第7話 幕間:桜と月夜の夢 邂逅
この部屋を対象とした監視システムは二日前に撤去させた。
小さな本棚やぬいぐるみの中にある隠しカメラの類も同様に指摘したので皆驚いていたっけ。
母様のお守りのおかげで、私へ向けられる気配は機械を通じてでもわかってしまうから、見落としはないと思う。
ようやく五年ぶりに完全なプライバシーを手に入れることが出来た。
なのに、私は逆になんとなく気詰まりになった。
だから夜になって皆が寝静まると、気晴らしにベランダで外気を吸ってみようと立ち上がった。
ほんのちょっとなら部屋から出ても大勢に影響はないだろう。
胸のお守りを握って窓際へ歩いて行く。窓枠にある暗証番号式の開閉ロックを、私がはずせるとは誰も気づいていない。
だてに長い間、皆の様子を伺っていたわけじゃないんだから。
私はちょっと得意になりながらベランダへ出た。
夜空にあるのは三日月、冴えた銀色で全てを照らしてとてもきれいだった。
私は、これぐらいの明かりがあれば、月光の下で読書するのもいいかと思い、本を持ってベランダの手すりの上によじ登り始めた。
その時、外というか下から私への視線を感じた。
また監視かとうんざりしたけど、見上げているのは高校生ぐらいの男の子だった。
私は人一倍、いや三倍ぐらい夜目がきくので見わけたけど、普通の人が建物の九階から地上の彼をみたら、ただの黒い棒だと思ったかもしれない。
何しろ、黒髪に黒いシャツと黒のジャッケット。ブラックジーンズと黒のスポーツ靴。
鞄まで黒って……まさに全身黒ずくめ。怪しい人が一丁出来上がりって感じ。
警備員に連絡したほうがいいのかなと考えていると、彼はいきなり歩道から柵を越えこの建物の敷地に入り、常人とは思えない速さでこちらに近づいてきた。
さらに凄いことに、背の高い銀杏の木に飛びつくと、一段と高く跳躍した。
そこから建物の壁を蹴ってどんどん跳ね上がり、私の隣のベランダ枠まで到達したのだ。
九階までほぼ垂直に。
この間、まったくと言っていいほど彼の足音は聞こえなかった。
私はとっても驚いたのに、何故かそんな表情を見せるのが悔しい気がして、遠くを眺めながらわざとそのままの態度で足をぶらつかせた。
すると彼が言ったのだ。
「おい、止めろ」と。
そこで初めて彼の顔を見た。
正直彼の顔に惹かれるような強い印象は無かったな。
不細工ではないけど、美形というほどではないよね。どっちかと言えば可愛い系だと思う。
左目の黒曜石の様な、深い闇色は綺麗だったけどね。
ところが、やや長い右の前髪の奥に輝く金色の瞳を見た瞬間、考えていた事は彼方に去り、その光に私の全ては吸い寄せられてしまった。
月の明かりを断ち切る真っ黒な影の如く、ベランダ上で片足を立てて跪いている彼。
その顔は今は無表情だけど、煌く黄金の虹彩は、彼が本来感情豊かであることを教えてくれる。
その金色の世界に包まれたい気分になりながら、ふいにわかった。
私が何故さっき悔しい気持ちになったのか。
彼のしなやかで黒豹の様な身のこなし方に、思わず見とれていた事を彼に知られたくなかったから。
最初はこんな階までこんな方法でやって来る彼の事が聞きたかったんだけど、私は普通に人と話すのが楽しくて、忘れてしまった。
そしてそれ以上に「止めろ」と言われたのが嬉しくて、ついからかってしまった。話してみると気さくな感じで、最初に抱いた警戒心は無意味だとわかった。
でもやっぱり、彼はその瞳で私の迷いを見透かしていたようだ。
「……おれの思い違いか?」と尋ねられた瞬間、これ以上知られるとこれからの私のわがままを邪魔されるようで、追求される前に急いで話を終えて逃げた。
彼が去ってからも布団をかぶり、しばらくすると少し冷静になった。
そうするともっと話せば良かったと後悔したけど、2日前に私のわがままを通したおかげで昨夜彼と出会ったんだと思う。
わがまま言って良かったよ。ふふ、そして昨夜の事も一夜の夢の話としては悪くないよね。
朝起きたときの変わらぬ周辺の様子に、もしかしたら本当に幻だったのかもと思ったぐらい。
ところが午後も大分回った時刻、何気なく外の景色をみていら、彼を敷地内の小公園で見つけた。
いや、ただ少し話をしただけの他人だし、と独り言を言いながら、彼の動きを目で追っている私がいる。
勝手に入って歩き回って、何をしていたのだろう。時々立ち止まっては辺りを見回している。
私は夜目がきくかわりに昼のまぶしさが苦手なので、もっと良く見ようと首を伸ばした瞬間、不意に彼が見上げるから気づかれたと思って思わずしゃがんでしまった。
別に隠れなくてよかったのにな。
カーテンを開けててもミラーガラスなんだから、向こうからは見えるはずがないし。
そうしたら、彼が一階の玄関から中へ入っていったので、ここに来るかもしれないと意味もなく緊張してしまった。
結局そのまま帰ってしまったけどさ。まあ、訪ねて来ても会えるわけじゃないけどね。
そのくせ、自分が思ったよりがっかりしている理由が分からなくて戸惑ったけど、彼が夢の中の人物じゃないことがわかったので、それだけでも良かったな。
私は、ベッドに腰掛けながら、昨夜の二人の会話を何度も繰り返して思い出す。
楽しかったな……ほんと楽しかったな。