第56話 到着
桜とアスレイは、夕闇の中でタクシーから降り立った。
運転手は彼の手からお金を受け取り、急いでドアを閉め切ると、Uターンして発車した。
それは何かに追い立てられるかの様だ。
「俺の服装か?」
犯罪者のアスレイは、人の反応について臆病なほど気にかける事で、官憲を出し抜いてきた。
だからちょっとした違和感も、そのままに放置しない様にしている。
たしかに、夏にコートのアスレイは異様な風体には違いない。
それを言うなら少女の白尽くめも目立つはずだが、アスレイが分析した護符の視覚誤認効果で、一般人には髪色は黒に見えるので、理由にならない。
だが降りた駅で少女がタクシー拾った時、運転手は車に乗り込む彼に少し驚いた様子だったが、特におかしな反応は無かった。
「やはりこの雰囲気か」とこっそり呻く。
この山間の鄙びた駅前は、小さな駅舎と売店、駅前のロータリーを囲む形で喫茶店と本屋など数軒の店が並んでいる程度の場所だった。
通過した手前の駅には、それなりに大きな街もあったので、ここは終点が近いのかもしれない。
そして駅の端の方に停車しているタクシーを1台だけ見つけたのだが、どうやらたまたま、馴染みの先客があったらしく、降りて駅に向かう老夫婦に運転手は気安く手を振っていた。
「ラッキーだな。これでバスを使う手間が省けた」
少女は他人の金なので、快適さのみを重視しているらしい。
黒に黄色線の入った古い箱型セダンの運転手に声をかける。
「いいかね? 乗りたいのだが?」
運転手は連続して客が付いた事が嬉しかったのか、上機嫌だった。
「ああ、いいですよ。お嬢さんだけですか?」
こんな田舎で子供がタクシーを拾ったのが訝しかったか、それともお金を所持しているか不安だったのか、運転手はそう確認してくる。
「いや、彼も一緒だ」
そう答えた先のアスレイの暑苦しい姿にちょっと顔を傾げたが、大人が同乗するなら心配ないと判断し、頷いて後部座席を開ける。
「それでどちらへ?」
運転手の問いに「大黒屋はまだあるかね?」と尋ね返す桜。
「もちろん。あの宿は古いだけが取り得ですけどね」
口の悪い運転手は、桜の出した小旅館の名前に、行き先を了解したのか、車を駅前から突き当たり左右に延びる狭い道路を山奥側に曲がった。
「まあ、あそこの温泉と川魚料理は素朴だけどおいしいですよ」
そうフォローする運転手と会話を続ける桜は、ふと視線を外の景色へ送る。
車の走る道路は山にへばりつく様にカーブを繰り返し、交通量も少ないのだろうか、ガードレールもほとんどが錆び付いている。
電柱もコンクリートではなく木柱で、時代に取り残された景色が続いている。
だが、自然そのものは美しく、青空に白い雲が山にかかり、その緑の中から山鳥や烏達が鳴き交わす声が聞こえてくる。
「最近は秘湯ブームとかで、こんな僻地まで来る観光客の方もいるんですよ」
運転手の言葉を遮るように、「すまないが」と突然桜は行く先を訂正した。
「本当に、そこでいいんですか?」
タクシーの運転手は硬い声で確認する。まるで取り消した方がいいといわんばかりだ。
「ああ」
少女の反応に諦めた表情で、だが明らかに嫌々ながら「わかりました」と返事をする。
それからは、ここにおりて乗車料金を告げるまで、運転手は一言も口をきかなかった。
「オイ、ドウイウコトダ?」
タクシーが去った後、アスレイは使い魔を通じて話す。その声には微かに怯えが潜んでいる。自分で話せない訳では無いが、声を知られるリスクを考えて、自ら声は発しない。
「本当は、君を旅館で降ろしてここまでの運賃を借り様と思っていたんだが」
桜は億劫そうに説明する。
「まあ、あそこからなら、君の使い魔で私を追跡できるだろう?」
アスレイは途中で通過した旅館への細いわき道を思い出す。
確かに、ここまではほぼ一本道だった。距離はふた山越えたが、少女の護符の魔力の痕跡を辿れば、ここを見つける事は難しくないだろう。
「それにしても使い魔は乗車は無理と思ったんだが、私もまさか君が使い魔を着てくるとは意外だったよ」
少女の視線は、彼が身に付けるコートへと注がれる。
彼女の指摘通り、この濃いブラウンの皮コートは、使い魔の姿を服に擬態しており、彼が魔術を詠唱する時間を稼ぐため、攻守どちらにも利用できる。
彼も魔術師の弱点が、詠唱時間中なのは承知しているので、その対策として、カマイタチをまとい、盾と槍として活用しているのだった。
「ソウダ、ダカラオレヲ、フイウチハデキナイ。ナゼツレテキタ」
そう威嚇するアスレイは、少女に意志に関わらず張り付くつもりだった。
しかし少女の予定変更の理由が分からず、不安を感じてもいた。
「村に入ったとたん、見つかってしまったからな」
渋々と振り返った先には、こんもりとした杜がある。
その黒く大きな影は、禍々しさを湛えて辺りにどろりとした瘴気を垂れ流している。その上空には一羽の烏。
「大黒屋に迷惑をかけるわけにもいくまい」
アスレイは、悔しいが攻撃や防御に優れた魔術師ではない。
だが魔力探知については、師匠を上まわっていると自負しているし、実際この魔術は自分の性に合っていたらしく、他の魔術よりも発動効果が高かった。
そんな彼がその魔術を詠唱して周囲を確認する前から、この杜がある場所の雰囲気は異様だった。
一般の人間にもこれほど明確に分かる暗い魔力圧など、アスレイには経験が無かった。
「運転手が嫌がるはずだぜ」と心中で納得するほどだ。
少女は、ゆっくりとその杜の方へと歩いていく。
「オイ、ソッチハキケンダ」
自分が少女の身を狙う強盗だという事を棚にあげ、アスレイは直感で警告する。
「そうだな」
彼女は当然とばかりに頷くが、その歩みが緩むことは無い。そして付け加えた。
「君はここで待っているがいい。それか歩いて宿まで戻ってくれたまえ」
さりげなく酷い事を言って、そのまま杜へと向かっていく。
アスレイは、どうするべきかと周囲を見回した。
寂れた山の中腹にある、道路の下には、棚田が広がり、夕暮れの残照が紫色から青に変化しだしている。
こんな平和な景色に危険などあるはずもないが、アスレイはその臆病な直感を信じて生き延びてきたのだ。
それが、あの場所はアスレイだけでなく、あらゆる者に対して危険だと主張していた。
魔術師は、体中が拒否反応で痛くなるほどだったが、それでも護符への執念で無理やり歩を進め、彼女へついていった。
杜の入り口には鬱蒼とした闇色の木々が繁り、両脇では古い石灯籠が獄中の死刑囚の眼の様な、うつろな灯りを揺らめかす。
アスレイは敬虔なクリスチャンではなかったが、魔法の構築体系としての神話には通常の魔術師と同程度の知識もある。
だから、ここが日本の神社だという事は、大きな石の建築物の形から理解している。
だがそれにしてはここの雰囲気がおどろおどろしいので、神域とは思えない。
「むしろ……」
そう考えながら、少女の後からその石鳥居を潜ろうとしたアスレイは、砂利道の先に、何かが居る事に気づく。
生気は無く、高いひょろりといた朽木が路の真ん中に立っている様だ。
アスレイは、地獄の看守でも現れたかと錯覚し身震いをする。
「ここへ戻ることはならん」
その何かは、低く篭った男の声を発する。
こちらに語りかけているはずだが、独り言を呟くぼそりとした口調だった。
アスレイは夕の紫と夜の黒とが混ざり合う、空の暗さに目を凝らしながら、相手が錫杖を握る人間らしいと見当をつけた。そこから漂う気配は、人間らしさには程遠かったが。
「ごめん。わがままで」
少女は悲しそうに謝るが、相手はそれを受け入れる様子はない。
「帰れ」
朽木の如き男は一言で斬って捨てる。
「帰らないよ。大爺」
桜は、真っ直ぐ顔を上げて宣言する。
「ならん!」
桜の決意を込めた声に苛立ったのか、大爺と呼ばれた男は錫杖を振り上げ、石突を地面に突き刺す。
ずん。
玉砂利に叩き付けた錫杖は大きな音こそ立てなかったが、腹に響く衝撃が周囲の木々に撒き散らされる。
その瞬間、杜の闇が弾けて四方八方へと飛び散った。
アスレイは思わず顔を両腕で庇い、体や顔の周囲を横切る騒がしい闇の気配から身を守っていた。
その塊達が少し掠るだけで、自分の体内の魔力がごっそり削ぎ落とされていく。
このままでは、あっという間に魔力が枯渇して、その場に昏倒してしまうかもしれない。
アスレイは動転しながら目を眇めて正体を暴こうとする。
その目の前に黒い羽毛が風に舞った。
見回すと、さっきまで天を多い尽くすばかりの木々の葉は全て無くなり、枝だけが、死神の指のように空を囲っている。
その上には数限りない烏の群れが黒い星屑のように宵闇を埋めているが、杜から離れる事はない。この烏共が木々に止まり、葉が茂っていると思わせたのだ。
そんな逢魔ヶ時の神社の玉砂利の上には、高齢の山伏が立っている。
「進めば命は無いぞ、桜」
大爺の目はその言葉が冗談ではないと明白に語っていた。