第60話 里緒と涼平
魔術師のバザールは深夜遅くまで開催される。
ここには天幕のコテージも数多く用意されていて、安心して宿泊できた。
その天幕内はまさにホテルの個室並みの設備だったが、食事は外の露店を食べ歩くか、専用天幕に出店した様々な国の料理店に入って味わうことになる。
そんな市場の真ん中には、転移魔法陣の近くに、大きな篝火と噴水の巨大な広場があって、沢山の人が夕涼みがてらやってきた。
設置されたベンチやテーブルの椅子に腰掛けて、買ってきた飲み物で喉を潤したり、手に入れた安い魔法具を見せ合う姿もみられる。
砂漠は夜になると急速に温度が下がるが、広場は火と風と水の精霊力をバランス良く強化しているので、美雨でも過ごしやすい環境になっていた。
「何か悩み事か?」
ギリアムに尋ねられた俺は、はっと我に変える。どうやら、顔にでていたらしい。
「若いと色々あるのさ」
俺がとぼけると、ギリアムは豪快に笑い飛ばす。
「年寄りにも色々あるんじゃ。人生の出来事に年齢など関係ないぞ」
そんな、老人に美雨が秘密を打ち明ける様にささやく。
「最近色気づいているんですよ」
「師匠!?」
俺が焦って美雨を見ると、逆に彼女から目線で「違うんですか?」と問い掛けられた。
ああ、そうですよ。俺は最近女の子の事で振り回されてますよと自嘲しながら、俺はこのバザールに来る直前の出来事を思い返していた。
◆ ◆ ◆
にわかに雨が降り出した。ぼとりとした大きい雨粒が肩に染み込んでいく。
このままなら土砂降りになりそうな予感がする。
この夏に多いゲリラ雷雨ってやつだろう。
俺がそう考え、急いで家まで走りながら帰ると、傘を差した人物が屋敷の門の下で待っている。
雨にけぶる景色の中で見覚えのある赤い色は、俺が視線を逸らす事を許さなかった。
そばに近づいて声をかける。
「里緒、どうしたんだよ?」
俺の接近に気づかず考え事をしていたらしく、驚いたように振り返った里緒は、大粒の雨に打たれた傘も折れそうで役にたっておらず、すっかりびしょ濡れだ。
彼女は制服のままで、どうやら夏休みも続く部活の帰りらしい。
「合唱部だったな」と思いながら門を開ける。門には鍵はかかっていない。
里緒の所属する高校の合唱部は去年のコンクールで地区大会二位。
今年こそ優勝をと、里緒をはじめ、部員は夏合宿までしてがんばっている。
「玄関先までなんではいらないんだ」
そこなら雨避けの軒が広いのに、と俺はわざとらしく聞く。
「人様の家に勝手にはいりこまないわよ」
それに対して里緒は、妙に常識的な発言を返した。
俺はその言葉が真実ではないと知っていたが、濡れた身体を拭かねばと思って、玄関の鍵を開ける。
「話は後だ。とにかく入れよ」
里緒は風呂場の脱衣所に連れて行かれ、渡されたタオルで身体を拭く。
上の白の半袖シャツは水を吸ってべたべたなので、脱いで事前に借りた俺のTシャツに着替える。
下はスカートのままだが、表の生地は撥水加工がしてあるのでタオルで水気を吸い取れば気にならなくなった。
「のぞき禁止っ」とにらまれた俺も、交代してラフなポロとジーンズに着替え、急いでお茶を用意する。
部屋は日中の猛暑で熱気がじとりと篭っていたので、あえて雨戸を開け、雪見障子も開放して、雨に濡れた空気と入れ替えることで、ようやくひんやりとしてきた。
俺だけなら魔術で冷やすが里緒がいてはそれは出来ないし、クーラーに慣れると魔術師の修行にならないので、俺普段は我慢できれば自然の気温で耐える事にしている。
「電気代がもったいねえ」というと里緒達にはケチといわれるが。
その代わり、軒先から濡れ縁を越え、廊下に雨が少し吹き込む。
部屋は大丈夫なので、少々は仕方ないと俺は妥協した。
雨が上がったら雑巾でぬぐっておけば、夜の暑さで乾いてしまうだろう。
お盆に急須と湯のみを載せてちゃぶ台の前に座ると、里緒が文句を言った。
「このTシャツ汗臭い」
「嘘つけ。通販で買ったBKBのレア新品だっ」
俺が人気インディーズバンドの名を出すと、里緒はあらためてそのコミカルな熊達のイラストを見ようした。
俯いてTシャツの裾を掴みいきなり前面を持ち上げる。
「BKBかあ。部屋着なら許されるかもねー」
しげしげと絵柄を見て、コイツは結構ひどい結論を出す。
「いや、一万円以上したんですけど」
持ち上げたTシャツの下から見えた里緒の白いお腹や可愛いおへそから慌てて視線をはずし、俺は縁側の向こうで激しくなる雨を眺める。
冷えた身体にはいいだろうと、俺はあえて熱めのお茶を出しながら尋ねる。
「それでなんの用だよ?」
「え? 別に。寄ってみただけだよ」
里緒は気が向いただけと言い訳をしている。
「そんなわけあるか」
俺はここぞとばかりに口元を上げる。
「どうして?」
里緒はとぼけるが俺はにやにやと笑い続けた。
「理由も無いのにお前が一人で屋敷に来るわけないだろ」
里緒はこの屋敷に幽霊がいると思っている。理由は、子供の頃夜に幽霊をみたから。
里緒の家族と俺が偶々この屋敷に泊まった夜の事だ。
これも偶然土蔵へ骨董狙いの泥棒が侵入したのだが、面白半分に井戸から美雨が登場して「恨めしや」と脅した。
腰を抜かして悲鳴を上げた泥棒の声を、トイレに起きてきた里緒が最初に聞きつけその場に向かった。
そこで美雨が井戸に消える姿を見てしまったのだ。
以来里緒は、昼でも一人ではこの屋敷に入る事ができない。
「ほんとの事を言えよ」
俺は興味深々で尋ねてみる。
「それは……」
里緒が言いにくそうに口ごもった。
ぐうっ
突然、里緒のお腹が派手に鳴った。
俺と里緒は一瞬互いの顔を見てから、どちらとも無くふき出す。
「そう言えば、今日は帰り道で買い食いしてないや」
里緒は思い出したように照れた。そんな彼女に呆れていると「お腹すいた」と唐突に言う里緒。
「今日は夜バイトだから夕飯は作んないんだよ」
だから自宅まで我慢しろといいかける俺にかまわず「お腹すいた」と里緒は子供みたいにすねて繰り返す。
「あー。じゃレトルトカレーでいいか?」
俺はがっくりと肩を落として提案した。
「なんでもいいよ」
カレーと聞いてさらに空腹が刺激されたのか、里緒は目を輝かせる。
「わかった。十分待ってろ」
そう里緒に告げて食堂に入ると、シンクの上棚から市販のレトルトを取り出す。
だが俺はそのまま鍋にお湯を沸かして、パックごと煮たりしなかった。
冷たいレトルトの封を切って、鍋にカレーそのものを入れ、少しだけ牛乳を足して焦げ付かないように火加減を調整する。香り付けにクミンもほんの少し加えた。
次に冷蔵庫のジャガイモを手早く洗って芽を取り、小さめに切った人参とラップに巻くと電子レンジで加熱する。
その間に今朝畑で採った胡瓜を薄切りにし、プチトマトをその中心になる様ガラスの小鉢に盛り付けた。
スープはコンソメブロックとさっきの人参の残りをごく細い千切りにしてマグカップ内へ落としておく。これで出す直前に電気ポットからお湯を注げば良い。
鍋の具合を見ながら、レンジのチンという音でジャガイモと人参を取り出すと、ラップの上から爪楊枝で突き刺す。レンジの温野菜モードが上手く働き、楊枝はすっと中へ通った。
ラップをとって切り分けたジャガイモの皮を剥く。皮のままバターを乗せればじゃがバターとしても美味しいが、今回はそうせず、人参と一緒に鍋のカレーの具材として加えた。
少し火力を上げて、表面をコトコトさせながら掻き混ぜ、後から足した野菜にカレーを染み込ませていく。
そして醤油、酢、サラダ油を小さじで取ってガラスのリキュールグラスに入れて手早く混ぜ、塩胡椒で味を調える。最後にゴマ油をたらして和風ごまドレッシングの出来あがりだ。
そうこうする内にカレーも良い具合に煮詰められたので、深皿によそって、朝食用の食パンを別皿に載せる。
作った料理を大きめのトレイに並べると、俺は食堂から出て居間に使っているちゃぶ台のある部屋へと戻った。
カレーを一口食べて、妙な顔をする里緒。
「不味かったか?」と聞く涼平に首を振り、なにか言いかけた彼女は感想を口にせず、続けてスプーンですくって食べる。
◆ ◆ ◆
里緒は涼平の顔を見ながら、スプーンでカレーライスをまた口に入れる。
やはり「懐かしい味」と思ったのだが、なんだかそれも違う気がした。
「美味しいよ」というと、涼平はいい顔で笑う。
「こういうトコは部活の後輩の言うとおりかも」
ちょっと癪に触るが、そんな風には思う。
里緒は、小学校から合唱部に所属していた。歌う事が好きだったし、音楽を聞くことも楽器を演奏することも好きだった。
龍真の剣術と同じように熱心に取り組んできたつもりだ。
涼平が熱心なのは女子を口説くぐらいだったので比較対象から除外する。
実はその合唱部の合宿で、最近涼平が気になるという後輩から相談されたのだ。
里緒が龍真や涼平とよく一緒なので、興味が湧いたらしい。
これは里緒の人生で晴天の霹靂だった。
龍真なら当然だけど、何故涼平?
「止めときなさい。スズちゃんみたいな馬鹿のどこがいいの?」
里緒は後輩の将来を心配して忠告した。
「ちょっと構ってもらうとすぐに、あの娘は俺に惚れてるんじゃねえのと、やに下がる勘違い男なのよ?
あなたから好意なんて見せたら、スズちゃんは有頂天になってストーカーに走るわよ」
幼馴染をコテンパンに酷評する里緒に後輩も真面目に返事をする。
「八方美人の紀南先輩って話は聞いたことあります」
「そうでしょ。しかも常に一方通行なんだからね」
止めときなさいと再び言うが、後輩の意見はちょっと違うようだ。
「里緒先輩は理想が高いから。佐藤先輩と比べたらこの学校で勝てる人はいませんよ」
「べ、べつにリョウちゃんと比べてるわけじゃ」
部活の後輩にまで自分の気持ちが知られているとは思わず、里緒はとぼけた。
「佐藤先輩は確かに超絶美形ですけど、佐藤先輩とふざけてる紀南先輩って、案外かっこいい、というか可愛いし、八方美人の噂も先輩を本気で悪くいう娘っていないですよね?」
後輩の指摘に里緒は言葉に詰まった。
確かに涼平は可愛い子と知り合うとすぐ声をかけるが、馬鹿にされても嫌がられたりはしない。
里緒も相手が困るほど真剣に口説く涼平を見たことなどなかった。
「すぐ目移りする優柔不断な駄目男だからよ」
小学校からの幼馴染である里緒の説得に、後輩も少し考えたようだが、もっと涼平と話してみたいと言われてしまった。
「里緒先輩が言うほど、紀南先輩は駄目じゃないと思います」
後輩にそんな風に言われてしまい、里緒はちょっとだけムッとした。
「そんな事ぐらい知ってるよ」
そう反論したかったが、散々涼平の欠点をあげつらってしまった手前、いまさら弁護もできず、里緒は黙るしかなかった。
そして後輩に涼平が自分をどう思っているかそれとなく聞いてほしいと頼まれたのだ。
「話した事ないから、覚えてないと思いますけど」
だから引き合わせてほしい。
後輩にそこまで頼まれ、断りきれずに合宿から帰った。
過去龍真への告白の仲介なら、何回か断りきれずしてしまった事がある。
もし龍真がOKしたらと後悔しながら、多分龍真は断ってくれると身勝手な事を考えていた。
でもまさか涼平に好意を持つ娘がいるなんて思いも寄らなかった。
「ま、里緒は早く家来離れしなさい」
親友の歌埜に言われた言葉が頭を巡る。
「そうだよね。スズちゃんにだって彼女がいたっておかしくないんだよね」
里緒は、後輩が本気なら応援してあげなくちゃと思い直す。
そう思いながらも、ぐずぐずと涼平との仲介を引き伸ばしていたのだが……
先週の練習後、コンクールで自分の活躍する姿を涼平にみてほしいと後輩からお願いされた。
そして幼馴染の里緒から、涼平に応援にきてくれるよう誘ってほしいと。
「里緒先輩も佐藤先輩に来て欲しいですよね」
「わ、私は別にリョウちゃんの事なんて……」
「とにかく、お願いしますね」
積極派の後輩に拝まれてしまった里緒は「まあ、二人とも去年も来たし大丈夫」とそれでも気楽に構えていた。しかし今日部活で後輩から返事を即されて、しかたなくこの屋敷に来たのだ。
そして「スズちゃんが携帯切ってるのがいけないんだよ」とぶつぶつ言いながら待っている所へ、急な雨と共に涼平が帰ってきたのだった。
「それで一体なんの話があったんだ?」
涼平の質問に、里緒も腹とともに気持ちも落ち着いたのか、単刀直入に部活の件だと話し始めた。
「秋の合唱コンクールなんだけど、地区大会は九月末でしょ」
涼平は、話の先が予想できて、顔を引きつらせ黙り込む。
里緒は最後に残ったゴマドレの野菜サラダを平らげて、コンソメスープを飲み干す。
「見に来るよね?」
それは誘うというより、当然の事を確認した言い方だった。
だが聞かれた彼は、直ぐには答えない。
予想外に長い沈黙に、いぶかしげになる里緒へ、涼平はようやく答える。
「龍真が行けば充分だろ」
もちろん里緒は納得しなかった。ぐいっと彼に顔を寄せ、いつもの台詞でわがまま姫としての主張を繰り返す。
「スズちゃんは家来でしょ」
◆ ◆ ◆
ああ。ここがエンドオブリターン。
回帰可能な最終分岐点だと、突然俺は悟った。
ここで予定調和に戻れば、きっと話は上手く回る。
「わかったよ」と仕方なさそうに彼女へ嘘をつくだけでいい。
そうすれば最後の瞬間まで里緒達に気づかれる事もなく、この世界から去ってしまえる。
美雨さんとはそのための準備をした。
本当はその手段に反対して、協力を嫌がる委員長を無理やり巻き込んだ。
でも俺はやっと気づいた。その前にする事がある。
皆に押付けて逃げるなんて、やっぱり卑怯者だった。
俺は、やっぱり美雨さんにはかなわないと思う。
昔から異世界転移計画の打合せをする度、必ず里緒達の件を確認する親愛なる使い魔。
きっと彼女はこの事をわかっていたのだろう。
自分はほんとに頭が悪いと、俺は忸怩たる思いだった。
もちろん因果律への影響から言えば、このまま変化が無いほうがが良いに決まっている。
計画の成功を第一に考える美雨さんだ、自分からは提案しない。
それに、主と使い魔の関係で相談する話でもない。
もし親代わりの立場が強ければ、美雨さんは俺の背中を押してくれたかもしれないけれど。
だが、俺は宣言していた。全て捨てると。
そんな馬鹿な主は自分の払う犠牲にただ酔っていただけだった。
今もその決意に変わりは無いが、だからといって黙って去っていいはずはない。
里緒を傷つけたくないのは言い訳で、実は俺自身が傷つきたく無かっただけなのだ。
俺の心の弱さの問題だ。俺の想いの強さの問題だ。
「里緒を傷つけないで」と願った委員長には申し訳ないし、今更押付けた役目を取り下げる訳にもいかない。
だがこれは俺が人としてすべき事で、一人の男としてしたい事だった。
俺は、里緒にさよならを告げる覚悟を決めた。