第61話 雨の帳の中で
雨足は一層ひどくなり、遠方から雷鳴が聞こえた。
里緒は幽霊同様、雷も嫌いなので正直うんざりだった。
日光を遮る厚い雲のおかげで、部屋はモノトーンの薄暗さを漂わせている。
庭や縁側に叩きつけられた雨粒が跳ね返って霧状になり、部屋から見える風景を靄の中にぼかしていく。
後輩の頼みとはいえ、なにもこんな日に幽霊屋敷に来なくても良かったと、里緒は自分の律儀さを自画自賛する。
「まあ、恋する乙女は押しが強いんだよね。まだ本気かわかんないけど。でも後輩の頼みは断れないしね」
さんざん引き伸ばしておいてそう思える彼女は、やはりそうとう図太い神経の持主だろう。
それにしても急に暗くなってしまったなと辺りを見回すと、幽霊が苦手な彼女は「灯りをつけよう」と言いかける。
そこで初めて、涼平の瞳に沈む黎明の色に落ち着かない気分を味わった。
彼は今まで見たことも無い雰囲気を滲ませていた。それはいっそ、厳粛と言えるほどだ。遅まきながら里緒は気づく。
いつもなら「家来じゃねーし」と言う、彼お決まりの台詞が出ていない。
いつもなら「勝手にきめんじゃねえ」という、呆れたような馴染みの仕草も示されない。
代わりに涼平が洩らした言葉は、里緒がそれまで考えていた事全部を吹き飛ばした。
「里緒、もう家来はいらないだろ」
はじかれた様に顔を上げ、涼平を見る里緒。その表情には裏切られたという感情が浮かんでいる。
だが、涼平も内心の苦悩は面に出さず、努めて冷静に語りかける。
「騎士がいれば充分だろ」
「何でそんな事言うの?」
涼平の話す意味がわからない、里緒はそんな口調で尋ね返した。
「なあ、里緒」
涼平の落ち着いた態度とは対照的に、里緒の唇はぶるぶると震え出す。
轟々と里緒の体中で駆け巡る耳鳴りが、土砂降りの雨音かそれとも頭の中で一気に血が下がったためか、今の彼女にはわからなかった。ただ胸の中から激した思いが膨れ上がるのを止められない。
「スズちゃんの馬鹿っ」
里緒は顔を歪めて投げつける様に叫ぶ。
なぜこんなに怒りが湧くのか、彼女自身も理解できない。
「帰るっ」
いきなり立ち上がって、彼女は持ってきた鞄を握り締め外に向かう。
雲の合間から聞こえる遠雷は、さっきよりも近づいている。
どろどろと鳴るその響きは、まるで里緒の心中にわきあがった黒雲だ。大嫌いな雷と同じ心情なんて、里緒はそれこそ我慢できなかった。
「おい、待てよ」
余りに激しい立腹にあっけにとられた涼平だったが、後を追って廊下で手首を掴んだ。
「離してよっ。離してってば!」
里緒は柳眉を逆立て、彼の手を振り払おうと無茶苦茶に暴れる。
「待てって。こんな雨の中帰ったらまたずぶ濡れだぞ」
涼平は彼女を落ち着かせようと天気の話をするが、それが里緒をさらに激昂させた。
「そんな事はどうでもいいのっ」
彼女は顔を伏せたまま、涼平の胸を全力で押して離れようとする。
ムキになって床が振り込んだ雨で濡れていることに気づかず、足を滑らせて体勢を崩す。
「おいっ」
涼平はすばやく里緒の肩を掴んで、引き寄せながら抱きすくめると、つられて転倒しない様に脚に力を込め姿勢を保った。
里緒の身長は、女生徒の中では平均的だ。だから今、彼女の面は涼平の首筋あたりにくっついている。
俯いた彼女がどんな表情をしているのか、涼平はわからない。
ただ、二人はとても近くで呼吸をしていた。
里緒が身を強張らせているのが涼平にはよくわかったし、涼平の激しい鼓動も、里緒には伝わっているに違いない。
涼平は何か言わなくてはという焦る気持ちと、里緒のわななく唇の動きを嬉しく思う嫌な自覚に、胸の中をかき混ぜられながら、彼女の肩を抑えた指の力を抜く。
「……あぶねえだろ」
「ごめん」
ぎこちない会話のまま、二人は互い身体に少し隙間を空ける。
それでも、涼平の両手の指は彼女の肩に掛かったままで、里緒の右手も涼平の胸に当てられたままだ。
幼馴染の二人だったが、こんな格好になったのは初めてだった。
互いにぼんやりとして普段の様にからかい合うのも忘れる。
昔から涼平と里緒は、いつもふざけ合っていた。
お互いの頭や背中をバンバン叩き合うなんて日常茶飯事なのだ。
でも涼平は、里緒と腕を組んだり長く手をつなぐ事はしない。
里緒も龍真にはしょっちゅう抱きつくけど、涼平には基本コブシで物申す事にしている。
どきどきする様なスキンシップは龍真が相手で、カッカする様なドツキ合いが涼平とのくされ縁だ。
子供の頃から冒険と称して、三人で里山を歩いたり隣町まで自転車で知らない道を行く時もそうだった。
里緒が「待って」と彼の背に必死に手を伸ばすのに、「守って欲しけりゃ龍真に頼め」といって、涼平はいつも先頭を独りで走る。独りで走っていってしまう。
里緒はそんな涼平に悲しくなる。そして腹が立つ。
だから「家来のクセにっ」と全力で追いかけて頭をはたく。
そしてそんな里緒の隣を、龍真が悠々と並走するというのが定番だったのだ。
「どうして?」
里緒は搾り出した自分の声が、何故おかしいのかわからない。
急に風邪でも引いたような鼻声になりながら涼平に再び尋ねるだけだ。
「好きなやつの隣にいるのが普通なんだよ」
涼平は里緒の肩越しに、降りしきる雨に打たれる緑の木々を眺めている。
平静な彼の態度から里緒は見逃したが、声音の平板さこそが、逆に彼の渦巻く胸中を如実に現していた。涼平が里緒に告げる。
「家来もそろそろ終わりにしないとな」
里緒は彼の言葉を聞いて、ふいに気づいた。
涼平に好きな人が出来たんだと。
さんざん女の子を口説いていても、本命なんてなさそうだったのに。
いつの間にやらそんな相手がいたらしいと、里緒はその予想をガラスの外から眺める気分だった。
しかしそこには、現実感が少しもない。
でも本気で想う人がいるなら、その娘の傍に立ちたいと想うのは当然だ。
里緒だって、龍真の隣に立つのは自分であってほしいと思っている。
そして相手の立場になれば、幼馴染に振り回されている男では情けない。
もちろん女子にいい様に扱われる「八方美人の紀南君(先輩)」の話を払拭しなければ、涼平が想いを伝えても、相手はまともに話を聞いてくれないだろう。
その手始めが私ってわけか……と里緒は理解し、涼平も年頃なんだと内心苦笑する。
それなら里緒も協力しないわけにもいかないかと渋々納得した。
涼平も水臭いよねと腹だたしいが、私も龍真の事を黙っているからお互い様だ。
幼馴染としていささか寂しいけど、馬鹿平ががんばるって事ならしょうがない。
「後輩になんて言えばいいのかなあ」と悩み「実はスズちゃんの好きな子は後輩だったりして」と里緒は勝手に推測する。
そして彼に「わかったよ」と返事をした。
「いやだ」
……返事をしたつもりだったのに。
「あれ? 私なに言ってるの?」
里緒は言おうとした返事と口からでた言葉の違いが不思議だった。
瞳から何かが流れ落ちる。
「里緒……」
涼平は彼女に話を続けているが、里緒にはもう彼が何を言っているのか分からない。
言葉が頭の中に意味を形を作らず、そのまま彼方へと散ってしまう。
雨の音が酷くうるさい。だから涼平の声が届かないんだと、里緒は天気に不満をぶつける。
それにこの屋敷がいけない。幽霊が出る場所にいるから、涼平も変な事を言い出したりする。
バイトがいけないのかもしれない。年上の大学生と話してコイバナで盛り上がれば、涼平も彼女がほしくなる。
部活の後輩だって八方美人だからって止めたのに、仲介を頼んでくるのがいけない。
だからこんな話を涼平に聞かされる事になる。
いけない、いけない。
こんな私じゃいけない。涼平の気持ちを尊重して、手助けするのが幼馴染だ。
本気の彼を邪魔するなんて、そんな権利は私にはないのだから。
涼平の家来は卒業だって、私自身思ったじゃないか。
後輩の後押しをするって、さっきまで考えていたじゃないか。
里緒は支離滅裂になって一体何をどうしたのか、心の中が見えなくなる。
それは庭に広がる濡れた白い空気の中に突然独りで放り出された気分だ。
周りも自分も分からない、いまや五里霧中の里緒だった。
何も聞きたくない。なにも知りたくない。
里緒は混乱の迷宮を彷徨うが、自分の感情の方向がどちらに向かうかさえ決められない。
今まで涼平は、里緒がついていけなくなると、最後は立ち止まってくれた。
でも今度はそうじゃない気がする。独りでどこかへ走って消えてしまう気さえする。
そんなのは絶対いやだ。
里緒の切ない想いだけが、木霊の様に霧の中で繰り返される。
「いやだもん」
その声の幼さに涼平は、里緒へと覚悟を決めて視線を戻す。
黝い顔料を薄く掃いた様な、真っ青な顔。瞳の奥にはすがるような懇願。
◆ ◆ ◆
さっき口を震わせ動揺した彼女を見て、嬉しく感じた俺は身勝手だ。
少しは頼ってくれていたんだと、彼女の驚愕から満足感を得るなんて、浅ましい男だ。
だが里緒の傷つく姿を見れば、そんな暗い感情は霧散して、こいつの笑顔を取り戻さなくてはと必死になる。
だけど、今の俺には何も出来ない。
言い訳はできる。嘘だってつける。とぼける事なんて言うまでもない。
「里緒」
そして結局俺は、ただ優しく幼馴染の名前を呼ぶ。
里緒はいやいやをするようにゆっくりと首を振った。彼女は、俺の次の言葉を聴きたくないのだろう。
俺と里緒の視線が重なった。
里緒の瞳はまた泣き出しそうに潤んで、唇は何かを言いかけて微かに開く。
その表情から俺は目が離せない。
彼女の肩にあった片手を、いとおしむ様に里緒の頬に当てる。
里緒は何も言わず、ただ俺の瞳だけを見つめている。
二人はどちらからともなく、距離をさらに縮めるため互いのおもてを近づける。
その時、雨雲の全てが稲妻の光で満ちた。
空も陸も雨すらも赤い紫電の轟音の中に飲み込まれ、屋敷の庭先へそのオゾンの匂いが漂ってくる。
屋敷の付近に落雷したのだろう。
俺と里緒は、さっきと同じように廊下に立っていた。
だが今、里緒は俺にしがみ付いている。左手で掴んでいた鞄は床に落ち、その細い手は俺の背にぎゅっと回されていた。
顔を伏せて身体を彼に押付け、右手は彼の心臓のあたりの服をしわになるほど握りしめる。
そして目を瞑ったまま、小さく震えながら吐息をもらす様にささやく。
「スズちゃん。スズちゃん。スズちゃん。スズちゃん」
それは雷が怖いからか、それとも他の理由からか。
ともあれ里緒は決して離そうとしない。
俺は、何も言わず彼女を強く抱擁していた。
この時だけは親友の事も頭に無かった。
里緒をその腕の中に抱きしめる。
ただ抱きしめる。
それから何度も雷が光った。雨は一向に降り止まず、何本もの稲妻の光が俺達を照らす。
稲光がするたび、地上の景色は影絵の様にくっきりと浮かび上がる。
そして雨が上がる迄、紫電の光が描く二人の影はずっと同じ一つの形のままだった。