第55話 アスレイの誤算
獲物が横のシートに座っている。
手を伸ばせば握りつぶせる程細い首に、紅いお宝がぶら下がっている。なのに、届かない。
アスレイはこの奇妙な状況の中、少女へ殺意が気取られぬ様、目を閉じて俯き、コートの襟も立てて顔を隠していた。
彼女の護符を奪い取る絶好の機会が、この珍妙な道中へと繋がった事について、どうにも承服出来ない。
しかもこの少女の不遜さといったら、アスレイの師匠にも劣らない。
たかっておいて、感謝の言葉には皮肉が満ちている。けっして友好な関係を築くつもりはないと言葉の端々から読み取れる。
まさに、呉越同舟ってやつだ。腹立たしい事この上ない。
まあいい、と気持ちを抑えてアスレイは心中で嘲る。
この少女がどこに向かおうと、護符の持つ加護の正体さえ解き明かせばアスレイの勝ちだからだ。
この時点でも五つの付与効果については把握した。
ひとつひとつの付与魔法も、高位の魔術師でなければ困難な精度だ。
アスレイはこんなにも複雑で多岐にわたる付与魔法の護符を見るのは初めてだった。
一生どころか、最低でも人生を百回遊んで暮らせる以上の値段は確実だと歓喜する。
まだまだ潜む魔法効果への期待に背筋をそくぞくさせながら、同時にこの護符が奪われた時の少女の絶望的な表情を思い浮かべる。
「見てろよ糞チビ、俺を舐めたことをたっぷり後悔させてやるからな」
アスレイは胸の内で宣言し、むっつりと閉じた口元をほんの少しだけ上向かせ、こんな事になった夜を思い返した。
◆ ◆ ◆
あの夜も、若造は少女のもとを訪れてた。
アスレイから見れば何故昼に来ないのかと不思議だったが、強盗犯の自分としては、夜の方が使い魔の気配を隠しやすく、餓鬼の魔術師に見つかりにくい気がして安心なので時間に文句はなかった。
あの餓鬼はいつもだと一時間程度居座って帰っていくのだが、その時は違った。
若造の結界が解けたと思うと、ベランダから二人の姿が消えていたのだ。
部屋の結界はさらに強力なため、窓ガラスは墨を流した様に、夜空を映すだけだ。
「けっ。いよいよお楽しみって訳か」
部屋の中にしけ込んだ男女がやる事を想像しながら、吐き捨てたアスレイの面には、どす黒い感情が浮かんでいる。
「あれは俺の物だ」
最初は護符への強欲からだった持主の少女への監視も、続けている内に少女自体が獲物へと変化していった。
よだれがしたたる如き声は妄念の色に塗り潰され、護符への飢餓感と少女への歪な欲望が、彼の中で既に溶け合っている事を示していた。
アスレイが自分の心の汚泥に浸かりながらも覗き続けた部屋から若造が出てきたのは、丑三つ時だった。
だが餓鬼の表情は冴えず、それを見たアスレイは「しくじりやがったな」と下種な感想を漏らした。
若造が去った事で、アスレイは監視の山場を過ぎたと考えていた。
しかし、その夜は常と異なる事態が起こる日だったらしい。
朝日が昇る直前の時刻、なんと少女が一人でベランダに顔を出したのだ。九階から下を覗き込み、なにやら思案をしている。
やがて周辺の街並みを見回していたが、ある一点を見て動きがとまる。
アスレイはその瞬間、心臓を鷲づかみにされた如く固まった。
なぜなら、少女はまっすぐにカマイタチのいる場所に視線を固定したからだ。
使い魔を通じて少女を除いていたアスレイは、自分が彼女に見つめられたと感じて驚いてしまった。
だが監視の使い魔は、彼女を直接見てなどいない。
あくまで、病院周辺を大まかに監視しており、また病院は監視範囲の端だった。
しかも、直接その範囲を覗かず、上空への魔力輻射をパッシブに拾い上げているのだから、そうそう簡単に見つかるはずがないのだ。
にもかかわらず、少女は確実に使い魔の存在を探知し、今は手招きまでしている。
アスレイは理由がわからず混乱しそうになったが、すぐにこれは千載一遇のチャンスだと気づいた。魔術師の餓鬼は今いないのだ。
「馬鹿が」
アスレイは嗤って使い魔に彼女をさらうよう命じる。どこか人気の無い場所で、存分にいたぶってから護符を奪えばいい。
カマイタチは主人の命令に従って、潜んでいたアパートの屋上から飛び出すと、途中の屋根や電柱へ跳びついて、直線的に目的の病院へ走る。
そして少女のベランダまで到達すると襲いかかった。
だが彼女の周りには護符による不可視の魔法障壁があった。
使い魔は障壁対策に真空刃を連続で浴びせる。障壁の攻撃ダメージの吸収限界を超えさせえる事で、動きを抑えてしまえば、かどわかすことも容易くなるからだ。
術者が自分を四方の壁で囲っても、その壁ごと持ち上げてしまえば、術者を誘拐するのに問題はないのだ。
ところがどれだけ攻撃を繰り返しても、彼女の動きは常と変わらない。
少女は最初こそカマイタチの姿に目を見開き、その攻撃に身構えていたが、その時ですら怯えてはいなかった。
そして攻撃に効果がないと分かると、納得したように頷いてベランダの端の方へと歩いていく。
その動きには、繰り出される風属性の攻撃魔法はまったく影響していない。
そこでカマイタチは、尖った指で彼女を羽交い絞めにして自由を奪おうとする。
こんな狭いベランダの中なら、逃げおおせるものではない。
追い詰めた使い魔は少女を抱きしめるように拘束したが、彼女の身体は腕の内側には無かった。
「!?」
カマイタチは、何度もおなじ動きを繰り返す。
しかし突っ立ったままの少女に触れることは出来なかった。
彼女は確かにそこに存在している。
こんな近距離で放った彼の魔力探知にも実在の反応を返すという事は、欺瞞魔法でも幻術でもない。
それでもカマイタチの指は、彼女を透過していくばかりで、掴む事はおろか接触する事すら不可能だった。
「ドウイウコトダ!?」
アスレイは思わず使い魔の意識を自分に切換え呻く。
「おお、会話できるとはありがたいな」
少女は年嵩の男性の如き口調で、使い魔を見あげる。
「君が最近、私を昼夜覗いているストーカー君かね?」
少女の質問にアスレイはぎょっとなり、カマイタチも動きを止めた。
「私は自分を監視する存在には鋭敏でね。無線経由だろうが、魔法経由だろうが、見られていると分かってしまうのだよ」
しかも監視する相手の姿が見えるのだという。
信じられないアスレイに、少女は証明してみせる。
「今、君は車の中にいるね。ここから二キロほど離れたコンビニの駐車場かな?」
その言葉で彼女が嘘を言っていないと判断したアスレイは、自分の居所が知られた不安に焦り出した。
アスレイがまともに反応できずにいると、少女はそのまま話を続ける。
「まあ、そんな事はいいのだが。実は私はこれから少し旅行をしようと思っているのだ。ところが先立つ物が無くてね」
少女は財布らしい薄い袋を見せる。アスレイは彼女がいきなり話題を転じたので、さらについていけなくなった。
「病院から出るだけならここから降りて歩いていけばいいが、その後の事を考えるとお金はいるからね」
彼女はカマイタチに向かって笑う。
「そこで、君の出番というわけだ。私をこれからもストーキングするなら後を付いてくるわけだし、ならばいっそ一緒に行動すれば楽だろう?」
こっそり追跡されると、私はへそを曲げて雲隠れするかもしれんよ?とからかいつつ条件を提示する。
「つまりは提案なんだが、私と同行する代わりに旅費を出してもらえんかね?」
アスレイは少女の提案に驚きつつも素早く考えをまとめる。
彼女を拘束するには彼女を守る魔法の対策を考える必要があるが、離れた距離からでは魔力探知にも限りがあり、これ以上は分析もままならない。
しかも、自分が車という手段でアジトごと移動している事がばれた。
そろそろこの国の警察も魔術師の可能性に気づいて魔法学舎へ問合せをしているだろうし、本当なら今すぐ出国するべきだ。
しかし、とアスレイは臆病な理性を強引にねじ伏せる。
ここまでやって来た事を無駄にするのはいやだった。しかも獲物から近づいてくる機会など二度とない。
一緒に行動していれば、少女を加護する魔法への対抗手段を手にいれる事も可能だろう。
粘っていたからこそ、今の様なチャンスを掴んだのだ。
なによりも、アスレイは護符を強く欲し、少女を為すがままに弄ぶという執念に囚われていた。
「ワカッタ」
アスレイが短く返答すると、少女も「では交渉締結だ」と答えた。
そして彼女は、ゆっくりと部屋の窓を閉じる。
その瞬間ミラーガラスに映った表情には、傲岸無知なアスレイにさえ何かを感じさせた。
しかし振り返った彼女は何事も無かった顔で、さっそくとばかりに彼に要求をする。
「ふむ。それでは私を地上まで降ろしてくれたまえ。飛び降りる際、はしたない格好は見せたくないのでね」
アスレイはその高飛車な物言いに内心舌打ちをして、風の魔法で浮遊移動を行い少女を病院の遊歩道に下ろす。
地面に叩きつけてやろうかとも思ったが、そろそろ早起きな病人が起きだしてきて騒ぎになるかもしれないと我慢する。
「車で向かえに来てくれたまえ」
少女は執事に命じるかの如く堂々とした態度で告げ、そうそう、と付け加える。
「ターミナル駅からは列車を乗り継ぐから、お金が足りなければ用意しておくようにな。あと、使い魔は列車に乗れんから君自身が乗車するのだよ」
「ふざけやがって」
アスレイは歯軋りと共に、早速自分が選択を間違えたのではないかと思い、糞生意気な少女に毒づきながら車のキーを回した。