第65話 呪文斉唱と商人達
ギリアムは天幕を出ると、俺と美雨を引き連れて、バザールの中央に向かっている。
「どこへ行くんだ?」
俺の問いにも「黙ってついてくるんじゃ」と答えない。
その背中は一切の質問を拒否しており、会話好きな老商人とは思えぬ妥協の無い態度だ。
ギリアムの天幕はバザールの会場ではずいぶん端の方に位置にある。
昨日の夜の様に気温が下がっているならともかく、この灼熱の中バッグを背負って歩く俺は、体中の水分がどんどん汗になって蒸発していた。
気になって隣のフード姿の美雨をのぞくと、すでにスライム並みに駄目駄目な状態だった。
「師匠、大丈夫ですか?」
俺に尋ねられた彼女は、すでに答える元気も無いようで、弱々しく片手を上げて、気にするなという仕草をした。
前を進むギリアムも、当然美雨の状態は知っているはずだが、無視しているらしく声をかけはしない。
しばらく進むと、俺はどこに向かっているのか予想がついた。
なぜなら、魔術師のバザールに来るために誰もが使う場所で、今回俺達も使用したからだ。
そしてギリアムが足を止めたのは、やはり大規模転移魔法陣だった。
「これを持つんじゃ」
老商人から一人づつ小さなコイン大の金属を渡される。一見なんの変哲もないその銅の円盤には、ここの転移魔法陣と同じ図柄があるだけだ。
「これを握りながら、自分が来た場所へ帰る共通の帰還呪文を詠唱するんじゃ」
そう言って、彼自ら早口に呪文を唱える。その瞬間、老商人の姿はバザール会場から消失した。
「どうしますか?」
汗だくの美雨が耳元で確認してくる。うだる暑さにその声まで氷が解けて温くなった水の様だったが、思考は鈍っていない。
二人ともギリアムの行動から、今から行く転移先がブラックマーケットの入口だと推測していた。
「行くしかないな」
俺が返事をすると、美雨は頷いて銅貨を持たない方の指で涼平の手を軽く握る。
「久しぶりに呪文斉唱の復習といきましょう」
教師の顔でにっこりと笑う美雨はどこかいたずらっぽい。
「転移先で手が離れていたら、失敗って事か」
呪文詠唱の旋律を叩き込まれた幼少時の思い出が甦って、俺も苦笑する。
同一呪文の同旋律詠唱。
ズレが大きければ、魔法の発動時間や効果にも影響する。
昔は美雨が幼い俺のレベルに合わせて、繰り返し練習したものだった。
「では基本タイミング、広義斉唱で」
首肯する俺を見て、美雨がコインを握った人さし指を四拍子でふり始める。
その繰り返しの三巡目、二人は揃って帰還呪文の詠唱を始めた。
男女のオクターブの違いから言えば純粋な呪文斉唱ではないが、二人ともこの転移魔法程度なら、発動結果に差は生じないとの判断だ。
単純に言葉を唱えるのとは違う、旋律に乗った呪文が音楽となって周囲に流れる。
その音に気づいた魔法陣の人々が、詠唱者を探し出す前に二人の姿は消え、その場にいた者の耳には心地よい調べの印象だけが残された。
結果からいうと俺達の推測ははずれだった。
転移先の場所は、何処かの山の中だった。太い針葉樹が天高く伸びる山肌は、欧州の北方山林地帯を想像させるが、それが正しい直感かどうかはわからない。
「涼しいですね」
気温は低く、さっきまでの高温が嘘の様だ。空気にも水の匂いが混ざっており、美雨もゆっくりと元気を取り戻していった。
繋がったままの俺達が周囲を見回すと、少し離れた上方に老商人の姿が見える。
下草や枝で道もないような斜面を登って、ようやくギリアムの所にたどりついた。
「師匠、倒木が半分埋まっているから気をつけて」
俺がまだ回復途中の美雨を引っ張る形で老人の前に立つ。
「遅い」
その森の中で待っていたギリアムは現れた師弟に一言文句を言うと、二人の返事も聞かず足早にその脇にある洞窟へと入って行く。
俺達は顔を見合わせながら、繋いだ手はそのままに後ろへ従う。
狭い洞窟は薄暗かったが、差し込む日光のおかげで、物の形は分かる。
すぐに行き止まりになった洞窟の足元が、それまでのごつごつと不安定な感触から平らになったため、視線を下げる。
そこには加工された石版が敷かれ、またもバザールと同じ転移魔法陣が刻んであった。
「この上で、今度はバザールへ行くための共通転移呪文を唱えるんじゃ」
ギリアムは先ほど同様に唱えて行ってしまう。
俺達も、ここまで来たからには後に引くつもりは無い。
そして呪文斉唱を再び行い、次の場所へと転移した。
「爺さん。真っ暗なんだけど」
「黙っておれ」
新しく転移した先は、自分の指先も見えない程真っ暗だった。
これは魔法による盲目効果が影響を与えている事は明らかで、自分達の身を守る意味で確認する必要がある。
「だけどさ」
「静かにしておれ。向こうがわしらを調べる間の事じゃ」
ギリアムに叱られて口をつぐんだが、ブラックマーケットの噂を聞いている俺は、いざとなったら美雨を守って強行突破するつもりだった。
その思いが動きにでたのか、美雨の手の平を握った力が少し強くなってしまった。
そんな主に使い魔は何も語らず、ただしっかりと握り返してくる。
そこから伝わる信頼。俺は平静さを取り戻そうと努めた。
突然、闇が四角い形の光で切り取られる。
眩しさに目を覆った三人に、その光の中から穏やかな男の声がかけられた。
「お待たせいたしました」
ゆっくりと瞳が通常へと戻っていき、周りの色と形が識別できる。
三人は、大きな砂岩の部屋に入っていた。床にはやはり転移魔法陣。
部屋の中には何も無く、ただの箱だった。
そして石の扉が開かれた先には、ぼんやりと光る目隠し布が見える。
さっきはあんなに眩しかったのが嘘のようだが、盲目魔法との落差と考えると理解はできた。
その魔法も部屋の開閉が付与魔法の発動、解除の条件になっているのか、効果はすでに無い。
ギリアムが男に挨拶がてら苦情を言う。
「今回はまた長く待たされたもんじゃ」
「申し訳ありません。ギリアム様が部下の方以外をお連れになるのは久しぶりでしたので、慎重になってしまいました」
東洋系の中年男性は老人に謝罪すると、丁寧な口調で涼平達にも挨拶を行う。
「魔術師ミューズ・ラベール様、弟子のティン様ですね。ようこそおいで下さいました。闇市場は、お二人を歓迎いたします」
慇懃に腰を折る男の天幕の上には、ここからは見えないが黒蓮の旗があがっているはずだった。
◆ ◆ ◆
「それにしてもラベール様はお美しいですね。これほどの美貌をお持ちの方を最近拝見する事がありません」
接客の間に案内された三人は、簡素だが品の良い調度の部屋で、男の商人からお茶を供されていた。
男の賛辞に合わせて髪を軽く梳く様な仕草は、普段の美雨には似つかわしくないが、初対面の相手にはわからない。
そして砂糖抜きのお茶をすするギリアムの横で、程よい甘さを頼んだ俺と美雨は、程よいどころか激甘の味に衝撃を受けていた。
「極東の方はお茶に砂糖をいれないとお聞きしていたので少なめにさせていただきました」
男の説明にさらに驚くが、無言で少しだけ口に含む。当然俺の右目で、ただのお茶という事は確認ずみだ。
「なぜ自分達の名を知ってるのか?」という美雨の問いには、「闇市場ですから」とだけ答えた男は、感に堪えないように美雨を賛美する。
もちろん商人の褒め言葉など、たいした価値はない。
ただ俺の見るところ、本当の美人をそう評価するだけなので、相手も気楽な様子だったのは確かだ。
「もうそれくらいでいいじゃろう」
ギリアムも彼の賞賛の言葉に飽きたのか、苦笑いしながら口を挟む。
「それよりあんたに聞きたい事があってきたんじゃ」
その口調は変わらないが、すでに裏商人特有の鋭角な表情だった。
「魔術師のバザール随一の情報網をお持ちのギリアム様からご質問をいただくとは光栄です。お得意様でもございますので何なりとお尋ね下さい」
男の如才ない返答に、老商人は「そうか」と返しずばりと核心の質問をする。
「闇市場では、ある品の情報を抑えとるのか?」
男はギリアムから視線をはずし、薄く笑みを浮かべ否定する。
「そんな話は聞いておりません」
「うむ」とギリアムも会話を流すが、男がわざと視線をはずしてくれた意味を見逃したりはしない。
「やっぱり噂か。まあ、夢物語に過ぎんしのう」
老人が訳知り顔で言葉を継ぐと、男もその会話に乗ってくる。
「参考までにどんな品の話かお教え下さいますか?」
「毎年偽物がでてくるじゃろ? 万能薬じゃよ」
興味が失せたかの如くあっさり薬の名を明かすギリアム。
俺は心中「爺さん。ネタバレすんの早すぎだろ」と突っ込むが、事前に三人で相談して、交渉はギリアムに任せる事に決めていたので、二人は無言のままだ。
しかし万能薬と聞いても中年商人はなんの変化も見せず、お付き合い程度の返事をするだけだった。
「なるほど。求める方は多いですが、本物があったためしはありませんね」
「お茶のお代わりは?」と三人に尋ね、全員が首を振ると男は自分の器にのみ注いだ。
「たとえ存在しても値がつけられんじゃろ」
そんなギリアムの言葉ににやにやと笑いあう根っからの商人達は、どうも俺達が理解できない所で情報の交換をしているらしい。
「そうですね。私どもの店に質草として持ってこられてもお預かりできかねるでしょう。迷惑な話です」
男は両手をあげて降参の仕草をする。
「偽物でも欲しがる馬鹿もおるしのう?」
ギリアムはからかう表情で男へと質問をした。
「魔術師のバザールで真贋を見抜く責任は買い手にあります」
返事は至極あっさりとしていて、迷いが無い。
「さすが黒蓮の商人は厳しい事を言う」
「お褒めいただき恐縮です」
悪びれない男の事を、ギリアムは商人として認めていると涼平は思った。
「じゃが、力に物を言わせる奴らもおるじゃろう?」
ギリアムは同情した物言いで男に再度問いを投げかけるが、男はびくともしない。
「そんなお客様とのご縁が少ない事を願っております」
男の顔は、俺達を眺める。美雨に視線を止めるが、それも一瞬の事だ。
「まったくじゃな」
「まったくです」
老商人と黒蓮の商人は、最後まで互いに韜晦を続けながら会話を終えた。
俺と美雨にはただの雑談程度にしか感じられなかったが、満足そうにお茶を飲むギリアムを見ると、重要な情報を手にいれたらしい。
「後で爺さんから聞きださないとな」
はやる俺とは対照的に、美雨は目の前の会話を聞き流しているかの様だ。
そしてとても甘いお茶に悪戦苦闘しているらしく、ちびちび飲んでは眉をひそめていた。