第54話 懲りない主
「涼平さん!? 大丈夫ですか?」
俺は足元で割れたグラスを見ながら、美雨の焦った声を聞いていた。
今夜のアクアランプもあいかわらず混雑して盛況だったが、さすがに閉店間際のこの時間ともなると、人はまばらだった。
それで俺は目立たぬ様に早めに店の片付けをしていたのだが、洗ったグラスをカウンターで磨いている途中、床に落としてしまった。
「大丈夫です、すいません」
彼女を見ず口数少なく謝る俺に、店長は指摘する。
「今日はこれで三回目ですね。これでバイト代から天引き決定な雰囲気です」
冗談ぽく注意するが、店長の店関係発言はいつもマジだった。
だが彼女の言う事ももっともだ。
俺が磨いているグラスの中には、オールドバカラやロブマイヤーの骨董もあるので、価格が十万円以上する逸品も混ざっている。
ここに雇われたバイトは、店の調度品やテーブルウエアの価値を知らされると、取り扱いが慎重になり、特に高価格のガラス類はなるべく触らない様にするため、結果的に美雨さんや俺が磨く羽目になるのだった。
今回俺が壊したワイングラスは一個一万円程度だったので、被害は少ないが、天引きされれば普通に痛い金額だ。
「今日は、それ以上グラス類には触れないで下さい」
店長として美雨に注意され「すいません」ともう一度謝罪して、俺はすごすごと厨房にある掃除道具を取りに向かう。
気がかりなのか、眉をひそめながら見送る美雨が目の隅に入ったが、俺は視線を逸らす。
気合を入れなおそうと強く頬を叩いて仕事に戻ったものの、その後も完全に盛り下がった気分のままバイトを終えた。
家に帰る為、俺が店の勝手口から外へ出て息を吐いていると、後ろから声をかけられる。
「主、大丈夫ですか?」
美雨さんは再び俺へ尋ねた。
その瞳には、さっきガラスの破片での怪我を心配した時とは違う、使い魔としての懸念が宿っている。
「ああ。計画に変更は無いよ」
俺はことさら強調するようにそうきっぱり言うと、海岸通りの店が並ぶ路を山側にある屋敷に向かって歩き出す。
「待って下さい」
美雨さんはそんな俺を呼び止め、勝手口に鍵をかけて横に並んだ。
「心配ですから、今夜は歩いて一緒に帰りましょう」
そしてゆっくりと歩き出す。
この時間になると、海岸通りの店はほとんど閉まって、外観がライトアップされた店も営業は終了しており、幹線道路にでるまでは人通りも少ない。
そんな街灯だけが照らす通りを二人で進む内に、俺はこのもやもやした気持ちを、つい彼女に向けてしまった。
「一緒に帰るのは俺が信用できないから?」
そう尋ねる俺を悲しそうに見やる彼女に、美雨さんの言葉を素直に受け取れない自分が情けなくなった。
「ごめん」
俺が目を伏せると、美雨さんは穏やかに微笑んで許してくれる。
「いいんです。実際、信用できませんし」
その慈愛に満ちた眼差しが俺を包み込んでくれた日々、彼女が俺を裏切った事などない。
期待に添えないのは、いつも俺の方なのだ。
だから俺は、美雨さんの突っ込みに口元を笑いの形にする。光の加減によっては、おどけた表情にも見えただろう。
「わかってるよ。最近マキが俺の後ろで見え隠れしてたしな」
美雨さんの式神が俺に引っ付いていたのは知っているし、彼女も隠していたわけじゃない。
でなければあの夜病院に向かう道で、後ろどころか時々俺の前に回って明るく手を振る式神が間抜けすぎるだろ。
まあ、優柔不断な弟子への無言のプレッシャーってヤツだ。ほんと、俺の師匠は厳しいぜ。
「主、怒ってますか?」
幹線道路との交差点で立ち止まった際、美雨さんは殊勝な顔で俺に尋ねる。
長年仕える使い魔は、この表情に勝てないと分かっているくせに、聞いて来るんだよ。
まったく。
「俺が決めたんだよ、美雨さん」
歩行者の信号が青になる瞬間、俺は使い魔に強いられて選択したんじゃないと言い切って横断歩道を横切るために歩き出す。美雨さんはその答えに嬉しそうにうなずき、連れ立って歩く。
「この病院ですね」
美雨さんは、満月に照らされた建物を見上げる。
この時間の病院は、夜の暗闇に白い壁が引き立ち、大きな墓石の塊に見える。
「ああ、あそこのベランダから今にも飛び降りそうな雰囲気だったんだ」
俺は、桜と出会った時を思い出していた。
「私もここへは来たんですが、主の帰宅ルートだったので、魔力の残滓があっても不思議に思わなかったんです」
美雨さんは、子供の寄り道を直ぐに見つけられなかった親の様な顔になった。
「桜は生意気で大人ぶったヤツだったけど、寂しかったんだと思う」
俺はあの少女とのふれ合いの中で感じた事を素直に話した。
「だから俺がもう来ないと言った事でどれだけ傷つけたか」
「だから落ち込んでウジウジしているんですか?」
俺の言葉に、美雨さんの反応はどこか冷たい。
「そうだよ。悪い?」
俺が開き直ると、美雨さんはやれやれといった顔になる。
「ほんと主は小心者ですね」
言葉に詰まった俺に、使い魔は瞳の中心をひたりと見据えて問いを重ねた。
「ところで主。桜さんの事でまだ私に告げていない件がありますね?」
俺は相変わらず鋭い彼女に内心驚きながら平然を装う。
「いや、俺が駄目駄目ってだけだから」
「それは知ってますけど」
我が使い魔は俺の台詞を全くフォローせず追求の手を緩めない。
「ギリアムから連絡が来ましたよ?」
美雨さんが手札を出した瞬間、俺は刑事美雨が再登場していた事に気づいた。
「ティンが頼み事があるらしい」と爺さんの口調を真似た彼女は、俺の方に音も立てずに近づく。
「師匠には内緒にしてほしいと言ったらしいですね?」
ぐっ。あの爺い、こっそり頼むと言ったのに。
「弟子が師匠に秘密だと言ったら、逆に師匠へ伝えるに決まってます」
美雨さんは、俺の心中を的確に読んでいる。
読心術の魔法は開発されてないはずだけどなあ。
「それでギリアムに、何を頼むつもりなんですか?」
首をかしげながら俺に顔を寄せてくる。
満月のはずなのに、俺の視界は彼女の青い闇の中に包まれた。
「えーと、夏のバザールに持っていく異世界品について買取価格の交渉でもと」
俺は頭に思いついた言い訳を必死で紡ぎだして、この場を生き延びようと足掻いていた。
「いや、あとはまあ、なんというか」
だが、一方ではすでに敗北を認めつつあったことも否定はできない。
「あ・る・じ?」
いつもの様ににっこり笑う美雨さんに、俺が敵うわけはないのだから。
◆ ◆ ◆
俺が美雨に問い詰められる数日前。
太陽が一番高い位置になり、今日もすでに気温は三十五度を超えている。
そんな外とは別世界の冷房のよく効いた列車の窓から、桜は流れる景色を興味津々で眺めていた。
すでに二つの路線を乗り継いで、今特急電車は海沿いの線路を走り、キラキラと輝く海面が目の前に広がる。
「凄いものだな! 本当の海を初めてみたぞ」
今にも歓声をあげそうな勢いで、海上に浮かぶ島々の美しい姿をかぶり付いて見つめている。
指定席の隣の人物がなんの反応も無いので、桜はそっちに視線を送る。
「なんだ、詰まらなそうだな?」
桜から声をかけられた人物は、夏だというのに長袖の服を着て、コートまで羽織っている。
無言のままの相手に頓着せず、桜は会話を続ける。
「いやあ、助かったよ。私は無一文だったからな。病院から出られたとしても、ヒッチハイクするしか仕様がないと覚悟していたんだ」
桜は、キオスクで買わせた緑茶で喉を潤す。
その前の網カゴには、昼食の幕の内弁当の空箱が押し込まれている。その横の袋にはまだ未開封のお菓子も結構ある様子だった。
「色々買ってもらって悪かったな。まあ、旅は道連れ世は情けとも言うし、お互い様ってことでよろしく頼む」
桜のあっけらかんとした発言にも、相手は沈黙を通していたが、態度からは納得出来ない様子がありありと伝わってきた。
「いや、私があの病院に来るときには、すでに意識が朦朧としていたので行きの行程については、ほとんど覚えてないのだよ。だから今度電車に乗ったらしっかり見ておかないとと思っていたのだ。」
桜は言い訳のように説明しながら、風景を楽しむ事に余念がない。
「すまんな。私の望みにつき合わせてしまって。まあ、君なら別に問題ないだろうと思ったんだが、迷惑だったかな?」
からかうような桜の問いにも一切反応せず、相手は彫像の様だ。
だが桜もそんな相手の態度にはすでに慣れているらしく、独り言と代わりない会話にも飽きないのか、気楽な調子だった。
「おお、あの筏は何を養殖しているのだろうな? 病院食に慣れた私ならきっとなんでも旨いはずだ。そうそう先ほどの弁当も美味しかったな」
桜は空箱をとん、と軽く叩きながら褒める。
「たぶん夜までには目的地に着くと思うのだが、もし遅くなるようだったら、どこかで夕食も食べねばならんな。悪いがその場合は君のおごりで頼むよ」
文無しの桜にあまりに都合の良い話をされながら、隣の席の男は、どうしてこんな事になったのかと自分を呪っていた。
彼の名前はアスレイ・チャック・タカナカ。
桜の護符を狙う強盗殺人犯だった。