第32話 美雨との出会い
両親の事故以来、遺産相続の権利をめぐり、骨肉の争いの様相さえ見せ始めた親族から六歳の俺を守ったのは、両親の遺言書を持って現れた弁護士だった。
彼は遺言通りに後見人兼保護者となり、俺は彼の家に一時的に引き取られる事になる。
その弁護士とは里緒の父親で、仕事の関係で俺の父親と親しかったのだ。
里緒の両親は俺を不憫に感じて優しく接してくれた。そして、里緒や龍真と出会う事となる。俺にとっては、子供だけの世界が大きく広がった毎日になった。
だが事故直後から俺は、時間があると自分の屋敷に戻った。
ひょっこりと自分の両親が帰ってくるかもしれないから。
また、事故が起こった日以来、俺は泉にいる何かの気配を感じ取れるようになった。
まだ魔力の操作が慣れていないため、ぼんやりとした気配だが、存在することだけは確かにわかった。
俺は自分が確かに泉で溺れたのに、いつのまにか泉の外にいたことを女性従業員に聞かされて、助けてくれたのは、泉の神様だと信じた。
「助けてくれてありがとう」
泉に向かって呼びかけると、水面がきらきらと輝きを増す気がする。
俺にとって、泉は子供のころからのお気に入りの場所だ。
父は世界中を回って写真を撮っているので、月に数回しか家に帰って来ないし、母も薬局の仕事が忙しい。
俺はそんな両親の姿を見ていたので、余りわがままも言わず、一人遊びをする事が多くなり、雲や庭木々、花や虫など自然を友達に見立てて話かけるのだった。
最初の内はただ想像の中だけの友人だった。
だが事故以来、いつしか、本当にいる様に感じながら語りかける。
返事はないが、なんとなく風が強く吹いたり、花びらが揺れたりすると「答えてくれた」と。
「雲さんはとても早く飛んでいくんだねえ」
「紅葉さんの葉っぱは、じゃんけんしたらみんなパーだから、僕のチョキの勝ちだね」
「てんとう虫さんは、苺みたいな美味しそうな模様だから、鳥さんに見つからないようにね」
実際は他愛も無い子供の独り言だった。
だがこれは魔術師としての解釈なら、無意識の内に自ら周囲の精霊と交信しようと継続的に行動していた事になる。精霊との交流は、目に見えなくてもその存在を肯定する事から始まるからだ。
この一人遊びが身についた理由は、俺が同年齢の子供と遊ぶ場合は、両親のどちらかが必ず一緒にいるようにしていた事もある。
過保護じゃないかと親の友人に注意されても彼らは平気だった。
逆に、俺は子供だけで遊ぶ機会を減らされる事になり、屋敷の中で日々を送る場合が多くなってしまったのだ。
つまり俺にとっては、もともと若干窮屈な一日を楽しく過ごすための工夫だった。
泉に夏は飛び込んで水浴びし、冬は凍った氷を指で割って遊ぶ。
魚はいないし、藻や水ごけも全く無い。子供の俺には自分専用のプールがあることも嬉しかった。
透明度は非常に高く、のぞきこむと清水が湧き出すところで砂がかすかに舞い上がっている。
泉の底一面に敷きつめられた砂は、金と銀と白の粒が混ざったような色合いで、触り心地は水のなかでもさらさらしていてとても気持ちよかった。
テレビで見た南国の島の砂よりもきっとこの泉の砂のほうがきれいだと思っている。
さらに中庭に日が差し込むと水面がきらきらと輝いて子供の涼平には表現する言葉もないほど美しい。
それでいつも、泉のすばらしさを、まわりの誰かれなく誇っていた。
きれいな水だね。美しい砂だよね。ぼくはこの泉が大好きだと。
◆ ◆ ◆
ある日、龍真の実家の道場に子犬が捨てられていた。
それを見に行った事で、俺もペットがほしくなる。
里緒に抱かれた子犬の頭を撫でようと手を伸ばすと、「スズちゃんは触っちゃ駄目」と里緒に強く手を叩かれた。龍真が彼女をたしなめたが、彼女は頑として涼平に子犬を触らせようとしない。
ついに「俺んちの犬になるんだから」と龍真が無理やり里緒から子犬を取り上げて俺に差し出すと、彼女は大きな声で泣き出した。
そんな雰囲気に耐え切れず、道場を飛び出してこの屋敷に逃げ込んでから、俺はずっと考えていた。
別にそこまでして子犬を抱きたかったわけじゃない。
捨てられていたあの生物が、自分と同じに感じられただけだ。
そして、自分だけの家族ができれば、寂しさも慰められる様な気がした。
さっきの子犬を思い出す。道場の人によると柴犬の子供らしい。あの愛らしい姿が目に浮かぶ。
「僕のも、ふわふわで可愛いヤツがいいな」
「それで世界で僕だけのペットがいい」
そして里緒が撫でたいといったら、駄目って言うんだ。
「お願い」って言われても絶対触らせない。僕の、僕だけのモノなんだから。
だから、違う世界のペットを手に入れる事にする。
何故そんな事が出来るかはわからないが、どうしたら出来るかは、前回の白金の指輪で本能的に理解した。
あれをするととても身体が痛いが、なんとかなったので、里緒の鼻を明かしてやろうと思うと今度も我慢できると思えた。
そして俺は屋敷の畳の上で一人のたうち回りながら、がんばって卵を手に入れた。
今は止んで晴れているが、ついさっきまでしとしと降る雨の日だったからか、左手の中にあるのは水棲動物の卵。
「うっ ううっ」
胎児の様に身体をこわばらせて痛みが治まるまで耐える。
涙が流れて仕方が無かったが、それは召喚の痛みのためか、里緒の拒絶による悲しみのためかは、幼い俺にはわからない。
そうして手に入れた異世界の卵は、うずらの卵より一回り小さく濃い藍色で質感は石の様に硬い。
右目によると「青狐」という生物で、清い川の水の流れがゆっくりとした場所できれいな砂を寝床にして、親がその卵を抱いて孵化させるらしい。
親の体で水温を冷たすぎず、暖かすぎずする必要がある。
「親!?」
卵ならば親が抱くのも当たり前の事だったが、俺は子犬と同じく生まれた姿で手に入れられると思い込んでいたので、驚く。
可愛いを条件にしたので、偶然の選択であり、親まで召喚できる自信はとても無かった。
「ど、どうしよう。このままじゃ死んじゃうよ」
俺は覚悟も準備もなく手にいれた事で、生き物の命をもてあそんだことを激しく後悔する。
「僕のせいだ。僕がわがまま言ったからこの卵の子が」
なんとか孵化させたいと考えたが、どうすればいいのかわからない。
パニックになりながら周りを見回すと、泉の反射光が目に入った。
庭へと裸足で駆け出すと、湿った土で足が汚れるのもかまわず、泉の水が湧き出すあたりの砂に卵を埋め、俺は一生懸命祈る。
「神様お願いします。お願いします、お願いします、お願いします。もう、命を弄んだりしません。だからお願いします。僕を助けてくれたようにこの子も助けてあげて下さい。泉の神様お願いします」
そんな風に長い時間お祈りしていた姿を、探しにきた里緒の母親に見つけられて家に連れ戻されるが、それから何日も同じ事を繰り返した。
里緒はそんな俺に何か言いたそうだったが、近づいては来ず、今は、卵の子を救いたいの一心で俺はそれ以外は考えられなかった。
今朝も学校をさぼって、屋敷に来ていた。この数日間、なんの変化もない卵。
「やっぱり、僕が考えなしに酷い事をしたんだから」
落ち込んでいる俺の前で、卵のある辺りが動いた気がした。
固唾を呑んでじっとみていると、砂の中から小さな手が出てきて、やがて砂の中から小さい狐の子供のような生き物が這い出してきた。
あわててその姿を右目でみつめつつ俺が情報をもとめると、青狐の幼生態との表示だった。
姿は狐に似ているが、少し狐より耳が長い。からだ全体は薄い青で、尻尾と耳と四足の先端に行くほど色が濃い藍になっている。
大きさは尻尾も入れて、人さし指と親指を直角にした広さぐらいでとても小さい。
「そっ、育て方は」と焦って右目の情報の続きを見ていると、そのちび狐は水底から涼平めがけ勢い良く浮上し、そこまま水面から飛び魚のように飛び出してきた。
おもわず避けそうになるが、かろうじて胸と飛びついた狐を落とさないように両手で包み込む。
水を弾き飛ばすように体を振るので、Tシャツに水滴が染み込んだ。
そんなことより、この小さくて可愛い生き物をちゃんと見てみたくて、どきどきしながら視線をさげると、狐のくりくりした紺色の瞳と目があう。
みゅー。みゅー。
とても可愛い声で鳴いている。
「うわあああ、可愛いっ。可愛いよ」
俺はその愛らしさに頬が真っ赤になって興奮する。
しばらくそのまま目を合わせて見詰め合っていると、声を出すのに慣れたのか、いきなりちび狐がしゃべった。
「涼……平……さん。やっと……話ができて。嬉しいで、みゅー」
俺は飛び上がるぐらい驚いたが、手の中の狐を落とさぬよう、慌てて体勢を保つ。
ちび狐の話では、どうやら泉の神様が、涼平の願いに応えて、この生き物に憑いてくれたとの事。
「憑くって何?」と聞くと、「この生き物の魂の中に入ることで、みゅ」と説明された。
おかげで青狐は命を保つことができたらしい。
「でもこのままでは、死んでしまいま、みゅ」
ほっとする彼に泉の神様は爆弾発言をする。
「ど、どうして?」
「青狐は幼生態の期間、親から異世界の魔力を、定期的に吸収する、必要があるんでみゅ。
でもこの世界には、親の青狐は居ませんみ。今、この世界自体から、魔力を吸収しようと試しましたが、魔力の種類が微妙に異なるので、満足に吸収できませんみ」
泉の神様の冷静な発言に涼平は青狐より青い顔になる。
「神様でも無理なの?」
「私は神様じゃないでみゅ……」
「ええ!? ちがうの?」
涼平は両手を鼻先まで捧げもってくると、手の平の上にお稲荷さんミニチュアのように座るちび狐と目線をそろえる。
「はい。この泉に昔から棲むあやかしでみゅ」
「あやかし?」と首をかしげながら問い返す涼平。
青狐は、その動きに、なんてこの子供は可愛らしいんだろうと思いながら返事をする。
「妖怪というか精霊というか」
「おばけってこと?」
「幽霊ではありませんが、化け物と呼ぶ人もいましたみゅ」
「よくわかんない」
「そうでみゅか」
うーんと考えていた俺だが、不意に思い出して質問する。
「僕が泉で溺れそうになったとき、助けてくれたのは神様だよね?」
「私は神様じゃないでみゅが……はい、泉から引き上げたのは私でみゅ」
「寝てるとき僕の目が痛くなると、布団まできて額に手をあててくれたのも神様?」
「ええ、私でみゅ」
気づいていた事に驚いたのか、青狐は丸い目をさらに開いて返事をする。
「じゃあ、化け物じゃない」と断言し、にっこり笑ってありがとうとお礼を言う俺を見て、とても嬉しそうなあやかしの雰囲気を感じた。
しかし、小狐は我に返り「話題を元に戻すのでみゅ」と話を再開する。
「それで、さっきの話なんでみゅが、普通の依代なら私の魔力でなんとかなりまみゅ。
しかし異世界の生き物という事もあってか、この青狐の場合、もともとの生育条件を打ち消すことが難しいのでみゅ」
難しい話になってきたので、俺は聞き返す。
「生育条件?」
「異世界の魔力を吸収しつづけると言うことでみゅ」
「なんとかできないの?」
「方法はありまみゅ」
「それでいこう!」
一も二もなく俺は賛成した。
「いや、まだ言ってませんみ」
「神様の言うことなら大丈夫だよ」
無条件の信頼を示す俺に嬉しくてしょうがないらしいあやかしは、小さな尻尾を忙しく振って告げた。
「じゃあ、私を涼平さんの使い魔にしてくださいみゅ」
「使い魔って何?」
「僕のことでみゅ」
「しもべって何?」
「家来のことでみゅ」
「神様を家来になんてできないよっ」と俺はびっくりして断る。
「ぼくの命の恩人なのに」
とんでもないと、今度はおれが首がちぎれるほどの勢いで横にふった。
「でも、そうしないとこの狐はすぐに死んでしまいまみゅ」
「えーでも」としり込みする俺に、あやかしは説明する。
「涼平さんは、異世界から物を呼び出すことができまみゅよね」
「そうみたい」
どうしてかはわかんないけど、と俺は続ける。
「それはつまり、そのために異世界の魔力も呼び出しているのでみゅ」
「そうなんだ」
その時の俺は魔力というものへの理解も無いので、言われるままに頷くだけだ。
あやかしはそれには拘らず、必要な説明を続けていく。
「だから、その魔力という生きるための力ををこの狐に流してやればいいわけでみゅ」
「そっか。じゃあがんばって魔力ってのを集めてみるから、僕から吸い取って」
俺はとにかく自分に出来る事なら痛みも関係ないとばかりに勢い込む。
だが、ちび狐はかわいく首を左右に動かした。
「このままでは吸い取れませんみ」
「なんで?」
「青狐の場合、同じ異世界の生き物である親子は、自然に血縁としての関係性があるので魔力のやり取りが容易にできまみゅ」
「しかし涼平さんとこの青狐は違う世界の生き物なので、何らかの関係を構築しないと魔力の交換ができませんみ」
頭がこんがらがってきた俺は、最初の提案を持ち出して確認する事にした。
「……難しくてよくわかんないけど、神様を家来にすれば、死なないですむの?」
「はい」
「ううう、わかった」
気が進まない俺だったが、神様の話どおりなら仕方が無いと、しぶしぶ頷いた。
「じゃあ、左手の上に私を乗せてほしいでみゅ」
俺はどきどきしながら、ちび狐の言うとおりにする。
「私が言った言葉を繰り返して」
そう言って、あやかしは天に向かって契文を唱え出した。狐の長く青い尻尾が天を衝き、まるでなにかと交信する様にゆらりゆらりと円を描き出した。
「御霊の社に捧げる、その言霊の全てを八百万の元に証とす……」
「みたま、のやしろに、ささげる、そのことだま、のすべてを、やおろずの、もとに、あかしとす」
ゆっくりと話してくれるあやかしの言葉をつっかえながらも俺は間違えないようにと繰り返す。
あやかし自身も語尾がみゅーみゅー言わないように気をつけている様だ。
その後も何度かつまりながら、あやかしの誓言を最後まで繰り返すことができた。
「涼平さん、名前を言ってください」
あやかしは「主人の名前を規定するため」と説明し、俺に名乗らせる。
「紀南 涼平」
俺は汗をかきつつ名乗った。周囲に目に見えない膜が張られた気がした。
「じゃあ、最後に私に名前をつけてほしいでみゅ」
一息ついたのか、語尾が元にもどったちび狐は、俺にお願いをする。
「名前? 名前ないの?」
不思議そうに尋ねる俺に、丁寧に説明をするあやかしは、すでに指導者としての貫禄さえあった。
「昔呼ばれた名はありまみゅが、使い魔としての名は涼平さんに名づけてもらう必要があるのでみゅ」
「そんなの急に言われてもー」
うーんうーんと悩む俺を楽しそうに見ているあやかし。
「どんなのでもいいの?」
「例えばどんなのでみゅか?」
尋ねるあやかしはちょっと不安そうだ。
「はくほうあさしょうりゅう、とか……」
両親が大の相撲好きなため、俺は知ってる名前をつなげてみる。
「関取ではありませんみ」
青狐は尻尾を横に一振りし、不採用と表明した。
「強そうなのにい」
狐の顔でにっこり笑って答えるあやかし。
「だめでみゅ」
「そんなあ」と俺が再び悩みだす。
その時、晴れた空から霧雨が振り出した。
この地方ではこんな天気を狐の嫁入りという。
霧雨は光をうけて水滴が自然のプリズムとなり、泉の上に小さな虹を描き出す。
あやかしは子供の手の平の上から、魅せられたようにこの景色を眺めていたが、俺の言葉で我に返る。
「決まった!」
「聞かせてほしいでみゅ。我が新しき名を」
「うんっ。泉の神様の名前は……」
その名を聞いた時、俺は小さな青狐の体が震えたように感じた。
「私の魂が喜びのあまり震えたのでしょう」
後日あやかしは、確信とともに俺に告げた。
「小さな主から賜った名こそ、私の真名に相違ないと」
幼い俺が贈った新たな名は――美雨。
光と水が描き出す、七色に輝く美しい雨の名前だった。
◆ ◆ ◆
「そうやって主から素敵な名前を頂いたんですよね」
縁側で、美雨の嬉しそうな顔を彼女の膝枕の上で見ながら、俺は冷や汗が背中にたらりと流れる。
もちろん、その理由が一番だった。
あの素晴らしい出会いの光景は今もはっきりと目に浮かぶ。
「我ながらなんていい名前をつけたんだ」と子供時分のネーミングセンスに自画自賛状態だ。
その気持ちに嘘は絶対ない。
ただ、もうひとつ美雨に話していない理由がある。
……言えねえ。
ちび狐の美雨さんが鳴く「みゅう、みゅう」って声がめちゃ可愛かったからだなんて。