家が帰国する際も、アメリアは一度も彼の方を見なかった。見れば、泣いて縋ってしまいそうだったから。


 アルフレッドは三年前に結婚した。貴族である以上、未婚でいることは出来ない。それを最後に、アメリアは彼の情報を遮断した。思い出すことさえ辛かったのだ。


 そんなアメリアの気持ちになど寄り添いもしないカシアンは、アルフレッドに心を向けたことを事あるごとになじり、嫌がらせを繰り返した。



 それなのに──今、目の前の男は何と言っている?


「貴方は恋心を『ゴミ』と呼び、義務を全うしろと命じましたわ。貴方が他の女性と遊び歩こうが、私への贈り物を忘れようが、私は契約通りに婚約者としての義務を全うしてきました」

「……っ、それは……」

「それなのに……自分が恋をしたから婚約解消? 貴方にその資格はございません」


 ピシャリと言い退けたアメリアに、カシアンの顔が屈辱で歪む。形勢の悪さを悟った彼の腕をぎゅっと掴んだのは、エイブリーだった。

 弱々しく首を横に振る彼女の顔色は悪い。誰もがエイブリーが退室を促していることを理解したのに、カシアンはパアッと顔を輝かせながらアメリアを指差した。


「そうだ、アメリア! エイブリーに、陰で辛く当たっていたんだろう? 僕たちの純粋な愛を壊そうとした罪は重い! 嫉妬に狂った女など、誰が妻にしたいと思うものか!」


 アメリアはゆっくりとエイブリーに視線を移した。彼女の顔色は、青を通り越して白だ。

 きっとカシアンの気を引くために、嫌がらせを受けたなどと言ったに違いない。しかしアメリアの感情を、彼女はよく理解したようだ。


 分かっていないのは、愚鈍な婚約者のみ。


「当たってなどいませんわ。なぜ、そんな無駄なことをしなくてはいけないの?」

「だから、嫉妬から──」

「ホホホ。おかしなことを仰らないでくださいまし。嫉妬?」


 アメリアは心底おかしそうに、鈴を転がすような声で笑った。その高潔な笑みは、醜い言い訳を重ねるカシアンとの格の違いを際立たせている。


「カシアン様。勘違いしないでいただきたいのですが、私は貴方を一度も愛したことはありません。私の初恋を無残に捨てさせ、嫌がらせをし続けた貴方のどこに、愛せる要素があるとお思いで?」


 カシアンは、カッと顔を真っ赤に染めた。自分が愛される対象ではなかったという事実に、今更気付いたようだ。


 クスクスと、周りの子女からも笑い声が漏れている。

 カシアンは口を開いたまま、しばし言葉を失った。握りしめた拳が小刻みに震え、視線がキョロキョロと彷徨って定まらない。


 しかし、それまでの空気を引き裂くように、彼は叫んだ。


「き、君のような高飛車で、血の通っていない人形のような女と一緒にいたら、僕はいつか自害してしまうだろう! ああ、そうさ! 僕はエイブリーという心の拠り所がなければ、もう生きていけないんだ!」

「自害、ですか。本気で仰っているのですね?」

「ああ、本気だ! 契約など知るか! 僕は人間として、愛を選びたいんだ!」


 カシアンは叫び、エイブリーを強く抱きしめた。

 まるで、引き裂かれる悲劇の恋人たちのような体裁を取っているが、周囲の空気は冷ややかだった。義務を強いてきたのが彼であることを、もう誰もが知っている。カシアンの腕の中にいる、エイブリーすらも。


 長い沈黙が流れた。

 アメリアは、彼の見苦しい姿を瞳に焼き付ける。

 彼が酔いしれている真実の愛とやらが、いかに脆く、そして彼自身が作り上げた契約という檻の前に無力であるかを、知ることになるというのに……。


「……分かりました。これほどまでに婚約という契約を軽んじ、私を侮辱されるのであれば、もはや言葉を重ねる必要はありませんわね。私は侯爵邸へ戻り、しかるべき処置を取らせていただきます。失礼致しますわ」


 アメリアは扇子を閉じ、周りを見渡した。どちらに正義があるのかを、周りの子女たちは理解している。アメリアはその反応を見届けると、一礼して席を立った。


「ああ、勝手に行け! 父だって、僕たちの想いを知れば味方するさ!」


 背後で響くカシアンの勝ち誇ったような声を、アメリアは憐憫の情を持って聞き流した。


 彼は忘れている。

 五年前、絶望の淵にいたアメリアを縛り付けるために、彼自身が侯爵と共に作成し、国王陛下の署名まで求めた婚約誓約書の存在を。


 そこに記された不履行時の罰則が、どれほど苛烈なものであるかを。





 後日。ペレス侯爵家とマーフィー侯爵家、そしてターナー伯爵家を交えた、当主同士の話し合いが行われた。


 ペレス侯爵は最初揉み消そうと動いていたが、カシアンが喚いた場所は、高位貴族専用のテラス。しかも昼食中ということもあり、多くの子女がいた。

 彼らが皆、家に報告をしたため、ペレス侯爵家とターナー伯爵家には、沢山の抗議文が届いてしまった。その中には次世代の王妃となる公爵令嬢も含まれている。

 揉み消すことは出来ず、侯爵はカシアンを切り捨てることにしたようだ。


 父への謝罪のために呼び出されたカシアンは、侯爵に殴られて腫れた顔のまま、なおも愛の正当性を主張していた。しかし、誓約書の一文を見ると顔色が変わったらしい。


『一方的な感情の変化により、正当な理由なく契約の破棄を申し出た場合、その当事者は貴族籍を剥奪。全財産を相手方に賠償として譲渡し、平民として国外追放、あるいは辺境での強制労働に服するものとする』


 この条項は、かつてアメリアがアルフレッドと駆け落ちなどしないよう、カシアン自身が「念には念を」と追加したものだった。彼は、自分自身がその刃に倒れることなど、微塵も考えていなかったのだろう。


 その後、エイブリーを悪者にして自分だけ助かろうと喚く姿は、見るに堪えない見苦しさだったらしい。

 彼が愛した心の拠り所は、自分の地位と財産という土台があってこそ輝いていたものだったのだ。土台を失えば、その愛とやらは砂の城のように崩れ去る。


 カシアンは、一連の騒動によって家名を著しく損ねた責を問われ、王都への出入りを永久に禁じられた。さらに逆恨みの懸念も考慮され、北方の開拓地への転任を命じられる。事実上の追放だった。


 エイブリーは、カシアンを唆した虚言を潔く認めたことや、貴族籍を得て日が浅いことを考慮され、ターナー伯爵家の監督責任のもと、領地の僻地へ下がることになった。以後、社交界への出入りは生涯禁じられる。


 ペレス侯爵家も社交界で評判を下げ、当主は親戚に譲る可能性が高い。公爵家から目を付けられた現一家を、親族たちは許さないだろうから。


 それらの報告を受けても、アメリアの心は動かなかった。彼らがどうなろうと、過去に戻れるわけではない。



 アメリアの心はひび割れたまま、秋の長期休みが始まった。

 ペレス侯爵家への抗議を送った家に、礼の手紙をしたためていると、部屋に兄がやってきた。


「アメリア、まだペンを動かしているのか。少しは休みなさい」


 兄はそう言って、アメリアの向かいの椅子に腰を下ろした。その手には、見慣れない封筒が握られている。


「例の件、すべて片付いたよ」

「ありがとうございます、お兄様。お騒がせしてしまって……。彼は、もう発ったのでしょうか」

「ああ。彼は今朝、兵に連行されるように北へ向かった。馬車の中でずっと『こんなはずじゃなかった』と喚いていたそうだが、もう誰も相手にはしない。契約とはそういうものだ」

「そう、ですわね」

「……それよりも、アメリア。お前に渡さなければならないものがある」


 兄が机の上に置いたのは、一通の封筒だった。それを見た瞬間、アメリアの手から羽根ペンが零れ落ちた。


 白磁のような封筒に押された、深い紺色の封蝋。そこに刻まれているのは、五年前、アメリアが別れを告げた隣国の名門、コリンズ伯爵家の家紋だった。


「アルフレッド卿の……。でも、なぜ?」

「……アルフレッド卿はね、爵位を継がなかったんだ」

「……え?」

「弟君に後継を譲り、病弱な令嬢と婚姻を結んでね。夫人は看病の限りを尽くしたんだが、二年前に亡くなられた。卿は独身のまま、弟君の補佐をしているらしい」


 情報を遮断してしたせいで知らなかった事実に、アメリアは言葉が出なかった。知性と誠実さを兼ね備えた彼なら、当主として立派に家を継ぎ、その責務を果たしているものだとばかり思っていた。


「アメリア。彼の事情は、きっと手紙の中にある」


 アメリアの動揺と混乱を理解した兄が、手紙をアメリアの前まで滑らせた。

 震える手で封を切ると、そこには五年前と変わらない端正な文字が躍っている。


 綴られていたのは、五年前の別離から今日に至るまでの、アルフレッドのあまりに誠実で、切実な足跡だった。


 彼はアメリアを忘れられないまま、それでも家益を優先しなければならない立場から、白い結婚を条件に病弱な令嬢との政略結婚を選んだのだという。

 アルフレッドの妻となったその令嬢は、皮肉にも彼の良き理解者であり、胸の内にあり続けるアメリアへの恋心を応援してくれていた。

 思いのほか病の進行が早く、亡くなってしまった彼女への感謝と敬意こそあれど、アルフレッドの心がアメリア以外を想うことはこの五年間一度としてなかった、と、

 そして、アメリアの婚約破棄を耳にして、どうしてももう一度会いたいと願い、なりふり構わずこの筆を執ったのだと記されていた。


「なあ、アメリア。秋休みは気晴らしに、隣国へ行ってきなさい。父も母も、きっと賛成してくれる」


 涙の止まらないアメリアを、兄が優しく抱きしめてくれた。

 ひび割れた心から、想いが溢れてくるのが分かる。


「お兄さま……いいの、でしょうか。また……アルフレッド卿を愛しても」


 言葉にすると、もう、駄目だった。

 もう愛してしまっている。彼に、会いたい──その熱い想いが、涙として溢れ出た。


 そんなアメリアの手を、兄が引いてくれる。父の元へ、一緒に行ってくれるのだろう。


 窓の外では、秋の澄み渡るような青空が広がっていた。その空は、五年前のあの日──図書室で彼と見上げた空よりも、ずっと高く、どこまでも自由に見えた。


 アメリアは、手紙を胸に抱きしめたまま、確かな足取りで一歩を踏み出す。

 この秋休みの果てに待つのは、箱に閉じ込めていた過去の追憶ではなく、自らの意志で選び取る、輝かしい未来。


 愛されることを諦めた五年の歳月を越え、今、アメリアの本当の人生が、この高い空の下でようやく始まろうとしていた。






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