第57話 望まれぬ帰郷
杜の闇は濃くなり、明るく地上を照らすはずの月は、いつのまにか現れた厚い雲に隠れて薄暗い。
それでも稀に差し込むぼんやりとした光は、木々の影絵を玉砂利の参拝路に落とす。
その影はここにいる者全てを、十重二十重の枝の網で絡め獲るような不快感を感じさせた。
自分が不用意に踏み込んだ場所は、命ある者にとって非常に危険なのだと否応無く知らされ、アスレイは後悔していた。
全体的な異様さが充満しすぎて、アスレイの魔力感覚を麻痺させてしまい、その危険度が把握できなかったのだ。
いや、自分の感覚は激しい拒否反応を示したにもかかわらず、護符の魅力に惑わされたアスレイは、みすみす火の中へ飛び込んだ虫だ。
「このままでは、やばい」
さっき彼に偶然当たった烏は、二、三羽といった所だった。
烏は直接狙ったのではなく、単に進行方向に彼がいたため、避けきれず触れたような飛び方だった。
それにもかかわらず、アスレイは体内の魔力を奪われて疲労感が激しい。
これ以上急激に魔力を失って意識を無くせば、生殺与奪の権利を相手に渡すことになる。
アスレイは生命の危険に晒されて、従来の臆病な性格に基づく切換えの早さを取り戻した。
「なんとか、逃げねえと」
脂汗を流しながら、山伏の隙をうかがう。
ありがたい事に、あの男は少女にしか興味がないらしく、アスレイの存在は無視したかのような振る舞いだ。
出来れば、このまま自分を見逃してもらいたいもんだと思いながら、じりじりと後ろへ下がり、目立たぬ動きで二人から距離を置いていく。
「もう一度言うぞ。帰れ」
大爺は桜に繰り返した。
いまや髪や髯も茫々のその姿は、正に永く山に棲む先達らしく、頬は削げ、枯れ木が口を聞いているかの如き姿だった。
修験道としての山伏は仏法僧の範囲に留まるが、特殊である事は確かだ。
だが元々神主の一族にもかかわらず、修験者としての篠懸、結袈裟などの法衣をまとっている大爺は、生まれた時からその姿と思わせる風格が備わっている。
そして桜に発した言葉の厳しさと、眼窩の下|爛々と鋭い眼光は、それが最後通牒だと示していた。
その剛とした迫力はアスレイがすくみあがるに充分だったが、少女は臆していない。
白に近い銀髪は風に流れ、この汚された場所で、彼女の周りだけが清涼な空気を放っている。
桜の身体に触れる直前で世界を構成する要素から毒が抜け、届かぬはずの静謐な月光の粒が、彼女の呼吸と共に神韻を奏で全てを浄化していく様だった。
それは守り袋が発する加護の力ではなく、少女自身の内側から現れた光だ。
アスレイは一瞬この少女の芯に宿る何かを感じたが、魔力探知をする事で注目を浴びる気はさらさらなかった。
「大爺。私の帰る場所はここでしょ?」
桜は表面上は落ち着いた顔で、自分の曽祖父に答えた。
彼女自身それが詭弁だと承知で、今はそう説得するしかない。
大爺の気持ちは分かっているが、それでも押し通るつもりでいる。
「お前の故郷はもはや無い」
大爺は、互いが知っている事実を確認した。
枝ばかりの木々がざわりざわりと風も無いのに揺れる。
それは山伏の言葉が真実だと認めるかの様だった。
「それを決めるのは私だよ」
桜の決然とした面に、大爺は眉間にしわが刻まれ、それが凝り固まった如き表情のまま、大声で問いかける。
「どう決めるというのだ。今やお前の命は風前の灯だ!」
桜はその怒りを含んだ台詞から、大爺が彼女の余命を知っていると気づいた。当然といえば当然だ。
だがアスレイはその山伏の言葉を耳にして、いよいよ身を縮め神社の入口へと後退する。
このままでは山伏の攻撃に巻き込まれると感じたからだ。まだ鳥居までは少し離れている。
護符や少女への妄心は未だ強いが、自分の命が一番惜しい。
彼は何も刺激しない様に努め、ひたすら脱出の機会を窺い続ける。
桜と大爺は、そんなアスレイの動きなど一顧だにしない。ただ、二人の問答にのみ集中していた。
「最期にどう輝くかは、私が決めるの」
桜の瞳には、生命の残り火がわずかな事に対する悲嘆はなかった。
むしろ、やるべき事を見出した者が見せる覚悟があった。
「決死か」
大爺は長く嘆息すると、両腕を大きく広げる。
今や漆黒の夜の中、山伏の袖の広い装束は、まるで天狗の翼の如く威を放ち、周囲を圧する。
「では来るがいい。だがお前への加護も、ここでは無敵ではないぞ」
桜はその言葉に抗うように胸の赤いお守りを握りしめ、勢いよく前へと走り出す。
白い服を着た桜が前のめりに跳ねながら疾駆する姿は、彼女の思いとは別に、まるで若い兎が追い立てられる様だった。
大爺は急速に接近する桜を無表情に見据えると、再び錫杖を持ち上げ、地面へ突き刺した。
ざざあっ
風鳴りの音とともに、黒い翼と鋭い嘴を持つ山伏の眷属が、一斉に
桜に向けて飛びかかっていく。
桜は襲い掛かる烏を俊敏に避け、致命の一撃を受けぬよう動きまわっている。
真っ直ぐな砂利道から樹木の陰に入り込み、枝の多い木々の下を駆ける事で少しでも空中の利点を減らそうとする。
触れれば魔力を吸われるのだ、得物を持たない桜は、ひたすらかわすしかない。
しかし、所詮は多勢に無勢、周囲から追い込まれて、参拝路へと引き返すしかなくなった。
それを見ていた大爺が三度その杖を大地に振り下ろすと、桜の足元が陥没し彼女はその窪みに足をとられ転倒した。
◆ ◆ ◆
アスレイは山伏が杖を突き立て、大地から空へ魔力が奔った瞬間、きびすを返すと一目散に神社の鳥居に向かい駆け出していた。
逃げながら背後を振り返ると、空中から殺到した無数の烏に囲まれて白い服が黒の塊の内側に埋没していくのが見えた。
必死で鳥居を越えても、全力で前の道路を走り続け途中で派手に転ぶ。
それで膝をかなり擦りむいたが、それどころではなく急いでもっと離れて、流石にこれ以上息が続かなくなって倒れこみながらもう一度杜を振り返った。
残念ながら山伏は、アスレイを見逃すつもりはなかったらしい。
杜の上空にいた烏の残りが、こちらに向かって来るのが感じられた。
夜の暗闇で魔力探知魔法も発動せずに分かるのだから、自分の危機感がいかに高いかという事だ。
ぜいぜいと荒く呼吸を繰り返し、再び動き出すこともままならないアスレイは、時間稼ぎに使い魔をその身から前方へ盾代わりに放ち、烏へとカマイタチの刃を浴びせる。
しかし、烏共は空気の流れがわかるのか、器用に避けて当たる事はない。
アスレイが唾で喉を詰まらせながら、結界呪文を詠唱し終えるのと、急速に接近した最初の烏が空から彼目がけて飛び込んでくるのは同時だった。
そして今、どんどんと結界の障壁に体当たりしてくる烏の群れを、アスレイは半径三メーター程の対物結界の中で、鳥肌を立て震えながら見ているしかない。
外の光景から目を逸らしてしまいたいが、恐怖がそれを許さないのだ。
「くそっ。最後の使い魔が」
アスレイはまだ整わない息で、拳を反対の手の平に打ち付ける。
真空刃の連続攻撃は、彼が結界の詠唱を行う時間は稼いでくれたが、急ぎすぎて使い魔を結界内に取り込めなかった。
その結果烏にぶつかられたカマイタチは、その身体の魔力を奪われて動けなくなり、寄ってたかって食い千切られてしまったのだ。
アスレイは必死にアイデアをひねり出そうとする。
だが、焦れば焦るほど、パニックに陥りそうになっていく。
「このままではジリ貧だ。なんとかしねえと」
だが、すでに使い魔は使い果たした。新しく準備するにはそれなりの手順がいる。
逃げるにも、魔力を吸い取られる相手がこれほど多く空中から襲ってくるのでは、車を持たないアスレイに対抗手段は無い。
逃走するにも空中推進の魔法では、速度で太刀打ちできなかった。
「どうすりゃいいんだ。どうすりゃ」
アスレイは迫る死の恐怖に顔を歪めながら、改めて打てる手を考える。
その時何かがひび割れる様な音がしてアスレイは硬直し、そろりと振り返った。
視線の先の結界に変化は無いが、アスレイには結界を構築している魔力を烏に削られた事がわかった。
「このままでは破られちまうっ」
もう一度結界を張りなおしても、イタチゴッコになるのは目に見えた。
その内自分の魔力が尽きてしまうだろう。
アスレイは頭痛がするほど頭を振り絞って考え続ける。
烏達はすでに結界を覆い尽くし、外からみれば半球の黒い塊だ。
彼らは魔力を能力の限界まで吸収すると、その羽を散らして地上に落ちる。
結界の周囲にはすでに数羽の躯が転がっていたが、烏達はそこに張り付く事を止めようとしない。
荒々しくくちばしで突き爪で引っかき、結界の持つ魔力を吸収し続ける。
やがて最後の一突きで結界は大きく割れる音を立てながら消滅した。
烏はその内部にいた人間を襲おうと一斉に結界の中に殺到したが、そこには誰も存在しなかった。
烏の群れは、当てが外れたように、ギャアギャアと鳴き交わす。
だがそんな烏達の足元には、小さな魔法陣が地面に記されていた。
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