第42話 獅子の昼食
「マルゲリータ追加よ」
テーブルの前に並べられた最後のピッツァのピースを胃袋に収めながら、金の獅子の食欲に衰えはない。
紅いマニキュアの爪を汚すことなく、ランゼットは器用に生地を摘み上げて、一枚丸ごと平らげてしまった。
もともとピッツァは一人一枚が基本で、日本人の様に分けて食べたりはあまりしないらしいが、これが二枚目でさらに追加となると、男性でもそれなりの量になる。
しかもそれだけではないのだ。
一応、食前酒代わりにパブでエールを飲んでから、三人でこの倫敦で評判の伊太利亜料理店に乗り込んだのだが、帆立のカルパッチョの前菜とタリアッテレのミートパスタ、ミネストローネのスープはこの獅子にとってただの手始めだった。
ランゼットは黒鯛をバジルで香り付けしたグリル、肉料理として仔牛のステーキオリーブ風を特注で一キロ焼いて平らげ、その合間に副菜の生ハムとトマトのサラダをガシガシ食べている。
もちろんイタリアワインのバローロの逞しい辛さや、ヴェルナッチャの切れのいい苦さを、舌と喉で味わうことも忘れない。
しかもドルチェに入る前にナポリピッツァを追加でオーダーし出す始末で、あまりの大食ぶりに美雨とスーは、見ているだけで満腹になって来て、今やフォークとナイフをのろのろと動かすだけだ。
「ベル、あなたそんなに食べて大丈夫なの?」
美雨は再会した直後の様なよそよそしい口調はすでに止めている。
今は、呆れた顔でワイングラスを持ち上げ、そのガーネット色の光沢と濃密で心地よい香りを楽しみながら、口に含む。
その口腔内に広がるビロードの様な液体は、快感とさえいえるほどの味わいを醸し出していた。
「大丈夫よ」
ランゼットはにこやかに返答して、追加のピッツァをかじる。
生地に乗ったモッツァレラの芳醇な深い味と、サンマルツァーノ種のトマトへふりかけられたオリーブオイルとバジリコの四重奏は、彼女の表情をさらに愉快なものへと変えていく。
「ベルは自分で作らないから、ここまで食欲旺盛だと、あなたも苦労するわね」
美雨はランゼットの恋人に声をかける。
スーは、頻繁に教授の部屋で作る二人分の料理の事を思い出し、「大変なのには慣れてます。いつもの事ですから」といった諦めの表情で答えた。
「フランクリンさんは、まだ弟子は採ってないの?」
「はい。魔法学舎の職員は、弟子を取らなくても正式な魔法名を名乗れますから、急いで選ぶ事もないですし」
美雨はその返事に頷きながら「でもベルの相手をしてたら、色々大変だし、弟子の指導なんてとても無理じゃないかしら」とスーの将来を心配する。
「そうなんですけど……」
教授の起こす騒ぎを思い出し、その後始末に追われる日々の彼女もため息をついている。
すると、ランゼットは食べるのを中断して、ここだけの秘密を漏らすように、スーの頬っぺたを軽く押しながらニヤリとして美雨にささやく。
「あのね、食欲とあっちの欲望は比例するのよ。だから相手も大変なの」
スーはそんな意味で答えたつもりは全く無かったので、頬を染めてその会話が聞こえなかったふりだ。
そして淡麦色の白ワインのグラスで顔を隠すように、ヴェルナッチャの繊細な匂いをかぎ、わざとゆっくりそのきりっとした辛さを味わっていた。
ところが「そうなの?」と平然とした顔の美雨が、わざわざスーに尋ねてきたので硬直する。
その予想外の突っ込みにワインが喉に通らず、次の瞬間むせて咳き込むしまつだ。
スーは、そんな質問をしたとは思えない清楚な美女を見つめ、顔中がぼうっとマルゲリータのトマトの様に染め上がった。
「あらあら、ベルの恋人は可愛いのね」
美雨がにっこりすると、その美貌は輝きを増して、ワインに酔った様に頭がクラクラしてしまう。
ランゼットはそんなスーの様子を見て「むー」と面白くなさそうだった。
「ミューちゃん、スーは私のだから。獲っちゃ駄目だからね」と美雨に釘をさしてきた。
「ベル、私がそんな事しないのは知ってるでしょう」
そう返す美雨に対し、「ミューちゃんは無意識に崇拝者を増やしちゃうからっ」と反論している。
そうかしら、と首をかしげる東洋の女神を見ながらスーは悟った。そしてその感想をそのまま二人に告げる。
「ラベールさんはやっぱりランゼット教授の親友です」
それを聞いたランゼットはわが意を得たりとばかりに頷いてスーを褒めた。
「やっぱりそう思うでしょう。さすがは私の恋人ね」
だが美雨はのんびりとした雰囲気のままスーに説明する。
「フランクリンさん、私はベルの親友ではないんですよ」
「ええっ。ひどいっ」と嘆くランゼットを無視して、美雨はスーに言葉の意味を明かした。
「何故ならランゼット教授は、私の師匠なんですから」
「ほ、本当ですか!?」
スーはその発言に仰天してしまった。
ランゼットの美雨への態度は普段の教授としても異例だが、師匠が弟子に取るものとは、とても考えられなかったからだ。
「あ、あえて言うなら逆じゃないでしょうか?」
事務員は混乱して思わずつぶやいた。
スーは、ランゼット教授に面会を求める人物について全て事前に調査をしている。
教授自身が認めても、魔法学舎にとって問題があれば、面会の許可は降りない。
魔法学舎の教授という立場では、保安上の観点から、それは絶対に必要な規則だ。
もっとも表の顔である教授関係なら大体は魔法学舎の総務部で確認すれば済む話だし、倫理委員会の荒事がらみでも、諜報活動や情報分析が専門の第二部会所属のスーには、その調査になんの支障も無い。
そんな中、一枚の面会許可証が提出されてきた。
「書類仕事の大嫌いなランゼット教授が、面会許可証を自分で作成するなんて、珍しい事もあるわ」
そう思いつつ、スーは相手の情報を検索した。
ところが、該当のミューズ・ラベールについては、この魔法学舎の修了生という記録以外、すべて機密項目となっていた。
第二検討部会でも閲覧権限を持つ者は、部会トップのグラム部長だけだった。
好奇心が湧いたが、これではスーの権限で判断出来ず、上司の部長に面会の可否について確認する必要がある。
すると当のグラム部長は、該当者の名前を一瞥してから悲しそうに笑った。
「この訪問者を拒否したら、僕はアーセナルの砲撃手がゴールへ蹴る球よりも速く、ランゼット教授にお尻を蹴り飛ばされて天国に逝くよ」
そしてあっさり許可証に署名したのだった。
スーが、ランゼット教授に許可証を確認してもらいながらその話をすると、「チェルシーのぼんぼんグラム坊やにしてはいい判断ね」と至極満足そうだった。
それでスーはさらに興味を引かれ、その情報収集能力を随分駆使したが、わかった事は美雨を案内する途中で確認した内容がほとんど全てであり、それすらも大変な秘匿情報として扱われていた。
「私はミューちゃんの師匠だけど、親友だって思ってる」
スーが自分の思いから戻ると、ランゼットが美雨の醒めた見解に必死の表情で言い募っている状態だった。
「ね、ね、ミューちゃんもそう思ってくれるよね」
本気で泣き出しそうな教授の表情は、スーにはとても新鮮だった。
教授の恋人としては、まださほど時間は経っていないが、いままでと違う感情が湧き起こってきて、なんとなく穏やかな顔つきになる。
スーは普段綺麗で勇ましいこの女性が、今なんだかとても可愛く思えたのだ。
美雨はそんなスーの表情の変化を知ってか「わかったわ、ベル。私達は師弟だけど友達でもあるわね」と言い直した。
「違う、親友」
半泣きでさらに繰り返すランゼット。
そんな彼女の金髪をゆっくりと撫でながら「そうね。親友ね」と肯定すると、ランゼットはやっと安心した様に眼を閉じて美雨の手の平の感触に集中している。
子供の様な彼女を見つめるスーへ、美雨はこっそり片目をつむって願った。
「大変だけど、いい娘だからよろしくね」
美雨の優しい微笑みに、スーは笑顔ではっきり答える。
「はい、大変なのには慣れてます。いつもの事ですから」
その後はデザートだったが、今日は甘いドルチェを避けて、さっぱりとフルーツ数種をカットした物とコーヒーでしめた。
話をしながらゆっくりと食事をしたので二時間程になったが、本場の伊太利亜なら特に長すぎるわけでもない。
ランゼットも久しぶりの美雨との食事を存分に楽しみたかったので、この店を選んだのだった。
「ミューちゃん、これからどこ行こうか?」
今日は美雨と一緒にいる気満々のランゼットに、美雨は一応尋ねる。
「ベル、仕事は?」
「午後から休暇をとったんだ」
心配御無用と予想通りの返事をする彼女に苦笑しながらスーを見ると、学舎の事務員も「私もです」と頷いている。
「どこに行く? 日本の観光客っぽくバッキンガム宮殿の一般公開? それともBBCプロムスやってるロイヤルアルバートホールでクラシック聞き放題?
どんな指揮者のチケットでも特等席を絶対手に入れるわよ」
そう勢い込んでくるランゼットに、美雨はあっさり答える。
「今日は時間がないから、それはまた今度にするわ」と断るとランゼットはがっくり来た様子だった。
しかしめげずに「せっかくなんだから学生時代に戻って、一ヶ所ぐらい付き合ってよお」と聖母に祈る如く手を組んで、今度はおねだりモードだ。
その隣では、教授の「かまってくれくれ攻撃」をひらりとかわす美雨を見ながら、「こんな風に教授をあしらえるなんて……」と尊敬の眼差しになっているスーがいた。
「ごめんなさい。私も行きたいところがあるから」
美雨は再度断る。
「ミューちゃんの行きたい所があるんなら、そこでいーよっ」
あくまでも離れないランゼット。
美雨は諦めたように「無理に付き合ってくれなくていいのよ」と妥協した。
「大丈夫だって。それで何処へ行きたいの?」
ランゼットはスーに頷きながら行き先を確かめるが、美雨の示した場所を聞くと顔を強張らせて沈黙した。
「ウエストノーウッド墓地よ」
◆ ◆ ◆
キングス通りからアルバートブリッジを渡り、午前中に美雨の歩いたバターシー公園を横目に、南へ。 クラップサムのチューブ駅付近を通過して、ノーウッド通りまでくると、そこにくだんの墓地がある。
「教授、もう少しスピードを落としたほうがいいのでは」
スーは制限速度を遙かに超えた車の後部座席で、今にも首都警察がサイレンを鳴らして追いかけてこないかと心配になり、ちらちらと後ろを見ていた。
ランゼットはささいな点に配慮するつもりは無いらしく、今も対向車線にでて追い越しを敢行すると、向かってくるトラックのクラクションに怒鳴られながら、正面衝突寸前で平然と元の車線に戻している。
そんな車内で美雨は目的地に向かいながら、助手席で少し曇って来た空と流れる街の景色を眺めていた。
「ベル、あなたまだこれに乗ってたのね?」
美雨は窓を開けて懐かしそうに、炎の赤に塗られた1986年製ヴァンテージの車体へ指を滑らせていく。
「通勤にはラゴンダの2世代目使ってるけどね」
ハンドルを握ったランゼットは、同社のセダンを挙げながら肩をすくめる。
「でも、私はこっちが好き」
なんでも無い風に話しているが、美雨は、ランゼットの態度がぎこちない事に気づいていた。
この車をあえて選んで来たのも強がりだとわかっている。
この車は美雨がまだキングスロード魔法学舎の学生で、ランゼットが魔法学舎の新任講師の頃、よく乗り回していた年代物のV8だ。
でもその時は必ず助手席にランゼットが座り、美雨の指定席は今スーがいる後部シート。
そしてこの暴走する紅のヴァンテージは、機会があると譲れとねだる金髪講師の物ではなく、陽気な赤毛の運転手が持主として手綱をさばく、頑固で逞しい鋼鉄の馬だった。
ランゼットには悪かったが、目的地を言えば、多分彼女は来ないだろうと美雨は覚悟していた。
でも、彼女は一緒に来た。
……親友を見くびっちゃ駄目ね。
そんな彼女の成長が嬉しくて、美雨は皆、時と共に変わっていくんだとしみじみ思う。
ここの墓地は緑の多い小高い丘に墓石が立ち並ぶ地形で、周りには教会や裕福な子弟の私立学校が建っており、荒涼とした場所ではない。
だが、ここの墓地に漂う空気に、厳粛な重さを感じる人は案外多い。
それは、この静かな墓地の地下に、世界でも有数の巨大な共同墓地が存在するからだろう。
この歴史的な遺構には、今も20万体以上の遺体が埋葬されており、その迷路の如き通路には、未だ発見されていない深い地下へのトンネルと、さらに多くの死者達が葬られる部屋があると噂される。
墓地の敷地に接するウエストノーウッド図書館の前で教授がアストンマーチンを止めると、スーは魔法学舎の駐車許可証を出して、図書館の職員に車の世話を依頼した。
「じゃあ、行きましょうか」
美雨が静かに告げる。
そして、三人は灰色の雲が午後の光を遮る空模様の中、墓地の入口から敷地へと入っていった。
倫敦ネタはもう少し続きます。