第46話 銀の水盤と温室の花
美雨は、テーブルの上に置いた聖銀の水盤に泉水を注ぐと、指で魔法陣を描いて撹拌した水の流れが収まり、その表面が鏡のように滑らかになるのを待っている。
大きさは大人が両手で抱える程のサイズだろうか。
このなだらかな曲線を描く、径の広いボウルの様な器は、内側に彫金されており、その精緻なレリーフが天井の電灯の光を反射して輝やいている。
アクアランプの地下室にあるこの部屋は、地下倉庫の隣だが、魔術的にロックしてるので、鍵を差し込んでも美雨と涼平以外には開けられない。
今日は夕方まで休みにしているので、今の店内には誰もいない。
ようやく、水の流れが止まったと判断した美雨は、その上に一片の花びらを落とした。
その羽のように軽い白い花びらは、そのまま水面上に浮かぶと透明に姿を変じ、小舟の如く銀の湖の中を漂った。
この花びらも異世界からの召喚物質だ。
「劫波の花」の花弁は長い長い時間の検証に使われる魔法素材で、循環宇宙論やビッグバン宇宙論とは異なる切り口から、因果律の変動についてその影響を読み取ることができる。
ただ、現代科学というよりは占星術、あるいは未来予測の卜占系のため、水盤や花弁の動きの意味を理解出来ない限りその価値はわからない。
「やはり、因果律の同期にズレが広がっています」
長い時間をかけてその動きを見つめていた美雨は、独り言を呟く。
権威ある魔法学舎で賢者の地位にまで上り詰めた優秀な魔術師は、その類まれなる知識から、そう推測する。
美雨はこの事を密かに懸念していた。
彼女は由々しき問題になりそうな案件についてリストアップし、今後の因果律への分岐影響範囲まで含めて、再計算の必要を感じる。
「やはり、あの少女との関係性が問題になりそうですね」
美雨は、涼平が偶然知り合った桜という少女について、主が普段とは違う対応をしている事に気がついていた。
「主自身は自覚が無いようですが……」
美雨はため息をつく。
とはいえ、このレベルの誤差であれば、現時点では計画実行そのものに支障は無いと結論づけ、誤差の修正方法について意識を向ける。
主には悪いが、これからは今よりも主の行動について把握する必要がある。
目的のためならば、暗黙のルールを破ってでも、主の気まぐれな行動を抑えなければならない。
美雨は髪を梳きながら、誰に話しかけるでもなく語りかける。
「倫敦で仕事を頼んだばかりで悪いけれど、主に付いてもらえますか?」
その応えは聞こえないが、彼女は満足したのか頷いた。
「それと、主にこれ以上桜さんとの接触を禁じる必要がありますね」
美雨がそう独白した時、携帯が震えた。
彼女が通話ボタンを押すと、そこからは金髪教授の元気な声が聞こえてくる。
「おっはよ、ミューちゃん」
「倫敦は午前三時過ぎだと思いますが」と他人行儀な口調で返すと、向こうでは「そんな言い方やめてっ」と叫んでいる。
「それで、どうしたの?」
美雨が尋ねると、ランゼットは嬉しそうに答えた。
「ケリつけたわよ」
何処となく、高揚した声なのは、戦闘直後の興奮によるものか。美雨は満足げな彼女に上手く運んだ事を知りつつ質問する。
「墓地の件?」
「そう。ミューちゃんの式神のおかげでアジトを急襲して、罠を張った魔術師をさっき捕縛したわ」
その結末は当然だったが、引っかかった点について再度尋ねる。
「捕縛?」
「……まあね」
ランゼットもそこは気に入らないらしく不満げだった。
「ベルにしては、珍しく温情を見せたのね」
美雨の言葉の裏を読み取って、第三部会の戦闘指揮官は口を濁しだす。
「いや、私は落とし前キッチリ付けたかったんだけど、第二部会の監査官が過剰殺傷はだめだって許してくれないのよ」
美雨は、アドニスを乙女にした様な巻き毛の事務員を思い出すと微笑んだ。
「ベルにも本当に守りたい人ができたのね」
そう思ったが口には出さず、代わりにやんわりとからかう。
「教授ともなると長いものには巻かれてしまうのね」
ランゼットはその嫌味の意味も正確に理解して反論する。
「オニール先生は別格だったわよ。あんな破天荒な人は今の教授陣に誰もいないし」
「フランクリンさんに聞いてみれば? 多分、一人だけいますって答えると思うわ」
そんなはずは無いというランゼットに内心苦笑しつつ、美雨は告げる。
「報告してくれてありがとう。そっちは夜なんだからさっさと寝なさい」
じゃあ、そう言って電話を切ろうとする彼女に、ランゼットはあわてて伝える。
「待って。言いたい事があるのよ」
「何?」
問い掛ける美雨に、金色の獅子と呼ばれるランゼットが小さな声で告げる。
「……ありがとう」
「敵の居場所を見つけるくらい、ベルでもすぐ出来たとおもうけど」
「そうじゃないわ」
珍しくカンの鈍い美雨にちょっと言いよどんで、ランゼットは再び感謝の言葉を告げる。
「ありがとう。……許してくれて。墓地に連れて行ってくれて」
ランゼットはあの日からずっと待っていたのだ。美雨から手を差し出してくれる日を。
過去の過ちから前に踏みだせるきっかけを。
深い想いが詰まった台詞に、美雨は柄にも無く感情が揺れてしまう。
「私こそ、こんなに遅くなってごめんね」
ランゼットは「いいの」と言うと、これからの二人について願う。
「これからも会ってくれる?」
「機会があればね」
美雨の冷静な回答に、まさかまだ怒りを解いていないのかと不安げな口調で、美雨の名を呼ぶ。
「ミューちゃん」
美雨は嘘をつかなくてもいい表現で、ランゼットに気持ちを伝えた。
「機会があれば会うわよ。親友でしょ」
「そうだよね、親友だもんね」
ランゼットは、美雨から親友と言われた事で機嫌を直し、それからしばらくスーの事をのろけて電話を切った。
携帯を見つめながら美雨は反省する。
私も主を責められない。使い魔の友人関係など、主の目的には何の意味も無い。
親友でも関係性は不活性化させるべきなのに。
「まあ、きっと今度会うまでには、私達はこの世界から居なくなっていますしね」
どんな優秀な魔術師も、全ては予測できない事を熟知しつつ、あえて楽観的な観測をする美雨。
「最近どうも主に似てきた気がします」
そういってぼやき、水盤に視線を戻した美雨は、その動きを再度分析検討しだした。
◆ ◆ ◆
「暑いわね、この温室は」
裏庭の端にあるガラス部屋は、上の窓が開くようになっていて、空気の入れ替えが可能だ。
だが、今日のような風の無い真夏日では、役割りを果たしていない。
委員長の感想を聞きつつ「まあ、冬にこそ真価を発揮する建物だからな」と説明する。
里緒と龍真は屋敷の台所で、カレーとデザートの準備中だ。
二人はこの温室には何回も来たので、興味は無い様子だった。
沢山の種類の鉢には、サンダーソニアなどの北の方で育つ花なども植えられているが、本来なら、こんな気候では育成しない。
だが、美雨さんとこの温室に魔法を付与し、鉢の周辺へ限定的に育成条件にふさわしい環境を再現したので、周りの暑さに関係なく、植物達は元気だった。
「あら? これって見慣れない株ね」
委員長が指差した先には、緑というより紫に近い葉を茂らせる、撫子の様な切花と思わせる鉢があった。ただし、その花はまだ濃い紫の蕾に包まれていて、どんな花が開くのかは想像できない。
「ああ、これはどっかの花屋で買ったんだけど、どんな名前なのか忘れちまったな」
俺が頭をかいていると、委員長はその蕾を見ながら、「きっと綺麗なんでしょうね」と花を想像している。
次の赤い千日紅へと目を移して「この赤もあざやかね」と花を触る。
俺は紫の蕾の本当の由来について委員長に話そうかと考えていた。そんな俺の耳に、彼女の懸念に満ちた声が届く。
「里緒達、なんか変だと思っているわよ」
委員長は俺の方を見ずに話はじめる。
「まあ、俺も完璧な人間じゃないからな」
俺は、冷静に言ったつもりだが、彼女は何をいまさらといった感じで鼻を鳴らすと、厳しい顔つきで指摘した。
「里緒を傷つけないでね」
「わかってるよ」
俺も思いがけず固い口調で返してしまった。
温室の中には沈黙が降り、互いに次の言葉を捜していたが、結局、里緒達が「カレーできたよお」と呼びに来るまで、俺も委員長もその件を蒸し返す事はなかった。