第4話 月の妖精
月明りの中、俺は大きな建物の傍までやって来る。
街中でもこのあたりにはここまで背の高い建物が少ないのでよく目立つ。
ここまでくれば自宅まではあと十五分ほどだ。
「もう少しバイト先から近いといいのに」
ぶつぶつと言いつつ十階以上はある建物を見あげる。
この辺は幹線道路にも近いし良い立地だ。
俺の好みから言えば、郊外の分譲住宅団地の方が好きだが、市街地の分譲マンションも悪くないと思う。
入り口付近はライトアップされており、ここには不審者も入りにくかろう。
深夜ということもあり、ほとんどの部屋の明かりは真っ暗だ。
柵を挟んだ敷地内には木立も多く、簡単な遊歩道や奥には小公園まである贅沢な設計になっている。
俺は小公園の植え込み辺りや遊具をなにげなく眺める。ここなら管理された芝生もあって子供は大喜びで遊ぶだろう。
近くに住む子育て中のママさん達も、古い遊具の地区公園より、ここで公園デビューしたいに違いない。もちろん駐車設備もばっちりだ。
「俺んちも由緒だけはあるんだけどなあ」
自分のぼろ屋敷を思い起こしながらつい値段を想像してしまう。
この道路沿いで、かなり不便なところにあった分譲マンションの折込チラシを見たことがあるが、一部屋四千万円以上だった。
それなりに街中なこの場所で、この規模のマンションを建てたら最低でも七千万円かなー、と勝手に想像し、もう一度建物を見上げながら通り過ぎて行こうとした。
突然、白い姿が建物の窓から現れた時、俺は幽霊を見たのかと思った。
上の階に現れたその姿は、幽霊が間違いなら、月の妖精といった様子で、長い髪を風にそよがせている。
ぼけっとその様子を眺めていた俺だったが、その内その妖精がベランダの手すりの上によじ登りだしたのを見て、思わず柵を越え敷地の中を駆け出した。
「おいおい、アブねーだろ。あそこは……九階じゃねえか」
走り出したと同時に黒天馬の魔法を切って、白天馬に全て切り替える事で、俺の体重は四十キログラム軽くなっている。
次に魔法で筋力強化を行う。黒い右目が金色に輝き出す。
俺が魔法を使う際、必ず発生してしまう症状であり、そのため人前でこっそり魔法を使う事は困難だ。
代わりに右目の眼球内で呪文の詠唱が刹那に行われるため、発動までの時間は他の魔術師では太刀打ちできない早さを獲得したけどな。
「〔手力男〕」
俺は魔法効果発動の鍵語を呟くと、ぐんとストライドを広げて一気に敷地の芝生を横切る。
対象の部屋の下近くにある銀杏の木に向かって地面を蹴ると、幹に足が触れたと同時に体を捻り、反動を生かして建物の方へ体を飛ばす。
そのまま足の筋力と反射神経で壁を上へ上へと登り、九階まで来ると隣のベランダの手すりの上に屈んで、ふっと息を吐いた。
そこには、全身に白銀の光を浴びる少女がいた。彼女自身に反射した月光が周囲をぼんやりと照らす。
俺はどこか幻想的な景色に息を呑む。ここにいるにも関わらず、少女の存在感が薄かったからだ。
だが、あらためて彼女を見ると、それは錯覚だと思える。
月の妖精は文庫本を開いているが、景色を眺めながらであり、熱心に読書中と言うわけでもないらしい。いつの間にか幅の狭いコンクリート製のベランダの手すりの上に座って、足を交互にブラブラさせている。
背丈からすると小学校の高学年ぐらいの少女だが、顔は長すぎる髪に覆われて鼻の付け根の下からしか見えない。
まるで前にずれたカツラを被らされた様な見かけだった。
それでも白い頬や左右に流した髪に隠れがちな顎のラインは整っており、それなりに可愛いのだろうと思われた。
むしろ俺が驚いたのは、髪の長さよりその色だ。
白に近いが、一本一本を見ると銀色の輝きに煌いている。
限りなく細い純銀の糸を滝のように腰まで流している様子は、冴え冴えとした三日月の光を反射しているにもかかわらず、どちらかと言えば凛とした光輝より、おぼろげなげな儚さを感じてしまう。
その儚さはとても危うくて、俺にある不安を感じさせた。
ただ、今の俺はそれと同時に、片手を支えに結構勢いよく振っている足の反動で、腰もぐらついている少女の姿を見ているだけで心臓に悪く、落ちないかと気が気ではないのも事実だった。
「おい、止めろ」
思わず声を掛けた俺の方をゆっくりと向いて、きょとんとした顔で隣のベランダにいる俺を見つめる少女。よく見えなかったが、彼女の瞳が瞬いた気がした。
俺はいきなり現れた彼を見た少女が驚き、バランスを崩した時に備え、支えるために右手を上げて身構えていたが、特に驚く様子もない。中途半端な位置で止まった手の指輪が、月の光を銀色に反射する。
俺の言葉に従ったのか、少女はいきなり足の動きを止めた。
「みっともなかったか?」
「足じゃない。いや、足もだけど」
俺が彼女の顔を見て言い直しつつ視線を下げると、少女も俺の視線を追い、自分の服を見て顔をしかめながら言う。
「この服は家人からのお仕着せだぞ」
俺は見かけと違う彼女の口調に戸惑う。むしろ普通の大人よりも堅苦しい話し方だ。しかもなんか偉そうだ。
「私もひらひら過剰で無理があるとは思ったが他に無くてな」
なんとなく居心地悪そうに弁解する少女。白のリボンとレースを多用したゴスロリの服を着る彼女は、髪の毛が長すぎるものの、ビスクドールのように美しい雰囲気を持っている。
ただ、首から提げているに神社のお守り袋が不釣合いではあった。
「むしろ似合ってるけど……えーと、そうじゃなくて」
俺は顎をしゃくって、本の題名を見た事を少女に分からせる。
「貸そうか?」
平然と話を続ける彼女の様子に、俺の中に突如予想が勘違いだった場合の恥かしさが湧き起こり、焦ったように尋ねる。
「……俺の思い違いか?」
少女は何を言ってるんだこの阿呆といった態度で黙っている。俺は恥かしさが冷めないまま、つい叱るように言ってしまう。
「本を読みたいなら部屋で読め」
「……わかった、今夜は、これで止めておく」
少女は後の台詞にだけ応えて本を閉じた。
「これからも止めろよ」
「関係ないだろう」
彼女はふいに顔を背けると、部屋に戻って窓を閉める。オートロックの音がした後、少女はカーテンを引いた。布団の擦れ合う様な音がしたが、それきり物音は途絶えた。
「ったく、何なんだ」
俺は首を振ると、地上へ降りるために下を見た。