第9話 握手
散々美雨さんから帰宅ルート変更を言われていたのに、何故俺はここにいるんだろう?
結局、銀髪少女の事はなんとなく話せてないんだよなあ。
カマイタチの件で心配かけたから話しづらくなったし、一度きりの事だから、別にいいかと思ったしな。
昼に訪れた際も、別になんとなく一階の玄関から中に入っただけで、会おうと考えていたわけじゃない。
まあ、今持ってるペットボトルは未開封の物だから、俺がここに来ている事は、美雨さんにはわからない。この状態だとただの水だ。
封を開けることで、美雨さんの泉と霊的な繋がりが発生するのは、やはりボトルの結界を解くことで、中と外の世界との繋がりが必要という事だろうか。
このボトルを作ったものの、偶然による部分もあって、効果はわかるが、原理までは完全に解明できていないんだよなあ。
まあ封を開ければ、俺の周りの状況は彼女に伝わるけど、俺が呼ばない限り、美雨さんは原則その場に実体化する事はしないし。
それが、二人の間で交わした暗黙のルール。
美雨さんは、使い魔たるもの常に主人の傍に控えているものだと言うけど、俺にとっては、彼女は使い魔兼鬼コーチ兼魔法の師匠だ。そしてそれ以上に家族って意識が強い。
ま、例えるなら、とても優しいけど、いささか過保護な姉って感じ。とはいえ、不出来な弟的立場としては、若干のプライバシーも欲しいわけだったりする。
具体的には、ある雑誌をこっそり見てる後ろから、「なるほど、主の好みはこんな布の少ない水着の娘さんなんですか」等といきなりのぞき込まれて、その上ジト目で生温かく笑われるのはやっぱり恥ずかしい。
わかってる。でも開き直るには、もう少し経験値がほしいんだ。
まあそんな訳で、俺が望んでボトルを開けない限り、彼女がこの状況を知ることはない。
つまり鬼コーチにばれる心配はない。だからと言って、今夜もここへ来る必要はなかった。
そうなんだよ、そうなんだけど、な。
◆ ◆ ◆
俺が昨夜同様に九階のベランダを見上げると、やはり前回同様に座っている少女を見つけてしまった。
今夜も月光を浴びた白銀の髪が、緩やかに風に揺れている。
ああ来るんじゃなかったと頭を振りつつ、俺はどうしようかと悩む。
その時、彼女の視線を感じた。 歩道からこれだけの距離がありながら、彼女がまっすぐこっちの瞳を見ていることを俺は実感する。
それは何かを伝えたい、気づいてほしいといった類の眼差しだ。
……月の妖精に魅入られたのかもな。
俺はため息を一つつくと、筋力強化魔法の鍵語を唱えた。
少女は今夜、芥川龍之介の作品集を読んでいる。
「また来たのか」
俺の来訪がわかっていたかの如く、彼女は本から目線を上げない。
彼女の話し方を聞いて、たぶんこいつはいいトコのお嬢さんなんだろうと確信する。
そうでなければ、この偉そうな話し方に納得いかん。
「本、面白いか?」
「別に」
素っ気ない答えにすこし怯みつつ、結界を張って彼は隣のベランダから尋ねる。
「どの作品読んでるんだ?」
「或る旧友へ送る手記」
少女の応えに、俺はやっぱりかと思った。思ってしまったのだった。
そして変に正直なくせに不器用な少女を、なんとか説得しようと決めた。
「だから止めろって」
「なんで他人に自分の行動を決められねばならんのだ」
「袖すりあうも何とやらだ」
「無料相談の心理カウンセラーより薄い縁ではないか。その程度では私の意志は止められんな」
少女は妙に具体的な例を挙げて、俺を煙に巻く。
「じゃあどうすりゃいいんだ?」
こいつ絶対めんどくさいぞ、勘弁してくれと内心思いつつ、俺は問いかける。
「そうだな、私の下僕になれ。下僕の涙ながらの哀願なら聞くだけ聞いてやろう」
「断る」
昨日会った奴を下僕扱いって、お前はどこのお嬢様だ。里緒の家来といい、俺はしもべ属性でもあるのかと落ち込む。
「では、私の部下ではどうだ。社畜級部下のプレゼン提案ならば、上司の私も出来によっては採用を考慮してやらんこともない」
「なんで上から目線ばっか?」
納得いかない俺に、呆れた様子で息を盛大に吐く少女。手の平を上にして首を竦める姿は、可愛いと言えなくもない。
「わがままな奴だな」
「おい!?」
だが俺はさすがにムッとして少女を見る。
そんな俺の様子に頓着せず、少し考えてから彼女が三度発言する。
「しょうがない。じゃあ限りなく譲歩した結果として」
「そういう話か?」
「……友達でどうだ?」
俺は目を瞬きながら月の妖精の顔を見直すが、彼女の表情に変化はない。
「……友達が止めたら聴くんだな?」
ゆっくりと息を吸い込み、確認する俺。
「友達からの真摯な願いなら無碍にもできまい」
「わかった。今から俺たちは友達だ」
俺は、音も立てず少女と同じベランダの上に飛び移る。
そして、前髪で瞳が見えない横顔を見つめながら、真剣に言った。
「だから自殺をしないでほしい」
俺の言葉を聞いた後、しばらく少女は無言だったが、ふっとため息をつく。
我知らず、俺はその薄紅色の唇のうごきに一瞬見とれてしまった。
やがて彼女の口元が、いたずら小僧の笑みの形に変わっていく。
「しょうがないな。友達のわがままは聴かねばなるまい」
それを聞いた俺は、頭痛がしそうな気分になる。
「ああ、もう俺のわがままでいいから。だから聴いてくれ。ついでに自裁した作家が、友人に宛てた遺書とか読むのもやめろ」
なんで関わってしまったのかと、昨日の自分を心の法廷に引き出しながら、俺は少女に目をやった。
少女は、再び薄っすらと微笑みながら、交渉締結の証とばかりに握手を求めてくる。
そして彼女は自らの名前を告げた。
「私は桜だ」
俺はあまりに小さくて冷たい手をそっと握る。
桜が俺の道程にどんな轍を描くかを考える事もなく。
だから主はとり頭なのだと使い魔に叱られる事も想像せず。
俺は返事を返した。
「涼平だ」
こうして、二人は出会った。
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