第71話 朝の境内にて
神社の朝は日の出前から始まる。山奥のこの村は海辺に比べ朝日が届くまで少し間がある。地平線を山の稜線が遮ってしまうので、谷底の村にはすぐに陽が差さないのだ。
だが毎朝、潔斎精進することは神職の努めであり、たとえ冬の底冷えの日でも、変わりはない。
楓はしもやけだらけの手を白い息で暖めながら、神社の山門を過ぎた辺りの手水舎に向かう。
このどっしりとした風格の山門は山城の大手門の役割も兼ねていたとあって、黒い板塀と白い漆喰が、風雨に晒されながらも、その押し出すような威風を保っている。
まだ凍ったような大気に、板の表面には薄く霜がつき、足元の石組みの周りにも霜柱が立っている。しかしそんな寒さに震えるでもなく、まるで地に根を張ったごとき落ち着きは、楓にとって頼りになる門番の様だった。
「あんたたちも門番ご苦労様」
対の狛犬にも声をかけ、持ってきた布で軽く汚れをとる。
毎日磨いているので、雨でもなければそうそう汚れがつきはしない。
ただ子供の頃からの修行のための掃除は、いまや自分の体を目覚めさせる手順になっていた。
楓には鼻づらをぬぐってもらった狛犬が、なんとなくさっぱりした顔をした様に見えた。
やはり手水舎内の手洗い場へ貯めた水も、氷点下の気温に凍っている。
彼女は御影石の水盤に張った氷を柄杓で割った。ぱきりぱきりと気持ちの良い音を聞くと、冬の朝らしくて楓の背筋は自然に伸びるのだ。
でもこれだけ寒いと今夜あたりは雪になるかもしれないなと、急遽しなければならなくなった明日の儀式を思い、彼女は眉をよせた。
そして手水舎の柱を磨きだした彼女の目に、山門を通って境内を歩いてくる聡の姿が映った。
「あら、兄さん早いわね」
妹のからかうような声に、聡は清々しい顔で挨拶を返す。
長い石段を上がり体温が上がった体からは、着物を通じた熱が外気に触れて、湯気のような揺らめきが上がっている。
逆に彼の顔は冷たい空気の中で、くっきりとした笑顔だった。
「おはよう。でも俺だってこの時間には起きてるぞ」
そう反論する兄に、楓も笑いながら答える。
「ごめん。昨晩は大黒屋に泊まったんでしょ?博士と飲む事になったって電話で聞いたから、二日酔いで寝坊するのかと思ったのよ」
「確かに昨晩は痛飲したから、博士はまだ宿で眠ってるよ。昼過ぎには来るんじゃないかな」
聡はちろちろと流れ落ちる、井戸水からくみ上げた出水口から流れ出す水を柄杓に貯め、口にあてて澄んだ冷水を飲んだ。
「やっぱり、冷たいなあ」
当たり前の事を感想をもらす兄の顔つきが、楓には昨日までとどこか違う様な気がした。
まるで憑き物が落ちたようなさっぱりとした兄の顔。
近年消える事の無かった眉間のしわがほとんど目立たない。
「兄さん、何か良い事でもあったの?」
そんな妹の問いに、聡は内心驚きながらも昨晩の誓いには触れず、「どうして?」と問い返す。
「どうしてといわれても困るけど、なんとなく兄さんの顔が明るいから」
楓は水盤の石の下を布でこする。
聡はいつもながらの妹の敏感さに感嘆しつつ「ここへジョージ博士をお連れできたのが嬉しいからかもな」と答えた。
これは嘘ではない。真実、博士をここへ呼んで実験への積極的な協力を取り付けたかった。それが叶ったばかりか、彼の弟子になる事もできた。
博士は一介の魔術師ではない。亜米利加魔術師学会で影響力のある存在だ。しかも大学で博士の生徒や研究スタッフは沢山いるが、魔術師マーク・ジョージの弟子は十数人ほどだと聞いている。
聡はそんな光栄な弟子の一員になれた事が誇らしかった。だから心の高揚が表情にでたのだろう。
「これからは、この村も変わっていくよ」
自信に満ちた聡の言葉に、楓は逆に不安を覚え、あえて釘をさす。
「兄さん。昨日博士も言っておられたでしょ。焦りは禁物よ」
「ああ、わかっているよ。地道な方法も考えているよ」
聡は妹の心配顔に上機嫌で答える。
実際、昨晩師匠となったジョージに、この村の現状について改めて相談したのだ。
「ふむ。聡が村の復興を願って神の顕現に取り組んで来た事は知っているが、確実ではない。それより、私が亜米利加の仲間にこの素晴らしい霊場についてしっかり宣伝してあげよう」
そう語る師匠のプランはこうだ。
もし神降ろしがすぐに成功しなくとも、これだけの霊場なら世界の魔術師が癒しを求めたり研究のため見学にくる。
魔術師の中には、旅行会社と組んでパワースポット調査をしたり、メディアに記事を書く者もいる。
だが、問題はその信用性だ。世の中にパワースポットを称する場所は多いが、実際眉唾物も数限りない。
その点、御山に宿る霊性に感動したジョージ博士が、知り合いの魔術師仲間に訪問に値する場所だと推薦してくれればこれは大きな後ろ盾になる。
「これだけ神気に溢れた土地が手付かずなんて信じられないよ。きっと世界中からスピリチュアルな物を求めて大勢の人が集まるぞ」
そうなれば日本より早く世界でこの地域が認められる可能性も高くなる。
そして亜米利加のお墨付きがあれば、日本がその評価を丸呑みする事は想像に難くないだろう。その結果日本の観光客も大勢やってくるに違いない。
「これで聡のホームタウンも賑わう事間違いなしだ。村の皆さんにいろんな国の挨拶を覚えてもらわないとな」
ミス桜は私専門の通訳でたのむよ、そう言って師匠は大きな笑顔で、聡の背中を強く叩く。
聡は心から感動していた。何年かかるかわからないイチかバチかの方法以外に着実な手段も欲しかったからだ。だが、行政すら手に負えない過疎化にそんな当てはなかった。
しかし師匠の名声をもってすれば、世界にいる魔術師の重鎮達も耳を傾けてくれるに違いない。
魔術師が集まるほどの霊場なら、噂を聞いた一般の人々が押し寄せてくるだろう。
しかも実際に素晴らしいパワースポットなのだから、みんな満足してくれるはずだ。
そしてこれも全て、聡が彼の弟子になったからこそ可能になったのだ。
共同研究者としてのジョージ博士は、面倒見のよい教育者だったが、個人の願いに耳を傾けるより、自らの研究を優先する学者の立場を崩さない。
だからこそ、ここへ来てもらうまでに長い説得の時間を必要とした。
しかし師匠としてのジョージは、弟子の聡の苦悩を自分の物として積極的に動く事を約束してくれる。
「俺もいつか、師匠に恩返しをしたい」
自分の決断が問題解決に向かう道を生み出したという充実感と、それをもたらしてくれたジョージ師に対し、聡の中に深い感謝と尊敬の念が植えつけられていくのだった。
「それならいいわ、今朝はそれどころじゃないし」
楓は兄の上機嫌にそれ以上構わず、腕を組んで考え込む。手に持った布を握ったり緩めたりする動きが、彼女の思考の波の様だった。
「どうした? 何かあったのかい?」
どこか焦った様な妹の仕草に、今度は聡が質問をする。
「昨日は桜が死んじゃうって大騒ぎだったでしょ。落ち着かせるのに苦労したんだからね」
さらりと桜の危機を話す楓に、彼は険しい表情で問い詰める。
「桜は病院か!? なんでお前こんな所にいるんだ?」
兄からいきなり叱責されて楓は話がわからず、逆に彼に尋ねかけた。
「何を言って……ああ、そうか、兄さんは昨日家にいなかったんだっけ」
楓は納得したように頷くと、誰も聞いていないか周りを確認してから声を小さくして答える。
「桜が昨日女の子になったの」
「え? 桜は女の子だろ?」
聡は最初言われた意味が分からなかったが、数瞬後はっとしたように反応した。
「女の子って初潮の」と言い直した間抜け顔の兄を、楓はさっさと遮る。
「はいはい。もういいわ」
そして兄の顔を正面から見据える。
「だから、最初の満月の夜に社殿で儀式をしなくちゃならないでしょ」
妹の説明を聞いて、聡は桜の身に危険がないとわかって安堵する。
「ああそうか。いよいよ桜も巫女になるのか」と感慨深げな兄を馬鹿にしたように見る楓。
柄杓も全て洗って、さっきとは別の布で水気を丁寧にふき取る。
「これだから男は。兄さんも大爺や父さんと同じ反応ね」
そして感の悪い男達を苛々した態度でまとめてけなす。
「何を怒ってるんだ? 桜だって巫女になりたがってたんだから問題ないだろ?」
聡のピントはずれな疑問を切って捨てる楓の顔は、有名私立へお受験に行く、面接直前の母親だ。
「だからっ。最初の満月って明日なのよ!」
小声のままびしりと言われ、聡もやっとその意味がわかって焦り出す。
「お、おい桜の準備どうするんだ。奉納舞とか教えてあるのか?あ、あと祝詞も暗記しといた方がいいんじゃないか?それに神女の儀式は特別な祈祷の作法が……」
聡は顔を意味無く左右に動かし、両手の挙動もどこかおかしい。
下手なパントマイムを見ているようだ。
いきなり娘から結婚相手を紹介された父親もかくやという、見事なまでの兄の狼狽ぶりに、しかめっ面だった楓は我慢できず笑い出した。
「もう、兄さんが慌ててどうするのよ」
「しかし桜の初めての神前儀式、しかも神女の儀式なんて一生に一回だろ。しくじった桜が意地悪されて、加護を得られなかったらどうするんだよ!?」
神主とも思えぬ罰当たりな発言に気づかず、聡は楓の肩に右手を置きながら話す。
「よし、今から明日の儀式について大爺や父さんと打ち合わせてくる。楓は母さんと桜の準備を頼むな」
「兄さんはジョージ博士のお世話があるでしょ」
楓は張り切って走りだそうとした兄に、呆れた顔で指摘する。
「そ、そうだな。し、博士にはこちらから事情を連絡しておくよ。なにしろ桜の晴れ舞台だからな。きっちり成功させてあげなくちゃな」
それ以上は話す時間ももったいないとばかり、自宅に向かって駆け出した兄を見て、楓はやれやれとため息をつく。
今日は桜の家族にとって、嵐の様な一日になりそうだ。
もちろん楓にとっても嬉しい忙しさだが。
「桜の巫女としての力が示される……」
それは母の楓にとって不安なような楽しみなような複雑な気分だったが、彼女は桜の霊力に疑問を持っていなかった。
「ふふ。親ばかってこういう事よね」
自宅からは微かに大爺達の声が聞こえてくる。ここまで届くぐらいだから、きっと三人とも大声でわめき合っているに違いない。
「大爺も父さんも、兄さんまであんなに気合いれちゃって。桜、これは私と母さんがしっかり捌かないと、男連中は空回りして役に立たないかもしれないわよ」
その時独白した楓を照らすように、朝日の輝きが山門の中央から境内へと抜ける。村の朝はようやく始まったばかりなのだ。