第77話 アスレイの脱出
砂漠のバザールはなし崩しに終了しようとしていた。主催の魔法結社S&Eは、現在置かれた状況を淡々と周知し続ける。
それによると、転移用の大規模魔法陣が突然崩れ去ったらしい。
また、その余波で周囲の砂嵐の付与魔法も停止してしまったとの事。
アスレイは唾と一緒の砂を吐き出しながら、徐々にひどくなる風に顔をしかめた。
天幕群の隙間を抜けていく強風は、正面から受け止めるにはいささか厳しいほどだ。
防護魔法の砂嵐は、会場の内側をほぼ無風の状態に保っていたが、それ無き今、魔術の揺り返しによる風が四方から吹きつけているのだ。
「早く動きやがれ」
アスレイは口に布を当てずには歩きにくい中、避難用転移魔法陣を使う人々の列に目立たぬように並んでいた。
本当は押し退けて前に行きたかったが、S&Eの案内兼警備員がそこかしこに立っているので、揉め事は得策で無いとの判断による。
「くっそ。なんで俺はいつも酷いめぐり合わせになるんだ」
彼はフードを深く被りながらいつもの様に毒づく。
この自己中心的な魔術師にとっては、今回の事は全て相手側に問題があって、自分はそれに巻き込まれたという認識しかない。
もともとの自分の所業が呼び起こした負の連鎖でこの場所に来る破目になったとは全く考えていなかった。
「大規模魔法陣が壊れたのは、運が良かったがな」
これであの闇の杜に戻らずとも、空港から自分のアジトへ帰れるとアスレイは胸をなでおろしていた。
若造やクソ餓鬼への復讐は必ず果たすが、それはブラックマーケット手に入れた新しい魔法具に慣れてから、じっくり作戦を練ればいいのだ。
「次に会う時はほえ面かかしてやるぜ」
目の前で拳と掌を軽く打ち合わせ、どう苦しめてやるかと想像を逞しくしながら、なにげなく崩落現場の方向を見る。
ここからはかなり距離があるはずだが、粉塵の雲が落ち着かない所を見ると、相当な陥没だったのだろう。彼は悪寒がして無意識に震える。
「危うく死ぬとことだったぜ」
フードの影で顔に流れる汗は、熱さによるモノとは違う。
今回の事故原因は、S&Eによると調査中だが、すでに魔術師の間ではブラックマーケットがらみの揉め事だという情報が出回っていた。その事情通達の話によれば、大勢の死者が出たらしい。
アスレイは、直前まで地下の市場に居たので、一つ間違えば大きな墓穴に入っていた恐怖に今でも背筋が寒くなる。
だが、と生来臆病者の彼は自分を元気づけようと無理やり笑う。
「俺は助かった。つまり俺は運がいいって事だ」
風の影響で所々途切れがちな主催結社のアナウンスが新しい内容になった。
臨時傭兵の募集をしている。内容はこの非難用転移魔法で参加者が空港都市へ行くまでの警護だとの事。
雇用期間の短さと高額報酬を聞いて彼の食指はずいぶん動いたが、すぐ前の魔術師から会話が漏れ聞こえてきたので耳をそばだてた。
「あんなのに躍らされる奴はバカだぜ。ここの避難が済むまでの使い捨ての壁なんだからな」
物知り顔で一人が否定する。それに答えた商人風の男も追加の情報を洩らした。
「ああ、外に集結してる犯罪組織は、普段とは比べ物にならんそうだし」
風音で、この剣呑な話が周囲に広がることはなく、長い列の前後からは何十人もの人間が抜け出し、主催結社の天幕に向かいだした。傭兵仕事に応募するのだろう。
アスレイは「こんな話を耳するとは、俺はやはり運がいい」と思いながら、少しでも前に行こうと列を詰める。死にたい奴は勝手に死ねばいい。俺はなんとしても生き残るぜ。
傭兵仕事を拾いに行く愚か者を蔑みながらふと見ると、さっきの商人頭の上に小さいモノがいた。
砂粒が入るのを避けるため目をすがめながら、アスレイはそのモノを見つめる。
それは最初商人のターバン風の帽子に付いた房飾りに見えた。青いフサフサの毛が天辺にぴょこんと立っている。そう、立っているのだ。
だがその青い毛の塊からはなぜか四足が生えていた。長い尻尾と頭もある。アスレイは亜米利加で狩った狐を思い浮かべたが、それにしてはずいぶんと小さかった。
彼と目線が合ったそのモノはいきなり前足を振り出した。まるで誰かに合図でも送るように。
嫌な予感がして青狐の動きを止めようと手を伸ばした。その仕草に反応したのか、狐はアスレイの瞳を覗き込む。
次の瞬間、灼熱の大地で熱せられた体が、一瞬に凍りつく錯覚とともに氷の声が鼓膜に突き刺さった。
「アスレイ・チャック・タカナカ。四十二歳。亜米利加出身。修了魔法学舎はハーストビル。師匠はジョーイ・スミス。修了成績は銅の四位。得意分野は四大精霊の風性」
自らの情報を開示される事にアスエイは虫唾が走っているが、振り向く事どころかぴくりとも動けない。
雪の女王の冷徹な声が、アスレイの生理反応すら越権行為であるかの様に、耳から脳へと待て!と命じているからだ。
驚愕によるものか、恐怖によるものか。いずれにせよ自分の体の自由がきかない。
続けて彼の悪行を明らかにされていく。声は先ほどの青いモノを通じて直接耳に響いてくる。
今やアスレイは、その狐が誰かの使い魔か式神だと悟っていた。
「魔法具強盗として確定十四件。推定六件。死亡した被害者は五名。確定には日本の二件も含める。ハーストビル魔法学舎倫理委員会から四年前に重矯正指導の指示」
アスレイは自分の意思とは別に列から離れ、斜め後ろの天幕の陰へと体勢を向ける。その途中で商人の頭から飛び移った青い狐がアスレイの頭のフードの上に着地した。
アスレイは払いのけてやりたかったが、自分の両手はただ行進するかのように規則正しく前後に振られ、背筋を伸ばして歩を進めるばかりだ。
天幕を回り込むと、そこには三人の人間が立っていた。三人ともフードを被っているが、背格好から一人は少し腰をかがめた老人、隣が胸の豊かな女性、最後の一人は少年か青年だろうと推察した。
だがさらに近づいた時、アスレイは何が起こったのか混乱の中でも察知した。少年の魔力の残滓に記憶があったのだ。いや、むしろ鮮烈に記憶していた。
病院のベランダで時折この若造が使う魔術式から放たれる彩りは、忘れようにも忘れられなかった。
あの少女や魔法具への渇望とは別にアスレイを捕らえて話さなかった感情。
自分とは桁違いの透明度と光沢を放つ純粋な魔力。その差を見せ付けられ、たぎる嫉妬に臓物が焼けるようだった。
ぎりぎりと歯を軋らせるアスレイに向かって、少年が声を放つ。
「よう。今度は俺から呼ばせてもらったぜ」
その瞬間、アスレイは自分が脱出に失敗したと理解した。