第6話 学校にて
「冷てえええ」
いきなり、顔に掛けられた水の冷たさに驚いて目覚める。
俺は布団から身を起こすと辺りを見回すが、十畳の和室に居るのは自分だけだ。
いや、六歳で両親を飛行機事故で失ってから、この屋敷に居る人は自分だけなのだ、と思い直す。
七月初旬の朝の光が、開け放たれた雨戸や部屋の障子を越えて縁側を照らしながら差込み、その向こうには中庭の泉に庭木が初夏の影を落とす。
布団の脇には小さな卓袱台、その上には空のペットボトルと目覚まし時計が置かれている。
「うわっ、もうこんな時間か」
俺は時計の針を見て慌てて飛び起きる。顔にかかった水は、たいした量では無いため頭を振って雫を飛ばす。
「もう少し別な起こし方もあると思うんだけど」
俺の言葉に答えは無い。
「起こしてもらえるだけでも感謝しなさいって事ですね」
敬語で下手に出るもやはり反応無し。周りから見たら、俺は独り言の多いヤバイ人だ。
やっぱ怒らせちゃったか、と心の中で反省する。
「これからは気をつけるから。大事な時期だし」
そのまま布団を畳むと制服に着替えて、顔を洗うと台所へ入る。
朝食は諦めて、冷蔵庫から昨夜持っていたのと同じ、だが未開封のペットボトルを四本取り出し、デイパックに放り込む。
それを肩に掛けると和室に戻り、縁側まで行くと、中庭を見ながら呟いた。
「ほんと、ごめん」
すると、泉の真ん中に魚がはねるような小さな波紋が浮ぶ。
俺は、それを見てちょっと笑いかけた表情を真顔に戻し、玄関へと急ぐ。
「行ってきます」と言いつつ、玄関の引き戸を閉めて学校へ向かう。
泉にもう一度波紋が浮かんだ。
俺が学校へ向って走っていると、横をバスが通り過ぎていく。
そのバスの進む先には、俺の通う高校近くで止まるバスの停留所がある。
遅刻しそうな時ぐらい、バス通学を認めてほしいよなあーと俺は鬼コーチの顔を思い浮かべた。
「寝坊が標準モードの人には許可出来ません」
鬼コーチ想像上の声が頭の中で響き、すぐダメ出しの顔に変化した。
とにかく、走り続けて予鈴の直前に校門に駆け込み、そのままの勢いで二階にある二年三組の教室へ駆け込んだ。
「今日はセーフだったねっスズちゃん」
ぜいぜいと、荒く呼吸をする俺の横で、野球の審判よろしく腕を水平に広げる少女。
くりくりっとした大きな目が印象的で、若干くせのある黒髪を短めのポニーテイルに纏めている。
明るい表情は見ているだけで元気な気持ちにさせてくれそうだ。
「おはよう、涼平」
その横で、またかという顔で笑いつつ、背筋を伸ばして座っている少年。
短めに刈った髪と引き締まった体躯、胸や腕の太さからは、武道の嗜みがある事は明白だ。
しかも相当の上段者が持つ、泰然とした雰囲気までまとっている。
俺はその二人を対して目をやると、斜め後ろの自分の席に座り、少女のからかい顔に突っ込みを返す。
「俺が遅かったおかげで朝から龍真と二人で長い事話できたろーが」
「なななな、なにいってるのよ、リョウちゃんが誤解するでしょ!家来のくせに、この馬鹿平!」
からかわれて赤くなる少女。
「合唱部の朝練終わって、さっき教室に戻ってきたんだからね」と言い訳を続ける。
俺は、誤解も何も無いもんだと、毎度の事ながら少し呆れて里緒の林檎の様なほっぺたを眺めた。
ああ、この二人は俺の幼馴染で、少女は藤原里緒、少年は佐藤龍真。
小学校からの腐れ縁だ。ま、里緒と龍真の方がさらに古いけどな。
だから、里緒が先にあだ名を付けた龍真はリョウちゃんで、後であだ名を付けられた俺は、涼しいの訓読みから取ってスズちゃん。
両方リョウちゃんだとどっちだかわかんないからだってさ。
でも怒ったときや文句言う時は馬鹿平ってのは止めてほしいんだが。
クラスの中にも真似するヤツが出てきてかなわんのだが、聞きゃーしねえし、はあ。
里緒の文句を無視していると龍真が話を振ってきた。
「昨日の夜もバイトだったのか?」
「そうそう。あ、頼まれたヤツ家から持ってきたぞ」
バイト先のペットボトルを二本取り出す。
里緒は手を出して受け取る。
「ありがとー」
龍真にも渡す。
「すまんな」
「ここのミネラルウォーター飲むとお肌の調子がいいのよ」
「気分もすっきりするしな」
幼馴染達にも、バイト先のミネラルウォーターは好評だ。
「でも店で販売してるのと違って、いつも包装ラベルがないんだけど、スズちゃん、空きボトルに水道水いれてないよね?」
なんの印刷やラッピングもないペットボトルを怪しげに思ったのか、尋ねる理緒。
「蓋は開いてないだろ。販路拡大用の法人向け試供品なんだよ」
里緒の手からボトルを取り上げつつ俺は適当に説明する。
「ただで譲ってもらってるんだから感謝しろ」
本当は市場に出さない特別品だが、それは言わないでおく。
「なるほど。美人店長さんに感謝ー」
説明よりもボトルを返してほしくて拝むように手を合わす里緒。
「俺にじゃないのかよ」
ぶつぶつ言いながら俺は里緒の手にボトルを戻す。
「パシリは家来の仕事だよ。文句言わない」
「家来じゃねーし」
「里緒、あんまり涼平をからかうなよ。今までも飲めばすぐわかったじゃないか」
「まーね」
龍真の言葉に里緒は屈託なく笑う。
なんか疲れを感じて机につっぷしていると、ところで、と龍真が話題を変えてくる。
「バイトは夜遅かったのか?」
「ああ」
「パトカーや救急車が騒がしかったろ」
龍真はテレビの朝ニュースについて話す。俺は遅刻しそうだったので見ていなかった。
ニュースによると昨夜遅く、貴金属店で盗難があったり、引ったくり強盗が出没し被害者は重傷、救急車で病院に運びこまれたそうだ。
「怖いねー リョウちゃん里緒を守ってね」
里緒は龍真の腕にしがみつく。
「涼平、お前も気をつけろよ」
里緒の頭を撫でながら涼平に忠告する龍真。さっきバイトの話を出したのはこの事が言いたかったらしい。
くそ、いいヤツだ、顔が良くて性格いい男は無敵だな。
嬉しそうに撫でられている里緒を横目に、俺はうそぶく。
「関係ねーな。家の中に金目の物は無いし、強盗きたら、すぐ逃げるしよ」
「スズちゃん、逃げ足だけは速いもんねー。昔、私がいじめっ子につかまった時でも、あっという間に逃げちゃってさあ。家来のくせに情けなさすぎ」
里緒は家来発言の時、思い出した様にそのネタを使う。
もう勘弁してくれ、忘れたい過去を抉るのは。
「家来じゃねーし。代わりに龍真呼んできただろうが」
せめてもの反撃を試みると、予想通りの反応が返ってきた。
「そうそう!あの時もリョウちゃんはかっこよくて……」
そのときの話に盛り上がる里緒とそれを笑いながら聞いている龍真を見ながら、俺はやっぱこの二人は絵になるなーと感じる。姫と騎士って感じか。
里緒は本当に龍真が好きだし、龍真も里緒を大切に想っている。
それでいて里緒は、龍真への自分の気持ちがバレてないと信じてるのがむしろ信じられん。
あまりに微笑ましいからクラスの奴らも気づいてない振りしてからかってるし。
やっぱ天然は無敵だなー、無敵カップル万歳。
いまだに里緒に告白しない龍真は腹ぐろだとは思うが。まあ、時間の問題だよな。
「リョウちゃんがいれば怖いもんなんかないよ。北神一刀流でヤの付く職業の人だって大丈夫!」
「おいおい…道場の稽古は人を傷つけるためじゃないぞ」
まだまだ続く里緒の龍真自慢に適当に相槌をうちつつ昨日の少女の姿を思い浮かべる。
「昨日の夜なら、別の意味でちょっとだけ怖いもんに会ったけどな」
俺が呟く声は、教室のざわめきに隠れて誰にも聞こえない。
「深夜に高い階のベランダ上に腰掛けて、太宰治の人間失格を読む小学生とかな……」
俺は、これってホラーと都市伝説のどっちになるのかなあと思いながら、授業が始まるのを待った。
◆ ◆ ◆
放課後、ちょっと早めにバイトへ行くと言って龍真、里緒と分かれた俺は、下駄箱の所でクラスメートと出くわした。里緒とよく一緒にいる女生徒だ。
いわゆる優等生タイプってヤツだ。実際クラスの委員長だしな。
無言で上履きからスポーツ靴に履き替えていると、彼女から話しかけてきた。
「急いでる?」
「まーな」
「じゃあ、一言だけ。実行前には教えて」
横目で彼女の表情を伺うが、眼鏡の奥には何の感情も表れていない。俺は、ほんの少しいたずら心が湧いてくる。
「支援会の年賀状へ毎年落書きされた、下手くそな緑の輪っかってさ……」
「余計な事は言わなくていいわ」
「はいはい。あ、そうだ」
鋼の視線でけんもほろろに返された所で、こちらの用事も思い出す。俺は、デイバッグから三本目のペットボトルを取り出し、女生徒に渡す。
「私はいいって言ってるでしょ」
「いいから取っとけ」
ボトルを渡そうとする度繰り返される会話だが、今日はその先が少し違った。
「こんな物貰うほど、貴方と関らないようにしてるつもりだけど」
ちぇ、ふざけたのが藪蛇だったなとぼやきしつつ、俺はふざけ続ける事で、その台詞の先を言わせない。
「なら馬鹿平って呼ぶのを止めてくれないかなー。その代わりって事でどう?」
「そっか。それならもらっとく。約束できないけど」
女生徒も自分の台詞がなかったかの様にあっさりと前言を翻した。
「じゃあな」
さっさと離れようとした俺の後ろから、彼女は言葉を投げつける。
「里緒を傷つけたら許さない」
「それはないだろ」
醒めた返事を返して去って行く俺を、彼女が睨みつけながら見送る。
背中を向けた俺には見えないが、その視線はずっと感じられてしかたがなかった。
◆ ◆ ◆
俺は屋敷に帰って着替えると、コンビニでおやつ代わりにメロンパンを買った。
それを食べながら走って、昨日使い魔とやりあった小公園まで来ると何か痕跡が残っていないかと少し歩きまわる。
カマイタチとは違う魔力の残滓が微かに感じられるが、多分使い魔達のご主人様が調査した事によるものだろう。
ばったり出会ったかもしれねえなあと思いつつ、俺の魔力の痕跡を残さないためにも、今後はこの辺に近寄らない事にしようと考える。
なんとなく少女の居るだろう窓を見上げるが、覗き防止用ミラーガラスは鏡の如く景色を反射するだけで、中の様子は分からない。
気まぐれに一階のロビースペースまで行き各階のプレートを見る。
だが、別に用事もないし……と俺は思い直して建物から出ると、そのままバイト先へ向かった。